2011/05/16

指導のための心構えとはどういうものか (3)

◆3◆

(2のつづき)


 精神的な指導では事例がややこしくなるために、ありありとイメージしやすい例えで考えてみましょうか。
たとえばわたしは自転車で旅をするのが好きですが、複数人でツアーをするとなると、ほとんどの場合はその先頭を走る人間が経験の豊富な走者でなければならず、今回の例示で言えば「指導者」ということになります。後続車が「被指導者」ですね。
こう言うと、そんな誰にでもできることを仰々しく「指導」などとは、と笑われる方もおられるでしょうか。わたしはそういった方にこそ、この小論を検討してみてほしいと思います。自転車の旅は、あらゆるところで危ないふるまいをしても、眼に見える損害、つまり死亡事故につながることが意外と少ないために、その過程における失敗が眼につきにくいのです。しかし、同じ程度の誤りであったとしても、生命を直接に扱う医療、看護や眼に見える結果に直接反映される経営といった営みともなると、さらにシビアな指導への理解が必要とされることはおわかりいただけると思います。自転車ツアーの場合であれば、「事故を起こすことなく同じく無事に帰宅した」2組のチームを見ても、その旅のさなかの振る舞い方については、大きな差があることが少なくありません。ここを、「無事に帰宅したからそれぞれのチームは同じ注意力を持っていたのだ」と短絡することはできないでしょう。
ですから、自転車ツアーという、一般には極端なシビアさを要求されないように映る営みでも、万全を期した指導のためにはこれだけの注意と論理化が必要であることを見てほしいのです。

 さて、そういう理由で、ここでは自転車ツアーを例にとって考えてゆくことにします。経験のある先頭車に続いて、後続車が数車続いて目的地を目指す、というイメージを持ってください。そこでの先頭車の役目は、後続車を事故させることなく目的地まで楽しい旅を提供しなければなりません。ですから、たとえば自転車にはじめて乗るような人間が、どんなところを見落とすのか、どんなところで危ない目に遭いがちなのかを知っておかねばならないことになります。
この場合に、どういった指導が必要だろうかと考えると、自転車の旅というものは、「安全と良識を守って、目的地に着くまでの過程をこそ楽しむものである」といった抽象的な大原則はどんな場合にも必要であると合意がとれるとしても、いざ指導の段階となると具体的な指摘をいろいろとしてしまいたくなるものです。
ところが、「自転車に乗る」というシンプルな運動の中にも、それが長距離になればなるほど新たな問題が出てくるものですし、通常では漕いで登らないような坂や、20キロ以上の装備を整えるといったことになると、相応の条件が必要になってくるものなのです。
こういった表面的な事実にとらわれ過ぎると、並行段差には気をつけろ、並走するクルマが左折するのを気をつけろ、坂道にはギアを下げて斜めに発進しろ、荷物の重心は両面に分けろ、などなど、途方もなくたくさんの指摘がでてくることになります。さらには、それぞれの注意に優先順位と、組み合わせ方があるのですから、これは無限と言ってもいいほどのモザイク的な集成ができあがることになります。

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 では指導者は、被指導者の危険を見越して、このように、危険があると判断される些事にわたっての知識を、すべて与えておくべきでしょうか?

 答えは否です。

 先ほど、「抽象的な大原則はどんな場合にも必要だが」と断った上で、具体的な知識に深入りしすぎてしまうという指導者としての落とし穴を指摘したのですが、それでは何が必要なのかといえば、具体的な知識を「やや」抽象化したところの、「表象段階」の指導なのだ、ということです。


 さてたとえば先頭車は、自分だけが信号の点滅をくぐり抜けられても、それについてこようとする後続車が危険な目にあうのではいけません。そういう意味で、先頭車は、自分自身と車間距離、そして後続車までの延長をも、自分自身の身体であるととらえて運転せねばならないわけです。しかし、それほどに注意を払っていても、やはり後続車だけが赤信号機にひっかかることもありますね。
もしそんなことがあり、後続車が危ない横断をした場合、どういった指導が正しいことになるでしょうか。「旅の原則は楽しく、だと言っておただろう!危ないことはするなという意味だぞ!」などと原則論をもって叱ればいいのでしょうか。しかしことあるごとにこんな指摘をされていては、楽しい旅どころか初ツアーにして二度とやりたくない、という感想を持つことにもなりかねません。なぜ抽象的な段階の原則論ではダメなのかといえば、このことが理由です。抽象的すぎると、実践に適用するのが不可能なのですね。

実践的にと具体的な注意点を押し付けても当人はパンクしてしまいますし、抽象的すぎても実践には使えないのです。そうするとここで指導者は、どうしても、いったんは後続車の認識をふまえたうえで、いったいどんなレベルならば実践的な行動の指針になりうるのか、と考えてみなければならなくなります。

 ※ここでは、「具体的な危険についての諸注意」をたんにまとめて抽象化すればなんでもいいというのではなくて、「後続車の安全と楽しさを考えるならば」という、指導者としての問題意識を明確にもったうえでの抽象化でなければならないことに注意してください。わたしが、以前に、「飼い犬のために家族の生命を犠牲にすべきか」というたとえを使って、「一般化は、『実践上の必要性に照らして』行われねばならない」、と言っておいたことを思い出してもらえると嬉しく思います。

 これは、彼女・彼が危ない行動をしたことを表面的に見るのではなくて、彼女・彼らが、「なぜそうしたのか」と考えてみる、ということです。後続車は、なぜ無茶をして赤信号を渡ってしまったのでしょうか。彼女・彼らは、旅に慣れている先頭車とちがって、自分自身の脚にも走法にも自信がありませんし、目的地がどこにあるのかという実感さえありません。そんな人間の立場に立って考えれば、人柄うんぬんはともかく、とにかく先頭車についていかねば途方にくれてしまう、という内面は掴めます。彼女・彼らにとっては、「置いて行かれてはどうしようもない」わけです。この不安は、先頭車との距離を離されるたびに募ってゆきますから、これが二車でのツアーならともかく、後続車が多ければ多いほど、先頭車に続く者たちのあせりは増えてゆくのです。
そんな後続車の内面を理解しようとすれば、彼女・彼らの具体的な行動をとおして内面を捉え、その認識・感情面での「行動原理」をこそ、つかんでおかねばならないことが明らかになってきます。

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 今回の例で言えば、彼女・彼らの「行動を正す」のではなくて、「感情面を整える」ことを主眼におけばよいということになるのですが、ごく一般的にいってみても、「人間というものは、自分の先行きが見えないときには、かなりの不安を感じるもの」ということを、生活上の経験からつかむことは難しくありません。
具体的な行動のありかたに振り回されることなく、そういった行動原理に眼を向けることができさえすれば、「そうか、彼女・彼らは置いて行かれるかもしれないという不安があるから、無理をしてついてきてしまうのだな」と、その立場に立って考えてみることができます。いったん、こういった表象段階の理解にまでのぼろうとすれば、後続車にどのようなアドバイスをすればいいかが見えてきますね。


 繰り返しますが、ここでの本質的な問題は、無理な横断や追い越し、自動車のあいだをすり抜けての運転、歩行者を轢きそうになる無茶な走行、などにあるのではなくて、彼女・彼らの行動原理を支配する不安感にあるのです。
そうすると、今回のたとえで指導者がしなければならないのは、「いくら遅れたとしても、信号ごとに、分かれ道ごとにあなたが付いてきているかを確認していますから、なにも心配しなくてもいいですよ。」という、被指導者の不安を払拭するためのアドバイスである、という結論が導かれます。続いて、「どれだけ遅くてもいいので、危ない運転をせずに、マイペースでついてきてください」と述べておけば、とにかくついていかねばという一念で、自らの持っている注意力をそいでしまわず、それをうまく活かしながらの運転をすることができるでしょう。

 指導者は、被指導者の行動すべてをおんぶにだっこして、すべてにおいて面倒を見てやることはできないのですから、彼女・彼らの注意力、洞察力などといった、持って生まれた人間としての力をいかんなく発揮できるように状況を整えることができねばなりません。そういった基本線をおさえることができるならば、当人の実力を今以上に導いてゆくためにあえて速度を上げたり(訓練、必要なシゴキ)、先頭車の地位を一定期間譲ってみたりする(権限委譲、ロールプレイング)ことができるようになってゆきますが、その前提として、これまで述べてきたように、具体的な現象を一般化するという姿勢と、そのためのすこしばかりの論理性というものが必要です。要して、「原則あってこその的を射た指導」なのだ、と覚えておいてください。個別的な知識を押し付けて、当人を混乱させるのは、もし長い時間をかけて個別の指摘を噛み砕いて当人が付いてきてくれたとしても、それは弟子のがんばりに助けられただけであって、やはりいい指導とはいえません。

ここはもちろん、明らかな実力差のある訓練生らにたいして、等しく平均点教育をせよというのではありません。指導者として責任を持とうとするならば、指導というものが指導者と被指導者との関係性であることを忘れずに、そこでの成果のうちのどれだけが、弟子のがんばりに助けられたものなのか、逆に言えばどれだけが自分の指導力なのか、という観点を持っておかねばならないということです。

(4につづく)

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