2011/05/17

指導のための心構えとはどういうものか (4)

◆4◆

(3のつづき)


 前節までで、具体的な段階から表象段階までの「のぼり」の過程を追ってきました。ここに加えて言うならば、この表象段階の理解というのは、「安全と良識を守って、目的地に着くまでの過程をこそ楽しむものである」という抽象段階の、自転車の旅一般論が指し示しているところも守られている、ということがわかってもらえるのではないかと思います。さきほどとは逆に、「くだり」の向きの理解というわけです。
一般論を、それがほんとうに正しいものであるかと実践で試してみる場合の向きですね。


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 理論を、頭の中でつくりあげたことば遊びで終わらせてしまいたくないのなら、「のぼって」得た理論を、実践の中で試すという「くだり」を、たえず目的意識をもって繰り返していなければなりません。

 ここまでの、「のぼり」と「くだり」をあわせた理論化の段階を要して言うならば、
経験からつかんで仮説として立てた一般論に照らして具体的な実践を眺めなおし、そこでの経験をあつめてふたたび抽象化することで表象段階の理論をつくることと並行して指導に当たる中で、被指導者たちが正しい実践をできているかを常に確かめることをとおして、全体として一般論を仮説の段階から科学的な段階まで高めてゆく、ということになります。


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 ここでの理論化の過程は、指導一般に照らして書き抜いたものですが、これと同じ過程は、ひとりの人間の生き方、人生一般についても同じことが言えます。もし意識はしていない場合でも、あれやこれやと立場を変えないで一本の筋を通した人生を歩みたい、という志を持っており、その人格でもって自然と立派な指導者となっておられる方たちならば、これまた自然に育んできている方法論でもあるのです。ここでいう「一本の筋」とは、彼女・彼らのなかの、生き方についての一般論なのですから。

 わたしはこれまでの人生をとおして、社会的にはどれだけの不理解を被ろうともたじろがず、他人の目がないところでも自律の力で手を抜かず、ひとつの筋を通した生き方を貫いてきた人に大きな感銘を受けてきました。そのうしろ姿を人間が信頼に価するものであるという根拠として見据え、彼女や彼らの生き方を人生の範としてきました。時代の波に流され流され、その時々で立場や主張をコロコロ変えても、それを見る眼が不確かな場合にはそれなりに尊敬されているようにも見えるものですが、本質的に尊敬に値する人というのは、いつどんなときに、自らがどんな状態にあろうとも、一本の筋をとおしてそこに立っているものです。だからこそ、自分が荒波に揉まれて疲れはて、正しい道を見失いそうなときには、自然とそういった人を尋ねることになるのです。そういう人への絶対の安心感こそ、本当の意味での、人間存在への尊敬というものではないでしょうか。

 ほんとうの実力でもって人の上に立つという人間は、自分が指導者になりたいからなったのではなくて、ましてや齢を重ねて一定の役職についたからそうなったのでもなく、黙っていても周りからぜひともと勧められて、自然とそうなっていったのです。そういった指導者は例外なく、仕事について、我が道について、生き方についての揺るがぬ一般論を持っています。

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 わたしたち人間は、ある道を歩み始めて数十年の年月を経れば、どんなに意識しなくとも、その経験から抽象化された理論をもつことができます(「理論が嫌い」という感性的な拒否反応も、現実を抽象化したところにあるのですから感性的な段階ではあるものの、ひとつの理論です)。
ところが、わたしたちが個人の経験にしがみついて謙虚に学ぶことがないのなら、どれだけがんばってみてもたかだか数十年の経験から得た理論しか持つことはできません。それなりの天の才があるのならば、こういった唯我独尊であっても自分流のやりかたを世に残すことはできますが、そのやりかたを、他の人がひろく使えるという保証はまるでないのです。自分のやりかたを後進が使えないのを見て、「お前たちは才能がないのだ」といえばすむのなら、理論などは必要ありません。

 ここを、そういった個の域を脱して普遍性をもった、一流のものにするにはどうすればいいでしょうか。それは、「人は繋がっているのだ」という意識を持って、それに従って行動するだけで良いのです。
 人とのつながりは、ひとつに過去とのものがあります。人間は個々別々に生きているのではなくて、人類という総体としてはじめて人間たりうるのだ、という意識を持つことができるのならば、経験の幅を一挙に数千年にわたる、しかも数えきれないほどの大先達の経験を背に受ける形で、人生を歩むことができる姿勢が整います。
 そしてまた、ひとりの人間は未来を生きる人たち、直接には後進とも繋がっているでしょう。前途ある彼女や彼らを思うのならば、「この人についてきてよかった」と思ってもらいたいはずです。また指導者としての自らの立場を考えるのならば、「もっと別の人についてくればよかった」とだけは思われたくないはずです。この思いさえ「まともに」あれば、やはり自分は天才だからなどと自惚れてはいられません。

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 こういったように、人とのつながりを意識すれば、「理論」というのは、自然に耳に馴染んでくるものです。多数の人とつながりあうためには、どうしても自分だけの自然成長的な、特殊なものごとの見方を脱して、その経験を抽象化した「論理」でもって、後進に向き合うことになるのですから。それを体系化したものが、「理論」ということです。
 大きな意味でひとがつながるのは、理論があるからです。わたしたちの生命や健康を救ってくれるのは、医学という理論ですし、わたしたちの耳を楽しませてくれるのは、楽譜という理論です。それらはなにも天から降ってきたものではなくて、先人たちの創意工夫が歴史的に結実してきたものでしょう。そこに、万人のための新しい発見や新しい楽しみを加えるのならば、それもひとつの理論として、のちの世に残ることになってゆくわけです。

 それでも理論ということばの響きが好きになれないという方は、理論を強調することが、たとえば、最高の楽譜を手に入れたから最高のピアニストになったのだ、というふうに聞こえてしまうからなのだと思います。そういう言い方であれば、たしかにおかしいですよね。楽譜を手に入れてからの生涯をかけた厳しい修練によって、最高のピアニストになってゆくのですから。その指摘はまったく正当ですが、そこを整理して言うのならば、そこには理論と実践をつなぐ役割を持つ「技術論」が存在していることを、机の上で言葉遊びをしているだけの理論家には、正しく把握できないから誤解が起こるのです。ここについては、後日の記事でご説明することにしましょう。それまでにひとつ、理論が嫌いだからといって、医学や楽譜をはじめとした、理論として残る人類の叡智に頼らずして、人は人らしく生きていけるであろうか、と考えてみてほしいのです。


 さて話を戻しますと、この小論は、まっとうな指導をするには、最終的には偉大な指導者になるためには、という問いかけから述べられてきたものでした。わたしとしての答えは、自分の道で得られた経験を抽象化するという論理的なものごとの見方をとおして眺めることで、自分だけではなくどんな弟子に対しても通用するやりかたを探す過程で、先達の一流の経験と理論を手がかりにしてゆかねばならないのだ、と言っておきたいと思います。後進のことを真剣に考えて、彼女や彼らが育たないことを恥じるのならば、論理や理論に背を向けることはないと思うのです。わたしは、自分個人という特殊・個別な経験の殻をうちやぶり、後進たちを一流の道へ導くための、一人の人間を大きく超える実力を身につけるためにこそ、「一般化」という営みがどうしても必要なのだ、と強調したいのです。過去の先達の経験を「一般化」したところの理論を念頭において、自らの経験のなかで捉え返したうえで「一般化」し、後進へと受け継いでゆく。それが、ほんとうの指導というものです。過去への謙虚な学びと後進への真摯な姿勢、どちらが欠けても、やはり指導者としては失格です。
尊敬されるというのは、一流の志を胸に秘めての歴史性を持った生き方に向けての、たんなる結果にしかすぎません。ここの過程を取り違えて、尊敬されることを目的にしてしまうという落とし穴にはまることのないようにしたいものですね。

(了)

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 たとえで挙げた自転車ツアーの論理的把握についてもうすこし知りたい方は、次の余談を。

1 件のコメント:

  1. >本質的に尊敬に値する人というのは、いつどんなときに、自らがどんな状態にあろうとも、一本の筋をとおしてそこに立っているものです。

    このような人物になりたい!です。
    自分が結果的にダメだった…しても…
    息子には、そのような人物になって欲しいし育てたい!です。

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