2011/04/20

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(4)

(3のつづき)



 評論についての評価は以上として、ここでの術後の女性の認識について、少しつっこんで考えてみましょうか。術後、自分がベッドに横たわっていることに気づいた女性の立場に立って、彼女のものの見方を想像しながら、考えを進めてください。

 彼女は、それまでの視覚を除いた四感をとおしての生活のなかで、五感を持った人間からの、主に音声を通した表現から、世の中には自分の感じられること以上になんらかのものがあるようだ、ということは知っています。その像はうまく結ばれてはいないけれど、窓際にでたときの陽の光の暖かさ、手を握られたときの暖かさが物質面だけではないこと、ベッドから裸足で降りたときのひんやりとした床の冷たさなどを知っています。ですから、盲目時に培ったその像は、目が器質的に働きはじめたことと浸透する形で認識の中の像として結実することを、大きく手助けするはずです。
 そういう意味では、赤ん坊が生まれると同時に感じる温度、音、空腹感などがそれとわかりようもなく迫ってくる世界からの大きな衝撃の波をうけて、「おぎゃあ」という驚きの声をあげることとは違っています。彼女の場合であれば、赤ん坊の「なにがなんだかわからないけれどなんとかしてくれ!」という鳴き声とはちがって、世界を理解する手がかりをあらかじめ獲得しているからです。

 しかしここを逆に言えば、四感で成立させることのできていた認識を、五感めの器質が物理的に追加されたからと言って、あらかじめ持っていて、なおのこと完成している四感による認識と、あたらしく獲得しつつある視覚とが、うまく相互浸透しうるかどうかは未知数である、ということでもあります。わたしの限られた経験と知識を披露するのもためらわれるのですが、あえて誤解を恐れずに言えば、ある程度の年齢となって世の中についての認識のあり方が完成されたあとでは、生まれた時から五感を持って対象に向き合ってきた人間と比べて、やはり差が出るのではないかな、という印象を持っています。これは積極的な面と、消極的な面を含んでいます。個人的なお付き合いのある方が言うには、「目が見えなくても色はわかりますよ」とのことでしたので…。
ともあれ認識というものは、人間ならば誰しもが当たり前に持っている働きであるにもかかわらず、歴史的に見れば哲学的にしか完成されていません。そこういった思考実験で得られた仮説を、その段階に留めることなく、現実の中で確かめてゆくことで科学的な学問として確立してゆかねばならない時が来ているのです。

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 人間の認識を考えるにあたって対象とするものは、こういった文学作品に限られるわけもなく、ましてや健常者とは呼べないとされる人たちのことを熱心に調べまわる、ということに限られるわけでもありません。日常的に問題意識を持って、つまり「この人はこういう行動をしているけれど、どういうことを思ってそうしたのだろうか?」と考えて仮説を立てて、それを確かめてみることを通して心の眼を高く持っておこうとすればいいのです。いいですか、「日常的に」、ですよ。意識的に実践する場合は、そういうものごとの見方をしなければ身体が変になるくらい、徹底してやってください。

今回の問で登場した女性についても、「生まれつきの盲目」ではなくて、「小さい頃は目が見えていたけれど事故で盲目になり、再び光を取り戻した」場合には、どういう認識のあり方になるかを考えてみてください。今回の場合とはまるで違ったものになりますよ。そういった思考訓練が正しく成された後であれば、後述する人間の認識についての交通関係を描いた書籍などは、なるほどと心の底から納得しながら読めるようになっているはずです。

さて、問についての直接的な言及はここまでです。問に答えを与えるならば…もう言わなくてもおわかりですね。こういった基礎的な誤りに気づかないまま作品を書いたり考察を進めてしまったということは、筆者である太宰の、人間の認識への理解が、「器質的に整えば認識も直ちに付いてくるはずだ」というタダモノ論の域を出なかったのだ、ということです。逆に言えば、人間の認識への理解は、半世紀とちょっとでここまで進展したのであり、またこれからの発展の余地を多分に残しているということにもなるわけです。

◆◆◆

ここで終わるつもりでしたが、太宰の誤り方というものは、現代でもよく見かけるものだなと思いますので、もう少し指摘しておこうと思います。以下は、眼に見える「現象」に引きずられて、その「過程に含まれるもの」を見落とすことの危うさを述べておきます。認識についての科学を、より学習を進めたい方は参考にしてください。

(5につづく)

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