2011/04/13

文学考察:女人訓戒ー太宰治


女人訓戒ー太宰治

◆ノブくんの評論

著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すようになったのでしょうか。
この作品では、〈対立物の相互浸透のある一面〉が描かれています。
まず著者の主張では、「兎の目は何も知らない。けれども、兎の目を保有していた彼女は、猟夫の職業の性質を知っていた。兎の目を宿さぬ以前から、猟夫の残虐な性質に就いては聞いて知っていたのである。(中略)彼女は、家兎の目を宿して、この光る世界を見ることができ、それ自身の兎の目をこよなく大事にしたい心から、かねて聞き及ぶ猟夫という兎の敵 を、憎しみ恐れ、ついには之をあらわに回避するほどになったのである。」というものでした。恐らく、著者はそこから、兎の目が人間の性格の一面をつくっている、と主張したいようです。事実彼はこの後に、その根拠を述べるべく、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソードを綴っています。
ですが、著者が法則の性質の一面しか捉えることが出来ていないため、その論証自体に大きな欠点が二点あります。その一点目は、互いに浸透し合っているものを上手く結べていない、または根本的に見誤っているということです。著者は兎の目を持った女が、猟夫を恐れるのは、兎の眼を大事にしていた為と説明していますが、果たしてそうでしょうか。そもそも女性は兎の目を移植されたために生まれてはじめて、世界を自分の目で見ることが出来るようになったのです。そんな彼女が突然、猟銃という凶器にもなりうるものを持った男を見たらどう思うでしょうか。更にそれが狩りの最中であれば、その目つきに恐れるもの無理のない話ではないでしょうか。こう考える方が、兎の目を持ったことによりそれを大事に思うようになったために、猟夫を恐れるようになったと考えるよりは説得力があるはずです。また、タンシチューの女性のエピソードでは、タンシチューを週二回食べることにより、体の細胞が変化し英語が喋れる様になったということも可笑しな話です。確かに西洋人の食べ物を食べることにより、肉体が西洋人になっていくことは多少はあるでしょうが(食べ物が人間をつくる)、それ以上に毎日英語を喋っているので、舌が英語の発音に慣れ、変化していったと考える方が自然というものです。
次に二点目ですが、これは、兎の目からという流れは説明されていますが、その逆が説明されていないことにあります。これは兎の例は上記にもあるように根本から違うため、狐の襟巻きの女性の話を取り上げ説明することにしましょう。確かに事実はどうであれ狐という言葉を聞いて私たちは、嘘をつく、狡猾な動物であるというイメージを持っています。そしてそういった動物の襟巻きを身につけることによって、彼女が自分のイメージをつくり上げ、そういった人物になっていくことは十分に考えられます。ですが、もとからそういう人物が狐の襟巻きを着ることによって、狐にそういったイメージが付きまとうことだってあるはずです。例えば、あるモデルが全くお洒落ではないドレスを見事に着こなしていれば、そのドレスも「成程、お洒落である」と感じ、そのドレスが流行することだってあります。よって、狐の襟巻きが女性をつくっていると同時に、その女性もまた狐のイメージを作り上げているのです。
以上が、著者が見落としていた法則の一部始終となります。法則というものは何と何がくっついているのかが重要なのではなく、どのような流れでどう繋がっているのかが重要なのです。


◆わたしのコメント

 一ヶ月ほど前の評論ですので、すでに注意したことが訂正されていない場合もあるため、今でなら直せるかもしれないところを再び注意するような箇所がありますが、ご了承ください。

◆◆◆

 まず指摘しておきます。文学作品の一般性に、「対立物の相互浸透」などというものものしい用語を使ってはいけません。自分の認識がどういうものなのかは人によって様々ですが、常々言っているとおり、それはアタマのなかにだけ持っていればいいものなのであって、わざわざ表明することが評価の対象になるわけでは決してありません。たとえば、生物が環境に適応するのも夜の月が明るく見えるのも相互浸透なのだと言ったからといって、読者はそうかなるほどと、それは理解の助けになったと評してくれるでしょうか。わたしがコメントの中で、あえて弁証法の法則を明言しているというのは、論者や読者にとって、「論理力の修練の上で役に立つから」そうしているのであって、「評論や文学作品の表現にふさわしいから」そうしているのではありません。その目的をしっかりと押さえたうえで、形の上での模倣はそもそもの目的が違うのだから意味が無いのだ、と知っておいて欲しいところです。
 加えていっておきますと、ある人の表現を見れば、それが明言されていなくとも、その背後に正しい論理が潜んでいるかどうかは、見る目のある人ならば必ずわかります。わたしでも、学生の論文やレポートはもちろんですが、メールや話し方の中でさえ、その中にどれくらいのレベルの論理性が潜んでいるかはわかります。ですから、わざわざものものしい学問用語を持ち出さなくとも、あなたの論理性は常々見ていますので、心配無用です。むしろ、弁証法が技化する段階になれば、3つの法則は自らの認識の中に相互浸透した結果、一つの弁証法性として止揚されているのですから、わざわざ表明すること自体が、技化していないことを表明することにしかなりません。法則についての理解が正しいかどうかを確認したい場合には、括弧書きでするのがよいでしょう。その場合には、わたしとしても正否をお伝えしやすくなります。

◆◆◆

 さて、見苦しいところをお見せしました。評論の内実に触れてゆきましょう。
 この作品では、「兎の眼を移植された女が光を取り戻したのはいいものの、猟夫のことを恐怖するようになった」という逸話が紹介されています。筆者は、その理由というものに興味を持って、考察を巡らせているのです。
 筆者が手がかりとしているのはほかに、Lの発音を正確にするために西洋人の真似をしてタングシチュウ(牛の舌のシチュー)を食べる夫人の話、狐の襟巻きをした途端に急に狡猾になるマダムの話、色を白くするために烏賊(いか)のさしみを食べる映画女優の話です。それらがすべて女性についての話題であることから、筆者は、女性というものは「なんにでもなれる」のだ、といったん結論づけています。
 そうして最後に、そういえば人魚も女性しかいないということは、彼女たちははじめは人間であるものが、巨大な魚をたしなみを忘れて食べ過ぎた女性が、そのことが妙に心に残ってしまい、後悔の念と共に海に入ったものなのだと言います。筆者によれば、そこでの決定的な原因として、魚のことが心に残るということは、食べた魚が物質的に彼女の身体と同化をし始めてたからなのだ、ということなのです。

 ここでは筆者は、ある物質が人間に及ぼす影響を考えるに当たって、人間がその物質そのものよりも、その物質について持っている認識のあり方こそが、最も大きな影響を与えているのだ、ということを主張しているわけです。論者は、筆者が主張する影響の向きは一方的であるとして、その他の要因を考えてはいますが、人間の認識における交通関係「対象→認識→表現」を、生理学的な代謝にまで拡張して考えているために、正しい批判には至っていません。摂取した食料の色素が、肌の色にどれほど沈着するかなどは、その人間の生活全般を考慮しないことには無意味ですから、論者の理解できる範囲を大幅に超えているでしょう。筆者のものごとの見方が一面的であることは、「筆者のいちばん重視する原因が、最も決定的であるとはいえない」といった指摘を、論拠と共に明記すれば十分なのであって、自分も理解していない分野のことについてまで言及しようとする必要はありません。

 論証全体として、筆者の考察が一面的であることは、読者も認めるところでしょう。しかしそれは、筆者が意図的にそうしている部分がほとんどなのですから、そのことを指摘したとしても、決定的な批判にはなりえないのです。論者の論証が良くないのは、そのことに加えてさらに、理解していない事柄で批判しようとしていることです。自分の限界を踏まえた上での論証は、それがどんなレベルにとどまっていようとも、評価に値するものですから、無理な背伸びをしないようにお願いしておきます。
 ただ、あらゆるものごとは、現象としてみえる事柄を、原因と結果としてべったり平面的にくっつけても、なんらの真実には近づいてゆかないこと、森羅万象は立体的な構造を持っていることを指摘したいという気持ちだけは、理解できるところです。
 それとともに、限られた範囲では正しい理解も、適用する範囲を超えては誤謬に転化する、ということも、もういちど自らの姿勢について適用して反省しておいてください。そのことは皮肉なことに、論者の指摘している<相互浸透>なのでしたね。

◆◆◆

 作品の評論をするにあたっては、筆者が「女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。」などと述べていることを重要なキーワードとして読みといてゆかなければならないでしょう。現代における科学的な認識論からすれば、あらゆるところで筆者が踏み外しをしていることを認めるのは難しくありませんが、些事に言及していては、本質を掴みきれずに終わってしまいますからね。

◆◆◆

 ところで、仮にもまともに人間の認識の過程的構造を唯物論的に追うならば、気にならなければならない決定的な問題が、この作品には含まれています。その箇所は、「盲目の女が、兎の眼を移植されてその日から世界を杖で探る必要が無くなった」というところです。ここでは問題を明確に浮き彫りにするために、人間に兎の眼を移植することには成功した、としてください。つまり、それまでは盲目であった女性に、「物質的には」なんらの問題のない眼球が移植され、彼女は「物質的には」五体満足になったのだ、という仮定のうえで考えてみてください。わたしが括弧書きしたことには、それ相応の意味が隠されていることはわかりますね。そうすると、実際にこのような手術が行われ成功した場合、本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?と考えればいいことになります。ちょっとヒントを書きすぎてつまらないでしょうか。考えてみてください。

2011/04/11

文学評論:女人創造(修正)

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

毎日決められた生活と修練をしていると、季節の変化がよくわかるものです。
今年もそろそろ桜が淡く咲きはじめるころで、味気ないものになりがちな修練に彩りをそえてくれています。
とくに先週末は雨のなかひとり走っていたところでしたので、ちょっとしたご褒美のような気がしています。

ただそれと同時に、今年は震災の影響もあってか自粛ムードがあるとはいえ、
やはりこの時期の人の動きは安定感に欠けているようですね。
自動車や自転車の動きも必然的に不注意が増えてきますから、せめてご自分だけは注意に注意を重ねてください。
乗り物に乗っていると、いくら集中力がありどう警戒していても、ぶつかるときにはぶつかるものです。
こればかりはそもそも人間の力の及ぶところではないために、避けられません。
完璧に自動車・自転車事故を防ぐ方法はと聞かれれば、乗るのをやめるしかありません。

ただ心掛け次第では、重大な事故になることを防ぐことは十分にできます。
また日々同じように行動することを心がけている場合には、それがよい定点観察になることは確かです。
わたしの知り合いの送迎バスの運転手さんは、何十年も同じ夕焼けを楽しみに仕事をしており、
阪神大震災の前日のそれが、それまでとは違った色、おかしなサーモンピンク色だったとあとで述懐しておられました。
昔の武芸者が、自宅の茂みに潜む者の「殺気」を感じ取れたというのは、このこととも関連があるのです。

わたしたちはそうして、未来についての出来事に思いを巡らせるときに、
現在に起きている物事についての経験を積み重ねて、正しい判断の材料にすることができるわけです。
日常生活で得られる問題意識、前段階では「今日はなんだか違和感があるな」という感性的認識に、
いくつかの手がかりがあるときには、立ち止まってその徴候を考えてみる、ということも必要です。
わたしは自転車ツアーをしているときに、普段とは違ったサインが2つ続くときには、
一旦停まって周囲をしっかり観察することにしています。
たとえば動物が轢かれているとか、挙動不審な操者がいることなどあらゆることにわたる違和感ですが、
このおかげで大きな事故を数回免れてきています。
そういう意味では、事故を未然に防ぐのも、また問題意識である、ということができます。

春の陽気というものが、どういった現象となって顕れるのかということを、
良い面、悪い面をふくめた物事の両面から、意識的に見ることをとおして、
認識の力を自らの技として磨いていただければ嬉しく思います。

◆◆◆

さて、問題意識、問題意識と念仏のように唱えることが御題目となっているように見えてきつつある当Blogですが、
その内実が身につくためには、いくら意識的に磨こうと思っても、それ相応の時間が必要となってくるものです。
その原因はといえば、認識というものが「眼に見えない」ものなので、
特別な訓練を受けたものでないと、相手にそれがあるかどうか、
あるように思えたとしてもどのレベルのものを持っているのかなどが、
皆目検討もつかない、という極めて重要な問題を抱えているからです。

実際の仕事や人生経験を通して、「私は見る目には自信がある」という方ほど、
実のところ経験によって培われた感性的でしかない段階の認識にものをいわせることに始終しがちな人はいないのであり、
そしてまた、自分の特殊的な経験を、過度に一般化してあらゆるものへと無理に適応させようとする人はいないのです。
これはひとえに、訓練によって認識の力は伸ばせる、ということを、それこそ「経験」したことがないからです。

さてそのような方であれば、正しく進歩しようとする人間にとって欠かすことのできない謙虚さの代わりに、
自分の理論が通用しないのは現実が間違っているからだとの押しの強さや、
そもそもの人の意見を聞かないという態度を武器に、それなりの処世をすることができます。
しかし、その術を持たない学生さんたちは、ただひたすら学ぶしかありません。

◆◆◆

さあようやく、本題にたどり着きました。

「ただひたすら学び続けている」学生の一人に、いつも文学の評論を展開してくれているノブくんがおられます。
彼の専門とする分野が、読みづらい学術論文ではない文学作品であることも手伝って、
読者のみなさんのために、ここにてたたき台とさせてもらってきたわけです。
読者のみなさんは、わたしの彼への手厳しいにはほどがあるほどのコメントを見てきた方もおられますね。

そんな彼が、前回コメントしたことをうけて、修正版を書いてきてくれました。
彼は現在、やや活動が制限される状態にありますが、虚仮の一念でしょうか。

一読して、驚きました。
再読して、驚きが確かなものであることを確かめました。

ようやくここまで来たか、との感しきりです。おそらく、本人の感想は、わたし以上ではないかと思います。
細かな表現については修正の余地があれど、非常にうまいまとまり方をしています。

わたしひとりの愉しみにしておくのももったいないと思いますので、ここに公開します。


◆ノブくんの評論

女人創造(修正)

 「男と女は違うものである。」というごく当たり前の命題から、この作品ははじまります。と、いうのも著者は自身が作家であるために、違うものとは分かっていても、それを描かなければならない矛盾に悩まされています。そこで、著者はここで男である彼が女を描く手法を2つ挙げています。ひとつはドストエフスキイやストリンドベリイのように、女装をして理想の女性を描く理想主義的な方法。著者もこの手法を採用しています。そしてもうひとつは、秋江のように本当の女性を描こうとする、言わば現実主義的な方法を挙げています。ですが、著者は現実的な女性は男性読者にとってはつまらないものであり、理想的な女性の方がかえって彼らは反応する(自分が実は女性的な性格なのではないかという錯覚等)というのです。一体何故このような現象が起きてしまうのでしょうか。
 この作品では、<限られた範囲の中でしか現実を見ることができない読者の性質を利用した、著者のある作家としての手法>が描かれています。
 まず、私たちは現実の世界の出来事を見て、そして自分の頭の中に世界の像というものをつくりあげています。ですが、現実の世界を自分の頭にそのまま写すことはできません。私たちは限られた範囲の中でしか、現実をとらえることができないのです。ですから私たちは仕事で失敗をしますし、聞き間違いや言い間違いをします。
 そしてこの私たちの性質を、著者はよくとらえ利用した手法を採用していると言えます。何故なら、現実を一定の限界の中でしかとらえられないのなら、当然異性のことも限られた限界の中でしかとらえることができないからです。例えば男性である私たちは、少年時代に美しい女性を見て、美しい女性はなんの努力もせず、はじめから美しいのであると考えたことがあるのではないでしょうか。ですが青年になるにつれて、女性はすね毛を剃ったり、また眉毛をかいたりと弛まない努力によってその美しさを保っていることを知り、少年時代に考えていたことは幻想であったということを思い知ったことでしょう。
 そして小説は女性の中身が描かれています。外見ですら、女性に対して間違った認識を持っていた私たちです。ましてや目には見えない女性の内面に私たちは多くの幻想を抱いているはずです。だからこそ、男性読者を対象に女性を描くとき、その女性が現実的過ぎて読者の認識から離れ過ぎては、面白くないように思い、むしろその逆は面白く感じるのです。
 さてここまで話をすすめると、最後にある疑問が残るはずです。それは、「一体何故、秋江などの男性作家は一般の男性読者よりも現実の女性を知っているのか」ということです。それは彼らが常に、人間の内面に問題意識を向けているからなのです。例えば、ある塾講師は、生徒と少し話しただけで、その生徒がどのような家庭環境で育ち、これからどのように成長するのかがわかるといいます。またある整体師は患者の背中を少し触っただけで何処が悪いのか、また何故そうなったかまでわかるといいます。何故なら彼ら専門家は日頃から問題意識を持ち生活することで、自分たちのそういった技を常に磨いています。上記の塾講師は常に生徒のためを考え(その生徒をいかにして伸ばすか、今の指導法はこれでいいのか等)、日常を過ごしているといいます。確かに私たちは限られた範囲でしか現実をみることはできません。しかし、何らかの問題意識を持ち日常を過ごすことで、今まで見えなかったものが徐々に見えはじめ、自分の認識の限界をひろげていくことができるのです。

◆わたしのコメント

あまり、付け足して言うことがありません。

蛇足ながら説明をしておけば、「人間のアタマにうかぶ認識は、現実世界の反映である」という、
認識についての大命題がしっかり押さえられていることが、この評論を成功に導いています。
「命題をおさえる」というのは、どこかの偉人の台詞を丸暗記して、さも自分の考えのように吹聴してまわる、
ということとはまったく違います。
そうではなく、ある理論なり考え方なりを、アタマのなかに問題意識として持って、
「その問題意識をとおしてみると、現実はどのように見え、どのように考えられるだろうか」
と試行錯誤してみることです。

認識は対象とされる現実世界の「反映」であるというのは、
現実をそのままに写しとることはできない、ということです。
彼は今回、ここを起点にして、論証のあらゆる箇所がこの原則から導かれ、そしてまた論証のあらゆる箇所がこの原則に照らし返され収束してゆくということを、これまた意識的に表現してくれています。
もっと言えば、ここからさらに、「認識における像というものが、感情を含んだものとして結実している」というところにまで論を進められるのですが、さすがにそこまで立ち入る必要はないかと思います。

いちおう念を押して、「認識は対象の反映である」というのは、現在では認識についてのごく表層的な理解でしかありませんので、もっともっと複雑な構造が潜んでいることは指摘しておきたいと思います。
それでも彼は今回、原則をしっかり踏まえることの重要性を、自分の表現をもって体感したのも確かでしょう。
それは、今後の文学を専門とするときにも、人間としての生き方を創り上げてゆく時にも、大きな支えとなるものです。
彼はナイチンゲール『看護覚え書』を各章を要約しながら読んでいますから、そのことを想起されているのではないかと思います。

◆◆◆

この原則をおさえる、ということは、本来ならば学問をしているはずのところでも、あまりに軽視されてきています。

現実に社会科学系の大学や大学院での授業を受けたことがおありの方ならわかるとおり、
「書を捨てよ、フィールドに出よう」などといったことが、方法論の授業ですら、よく強調されることがあります。
要すると、「現実の在り方は歴史上様々に論じられてきており、ここが学府である以上、
(体面上)そういったことにも触れざるを得ないが、そんなことはさておき、はやく現実に向き当たって研究をせよ」ということです。

ところが、同君は、この評論をもって、そんな誤りに落ち込まず、
しっかりと自分の足で前に歩み始めているという意味では、つまらない研究者よりも上であると断言できます。
ある理論を、現実の生活や、そこでゆきづまっている事柄を解決するために「適用」する、ということができているからです。
人類が積み重ねてきた認識・論理についての最高の問題意識をアタマのなかにしっかりと持った上で現実に向き合い、それがどれほどに通用するのか、そしてまたどういった一部は通用しないのかを見極めて、理論をより発展させていこうとするのですから、
いわば、「書をアタマにしっかりと持って、書を通してフィールドを見る」ことができつつある、ということです。

これに比べれば、
上で挙げたような研究指針(?)などは、批判するのも馬鹿馬鹿しいほどの妄言というべきです。

そもそも、ごく一般的に頭を動かして身近な事柄で類推してみればわかるとおりのことですが、
大海に泳ぎ出るときに、泳法も学ばずに「とにかく泳げ」というのが、指導者たる役割でしょうか?
こんな妄言に踊らされているから、後進がなんらの指針も持つことができず右往左往するしかないことが、なぜわからないのでしょうか。
眼前に渦巻く海流を超えて、はるか遠くの島にまで泳ぎ着こうと思えば、犬かきではどうしようもないのです。
先達が命をかけ、ときには命を落としながらにでも残してくれた地図と、さらにはあらゆる物事の見方、という泳法が、
しっかりと自分の技として身についていなければ、浮輪の空気が抜けるまで波打ち際で漂っているのが関の山でしかない、
という残酷すぎるほど残酷な現実が待っているだけなのです。

夢や目標が高ければ高いほど、それにふさわしい方法論の構築が、必死になされなければなりません。そうですね?

◆◆◆

今回扱った評論について、
表現についての修正はこちらを参照してください。(PDFファイル

2011/04/04

文学考察: 女人創造ー太宰治

 久しぶりの更新です。


 この時期はなにしろ人の出入りが多いので、どうしても余分なところに時間を割かれてしまいます。わたしもそれにあわせて準備をしなければならないことにくわえて、今年はとくに生活を変えていることもあって、落ち着くまでにあと1ヶ月ほどかかってしまいます。
 その間更新が滞りますが、どうかご容赦ください。

 学生さんの持ち込みの研究や相談は随時お聞きしますので、遠慮しないでくださいね。どうしても時間が取れないときは正直に申します。


◆ノブくんの評論


「男と女は、ちがうものである。」という一文からこの作品ははじまります。これを自身でも当たり前とは感じつつも、著者はそれを作家として度々感じずにはいられない場面があることをここで述べています。それは一体どのような場面なのでしょうか。
この作品では、〈男性でありながら、作中で女性を書かなければならない作家の矛盾〉が描かれています。 
まず著者はくるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみるものの、そこに現実の女性との開きを感じ、悩んでいます。ですが不思議なことに、現実の女性を彼よりも上手く捉えているモオパッサンの作品はつまらないというのです。その一方で、男性読者が男性作家の現実とかけ離れた作品の中の女性に反応しているところに著者は注目しています。これは男性である著者が頭の中から取り出した、言わば男性的な女性像に男性読者は反応し、楽しんでいるのでしょう。ですから、男性読者は作品の中の女性にしばしば、自分は女性ではないのかと苦しめられるのです。
現実からかけ離れているからこそ、かえって男性読者には作品の中の女性が受け入れられるのです。


◆わたしのコメント

 この作品では、現実には男性でありながら、作中での女性の在り方を表現するために、どうしても自らが女性になりきって、それを作品として表現しなければならない作家の悩みが扱われています。

 ところでこう書くと、論者の一般性ともうまく一致しているように思えますが、筆者である太宰が、その方法について、明確に2つのやり方があると述べていることを、論者は指摘できていません。論者はその点で、作品の理解が浅いのです。

 では、その2つの方法とはいったいどんなものなのでしょうか。筆者の述べているところを、順を追ってみてゆきましょう。まず筆者のもつ前提としては、「男と女は、ちがうもの」、ということです。彼によればこの差異は明確なものなので、どうしても、男は女になりきることはできません。では何ならできるかと言うに、「男は、女になれるものではない。女装することは、できる。」ということです。その方法を採用するのが、筆者のやり方です。
 ドストエフスキイもストリンドベリイも、そのやり方を採用していて、彼らの作品のなかに登場する女性を見ていると、やはりそこには彼女らを表現している主体、つまり作者の工夫が見え隠れしているというのです。しかし、太宰によれば、そのことが必ずしも、作品の評価を落とすことにはつながらない、といい、やはり自らもそのやり方に倣おうとしています。なぜなら、現実にあるありのままの女性像を作品に写し取ろうとすると、かえって、それは読者のもつ女性像からかけ離れたものになってゆくのだ、というのです。だから筆者は、作品の中に描かれる女性の姿と、現実のそれに乖離があることを認めつつも、あえて読者のなかにある女性像を忠実に描こう、つまり「理想主義」に徹しようというのです。
 それが、彼が「女を描けないのではなくて、女を描かないのである。」と一言で述べていることの中身です。

 その立場に対して、もうひとつの立場は、ほんとうの女性像を描こうとする、「秋江(しゅうこう)」らの立場です。上で述べた筆者の主張を見ればわかるとおり、彼によれば、「秋江に出て来る女は、甚だつまらない。」ということになるわけですね。一言でいえば、「現実主義」や、「写実主義」ということになるでしょう。

 これら2つを明確に整理したのちに一般性として措定することができていれば、とりあえず合格点をあげられていたところでした。この整理をふまえた一般性がどういうものになるかは、いちど自分で考えてください。

◆◆◆

 論者は着眼点は悪くないのですが、「仮説を捉えて離さない」という姿勢に欠けているために、仮説が一般性へと昇華されることを拒んでいるように思われます。それは、ひとつに、「まず著者はくるしくなると~」からの4行の論証が、日本語表現だけを見てとっても極めて読みにくいものになっていること、ふたつには作品の整理が最後の一文に不明瞭な形でしか表現できていないという欠陥となって現象していることからも察せられます。
 前者については、一般の読者ならば2行目を読み進めたところで悪文とみなされ、その先は読み進んでもらえないほどのものですので、大いに反省し、一般読者の立場に立って読み返し、表現を工夫しなおしてください。論者がかつて書いたこの4行ぶんの文章の内容を踏まえた上で、この文章を「参照せずに」、新たにゼロから書きなおしてみてください。そうして、よりよい文章が書けるまで練り直すのです。近くでこういう細部を指摘してくれる人間がいない場合には、自らを師とするより外はないのですが、師の像に妥協があっては絶対にいけません。率直に言って、あなたが判断する「完璧」というものが、わたしにとってはいまだ「30点」くらいでしかないことを、肝に銘じてください。
 そういった精神的な姿勢と共に、身体的な姿勢も、日々の振る舞いから机に向かうときの姿勢も含めて、厳しく正してください。これを単なる根性論のレベルで受け取るほどでは、もはやないはずだと思っています。

◆◆◆

 もうすこし先まで進めて考えたい人にヒントを書いておきます。

 さてここまで整理が進むと、この作品がふくんでいる論理構造が見えてきます。この作品における筆者の主張を手がかりに考えてゆきましょう。それは一言で要すれば、「小説で描かれる女性は、現実的な表現よりも、理想に即した表現にするほうが、かえって本物らしく(=現実的に)なるものである」、ということなのでした。
 理想的に表現したほうが現実に近づく、というのは一つの矛盾ですが、ここにはある一つの論理が含まれています。そうすると、その理由とは一体なんでしょうか。ある作品を本物らしいとするのは、読者の認識がそうさせているからですね。そうすると、「その読者の受け取り方が、どのような性質を含んだものであるか」を説明できれば、それなりの答えが導き出せたということになりそうです。

 少しでも考えが進められたら、連絡してください。

2011/03/19

震災のボランティアについて

落ち着いたらボランティア行ってくる。



この前、個人的に会った何人かの学生さんにそう言ったら、
「私も」、「俺も」というお返事をいただいた。

わたしも阪神大震災に遭った人間だから、
そういう若い人たちの意欲を直接聞くとうれしくなるし、
表立って出さない人の中にも、「なにかできることがあるはずなのに…」
というやるせなさがくすぶっているのもわかる。
感受性の強い人のなかには、被災した人たちのことを思うあまり、
仕事がままらないほどになっている人もいる。

◆◆◆

しかし、である。

実際のところ、「震災」という言葉や、「ボランティア」という言葉の、
「肝心の中身」がどういうものなのかをあまり想像できていないのではないか、
と思われる節があるようにもとれる。

かといって、せっかくの意欲を頭ごなしに削ぐことだけは避けたいと思い、
また阪神大震災からの類推がどこまで通用するかがわからず、
具体的な指摘をせずにすませてしまった。


そういうわけで、わたしももっと知らなければと
いろいろと下調べをしていたら、こんなエントリーがあった。
個人サイトにも関わらず、コメントがあまりにも多くなったために、
もうじきサイトごと消滅してしまうらしいので、こちらに全文を転載した。

自分も何かしたい、と思っている人は、まず目を通してほしい。

◆◆◆


被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ~僕の浅はかな経験談~
阪神大震災が起きたとき、僕は高校3年生で、しかもセンター試験の翌日だった。
遠くから沢山のトラックが走ってくるような、不気味な音が夢うつつに聞こえ、気がつくと家全体が揺れていた。父親にたたき起こされて玄関を開け、ガスを閉めてTVをつけると、阪神高速が崩壊していた。家が揺れた恐怖と、テレビの実感の無さと、街中の静けさが記憶に残っている。
その日は登校してセンター試験の自己採点を行い、二次試験のための面談をしなければならなかった。僕は迷ったが、結局自転車で出発した。大阪城の堀から水が溢れ出していた。
学校に着くと全てがいつもどおりで、来ていない生徒もいたが、先生は特に何も言わなかった。粛々と自己採点し、粛々と面談が行われた。僕達の仲間で三宮と西宮に住んでいる友人がいたのだが、さすがに登校はしていなかった。昼休みに仲間3人で、二次試験が終わったらボランティアに行こうと話をしていた。
下校時刻になって、担任の物理教師がおもむろに話しだした。
「今回の震災で我校の教師や生徒も被災者となり、登校できない人がいます。センター試験が終わり、受験生としての役目を終えた人もいると思います。あなた方の中には、正義感や義侠心に駆られて現地に乗り込む人もいるでしょう。それは間違ったことではありませんが、正直に言えば、あなた方が役に立つことはありません。それでも何かの役に立ちたいという人は、これから言う事をよく聞いてください。
まず食料は持って行き、無くなったら帰ってくること。被災地の食料に手を出してはいけません。
寝袋・テントを持っていくこと。乾いた床は被災者のものです。あなたがたが寝てはいけません。
作業員として登録したら、仕事の内容がどうであれ拒否してはいけません。集団作業において途中離脱ほど邪魔なものはないからです。
以上の事が守れるのであれば、君たちはなんの技術もありませんが、若く、優秀で力があります。少しでも役に立つことがあるかもしれない。
ただ私としては、今は現地に行かず受験に集中し、大学で専門的な知識や技術を身につけて、10年後20年後の災害を防ぐ人材になって欲しいと思っています。」
言葉の端々は忘れてしまったが、教師が言いたかったことは今でもはっきり憶えている。
結局僕たちは、物理教師の言ったとおり、なんの役にも立たなかった。
配給のパンを配って回ったり、お年寄りの移動に付き添ったり、避難所の周りを掃除したり、雑用をさせてもらったが、持っていった食料は5日で尽きた。風呂には入らなかったが、寝るところは防犯上困ると言われて避難所の中で寝た。生活のインフラ整備や瓦礫除去作業は、消防や自衛隊があ然とするくらい力強く、迅速に問題を解決していった。僕達の存在は宙に浮き、遊び半分で来たボランティアごっこのガキ扱いをされていた。実際手ぶらで現地に入って、汚い仕事を嫌がるような若者はたくさんいたし、そういうグループと僕達が、能力的に大きな差があったかというと、とてもそうとは言えなかった。
僕達が現地で強く学んだことは、「何かして欲しい人」がいて「何かしてあげたい人」がいても、事態は何も前進しないということだった。人が動くためには、「人を動かす人」が必ず必要になる。社会人なら常識として知っている事さえ、僕たちは知らなかった。
僕達は現実に打ちひしがれて現地を離れ、浪人を経て京都の大学生になった。そして被災地への情熱も無くなっていった。結果的に僕達の正義感は、ハリボテだったのだ。正直に告白し、反省する。僕たちは、神戸への気持ちを、たった一年間も持続させる事さえできなかった。
今回の震災で、被災した人の役に立ちたい、被災地のために何かをしたい、と感じている若い人達がたくさんいると思う。でも慌てないで欲しい。今、あなた方が現地で出来ることは、何一つ無い。現地に存在すること自体が邪魔なのだ。今は、募金と献血くらいしか無いだろう。それでも立派な貢献だ。胸を張って活動して欲しい。
そして、是非その気持を、一年間、持ち続けて欲しい。もしも一年経って、あなたにまだその情熱が残っているなら、活躍できるチャンスが見えてくるはずだ。仮設住宅でのケアや被災者の心の病、生活の手助けなど、震災直後よりも深刻な問題がたくさん出てくる。そういった問題を解決するために、NPOなどが立ち上がるだろう。その時に初めて、被災地は「何も出来ないけど何かの役に立ちたいと思っている、心優しいあなた」を必要とするのだ。もしかするとそれが、あなたの一生を変える大きなきっかけになるかもしれない。
結局僕は紆余曲折を経てGISの技術者になり、専門分野は違っても、多少なりとも防災の分野に寄与できる立場に辿り着いた。あの頃よりも、少しは人の役に立てるようになったんじゃないかなと考えている。 
 ◆◆◆
2011/3/15 追記 
沢山の反響ありがとうございました。同じような経験をされた方もたくさんおられたようで、あの時感じた孤独感が今頃癒されております。
僕は上記のエントリーで一年は待ってみようと書きましたが、そんなに待たなくてもいいようです。すでにNGOなどの支援団体が、ボランティア受け入れに向けて動き出しているみたいですね。もちろん募集など具体的に動き出すのはまだ先になるでしょうが。
時間と体と情熱のある人は、そういった「人を動かす人」としっかり協力して、自分の能力を最大限に発揮して欲しいです。もちろん1年、2年、5年、10年スパンで細く長く復興を援助する気持ちもとても大切だと思います。

2011/3/17 追記
東日本大震災:ボランティアの情報共有へ組織…40団体
災害ボランティア情報まとめ

2011/3/18 追記
このエントリーおよびブログは3/23日で削除することにしました。
内容の誤解により今後のボランテイア活動を阻害する恐れが出てきたからです。
詳細は3/17のコメント欄を御覧ください。 

◆◆◆

あまり付け足すことはないのだが、
感情的に走って極端な読み方をしなければ、
この方の思いもよくわかるのではないかと思う。

現地に存在すること自体が邪魔なのだ。

という言葉の中から、
筆者がどのような意味を込めたのか、
どのような条件ではボランティアが不要になるのか、
と考えてみてほしい。

◆◆◆

加えて、
「阪神大震災と、東北大地震は違うのだ」
という、東北大地震の特殊性についての情報はこちらにある。

被災地に救援物資を! いま私たちに求められていること (4)

◆◆◆

また前回のエントリで触れた、
「自宅にいながらにしてできるボランティア」についてはこちら。

避難所で撮影された名簿を、テキストデータにしてデータベース化しようという試みである。
諸氏の活動によって、いまのところ大部分が作業完了しているようだが、
これからも新しい情報が出てくるはずなので、我こそはと思わん方は、協力をお願いしたい。

東日本巨大地震 - ボランティア

◆◆◆

さいごに、現地に行ってのボランティアについては、こちらを参考にして、
地元の自治体の動きを調べておいてほしい。

東北地方太平洋沖地震被災支援のボランティア窓口紹介


現地に向かう際に必要な準備などの情報については、
内閣府がパンフレットを用意してくれている。

パンフレットについて「地域の『受援力』を高めるために」

◆◆◆

今回の震災のボランティアについて、TVや雑誌をはじめ、
TwitterやFacebookなどのあらゆるメディアで、識者のコメントがある。


そのなかでやはり目立つのは、「素人ボランティア不要論」なるものである。
たしかに、一口に「ボランティア」と言っても、
卓越したスキルを持つ専門家が担当するものも少なくない。

しかし、あらゆる意味で素人のボランティアは
手助けになるどころかむしろ邪魔だから、存在する価値すら無い、
と言った意見はあまりに極端である。


似たようなところに、「自己満足のためのボランティアは止めろ」と言った言葉もある。
しかし、ボランティアに携わる人間が、まったく自己満足を覚えていないとは言えまい。
たしかにほめられるため「だけ」にボランティアに行くなとは言えるが、
そのことを指摘して、自分の意欲に自己満足が含まれているかも知れないと自省するだけの力のある若者の意欲を、無下に削ぐことが正しいことだとは言えない。

◆◆◆

震災のレポートなどしか目を通したことのない形而上学者は、
まともに現実に目を向けずに机上でこういった暴言を吐きがちであるが、
そんな戯言に耳を貸して、せっかくのやる気を萎縮させる必要はない。

こういった暴言も、よく調べもしないボランティア信者も、
同じ姿勢の両極端でしかないことが、
仮にも学者ならば、いや人間ならば、なぜわからないのか。


プロほどの専門知識がなくても、自分のことを徒手空拳でも助けに来た人間を
まるで無価値だと切って捨てるほど、人間は落ちぶれてはいない。

しかしだからといって、先程のエントリにもあったとおり、
限られた現地の物資を、ボランティア自身が浪費してよいわけがない。


あらゆるものごとには、それが正しいための条件があり、正しくなりうる範囲がある。

そこに東北大地震の特殊な状況を加味すれば、
「どういった条件であれば、ボランティアとして人の役に立ちうるか」
という像が描けてくるはずである。

ある段階では、とにかく人手が必要になるフェーズが来るのであるから、
「なにかできることがあれば」と考えている学生さんは、
そのときのために、いまはできることをやりながら情報を収集して、その像をしっかりと深めておいてほしい。わたしもそうする。

そうしていれば、あなたの力は、必ず必要になります。

2011/03/18

一般常識としての日本精神史

仕事ばかりしている。


ペンを止めたらいろいろ考えちゃうんだもの。
ともあれ、自宅にいながら、震災にあった人たちのためにできることはあるのだ。

それはあとで紹介するとして、放ったらかしにしていたやりかけの仕事をとりあえず終わらせたので、ここに置いておきます。

タイトルにも書いたとおり、一般常識としての日本精神史。
以前に、高校生の学生さんと話すときに、下調べしたものの清書だ。


一般常識としての日本精神史(PDF)

お持ちの家庭用プリンタではA4にしかプリント出来ないだろうから、
とりあえずプリントしたあと、コンビニのコピー機なんかでA3に拡大(約1.4倍)するとよさそう。
2枚組ですので、切って貼ってつなげてくださいな。

◆◆◆

「一般常識として」と断ったのは、
あまり複雑な変遷を書き入れると、いろいろと入れなくちゃいけないことが増えるので、
それを大雑把に省略してしまったからだ。

そういうわけで、これは「流れを読む」という意味での「系譜図」にはなっていない。
あくまでも、「大人ならこれくらい知っておいてほしい」という「知識的」なものである。

いつものことばで言い換えるなら、
これでは「歴史性」、「歴史的な論理性」はまるで読めない、ということだ。

◆◆◆

高校の倫理の教科書に載っているものを参考にしたので、
ジャンルとしては、宗教、思想・哲学、文学、文化運動などをふくんでいるが、
それなりに本を読む習慣のある方ならば、どこかで目にしたことのある人間ばかりであると思う。

わたしはいつも論理、論理、と言っているが、
これくらいの知識は最低限ないと、論理的に考えることすらできないと思う。
というのは、論理は知識を媒介としてしか学べないからである。
もっと言うと、歴史的な流れをみるときにも、やはり最低限の知識は必要ということだ。

◆◆◆

ともあれ、これ言っちゃっていいのかどうかわからないが、
参考にした倫理の教科書、なんか曲解まみれでなんとも言えない気分になった。

曰く。
「ヘーゲルの弁証法は正・反・合であり」、
「ソクラテスは正義を貫いた人である」。
などなど。

知っている範囲に限っても、間違いだらけではないか。

後者は解釈の違いとぎりぎりいえる範囲かもしれないが、
前者などは、ヘーゲル『哲学史』を読んでいないと言っているようなものだ。
だって、正・反・合ってのは、ヘーゲルがカントの弁証法を批判的に扱って表現したことばなんだもの。
読んだことのない本を紹介しちゃマズイよねえ。

まあ、こういうのはどっかのダイジェストになったものを、
またダイジェストにしてるからこんな体たらくなのかもしれないが、
紹介された本人も、安らかではおれるまい。

◆◆◆

というわけで、わかる範囲で、曲解を正しておいた。
ついでに、「なんでこの人入ってないの」って人は勝手に書き加えた。

補足・修正はほぼ全項目に渡っているから、すべてについて簡単には下調べしているが、
ほかにも、細かなところでは誤りが含まれているかもしれない。
もっとも、ある偉人の全生涯を一言でまとめているのだから、
読者にとっては誤解の種などはごろごろと転がっているようなものである。

そのほかにも、「〇〇派」に属すと見做されている当人が、
そのカテゴライズを嫌がっている場合もある。
しかしそんな主張をいちいち聞いていると、もはや学派分類がまったく意味をなさなくなるから、知っていてもあえて一緒くたにしてしまった。


というわけで、まともに勉強しようという方は、
眺めるだけじゃなくて、それぞれの項目を簡単にでも調べ直しておいてください。

これがひととおり学習し終えたら、さっさと個別の学問に移りましょうね。
これくらいを知っていても、「近所の物知りおじさん・おばさん」レベルでしかありませんので。

少年老いやすく、というわけです。

2011/03/16

東北大地震

被災者のみなさまに


心からのお見舞いを。

いまのわたしにできることを、しっかり探して参ります。

◆◆◆


Google Crisis Response:東日本巨大地震(東北地方太平洋沖地震)

NY Times: 地震の前後での衛星写真

2011/03/08

文学考察: 母ー芥川龍之介

文学考察: 母ー芥川龍之介


ノブくんが復帰されたようですので、さっそく見てゆきましょう。

この前のエントリで言ったように、あと2作品ほどはわたしが評論するつもりでしたが、
彼が早くに復帰されましたので、本人の手に委ねます。

そのほうが、他の読者にも益になると思いますので。

実のところ、「たたき台」の存在は、認識が進化してゆく過程では非常に有益なのです。
古くはギリシャ時代のソクラテス、身近なところでは禅問答の禅者が、
彼らの話し相手、それぞれソフィストや禅問答の考案者なくしては、
あれほどの、いわば頭脳の運動性を身につけることができなかったことを思えば実感としてよくわかるのではないでしょうか。

これを一人のアタマの中でやるのは、とても大変ですし、もしできたとしても、
同じくらいのレベルの他者同士でやるのとは、まるっきり効率が違うのです。

ともあれ「議論」というのが、テレビで政治家なんかがやっているようなレベルや、
就職活動のディベートレベルのものしか想起できなければ、なかなか理解しがたいところではありますが。
あれらがなんの進展ももたらさないのは、「結論ありきで罵り合っているだけ」で、
まるで議論と呼べるシロモノではないから、ただそれだけの話です。

議論とは、互いの立場は違っても、ともに真理へと近づいてゆこう、
という目的だけは共有されていなければなりません。
不意打ちしてでもとにかく勝ちという既成事実がほしいのであれば、別のところでやるべきです。


さてわたしとしては、まともに仕合ってくれる友人を見つけるのがうまくないので、
いまはこうして、「敵」を作っている段階、ということになります。
ここを見に来てくれる読者のみなさんは、よきたたき台ノブくんの立場に立って、
いつかコメント者に渾身の一撃を見舞わんとする主体性と志を持って読み進めてください。

間違っていてもまったくかまいませんので、思うところある方は、ぜひとも教えてください。
わたしはそういう人が大好きです。
そういう姿勢で臨めば、わたしのコメントも、たたき台の役割をはたすようになってくるはずです。

では始めましょう。


◆ノブくんの評論◆

 ある上海の旅館に泊まっている野村夫婦は、以前に子供を肺炎で亡くしており、以来妻の敏子は密かに悲しみに暮れていました。そして、その悲しみは隣の家の奥さんの子供の泣き声を聞くことで膨らんでいる様子。ですが、やがて野村夫婦が上海から引っ越した後、その隣の奥さんも子供を風邪で亡くしてしまいます。そして、それを知った敏子は自身のある人間的に汚い部分を垣間見ることになるのです。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈相手の気持ちが分かるために、かえって相手が落ちたことを喜ばずにはいられないある母たちの姿〉が描かれています。
まず、物語の中で上記のあらすじの問の答えであり、私が挙げた一般性の貫く箇所が2箇所あります。下記がそれに当たります。

女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房
の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」

ひとつは隣の奥さんが敏子との会話の中で、その感想を表しているもの。そして、もうひとつが子供を亡くした奥さんから手紙を受け取り、現在の心情を敏子が吐露しているものです。上記に共通していることは、「同情」という言葉であり、これは相手の気持ちになって考えていることが出来ている証拠でもあります。そして、その次の言葉に私たちは目を疑うはずです。何故なら、相手が苦しんでいる一方でなんとその状況を喜んでいるというのです。さて、何故彼女たちは相手の気持ちを理解しているにも拘らず、それを喜ぶことができるのでしょうか。それは彼女たちが相手の気持ちに入り込んだ後、自分の気持ちに戻り比較しているからにほかなりません。そうして彼女たちは、相手が自分の立場に届いていないことに優越を感じ、或いは自分と同じ立場に立ったことに対して喜びを感じているのです。
ですが、今回の作品では相手の気持ちを知り、自分の立場にかえってくることが悪い形で作用していますが、その運動自体はとても重要なことです。例えば、一流のホステスなんかは一度相手の気持ちに入り込み、その現在の気持ちや心情を知り、自分の立場に戻った後、自分に何をするべきなのかを考え、話題を変えたりおしぼりを渡してあげたりするのもです。
それでは、この母たちの問題は何処にあったのかと言えば、それは彼女たちの運動(相手の気持ちに入り込み、自分の立場に戻ってくること)そのものが悪かったのではなく、その後の受け止め方が悪かったことが例と比較することで理解できるはずです。彼女たちがもっと「相手のために私たちができることは」と考えていれば、お互いに相手も自分自身も傷つけるような真似はせずに、助けあうことができたかもしれないのです。


◆わたしのコメント◆

 はじめに評しておきますと、キーワードとして引用した2箇所は、まさにこの作品の要諦をとらえており、適切です。そのおかげで、あらすじが要所をおさえたものとなり、その最後の問いかけに本論で答えていけるという、形式上の正しさにつながっています。ただ一般性の言語表現については、大筋は誤っていないものの、「落ちた」の目的語が的確に設定されていないため、読者に不明瞭な印象を与えるでしょう。当該箇所を、たとえば「相手が大事なものを失くしたことを」、または「相手が大事な赤ん坊を亡くしたことを」(漢字が違うことにも注意してください)などとするほうがよさそうです。

 さて論者は、本論の中で、相手の感情を自分のアタマの中に写しとるという、いわゆる「観念的二重化」について論じています(余談ですが、この堅苦しい言葉は、あくまでも説明の時の便宜を計って用いている専門用語ですから、論者が「評論」中でこれを使わずに、日常言語での説明をしたことは評価しています)。この過程をたどるときには、認識が直接目には見えないものであるだけに、まずは相手のしぐさやふるまいなどを表現として見てとることになります。そこを手がかりとして、言い換えれば表現を媒介として、相手の認識を手繰り寄せるようにしながら、自分のアタマの中にそれを像として描いてゆくわけです。この作品で言えば、「女」が「敏子」を観念的に二重化し(二節)、また「敏子」が「女」を観念的に二重化する(三節)形で展開されてゆくのですから、論者の指摘は正当です。しかし、加えて言うならば、その指摘は、ある者がある者への観念的二重化、という単層構造に留まっており、ここに多重性があることを明確に捉えきれていません。
 言い換えれば、論者は、観念的二重化ののちに、自分の立場に戻って、対象化された相手の感情を思いやるかどうかは選べるのだと述べていますが、これほどまでの「感情のねじれ」がなぜ起こるのかについては、うまく説明できていないのです。たとえば単純にケンカをするときにでも、「ただぶたれたか」、「ぶってからぶたれたか」、また「ぶってからぶたれたか」、「ぶたれてからぶったか」では、あとで許すかどうかという判断に差が出るでしょう。

 三節をみるとたしかに「敏子」は「女」に観念的二重化を行っているのですが、そこでの「女」というものが、かつて「敏子に観念的二重化をしていた『女』」である、ということを指摘しなければ、この物語を正しく理解することはできないのです。両者が経験した出来事は独立ではなく、関わり合いを含んだものですから、それが同じような経験であったとしても、どちらが先にそれを経験していたのかは、物語を理解するにあたって欠かすことのできない重要な要素となってきます。そのことを理解するために、いちど物語を整理してみましょう。

◆◆◆

3つの節からなるこの作品を現象面から整理しておくと、このようになります。
一 子供を病で失った「敏子」は、隣の部屋から子供の泣き声を聴く。
二 隣の部屋の「女」と出会い、敏子は「女が産んだ赤ん坊」を目の当たりにする。
三 後日、敏子は隣の部屋の女が、自分と同様に子供を亡くしたことを知る。

そこを、感情面について整理すると、このようになります。
一 「敏子」は、隣の赤ん坊の声を聴いて、自分が亡くした赤ん坊を思い出し辛く思う。
二 「敏子」は、「女」と「女が産んだ赤ん坊」を見て、自分が亡くした赤ん坊を思い返し辛く思う。
 「女」は、「敏子」が子供を亡くしたことを知り、気の毒に思うと共に、浮き上がってくる得意の感情を隠しきれない。(女から敏子への二重化)
三 「女」は、子供を亡くし、その旨「敏子」に手紙を出す。「その時の私の悲しさ、重々御察し下され度」とある。
 「敏子」は、「女」が子供を亡くしたことを知り、気の毒だとは思うが、嬉しさが込み上げてくる。(敏子から女への二重化)

◆◆◆

 論者の指摘した2つの引用箇所は、それぞれ二、三節に含まれているものです。
 まず二節での、「女が敏子に」観念的二重化をしたところを見てみましょう。

 「女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。」

 ここでは、「女」は「敏子」が子を亡くしたことを知り、同情しながらも、彼女とは違って自分の子どもはこうして乳を吸っている、という「得意の情」を隠しきれない様子が描かれています。ここでは、「敏子」が「女」の感情を察知したかどうかまでは書かれていませんが、「得意の情は、どうする事も出来なかった」という表現を見れば、少なからず「敏子」も、「女」の感情を見て取っていると判断するのが自然でしょう。ここで「敏子」は、同じ子を持ったことのある母親として、「女」から、表向き同情されつつも得意げな表情をのぞかせた雰囲気で接せられたのだと、おさえておいてください。

◆◆◆

 話を三節に移しましょう。そんな「敏子」はといえば、ある年月が立った後、「眼だけ笑いながら」手紙を夫のものとより分けているおり、「女」からの自分宛の手紙に気づきます。それには、こうありました。子どもが風邪をこじらせて死んだ、と。それを夫に読み聞かせた敏子は、こんな反応をします。

 「敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い眉をひそめた。が、一瞬の無言の後、鳥籠の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢な両手を拍った。」

 申し添えておきますと、「神経的」な反応、つまり意識的ではない一文目に対して、二文目は意識的な、「感情的」な反応であることをおさえておいてください。彼女は、「お隣の赤さんのお追善」なのだと言いながら、手の届かないところにある鳥籠をとるために、ハムモックで休む夫を起こそうとまでするのです。それも、「烈しい幸福の微笑」を浮かべながら。もはやここまで読めば、読者の疑念は確信へと変わります。彼女は間違いなく、「女」へ、憎悪に近い嫉妬を隠してきており、それが堰を切ってなだれ出てきたのだと。

 「敏子」にここまでの感情をもたらした原因を探ってみれば、敏子の感情を揺さぶっているのは、過去の経験によるものなのだとわかります。そこでは彼女が、単に、「女が敏子に観念的二重化をした」のとは逆に「敏子が女に観念的二重化をした」だけではない、ことに気付かされるはずです。いわば、「敏子が『かつて自分自身に観念的二重化をした女』に観念的二重化をした」のです。敏子からすれば、「女」が純粋な同情の念の他に、隠しきれない一物を抱えていることを読み取っていたわけですから、自分がこんなに悲しみにくれているのに、この女は私を理解したふりをして、得意になっているところさえあるのではないか、という感情が暗に渦巻いていたのです。
 そこに、「女」が自分と同じ境遇になったとの報せが入ったのですから、「敏子」の感情が、二節で「女」が感じたものよりも、ずいぶんねじれて増幅された形で表出していることがわかるでしょう。ここに潜む二重性によって、「あのときの貴方は、私のほんとうの気持ちを理解してはいなかっただろう、それがいまわかっただろう」という感情が加味されてくるからです。

◆◆◆

 ここまで、やや冗長に思えるほどに述べてきましたが、理解してもらえたでしょうか。当たり前のことをなぜにこれほどくどくど解体して理解しなければならないかと言えば、このような短編ならいざしらず、長編ともなると、人物の感情の揺れ動きは、さらに複雑なものとなってくるからです。文学作品に限らず、ドラマの中軸となる人間模様というものは、幾重にも渡る構造が横たわっているために、いわば必然的に複雑になってゆかねばならないわけです。この作品に照らしていえば、主人公である「敏子」は最終的に、「女」にたいしてこのような感情を描いて物語は終幕となっています。

 「私と同じように子供を亡くした貴女であれば、あの時の私の感情を思い知っただろう。あの時私は、自分の子供を失ったばかりでなく、その傷跡を貴女の子の泣き声や子を愛おしむ姿によって想起させられるという、二重の苦しみを受けていたのだ。あの時に貴女が私の苦しみについて理解していたのは、前者だけだったであろうが、私と同じ境遇になった今の貴女であれば、そこに後者の苦しみが加えられていることを、身にしみて思い知ったはずだ。」

 読者は、「敏子」の夫と同じように、彼女の中に「何か人力に及ばないもの」を見いだすほどに、恐ろしいものを感じ取るでしょう。著者が、『母』というタイトルに込めた幾重もの意味は、ここにあります。
 この短編ですら、ここまで複雑な人間模様になっているのですから、長編ともなれば、また実生活で齢を重ねた人間であれば、それぞれの感情を持つに至ったきっかけなどを解きほぐして理解しようとすれば、易しいはずがないのも頷けるのではないでしょうか。そこでは、登場人物の感情が重層構造を持っていることをおさえておかねばなりませんし、それに付随する要因として、複数の人物が同じ体験をするときにでも、その順番が厳しく問われる、ということなのです。物語を評するときに、「心理描写が浅い」、「登場人物の言動が軽い」。「動機が薄弱で感情移入できない」などと言われることがありますが、それは、こういった感情における重層構造を描ききれていないからなのです。とくにいったん創作活動したあと、それを対象化しての見直しの段階では、どうしても飛ばせないプロセスになってくることを知っておいてください。逆に、それができさえすれば、これほどのリアリティをもって迫ってくるのですよ。

 ともあれ、論者の人間心理の構造についての理解は、第一歩としては申し分ないものであり、「理解の仕方」そのものとしては、至極真っ当なものです。復帰第一回目がこれだけのものであることは、率直に嬉しく思います。


【正誤】
・行初めの一マス空け
→フォーマットをリッチテキストにしてからコピー&ペースト

・ですが、今回の作品では相手の気持ちを知り、自分の立場にかえってくることが悪い形で作用していますが、
…一文の中での「が」の連続は、読者に文脈が伝わりづらくなるため避けるべき

・例えば、一流のホステスなんかは
→「なんか」は口語。文語は「など」。今回の文脈からすれば、「なんかは」→「などにもなると」などが適切か。

・話題を変えたりおしぼりを渡してあげたりするのもです。