2011/04/13

文学考察:女人訓戒ー太宰治


女人訓戒ー太宰治

◆ノブくんの評論

著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すようになったのでしょうか。
この作品では、〈対立物の相互浸透のある一面〉が描かれています。
まず著者の主張では、「兎の目は何も知らない。けれども、兎の目を保有していた彼女は、猟夫の職業の性質を知っていた。兎の目を宿さぬ以前から、猟夫の残虐な性質に就いては聞いて知っていたのである。(中略)彼女は、家兎の目を宿して、この光る世界を見ることができ、それ自身の兎の目をこよなく大事にしたい心から、かねて聞き及ぶ猟夫という兎の敵 を、憎しみ恐れ、ついには之をあらわに回避するほどになったのである。」というものでした。恐らく、著者はそこから、兎の目が人間の性格の一面をつくっている、と主張したいようです。事実彼はこの後に、その根拠を述べるべく、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソードを綴っています。
ですが、著者が法則の性質の一面しか捉えることが出来ていないため、その論証自体に大きな欠点が二点あります。その一点目は、互いに浸透し合っているものを上手く結べていない、または根本的に見誤っているということです。著者は兎の目を持った女が、猟夫を恐れるのは、兎の眼を大事にしていた為と説明していますが、果たしてそうでしょうか。そもそも女性は兎の目を移植されたために生まれてはじめて、世界を自分の目で見ることが出来るようになったのです。そんな彼女が突然、猟銃という凶器にもなりうるものを持った男を見たらどう思うでしょうか。更にそれが狩りの最中であれば、その目つきに恐れるもの無理のない話ではないでしょうか。こう考える方が、兎の目を持ったことによりそれを大事に思うようになったために、猟夫を恐れるようになったと考えるよりは説得力があるはずです。また、タンシチューの女性のエピソードでは、タンシチューを週二回食べることにより、体の細胞が変化し英語が喋れる様になったということも可笑しな話です。確かに西洋人の食べ物を食べることにより、肉体が西洋人になっていくことは多少はあるでしょうが(食べ物が人間をつくる)、それ以上に毎日英語を喋っているので、舌が英語の発音に慣れ、変化していったと考える方が自然というものです。
次に二点目ですが、これは、兎の目からという流れは説明されていますが、その逆が説明されていないことにあります。これは兎の例は上記にもあるように根本から違うため、狐の襟巻きの女性の話を取り上げ説明することにしましょう。確かに事実はどうであれ狐という言葉を聞いて私たちは、嘘をつく、狡猾な動物であるというイメージを持っています。そしてそういった動物の襟巻きを身につけることによって、彼女が自分のイメージをつくり上げ、そういった人物になっていくことは十分に考えられます。ですが、もとからそういう人物が狐の襟巻きを着ることによって、狐にそういったイメージが付きまとうことだってあるはずです。例えば、あるモデルが全くお洒落ではないドレスを見事に着こなしていれば、そのドレスも「成程、お洒落である」と感じ、そのドレスが流行することだってあります。よって、狐の襟巻きが女性をつくっていると同時に、その女性もまた狐のイメージを作り上げているのです。
以上が、著者が見落としていた法則の一部始終となります。法則というものは何と何がくっついているのかが重要なのではなく、どのような流れでどう繋がっているのかが重要なのです。


◆わたしのコメント

 一ヶ月ほど前の評論ですので、すでに注意したことが訂正されていない場合もあるため、今でなら直せるかもしれないところを再び注意するような箇所がありますが、ご了承ください。

◆◆◆

 まず指摘しておきます。文学作品の一般性に、「対立物の相互浸透」などというものものしい用語を使ってはいけません。自分の認識がどういうものなのかは人によって様々ですが、常々言っているとおり、それはアタマのなかにだけ持っていればいいものなのであって、わざわざ表明することが評価の対象になるわけでは決してありません。たとえば、生物が環境に適応するのも夜の月が明るく見えるのも相互浸透なのだと言ったからといって、読者はそうかなるほどと、それは理解の助けになったと評してくれるでしょうか。わたしがコメントの中で、あえて弁証法の法則を明言しているというのは、論者や読者にとって、「論理力の修練の上で役に立つから」そうしているのであって、「評論や文学作品の表現にふさわしいから」そうしているのではありません。その目的をしっかりと押さえたうえで、形の上での模倣はそもそもの目的が違うのだから意味が無いのだ、と知っておいて欲しいところです。
 加えていっておきますと、ある人の表現を見れば、それが明言されていなくとも、その背後に正しい論理が潜んでいるかどうかは、見る目のある人ならば必ずわかります。わたしでも、学生の論文やレポートはもちろんですが、メールや話し方の中でさえ、その中にどれくらいのレベルの論理性が潜んでいるかはわかります。ですから、わざわざものものしい学問用語を持ち出さなくとも、あなたの論理性は常々見ていますので、心配無用です。むしろ、弁証法が技化する段階になれば、3つの法則は自らの認識の中に相互浸透した結果、一つの弁証法性として止揚されているのですから、わざわざ表明すること自体が、技化していないことを表明することにしかなりません。法則についての理解が正しいかどうかを確認したい場合には、括弧書きでするのがよいでしょう。その場合には、わたしとしても正否をお伝えしやすくなります。

◆◆◆

 さて、見苦しいところをお見せしました。評論の内実に触れてゆきましょう。
 この作品では、「兎の眼を移植された女が光を取り戻したのはいいものの、猟夫のことを恐怖するようになった」という逸話が紹介されています。筆者は、その理由というものに興味を持って、考察を巡らせているのです。
 筆者が手がかりとしているのはほかに、Lの発音を正確にするために西洋人の真似をしてタングシチュウ(牛の舌のシチュー)を食べる夫人の話、狐の襟巻きをした途端に急に狡猾になるマダムの話、色を白くするために烏賊(いか)のさしみを食べる映画女優の話です。それらがすべて女性についての話題であることから、筆者は、女性というものは「なんにでもなれる」のだ、といったん結論づけています。
 そうして最後に、そういえば人魚も女性しかいないということは、彼女たちははじめは人間であるものが、巨大な魚をたしなみを忘れて食べ過ぎた女性が、そのことが妙に心に残ってしまい、後悔の念と共に海に入ったものなのだと言います。筆者によれば、そこでの決定的な原因として、魚のことが心に残るということは、食べた魚が物質的に彼女の身体と同化をし始めてたからなのだ、ということなのです。

 ここでは筆者は、ある物質が人間に及ぼす影響を考えるに当たって、人間がその物質そのものよりも、その物質について持っている認識のあり方こそが、最も大きな影響を与えているのだ、ということを主張しているわけです。論者は、筆者が主張する影響の向きは一方的であるとして、その他の要因を考えてはいますが、人間の認識における交通関係「対象→認識→表現」を、生理学的な代謝にまで拡張して考えているために、正しい批判には至っていません。摂取した食料の色素が、肌の色にどれほど沈着するかなどは、その人間の生活全般を考慮しないことには無意味ですから、論者の理解できる範囲を大幅に超えているでしょう。筆者のものごとの見方が一面的であることは、「筆者のいちばん重視する原因が、最も決定的であるとはいえない」といった指摘を、論拠と共に明記すれば十分なのであって、自分も理解していない分野のことについてまで言及しようとする必要はありません。

 論証全体として、筆者の考察が一面的であることは、読者も認めるところでしょう。しかしそれは、筆者が意図的にそうしている部分がほとんどなのですから、そのことを指摘したとしても、決定的な批判にはなりえないのです。論者の論証が良くないのは、そのことに加えてさらに、理解していない事柄で批判しようとしていることです。自分の限界を踏まえた上での論証は、それがどんなレベルにとどまっていようとも、評価に値するものですから、無理な背伸びをしないようにお願いしておきます。
 ただ、あらゆるものごとは、現象としてみえる事柄を、原因と結果としてべったり平面的にくっつけても、なんらの真実には近づいてゆかないこと、森羅万象は立体的な構造を持っていることを指摘したいという気持ちだけは、理解できるところです。
 それとともに、限られた範囲では正しい理解も、適用する範囲を超えては誤謬に転化する、ということも、もういちど自らの姿勢について適用して反省しておいてください。そのことは皮肉なことに、論者の指摘している<相互浸透>なのでしたね。

◆◆◆

 作品の評論をするにあたっては、筆者が「女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。」などと述べていることを重要なキーワードとして読みといてゆかなければならないでしょう。現代における科学的な認識論からすれば、あらゆるところで筆者が踏み外しをしていることを認めるのは難しくありませんが、些事に言及していては、本質を掴みきれずに終わってしまいますからね。

◆◆◆

 ところで、仮にもまともに人間の認識の過程的構造を唯物論的に追うならば、気にならなければならない決定的な問題が、この作品には含まれています。その箇所は、「盲目の女が、兎の眼を移植されてその日から世界を杖で探る必要が無くなった」というところです。ここでは問題を明確に浮き彫りにするために、人間に兎の眼を移植することには成功した、としてください。つまり、それまでは盲目であった女性に、「物質的には」なんらの問題のない眼球が移植され、彼女は「物質的には」五体満足になったのだ、という仮定のうえで考えてみてください。わたしが括弧書きしたことには、それ相応の意味が隠されていることはわかりますね。そうすると、実際にこのような手術が行われ成功した場合、本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?と考えればいいことになります。ちょっとヒントを書きすぎてつまらないでしょうか。考えてみてください。

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