2011/05/14

指導のための心構えとはどういうものか (1)

◆1◆


 つい最近、身の回りで今年度から役職の位が上がった人間が数名おられ、
人の上に立つための基本的な考え方を教えろと言われましたので、
組織の生成原理、組織の中の指導者の位置づけと、
指導者が把握すべき「理論と実践」というテーマでお話をしました。

 おおよそのあらすじを言えば、一般的に水と油の関係で扱われることの多い
「理論」と「実践」について、両者の関係性の誤解を解きながら、
指導者としての実践にはどのように理論が関わるのか、
そしてまた、実践からどのように理論を引き出すのか、という内容です。

 今回の記事はその前書き、といった位置づけのものです。
人間として生きていれば、自覚するにしろしないにしろ、
それなりの年齢ともなれば人の上に立たなければならないわけですが、
そのためにはどういった姿勢と考え方が必要なのか、ということを考えてゆきます。

 わたしのところに来る学生さんにも、学習の進んだあとには
「機会があれば人に進んでものごとを伝えてください。
そのときは、教えることに責任を持ちなさい」
と言うことがありますが、それは、わたしがそのことによって、いちばん成長させられているからです。

◆◆◆

 そもそも、指導者が必要とされるからには、被指導者の存在あってこそですね。
その関係がなぜ生まれるのかといえば、
人間というものが、個々人の力だけでは実現不可能な目標を達成するために、
意識的に組織を創り上げるという生き物であるからです。

 そのように、1たす1を2ではなくて2より大きい成果とするために、
わたしたち人間は組織をつくってゆくのですが、そうした際に根本的な問題となってくるのは、
組織の成員が互いをうまく補いあって、全体として最高のパフォーマンスを発揮できるかどうか、ということです。
逆に言えば、残念ながらお互いがお互いの足を引っ張り合っているような関係がある場合には、
組織として行動する意味自体がまるでない、ということでもあります。
そうすると指導者の存在意義というのは、1たす1を2よりも上にするために居るというのが基本線です。

 そういったときに、指導者のひとつの役割として、組織全体を見渡して、
彼女・彼らが有機的な連関をもって最大限の成果をあげられるように協業の体制を作ってゆかねばなりません。
そこでは、それぞれの成員が持っている専門知識のうち、
「意思疎通ができる」くらいの一般的な部分の知識は、最低でも把握しておくべきでしょう。
またそのことの土台として、組織の成員は言わずもがな生真面目なところもありわがままも言う人間なのですから、
人間一般についての基礎的な知識がなければならないことになるわけです。

 このことを極意論的に要して、「経営の要諦はつまるところ人の理解である」、
「組織は、その指導者の人格以上に大きくはならない」、などと言ったりもします。
しかしわたしたちは、極意論をいくら振りかざしてみても実質的にはなんらの成果にもつながらないのですから、
それを結論として、どういった理由がそういわれる過程には含まれているのか、と考えてゆかねばなりません。

 ごく一般的に想像してみても、自分とは生まれも育ちも違う人間とうまく意思疎通するためには、
ともかく自分自身の特殊な経験だけに頼っていては、伝わることも伝わらなくなってしまいます。
そういった一般化の過程において顔を出すのが、「論理」というものです。
そういうわけで、大組織の指導者でなくとも、たとえば部活の後輩を全国大会で優勝させるのだ、
後進を一流の人間に育て上げるのだ、といったふうに「指導」というものと真剣に向き合うのならば、
どれだけ感情的に拒否反応が出ようとも、ものごとの一般的な構造をあらわす「論理」に目を向けねばなりません。

 そもそも、自分だけが優秀であればいいのなら、「論理」やその体系である「理論」などは必要ありません。
また「指導」を、単なるHow toに短絡させてしまう向きにも、それらは必要ありません。
「理論」というのは、その時代や個別の環境を捨象して本質を取り出すことによって、
後進の本質的な発展をうながすための、人類総体としての叡智のあり方です。

◆◆◆

 そういったことをお断りした上で、わたしのここでお伝えしておきたいことは、
「人の上に立つ人間にはどういう姿勢が必要か」という一般論です。
ここでは個別理論まで取り上げるわけにはゆきませんから、どうしても机の上で考えただけ、という
観念論的な響きを持つ箇所が出てきてしまいますが、そのことを補うために、具体的な例示をしてゆきます。
経営学などで扱われるいわゆるリーダーシップ論は、学史的にふまえてあります。

 さて「人の上に立つ」からには、自分がどれだけ経験や知識を持っていようが、
「それを伝える」技術がなければ、なんの意味もないことになります。
ここを要して言えば、「指導」とは、指導者の中だけにある力ではなくて、
指導者と被指導者のあいだの「関係性」こそにある、と言ってもよいでしょう。
野球の名選手が、必ずしも名コーチになれるわけではないなどという事実からも想像できますね。
ここを逆に言えば、指導者自身の素質や能力は頂点を極めるほどの実力でなくとも、
後進に高度な経験や知識を噛み砕いて伝えることに長けている人もありうる、ということです。 

(2につづく)

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