2011/04/19

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(3)

(2のつづき)



 さて、前回のおはなしは、「人の立場に立って考える」ということを、理性的にとらえかえした「観念的二重化」のことをお伝えしておいたのでした。

 わたしは論者が、問にでてきた女性がもつであろう認識を、論者がいちおううまく追体験できていることを指摘しておきました。論者の言うところを見てみましょう。

その彼女が目を移植され、目をあけることができたとしても、まず世界の明るさに驚くのではないでしょうか。
そして、長い時間をかけて、光に慣れると、今度はぼんやりと色をとらえはじめるでしょう。
そして、その色がやがてくっきりと見えるようになり、物質と物質の境界が見えはじめる事でしょう。

 ここでは、女性がある驚きを持って新しい世界を受け止めていること、それがある期間を持って次の段階に進むこととが示されていますね。そこをふまえて、やや詳しく述べていきましょう。

 術後の回復を見て目に巻かれた包帯を取られることになった彼女は、それまでにも包帯から漏れた暗闇でないものにやや慣らされつつあったものの、それでもやはり、そこでの体験は「うわっ!?」という驚きに満ち溢れたもののはずです。それは、それが「光」とか「明るさ」だと他の人が呼んでいたものなのだとわかりそうでわからない、とにかく「これまでの世界にはないもの」がそこにある、という感触です。上では「暗闇」と表現しましたが、「光」と比べてみなければあるものを「暗闇」と呼ぶこともできないのですから、とにかくわからないものがある!という驚きに満ち満ちているのです。
 同じように、論者が一言で「色」や、「物質と物質の境界」といったものも、「なんだかあそこだけ周りとは違っている、動いている」という感触でしかなく、それが人の顔であったりとか病室に飾られた花瓶であったりなどということは、まるでわかりもしないのだ、ということを念頭において追体験しなければいけないことになります。論者は、ここをおおまかに捉えています。

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 それに加えて、論者がわたしのアドバイスをうまく受け止めてくれているなとはっきりわかる箇所は、以上のような内容を踏まえて、「長い時間をかけて」とことわりをいれていることです。ここは作中では、「奇蹟が実現せられて、其の女は其の日から世界を杖で探る必要が無くなった。」と書かれていますから、筆者である太宰は、「術後その日のうちに、彼女は物事がはっきりと見えるようになったのだ」と、なんの疑問もなく措定するという過ちを犯していることがわかります。
 ここでの踏み外しは、観念的二重化における落とし穴、「自分に備わっている認識のあり方を、当たり前のものだと思ってはいけない」に見事にはまっているわけです。太宰は、五感を持って生活してきた自分のことを念頭において彼女の認識のあり方を想像しました。そうすると、彼女はまるで、長い眠りについたあと、久しぶりに陽の光を見た人間のような反応しか示すことがないわけです。
 一言で言えば彼は、アタマの中に他人の認識のあり方をおいたつもりでいて、実のところ、それは自分の認識のあり方を自分のアタマの中においただけでしかなかったのです。「人の気持ちになってものごとを考えろ」と言われたときに、このやりかた、つまり「自分の他人化」ではなく「自分の自分化」をすると、むしろ害にしかなりません。

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 以上の二つの点について、わたしは論者の解答を悪くない、と言ったのでした。それというのは、ひとつに彼女の認識のあり方を考えるに当たって、自分の認識の押し付けて解釈しなかったという基本的な姿勢です。ふたつめには、物質的には満たされたはずの彼女の認識は、五感覚器官との相互浸透によって作り作られするなかでうまく働き始めるのだ、という過程的な構造が存在するということを理解していることです。

 ですから、上で述べた問の答えとしては、論者の答えが妥当です。

ですので、物質的に五体満足になったとしても、認識の上では、それに追いつく迄には時間がかかるはずです。

 ここでは、人間というものが、世界を、精神(認識)を媒介として理解する存在なのだ、という論理が浮上しつつあります。決して、物質的な、いわばカメラで撮った写真のような像を、そのままの形で受け止めているわけではないのです。そういう幻想を抱きがちなのは、わたしたちが物心のついた、ついてしまった大人なのであって、そこを器質的に違う人の認識、成長途中の子どもの認識、また未だ認識できないも同然の赤ん坊の認識、にまで無理やり延長して考えるところに、誤りが待ち受けているのです。
 弁証法の言うところの、真理はその適用範囲を的外れに押し広げれば誤謬に転化する、という対立物の相互浸透です。もう1年ほど前からの読者のみなさんにとっては常識になってしまいましたね。

 さてここで、悪くない、という評価は控えめなのではないかと思われる方もおられるでしょうが、これは「基礎的な踏み外しをしていないことは評価できる」という、条件付きの評価をしたのだと理解していただきたいと思います。ここには、「この先も踏み外しをすることなく観念的二重化をしていってほしい」という激励も含まれています。
 裏をかえせば、人間の認識のあり方というものは、それが眼に見えないものであるだけに、より深い構造を現実の実践に照らして手繰り寄せる際に、あらゆる落とし穴が待ち受けており、悪くすれば単なる解釈になってしまう場合さえある、ということなのです。

(つづく)

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