2011/05/17

指導のための心構えとはどういうものか (4)

◆4◆

(3のつづき)


 前節までで、具体的な段階から表象段階までの「のぼり」の過程を追ってきました。ここに加えて言うならば、この表象段階の理解というのは、「安全と良識を守って、目的地に着くまでの過程をこそ楽しむものである」という抽象段階の、自転車の旅一般論が指し示しているところも守られている、ということがわかってもらえるのではないかと思います。さきほどとは逆に、「くだり」の向きの理解というわけです。
一般論を、それがほんとうに正しいものであるかと実践で試してみる場合の向きですね。


◆◆◆

 理論を、頭の中でつくりあげたことば遊びで終わらせてしまいたくないのなら、「のぼって」得た理論を、実践の中で試すという「くだり」を、たえず目的意識をもって繰り返していなければなりません。

 ここまでの、「のぼり」と「くだり」をあわせた理論化の段階を要して言うならば、
経験からつかんで仮説として立てた一般論に照らして具体的な実践を眺めなおし、そこでの経験をあつめてふたたび抽象化することで表象段階の理論をつくることと並行して指導に当たる中で、被指導者たちが正しい実践をできているかを常に確かめることをとおして、全体として一般論を仮説の段階から科学的な段階まで高めてゆく、ということになります。


◆◆◆

 ここでの理論化の過程は、指導一般に照らして書き抜いたものですが、これと同じ過程は、ひとりの人間の生き方、人生一般についても同じことが言えます。もし意識はしていない場合でも、あれやこれやと立場を変えないで一本の筋を通した人生を歩みたい、という志を持っており、その人格でもって自然と立派な指導者となっておられる方たちならば、これまた自然に育んできている方法論でもあるのです。ここでいう「一本の筋」とは、彼女・彼らのなかの、生き方についての一般論なのですから。

 わたしはこれまでの人生をとおして、社会的にはどれだけの不理解を被ろうともたじろがず、他人の目がないところでも自律の力で手を抜かず、ひとつの筋を通した生き方を貫いてきた人に大きな感銘を受けてきました。そのうしろ姿を人間が信頼に価するものであるという根拠として見据え、彼女や彼らの生き方を人生の範としてきました。時代の波に流され流され、その時々で立場や主張をコロコロ変えても、それを見る眼が不確かな場合にはそれなりに尊敬されているようにも見えるものですが、本質的に尊敬に値する人というのは、いつどんなときに、自らがどんな状態にあろうとも、一本の筋をとおしてそこに立っているものです。だからこそ、自分が荒波に揉まれて疲れはて、正しい道を見失いそうなときには、自然とそういった人を尋ねることになるのです。そういう人への絶対の安心感こそ、本当の意味での、人間存在への尊敬というものではないでしょうか。

 ほんとうの実力でもって人の上に立つという人間は、自分が指導者になりたいからなったのではなくて、ましてや齢を重ねて一定の役職についたからそうなったのでもなく、黙っていても周りからぜひともと勧められて、自然とそうなっていったのです。そういった指導者は例外なく、仕事について、我が道について、生き方についての揺るがぬ一般論を持っています。

◆◆◆

 わたしたち人間は、ある道を歩み始めて数十年の年月を経れば、どんなに意識しなくとも、その経験から抽象化された理論をもつことができます(「理論が嫌い」という感性的な拒否反応も、現実を抽象化したところにあるのですから感性的な段階ではあるものの、ひとつの理論です)。
ところが、わたしたちが個人の経験にしがみついて謙虚に学ぶことがないのなら、どれだけがんばってみてもたかだか数十年の経験から得た理論しか持つことはできません。それなりの天の才があるのならば、こういった唯我独尊であっても自分流のやりかたを世に残すことはできますが、そのやりかたを、他の人がひろく使えるという保証はまるでないのです。自分のやりかたを後進が使えないのを見て、「お前たちは才能がないのだ」といえばすむのなら、理論などは必要ありません。

 ここを、そういった個の域を脱して普遍性をもった、一流のものにするにはどうすればいいでしょうか。それは、「人は繋がっているのだ」という意識を持って、それに従って行動するだけで良いのです。
 人とのつながりは、ひとつに過去とのものがあります。人間は個々別々に生きているのではなくて、人類という総体としてはじめて人間たりうるのだ、という意識を持つことができるのならば、経験の幅を一挙に数千年にわたる、しかも数えきれないほどの大先達の経験を背に受ける形で、人生を歩むことができる姿勢が整います。
 そしてまた、ひとりの人間は未来を生きる人たち、直接には後進とも繋がっているでしょう。前途ある彼女や彼らを思うのならば、「この人についてきてよかった」と思ってもらいたいはずです。また指導者としての自らの立場を考えるのならば、「もっと別の人についてくればよかった」とだけは思われたくないはずです。この思いさえ「まともに」あれば、やはり自分は天才だからなどと自惚れてはいられません。

◆◆◆

 こういったように、人とのつながりを意識すれば、「理論」というのは、自然に耳に馴染んでくるものです。多数の人とつながりあうためには、どうしても自分だけの自然成長的な、特殊なものごとの見方を脱して、その経験を抽象化した「論理」でもって、後進に向き合うことになるのですから。それを体系化したものが、「理論」ということです。
 大きな意味でひとがつながるのは、理論があるからです。わたしたちの生命や健康を救ってくれるのは、医学という理論ですし、わたしたちの耳を楽しませてくれるのは、楽譜という理論です。それらはなにも天から降ってきたものではなくて、先人たちの創意工夫が歴史的に結実してきたものでしょう。そこに、万人のための新しい発見や新しい楽しみを加えるのならば、それもひとつの理論として、のちの世に残ることになってゆくわけです。

 それでも理論ということばの響きが好きになれないという方は、理論を強調することが、たとえば、最高の楽譜を手に入れたから最高のピアニストになったのだ、というふうに聞こえてしまうからなのだと思います。そういう言い方であれば、たしかにおかしいですよね。楽譜を手に入れてからの生涯をかけた厳しい修練によって、最高のピアニストになってゆくのですから。その指摘はまったく正当ですが、そこを整理して言うのならば、そこには理論と実践をつなぐ役割を持つ「技術論」が存在していることを、机の上で言葉遊びをしているだけの理論家には、正しく把握できないから誤解が起こるのです。ここについては、後日の記事でご説明することにしましょう。それまでにひとつ、理論が嫌いだからといって、医学や楽譜をはじめとした、理論として残る人類の叡智に頼らずして、人は人らしく生きていけるであろうか、と考えてみてほしいのです。


 さて話を戻しますと、この小論は、まっとうな指導をするには、最終的には偉大な指導者になるためには、という問いかけから述べられてきたものでした。わたしとしての答えは、自分の道で得られた経験を抽象化するという論理的なものごとの見方をとおして眺めることで、自分だけではなくどんな弟子に対しても通用するやりかたを探す過程で、先達の一流の経験と理論を手がかりにしてゆかねばならないのだ、と言っておきたいと思います。後進のことを真剣に考えて、彼女や彼らが育たないことを恥じるのならば、論理や理論に背を向けることはないと思うのです。わたしは、自分個人という特殊・個別な経験の殻をうちやぶり、後進たちを一流の道へ導くための、一人の人間を大きく超える実力を身につけるためにこそ、「一般化」という営みがどうしても必要なのだ、と強調したいのです。過去の先達の経験を「一般化」したところの理論を念頭において、自らの経験のなかで捉え返したうえで「一般化」し、後進へと受け継いでゆく。それが、ほんとうの指導というものです。過去への謙虚な学びと後進への真摯な姿勢、どちらが欠けても、やはり指導者としては失格です。
尊敬されるというのは、一流の志を胸に秘めての歴史性を持った生き方に向けての、たんなる結果にしかすぎません。ここの過程を取り違えて、尊敬されることを目的にしてしまうという落とし穴にはまることのないようにしたいものですね。

(了)

◆◆◆

 たとえで挙げた自転車ツアーの論理的把握についてもうすこし知りたい方は、次の余談を。

2011/05/16

指導のための心構えとはどういうものか (3)

◆3◆

(2のつづき)


 精神的な指導では事例がややこしくなるために、ありありとイメージしやすい例えで考えてみましょうか。
たとえばわたしは自転車で旅をするのが好きですが、複数人でツアーをするとなると、ほとんどの場合はその先頭を走る人間が経験の豊富な走者でなければならず、今回の例示で言えば「指導者」ということになります。後続車が「被指導者」ですね。
こう言うと、そんな誰にでもできることを仰々しく「指導」などとは、と笑われる方もおられるでしょうか。わたしはそういった方にこそ、この小論を検討してみてほしいと思います。自転車の旅は、あらゆるところで危ないふるまいをしても、眼に見える損害、つまり死亡事故につながることが意外と少ないために、その過程における失敗が眼につきにくいのです。しかし、同じ程度の誤りであったとしても、生命を直接に扱う医療、看護や眼に見える結果に直接反映される経営といった営みともなると、さらにシビアな指導への理解が必要とされることはおわかりいただけると思います。自転車ツアーの場合であれば、「事故を起こすことなく同じく無事に帰宅した」2組のチームを見ても、その旅のさなかの振る舞い方については、大きな差があることが少なくありません。ここを、「無事に帰宅したからそれぞれのチームは同じ注意力を持っていたのだ」と短絡することはできないでしょう。
ですから、自転車ツアーという、一般には極端なシビアさを要求されないように映る営みでも、万全を期した指導のためにはこれだけの注意と論理化が必要であることを見てほしいのです。

 さて、そういう理由で、ここでは自転車ツアーを例にとって考えてゆくことにします。経験のある先頭車に続いて、後続車が数車続いて目的地を目指す、というイメージを持ってください。そこでの先頭車の役目は、後続車を事故させることなく目的地まで楽しい旅を提供しなければなりません。ですから、たとえば自転車にはじめて乗るような人間が、どんなところを見落とすのか、どんなところで危ない目に遭いがちなのかを知っておかねばならないことになります。
この場合に、どういった指導が必要だろうかと考えると、自転車の旅というものは、「安全と良識を守って、目的地に着くまでの過程をこそ楽しむものである」といった抽象的な大原則はどんな場合にも必要であると合意がとれるとしても、いざ指導の段階となると具体的な指摘をいろいろとしてしまいたくなるものです。
ところが、「自転車に乗る」というシンプルな運動の中にも、それが長距離になればなるほど新たな問題が出てくるものですし、通常では漕いで登らないような坂や、20キロ以上の装備を整えるといったことになると、相応の条件が必要になってくるものなのです。
こういった表面的な事実にとらわれ過ぎると、並行段差には気をつけろ、並走するクルマが左折するのを気をつけろ、坂道にはギアを下げて斜めに発進しろ、荷物の重心は両面に分けろ、などなど、途方もなくたくさんの指摘がでてくることになります。さらには、それぞれの注意に優先順位と、組み合わせ方があるのですから、これは無限と言ってもいいほどのモザイク的な集成ができあがることになります。

◆◆◆

 では指導者は、被指導者の危険を見越して、このように、危険があると判断される些事にわたっての知識を、すべて与えておくべきでしょうか?

 答えは否です。

 先ほど、「抽象的な大原則はどんな場合にも必要だが」と断った上で、具体的な知識に深入りしすぎてしまうという指導者としての落とし穴を指摘したのですが、それでは何が必要なのかといえば、具体的な知識を「やや」抽象化したところの、「表象段階」の指導なのだ、ということです。


 さてたとえば先頭車は、自分だけが信号の点滅をくぐり抜けられても、それについてこようとする後続車が危険な目にあうのではいけません。そういう意味で、先頭車は、自分自身と車間距離、そして後続車までの延長をも、自分自身の身体であるととらえて運転せねばならないわけです。しかし、それほどに注意を払っていても、やはり後続車だけが赤信号機にひっかかることもありますね。
もしそんなことがあり、後続車が危ない横断をした場合、どういった指導が正しいことになるでしょうか。「旅の原則は楽しく、だと言っておただろう!危ないことはするなという意味だぞ!」などと原則論をもって叱ればいいのでしょうか。しかしことあるごとにこんな指摘をされていては、楽しい旅どころか初ツアーにして二度とやりたくない、という感想を持つことにもなりかねません。なぜ抽象的な段階の原則論ではダメなのかといえば、このことが理由です。抽象的すぎると、実践に適用するのが不可能なのですね。

実践的にと具体的な注意点を押し付けても当人はパンクしてしまいますし、抽象的すぎても実践には使えないのです。そうするとここで指導者は、どうしても、いったんは後続車の認識をふまえたうえで、いったいどんなレベルならば実践的な行動の指針になりうるのか、と考えてみなければならなくなります。

 ※ここでは、「具体的な危険についての諸注意」をたんにまとめて抽象化すればなんでもいいというのではなくて、「後続車の安全と楽しさを考えるならば」という、指導者としての問題意識を明確にもったうえでの抽象化でなければならないことに注意してください。わたしが、以前に、「飼い犬のために家族の生命を犠牲にすべきか」というたとえを使って、「一般化は、『実践上の必要性に照らして』行われねばならない」、と言っておいたことを思い出してもらえると嬉しく思います。

 これは、彼女・彼が危ない行動をしたことを表面的に見るのではなくて、彼女・彼らが、「なぜそうしたのか」と考えてみる、ということです。後続車は、なぜ無茶をして赤信号を渡ってしまったのでしょうか。彼女・彼らは、旅に慣れている先頭車とちがって、自分自身の脚にも走法にも自信がありませんし、目的地がどこにあるのかという実感さえありません。そんな人間の立場に立って考えれば、人柄うんぬんはともかく、とにかく先頭車についていかねば途方にくれてしまう、という内面は掴めます。彼女・彼らにとっては、「置いて行かれてはどうしようもない」わけです。この不安は、先頭車との距離を離されるたびに募ってゆきますから、これが二車でのツアーならともかく、後続車が多ければ多いほど、先頭車に続く者たちのあせりは増えてゆくのです。
そんな後続車の内面を理解しようとすれば、彼女・彼らの具体的な行動をとおして内面を捉え、その認識・感情面での「行動原理」をこそ、つかんでおかねばならないことが明らかになってきます。

◆◆◆

 今回の例で言えば、彼女・彼らの「行動を正す」のではなくて、「感情面を整える」ことを主眼におけばよいということになるのですが、ごく一般的にいってみても、「人間というものは、自分の先行きが見えないときには、かなりの不安を感じるもの」ということを、生活上の経験からつかむことは難しくありません。
具体的な行動のありかたに振り回されることなく、そういった行動原理に眼を向けることができさえすれば、「そうか、彼女・彼らは置いて行かれるかもしれないという不安があるから、無理をしてついてきてしまうのだな」と、その立場に立って考えてみることができます。いったん、こういった表象段階の理解にまでのぼろうとすれば、後続車にどのようなアドバイスをすればいいかが見えてきますね。


 繰り返しますが、ここでの本質的な問題は、無理な横断や追い越し、自動車のあいだをすり抜けての運転、歩行者を轢きそうになる無茶な走行、などにあるのではなくて、彼女・彼らの行動原理を支配する不安感にあるのです。
そうすると、今回のたとえで指導者がしなければならないのは、「いくら遅れたとしても、信号ごとに、分かれ道ごとにあなたが付いてきているかを確認していますから、なにも心配しなくてもいいですよ。」という、被指導者の不安を払拭するためのアドバイスである、という結論が導かれます。続いて、「どれだけ遅くてもいいので、危ない運転をせずに、マイペースでついてきてください」と述べておけば、とにかくついていかねばという一念で、自らの持っている注意力をそいでしまわず、それをうまく活かしながらの運転をすることができるでしょう。

 指導者は、被指導者の行動すべてをおんぶにだっこして、すべてにおいて面倒を見てやることはできないのですから、彼女・彼らの注意力、洞察力などといった、持って生まれた人間としての力をいかんなく発揮できるように状況を整えることができねばなりません。そういった基本線をおさえることができるならば、当人の実力を今以上に導いてゆくためにあえて速度を上げたり(訓練、必要なシゴキ)、先頭車の地位を一定期間譲ってみたりする(権限委譲、ロールプレイング)ことができるようになってゆきますが、その前提として、これまで述べてきたように、具体的な現象を一般化するという姿勢と、そのためのすこしばかりの論理性というものが必要です。要して、「原則あってこその的を射た指導」なのだ、と覚えておいてください。個別的な知識を押し付けて、当人を混乱させるのは、もし長い時間をかけて個別の指摘を噛み砕いて当人が付いてきてくれたとしても、それは弟子のがんばりに助けられただけであって、やはりいい指導とはいえません。

ここはもちろん、明らかな実力差のある訓練生らにたいして、等しく平均点教育をせよというのではありません。指導者として責任を持とうとするならば、指導というものが指導者と被指導者との関係性であることを忘れずに、そこでの成果のうちのどれだけが、弟子のがんばりに助けられたものなのか、逆に言えばどれだけが自分の指導力なのか、という観点を持っておかねばならないということです。

(4につづく)

2011/05/15

本日の革細工:iPhone 4グリップケース

ひさしぶりに携帯電話を変えたら、性能差にびっくりだ。



iPhone 4を使っていると特に変わったなあと思わせられるのが、カメラ機能。

わたしの前に使っていたiPhone 3Gと比べると、解像度の向上はともかく、
裏面照射CMOSとHDRのおかげで、暗いところに強くなってるわ、
いい加減に撮っても綺麗に補正してくれるわで、ちゃんと、撮るのが楽しい。
というか、暗所では手持ちのデジカメよりも綺麗に撮れて、嬉しいやら悲しいやら。

国産のいわゆるフィーチャーフォン(ガラケー)は、
スペックシートに載せる数値ばかり競っていたせいで、
あんなちっちゃなレンズに異様な画素数のカメラを載せていたりするが、
起動5秒、保存にも3秒ほどもかかってしまう機種が多くて、とても使いものにならない。

その点、Appleはよく心得ていると思う。

◆◆◆

ところが、である。

この四角い本体、どこを持ってカメラを使っていいのかわからない。
シャッターボタンは画面にしか無いので右手は親指を浮かせた形で握らねばならないのだが、左手は左手で、レンズを防がないように本体を支えておかねばならない。

そういうわけで、これを外で使うときに、
本体を落としてしまわないかと怖くてしかたがないのだ。

どうしようかと思っていたけど、じっとしているのも嫌いなので行動開始。
最近革細工ばかりやってないか?と思われているかもしれないが、
実際そのとおりで、睡眠時間が犠牲になっているので、とっても眠い。

今日の朝は、iPhoneのケースが夢に出てきて、夜明け前に起こされた。
学者というのは、わからないことがあるというのは武士の名折れ、
おちおち寝てはおれないものである。

◆◆◆

とりあえず、カメラっぽいグリップを付ければ安定するかなと思い、
いま自作して使っているケースをベースに試行錯誤。

まず画面をくりぬいて…
(右が常用しているケース)
次にレンズ穴あけて、グリップをつける。
あと、落下防止のボタン。
◆◆◆

そのあと微調整で、こんな感じ。

お〜、ちょっとカメラに近づいた?

勉強机が、すっかり作業台に…

◆◆◆

画面のくり抜きを2mm余分にとったから、本体色の白が見えているけれど、
これは画面ぴったりだとタッチ操作がやりにくくてしかたなかったから。

まーこれは仕方ないやね。


まあ、けっこういいんじゃないかなあ。
とりあえず、グリップはかなりしやすくなったぞ。

◆◆◆

ボタンと本体が干渉するところにはシールを貼って、
本体が傷つかないようにしたけれど、やっぱり鞄の中なんかで
ボタンで圧力がかかるのが気になるので常用はしないだろう。

残る課題は、
・ケースを2つも持ち歩くのがめんどくさい…

だめじゃん。
でも、とりあえず今日のところは、納得。

◆◆◆

学者として生きるのはとっても楽しい。
だって、毎日あたらしいことがわかるんだもの。
でも、わかることがあるということは、
毎日のようにわからないことが見つかるということでもある。

心安らかにいられる時があるとすれば、
わからなさをわかっていない瞬間だけかもしれない。

指導のための心構えとはどういうものか (2)

◆2◆

(1のつづき)


 精神的に「人の上に立つ」という場合には、すでに「人柄」として当人に定着したような性質なども大きく左右してきます。
指導というものを命がけで突き詰めている人ならば、眼が合っただけで後進が泣き出したり、感極まってへたれこんだりといった経験がいくらかあるのではないかと思います。しかしそういった属人的な要素は、とりあえず考慮しないことにしましょう。指導者についての理論でも、こういった、いわゆる資質特性論というものは、被指導者との関係性を考慮しないという致命的な欠陥によって、現在では顧みられることはありません。

 さて人柄といった、指導者当人の属人的な要素を捨象することにすると、必要なのは、人間とはどういうものか、という人間一般論です。今回は、「人間とは、対象に目的意識を持って働きかけるものである」というとても大きな規定でとどめておきましょう。ここまででも、十分に指導について考えてみることはできるからです。
 またその人間観という土台の上に、指導者としての条件として、上で述べてきたような、指導者は「個人としてではなく被指導者との関係性を大事にするものである」という仮説を加味しておきましょう。

 ここをあわせたうえで崩して言えば、「指導者とは、高い目標を目指し、積極性を持って、被指導者を引き上げつつ歩んでいこうとする人間である」ということになります。
ここまで一般的な言い方であれば、ほとんど反論の余地はないはずです。
もし、「いやウチでは、私だけがガンガン前に進んでも周りはついてきているよ」と言った反論がありうるとするなら、その場合に被指導者がついてくるのは、組織的な権威や暴力的な統制力によって従わされているだけであり、そういう意味では優秀なのは指導者ではなくて被指導者なのではないですか、と皮肉の一つも言いたくなるところです。

 さて、この原則があれば、論理的帰結として、指導者はワンマンではない、個人的な発展ではなく組織全体としての前進を再優先する、手段は選ばないといったような倫理観に欠けることがない、などといった個別的な特質も導き出せることを覚えておいてください。わたしが「論理的帰結」と言うのは、原則を踏まえれば、自ずと導き出せる個別の結論のことです。似たようなことばに「論理的強制」がありますが、あちらは消極的な意味を強調した言い方です。こうしたやり方で考えることができれば、やや複雑な要件を考えてみても、被指導者を引き上げるためになら、表面上の厳しさをも厭わない、ということも引き出せます。

◆◆◆

 このような方向性で「指導」ということを考えるとするなら、
相手がいかなる鈍才であろうとも、被指導者が伸びないことを彼女・彼のせいにはできないのですから、
どんな障壁があったとしても、それは指導者自身の努力によって乗り越えねばならないことになります。
(ここには、被指導者の意欲の向上を試みる、どうしても振るわない場合は除名する、などといった具体的な方策も含まれてきますから、「指導者独りでがんばれ」ということではありません。)

 ですから、自分がいかに経験があり、被指導者の振る舞い方を見ていてあれやこれやの欠陥が目についたとしても、
いちいち指摘していては本人を混乱させてしまうことを、相手の立場に立って考えられなければなりません。
つまり少し引いた視点で眺めてみて、当人の最も根本的な欠陥を指摘できなければならない、ということになります。
ここはたとえば、自動車の運転であれば、被指導者のハンドル操作が安定しないことを見てとって、「近くではなくてもっと先を見なさい」とアドバイスしたり、けん玉のやりかたであれば、数撃ちゃ当たるのまぐれ当たりに頼ろうとする当人の姿勢をみてとって、「腕ではなくて膝を使いなさい」とアドバイスしたりする、という表象段階の指導へと繋がってゆきます。
弁証法が身についている人であれば、個別的なあれやこれやの知識ではなく、失敗の原因となっている大本を指摘することが本当の上達へつながるという意味を見てとって、「ああここは<否定の否定>だな」と受け止めてくれるでしょう。

◆◆◆

 ここを学問的に整理して言えば、指導を考えるに当たっては、それを受ける被指導者の立場に立って、指導者が目指している過程的構造の理解に、被指導者がどれだけ追いついてきているか、と問わねばならない、ということをわたしは述べているわけです。
とくに初学者にとっては、指導者の指導の意図を精確に読み取ることはどうしても不可能ですから、彼女・彼らなりの実力で想像したものを指導者の力であると勘違いしてしまい、「これくらいやっておれば点数をもらえるだろう」と無意識のうちに手を抜いてしまいがちです。そこでの根本的な甘えに加えて、とにかく評価されたいあまりに「点数がとれさえすれば過程はなんだっていいだろう」という思惑が働いてしまいがちでもあるのです。
ですが同じダーツの80点でも、素人がはじめて投げてとった80点と、プロが経験を活かして打ったところの80点では、まるで意味合いが違います。
ですから指導者はなおのこと、弟子たちがそのときにとった成績に一喜一憂するのではなくて、その過程はホンモノであったか、と問うてみることのできる実力がなければなりません。

◆◆◆

 わたしにも、こんなことがありました。
 ある人に太極拳を教わったときに、型についての全体像がわかってきましたから、自分なりにそれを噛み砕いて理解しようと試行錯誤したときのことです。わたしはそれまでにもあるところで武道の心得があったので、そこからの類推として、技が身につくためには人間体に頼って力任せに突くのではなくて、その過程に含まれている複雑な動きを、毎回同じ速さ、動作で再現できなければ武道にはならない、という問題意識をもってことにあたっていました。現象としては、先生の動きを、できるだけ遅い動作でなぞってみることになったのですが、ある学生さんがそれをみて、「なんとも弱そうな突きをしていますね!」と笑って評されたのでした。わたしはその感想も無理もないことだと思いましたから、「そうだね。まだまだ修行が足りないよ」と一緒になって笑っていたのですが、あとで知人が、「お前は昔、なにかやっていたろう」と指摘してきたのです。彼は中国出身で、国境警備隊(軍隊の中でも最も厳しい部隊のひとつです)をした経験がある人でしたから、わたしの意図していることが見えたのでしょう。そのあと二人で、それぞれの経験について話したところ、彼がなるほど、死ぬ一歩手前のシゴキを受けていた経験を持っていたことがわかりました。

 彼のいた部隊では、手のひらを握り合って作ったこぶしで、手の甲の骨が見えるまで腕立て伏せをしたりするようで、訓練全般がそのような肉体も精神もすり減らすような厳しさを持っているために、死傷者には事欠かないというのです。命を失った同期の亡骸にすがってわんわん泣く両親の姿を見ていると、明日は我が身か、残された病気の母親はどうなるのだろう、と気が気ではなかったと言っておられました。しかしわたしたちはたとえどんな場面であっても、こういった意味でのシゴキはされたくありませんし、させたくもありません。そしてまた、する必要もありません。
こういった指導は、被指導者の内面を見るという手順を飛ばしてしまって、厳しいシゴキのなかで優秀な成績を残したものだけを篩にかけてしまえばよい、というやり方です。
芸術、学問、武道をはじめ、あらゆる道の上達の過程においては、どうしてもシゴキは必要ですが、その目的はなにも、落伍者を発見して潰しにかかることにあるのではなくて、「あなたの想像しているよりも、もっと上の技がありますよ、あなたの考えている努力ではまるで足りませんよ」ということを、身に染みて実感させ、全身に・脳髄に叩き込むことにあるのです。

 そういった、どこまでが必要なシゴキであるかを把握するための前提として、被指導者の本質的な発展を願うならば、どうしても彼女・彼らの認識についての理解が必要になってきます。
これは、本質的な段階では、どんな道においても一致しています。

(3につづく)

2011/05/14

指導のための心構えとはどういうものか (1)

◆1◆


 つい最近、身の回りで今年度から役職の位が上がった人間が数名おられ、
人の上に立つための基本的な考え方を教えろと言われましたので、
組織の生成原理、組織の中の指導者の位置づけと、
指導者が把握すべき「理論と実践」というテーマでお話をしました。

 おおよそのあらすじを言えば、一般的に水と油の関係で扱われることの多い
「理論」と「実践」について、両者の関係性の誤解を解きながら、
指導者としての実践にはどのように理論が関わるのか、
そしてまた、実践からどのように理論を引き出すのか、という内容です。

 今回の記事はその前書き、といった位置づけのものです。
人間として生きていれば、自覚するにしろしないにしろ、
それなりの年齢ともなれば人の上に立たなければならないわけですが、
そのためにはどういった姿勢と考え方が必要なのか、ということを考えてゆきます。

 わたしのところに来る学生さんにも、学習の進んだあとには
「機会があれば人に進んでものごとを伝えてください。
そのときは、教えることに責任を持ちなさい」
と言うことがありますが、それは、わたしがそのことによって、いちばん成長させられているからです。

◆◆◆

 そもそも、指導者が必要とされるからには、被指導者の存在あってこそですね。
その関係がなぜ生まれるのかといえば、
人間というものが、個々人の力だけでは実現不可能な目標を達成するために、
意識的に組織を創り上げるという生き物であるからです。

 そのように、1たす1を2ではなくて2より大きい成果とするために、
わたしたち人間は組織をつくってゆくのですが、そうした際に根本的な問題となってくるのは、
組織の成員が互いをうまく補いあって、全体として最高のパフォーマンスを発揮できるかどうか、ということです。
逆に言えば、残念ながらお互いがお互いの足を引っ張り合っているような関係がある場合には、
組織として行動する意味自体がまるでない、ということでもあります。
そうすると指導者の存在意義というのは、1たす1を2よりも上にするために居るというのが基本線です。

 そういったときに、指導者のひとつの役割として、組織全体を見渡して、
彼女・彼らが有機的な連関をもって最大限の成果をあげられるように協業の体制を作ってゆかねばなりません。
そこでは、それぞれの成員が持っている専門知識のうち、
「意思疎通ができる」くらいの一般的な部分の知識は、最低でも把握しておくべきでしょう。
またそのことの土台として、組織の成員は言わずもがな生真面目なところもありわがままも言う人間なのですから、
人間一般についての基礎的な知識がなければならないことになるわけです。

 このことを極意論的に要して、「経営の要諦はつまるところ人の理解である」、
「組織は、その指導者の人格以上に大きくはならない」、などと言ったりもします。
しかしわたしたちは、極意論をいくら振りかざしてみても実質的にはなんらの成果にもつながらないのですから、
それを結論として、どういった理由がそういわれる過程には含まれているのか、と考えてゆかねばなりません。

 ごく一般的に想像してみても、自分とは生まれも育ちも違う人間とうまく意思疎通するためには、
ともかく自分自身の特殊な経験だけに頼っていては、伝わることも伝わらなくなってしまいます。
そういった一般化の過程において顔を出すのが、「論理」というものです。
そういうわけで、大組織の指導者でなくとも、たとえば部活の後輩を全国大会で優勝させるのだ、
後進を一流の人間に育て上げるのだ、といったふうに「指導」というものと真剣に向き合うのならば、
どれだけ感情的に拒否反応が出ようとも、ものごとの一般的な構造をあらわす「論理」に目を向けねばなりません。

 そもそも、自分だけが優秀であればいいのなら、「論理」やその体系である「理論」などは必要ありません。
また「指導」を、単なるHow toに短絡させてしまう向きにも、それらは必要ありません。
「理論」というのは、その時代や個別の環境を捨象して本質を取り出すことによって、
後進の本質的な発展をうながすための、人類総体としての叡智のあり方です。

◆◆◆

 そういったことをお断りした上で、わたしのここでお伝えしておきたいことは、
「人の上に立つ人間にはどういう姿勢が必要か」という一般論です。
ここでは個別理論まで取り上げるわけにはゆきませんから、どうしても机の上で考えただけ、という
観念論的な響きを持つ箇所が出てきてしまいますが、そのことを補うために、具体的な例示をしてゆきます。
経営学などで扱われるいわゆるリーダーシップ論は、学史的にふまえてあります。

 さて「人の上に立つ」からには、自分がどれだけ経験や知識を持っていようが、
「それを伝える」技術がなければ、なんの意味もないことになります。
ここを要して言えば、「指導」とは、指導者の中だけにある力ではなくて、
指導者と被指導者のあいだの「関係性」こそにある、と言ってもよいでしょう。
野球の名選手が、必ずしも名コーチになれるわけではないなどという事実からも想像できますね。
ここを逆に言えば、指導者自身の素質や能力は頂点を極めるほどの実力でなくとも、
後進に高度な経験や知識を噛み砕いて伝えることに長けている人もありうる、ということです。 

(2につづく)

文学考察: 一つの約束ー太宰治

先日の不具合以降、Bloggerのシステムが安定しませんね。
更新が数日分巻き戻ってしまったようです。
これはとっても困りますね。
とりあえず、手持ちのバックアップから復元します。


文学考察: 一つの約束ー太宰治


◆ノブくんの評論

 難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、燈台の窓際につかまっていた人物がいました。彼は燈台守の家族に助けを求めようとしましたが、自身のせいで家族の団欒を破壊することを一瞬躊躇ったせいで、並に流されてしまいました。そして、著者はそういった誰もが知らない、不幸にもある種の輝きをはなっている人物たちにむけて、ある約束をしています。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈文学に対する、ある使命〉が描かれています。
まず、この作品の要諦は次の一文に集約されています。「誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。」つまり、このようなだれも知らない、喜劇であり、またある種の輝きをもった人物たちを作品として発表し、世に知らしめることが文学のひとつの使命であることをこの一文で述べています。そうしてそれらの作品は人間の輝きを世の人々に見せ、私たちに希望や感動、そしてその苦悩を教えてくれるものになるはずです。


◆わたしのコメント

 文意に即した内容の評論を目指していることは読み取れますが、あえて言うならば、作品についての理解が表面的です。
指摘は簡潔な表現に留めるので、行間は自分自身で読みといて行ってほしいと思います。結論的に言って、論者は「この作品では、〈文学に対する、ある使命〉が描かれてい」ると指摘していますが、それは本当なのか、というのが最大の焦点です。筆者は、「文学そのもの」に対する使命を表明しているというよりも、「文学で描かれている対象」に対して、何らかの約束をしているのではないでしょうか。
 そこを丁寧に踏まえれば、一般性の形式は、<●●に対して、●●を表現しようとする文学者としての使命>などといった形になるでしょう。筆者は、文中で述べているような、市井におけるある人間の姿を、文学者としてどのように扱い、そしてまた、実在するであろう彼女・彼らのような人間にたいして、どのようなメッセージを伝えたいがために、約束を表明したのでしょうか。そのことをしっかりと含む形で論証できれば、評論の基礎的な土台は完成したといってもよいでしょう。

 また文学の道をめざす論者が、筆者の主張を参考にしながら、彼と同様の形式を使えば、どのような約束になるだろうかと、筆者の思いを我が身に捉え返すかのごとく考えてください。偉大なる先達の背中を見て、彼らが何を目指して生きていたのかを読み取ろうとすることをとおして、人としてつながる者たちの恩に報いるべく生きるという姿勢も、「ほんとうの独学」というものです。


【誤】
・並に流されてしまいました。

2011/05/10

Blogger復旧と本日の革細工

Bloggerのシステムがもとに戻ったようです。


革でつくったiPhoneスタンドが思いの外便利なので、iPad用も。
時間がないときに限って手を動かしたくなるこまった癖があり、昨日は不眠。
しかし創作意欲というのは、時と場所を選ばないもの。
今回はこれくらいですんで良かった。

◆◆◆

さて今回は、前回の反省点を踏まえて、
内側1枚の周りに外側に大きな1枚を巻きつける形に変更。
こうすると、縫い目が少なくてすむのと、接地部が丸みを帯びて安定する。


でもこれ、いざ使ってみるとなかなか難しいな。


どうしても重みでぐにゃっとなる。
でもまあ、横置きするときになら使えないこともない。

次つくるときは、内側に木かアクリルかで芯をつくって入れなきゃあ。
デザインもMovie Peg風だけど、まだまだ検討の余地あり。

【残った問題点】
・それなりに角度をつけて縦置きしようとすると、本体ごと後ろに倒れそうになる。
・それを避けると縦置き時の角度が緩すぎて、覗き込むような姿勢になる。
Smart Coverは角度が急すぎる(横置きだけだが)ので、両立させるのは難しい。

◆◆◆

総じて言えば、iPadはiPhoneとは大きさが違うために重みも違ってくるので、
スタンドの形状もそれにあわせて工夫しなければならない。
ただiPhoneのものを大型化してもダメ、だということがわかった。

当たり前に聞こえるけれど、実際に試して得た情報しか、
次へのステップには使えないのだ。

しかしこれなら、前からある木のスタンドのほうがスマートだねえ。(下の写真の左側)


iPadとにらめっこしながら、しっくりする形状を探す日々が続きそうです。

ともあれ、やはり思考実験は試してみてナンボ。
欠点が明確になって方針が決まったので、今日は心安らかに眠れます。