2011/04/19

文学考察: 女人訓戒ー太宰治(修正版)

文学考察: 女人訓戒ー太宰治(修正版)


 今回のものは残念ながら、あまり意味のある評論になっていませんので、
一般読者のみなさんは以下の評論及びコメントを参照なさらなくてもけっこうです。


◆ノブくんの評論

 著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目 が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すよ うになったのでしょうか。
 この作品では、〈物質から精神へ、また精神から物質へのある流れ〉が描かれています。
まず著者はこの問題を解くにあたって、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソード等を持ち出しています。その中で彼は、「狐がマダムを嘘つきにしているのでは無く、マダムのほうから、そのマダムの空想の狐にすすんで同化して見せているのである。」と述べています。つまり彼女たちは、自分の認識を物質(兎の目や襟巻き)に向けることによってそれを膨らませ、自ら兎になっていき、又私たちが考える狐のように狡猾になっていったのです。ここから、著者は物質が人間に影響を及ぼす場合、物質よりも人間の認識のあり方こそ、強く影響を及ぼしているのだと主張していることが理解できます。ですから、盲目の彼女は兎の目を大切にするあまり、猟夫を恐れるようになっていったのです。
 ここまで述べると、人間の認識こそが影響を及ぼしており、物質からの影響はまるでないように感じます。ですが果たしてそうでしょうか。一体私たちの認識というものはどこからきているのでしょうか。もう一度はじめの問題に戻って考えてみましょう。
 そもそも、盲目の彼女は一体何故、兎の目をそこ迄大切に思うようになっていったのでしょうか。まず彼女は盲目の為、世界に光があることや色があることを一切知りません。そんな物理的に障害を持って生まれた彼女が、目を移植したことによっていきなり光や色を認識できたでしょうか。はじめに目を開けた瞬間、彼女は世界の明るさに驚き、目を瞑ったのではないでしょうか。やがて、そのうち光にも慣れていき、今度は世界に色があることを知ります。そして、次第に物質と物質の境界まではっきりと分かるようになります。こうした過程を辿っていくうちに彼女は、自分の目で世界を見えることに対して大きな感動を覚えていくことでしょう。この感動とは、無論これまで目が見えなかったという物質的な要因があってこそ、感じているのです。だからこそ、彼女は移植した自身の兎の目を大切にするようになっていったのです。
 確かに、物質への感じ方はその人物の認識が影響を及ぼし、自身の行動や別の物質に影響を及ぼしていることは事実です。ですが、その認識というものは、その人物の環境や性質が大きくかかわっていることを忘れてはなりません。


◆わたしのコメント

 これではダメです。

 まず評論の姿勢として、作品を頭ごなしに批判しようとする態度が、評論することの意味そのものを失くしています。
 常々言っているように、評論とはあくまでも原文を忠実に理解した上で、要点をあらすじとしてまとめ、さらに要して筆者が最も述べたかったことを一般性として措定したあと、作品全体が、一般性を使ってそこからほとばしるかのごとく解けうることを示したのちに、問いかけとしての一般性の答えを最後の締めとするものです。

 わたしがコメントや作品のなかにある見落としを指摘していることに引きずられて、評論の姿勢まで批判的なものとしては絶対にいけません。以前にもことわっておいたとおり、わたしは論者・読者の理解を助けるために、作品のなかに含まれる構造を学問用語で解説しているにすぎません。それを形だけを真似して、学問用語などで評論を書こうなどというのは、筆者への敬意を欠いた思い上がりも甚だしい行いというべきです。
 わたしが解説している過程的構造は、作品の理解のために活かせばいいのであって、「おれはこんなにわかっている」と自慢気に専門用語をひけらかしながら主張するものではありません。極意論的に言いますが、作品に含まれている論理性を本当に理解していれば、つまり認識の上では過程的構造を把握できていれば、評論という表現の上ではものものしい学問用語は一切出てきません。さらにいえば、それこそを、形式を壊して内容をすくいとる「止揚」というのです。

◆◆◆

 今回の評論については内容に言及するのも馬鹿馬鹿しいほどですが、作品の中に「物質から精神へ、また精神から物質へ」という2つの流れがあることを指摘したうえで、結論が「両方とも大事」とはなんともはや、というべきです。作品から忠実に抜き出した重要な問題に、自ら解答を与えるのが評論というものなのに、自らの問いかけに答えることをしないどころか問題をぼんやりと散らかした上で満足気に筆を擱くとは、どういうつもりなのでしょうか。
 弁証法は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」を主張するのですが、そのことは、「あれもこれも同じく大事である」と、あれも大事だがこれも少しは大事だということの区分を形而上学的に相対化して述べることとは決定的に違うのです。あなたは、「もともと空気中にも水分が含まれているから、雨でも晴れでも同じである」と主張するのが弁証法だと勘違いしていませんか。そんなものは、冗談ならばさておき弁証法では決してありません。あなたのしているのは、弁証法ではなくて単なる相対主義です。弁証法は、対極が互いに浸透することを認めた上で、「どのような条件においてはどちらになりうるのか」を明らかにするものです。この誤解を解かないことには一歩も前に進めないほど大きな落とし穴に嵌っていることをしっかりと反省してください。

 わたしが上で述べたこと、以前に指摘しておいたことをまずはしっかりと踏まえてください。

 作品の評論をするにあたっては、筆者が「女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。」などと述べていることを重要なキーワードとして読みといてゆかなければならないでしょう。現代における科学的な認識論からすれば、あらゆるところで筆者が踏み外しをしていることを認めるのは難しくありませんが、些事に言及していては、本質を掴みきれずに終わってしまいますからね。

◆◆◆

 総評として、評論そのものの姿勢の誤りに引きずられて、一般性、論証、結論のすべてが誤っており、読後に浮かぶ感想は、「一体これはなにを言いたいのか?」というものでしかありません。恐ろしいほどの誤り方です。すべて書き直す必要があります。

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