2011/04/11

文学評論:女人創造(修正)

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

毎日決められた生活と修練をしていると、季節の変化がよくわかるものです。
今年もそろそろ桜が淡く咲きはじめるころで、味気ないものになりがちな修練に彩りをそえてくれています。
とくに先週末は雨のなかひとり走っていたところでしたので、ちょっとしたご褒美のような気がしています。

ただそれと同時に、今年は震災の影響もあってか自粛ムードがあるとはいえ、
やはりこの時期の人の動きは安定感に欠けているようですね。
自動車や自転車の動きも必然的に不注意が増えてきますから、せめてご自分だけは注意に注意を重ねてください。
乗り物に乗っていると、いくら集中力がありどう警戒していても、ぶつかるときにはぶつかるものです。
こればかりはそもそも人間の力の及ぶところではないために、避けられません。
完璧に自動車・自転車事故を防ぐ方法はと聞かれれば、乗るのをやめるしかありません。

ただ心掛け次第では、重大な事故になることを防ぐことは十分にできます。
また日々同じように行動することを心がけている場合には、それがよい定点観察になることは確かです。
わたしの知り合いの送迎バスの運転手さんは、何十年も同じ夕焼けを楽しみに仕事をしており、
阪神大震災の前日のそれが、それまでとは違った色、おかしなサーモンピンク色だったとあとで述懐しておられました。
昔の武芸者が、自宅の茂みに潜む者の「殺気」を感じ取れたというのは、このこととも関連があるのです。

わたしたちはそうして、未来についての出来事に思いを巡らせるときに、
現在に起きている物事についての経験を積み重ねて、正しい判断の材料にすることができるわけです。
日常生活で得られる問題意識、前段階では「今日はなんだか違和感があるな」という感性的認識に、
いくつかの手がかりがあるときには、立ち止まってその徴候を考えてみる、ということも必要です。
わたしは自転車ツアーをしているときに、普段とは違ったサインが2つ続くときには、
一旦停まって周囲をしっかり観察することにしています。
たとえば動物が轢かれているとか、挙動不審な操者がいることなどあらゆることにわたる違和感ですが、
このおかげで大きな事故を数回免れてきています。
そういう意味では、事故を未然に防ぐのも、また問題意識である、ということができます。

春の陽気というものが、どういった現象となって顕れるのかということを、
良い面、悪い面をふくめた物事の両面から、意識的に見ることをとおして、
認識の力を自らの技として磨いていただければ嬉しく思います。

◆◆◆

さて、問題意識、問題意識と念仏のように唱えることが御題目となっているように見えてきつつある当Blogですが、
その内実が身につくためには、いくら意識的に磨こうと思っても、それ相応の時間が必要となってくるものです。
その原因はといえば、認識というものが「眼に見えない」ものなので、
特別な訓練を受けたものでないと、相手にそれがあるかどうか、
あるように思えたとしてもどのレベルのものを持っているのかなどが、
皆目検討もつかない、という極めて重要な問題を抱えているからです。

実際の仕事や人生経験を通して、「私は見る目には自信がある」という方ほど、
実のところ経験によって培われた感性的でしかない段階の認識にものをいわせることに始終しがちな人はいないのであり、
そしてまた、自分の特殊的な経験を、過度に一般化してあらゆるものへと無理に適応させようとする人はいないのです。
これはひとえに、訓練によって認識の力は伸ばせる、ということを、それこそ「経験」したことがないからです。

さてそのような方であれば、正しく進歩しようとする人間にとって欠かすことのできない謙虚さの代わりに、
自分の理論が通用しないのは現実が間違っているからだとの押しの強さや、
そもそもの人の意見を聞かないという態度を武器に、それなりの処世をすることができます。
しかし、その術を持たない学生さんたちは、ただひたすら学ぶしかありません。

◆◆◆

さあようやく、本題にたどり着きました。

「ただひたすら学び続けている」学生の一人に、いつも文学の評論を展開してくれているノブくんがおられます。
彼の専門とする分野が、読みづらい学術論文ではない文学作品であることも手伝って、
読者のみなさんのために、ここにてたたき台とさせてもらってきたわけです。
読者のみなさんは、わたしの彼への手厳しいにはほどがあるほどのコメントを見てきた方もおられますね。

そんな彼が、前回コメントしたことをうけて、修正版を書いてきてくれました。
彼は現在、やや活動が制限される状態にありますが、虚仮の一念でしょうか。

一読して、驚きました。
再読して、驚きが確かなものであることを確かめました。

ようやくここまで来たか、との感しきりです。おそらく、本人の感想は、わたし以上ではないかと思います。
細かな表現については修正の余地があれど、非常にうまいまとまり方をしています。

わたしひとりの愉しみにしておくのももったいないと思いますので、ここに公開します。


◆ノブくんの評論

女人創造(修正)

 「男と女は違うものである。」というごく当たり前の命題から、この作品ははじまります。と、いうのも著者は自身が作家であるために、違うものとは分かっていても、それを描かなければならない矛盾に悩まされています。そこで、著者はここで男である彼が女を描く手法を2つ挙げています。ひとつはドストエフスキイやストリンドベリイのように、女装をして理想の女性を描く理想主義的な方法。著者もこの手法を採用しています。そしてもうひとつは、秋江のように本当の女性を描こうとする、言わば現実主義的な方法を挙げています。ですが、著者は現実的な女性は男性読者にとってはつまらないものであり、理想的な女性の方がかえって彼らは反応する(自分が実は女性的な性格なのではないかという錯覚等)というのです。一体何故このような現象が起きてしまうのでしょうか。
 この作品では、<限られた範囲の中でしか現実を見ることができない読者の性質を利用した、著者のある作家としての手法>が描かれています。
 まず、私たちは現実の世界の出来事を見て、そして自分の頭の中に世界の像というものをつくりあげています。ですが、現実の世界を自分の頭にそのまま写すことはできません。私たちは限られた範囲の中でしか、現実をとらえることができないのです。ですから私たちは仕事で失敗をしますし、聞き間違いや言い間違いをします。
 そしてこの私たちの性質を、著者はよくとらえ利用した手法を採用していると言えます。何故なら、現実を一定の限界の中でしかとらえられないのなら、当然異性のことも限られた限界の中でしかとらえることができないからです。例えば男性である私たちは、少年時代に美しい女性を見て、美しい女性はなんの努力もせず、はじめから美しいのであると考えたことがあるのではないでしょうか。ですが青年になるにつれて、女性はすね毛を剃ったり、また眉毛をかいたりと弛まない努力によってその美しさを保っていることを知り、少年時代に考えていたことは幻想であったということを思い知ったことでしょう。
 そして小説は女性の中身が描かれています。外見ですら、女性に対して間違った認識を持っていた私たちです。ましてや目には見えない女性の内面に私たちは多くの幻想を抱いているはずです。だからこそ、男性読者を対象に女性を描くとき、その女性が現実的過ぎて読者の認識から離れ過ぎては、面白くないように思い、むしろその逆は面白く感じるのです。
 さてここまで話をすすめると、最後にある疑問が残るはずです。それは、「一体何故、秋江などの男性作家は一般の男性読者よりも現実の女性を知っているのか」ということです。それは彼らが常に、人間の内面に問題意識を向けているからなのです。例えば、ある塾講師は、生徒と少し話しただけで、その生徒がどのような家庭環境で育ち、これからどのように成長するのかがわかるといいます。またある整体師は患者の背中を少し触っただけで何処が悪いのか、また何故そうなったかまでわかるといいます。何故なら彼ら専門家は日頃から問題意識を持ち生活することで、自分たちのそういった技を常に磨いています。上記の塾講師は常に生徒のためを考え(その生徒をいかにして伸ばすか、今の指導法はこれでいいのか等)、日常を過ごしているといいます。確かに私たちは限られた範囲でしか現実をみることはできません。しかし、何らかの問題意識を持ち日常を過ごすことで、今まで見えなかったものが徐々に見えはじめ、自分の認識の限界をひろげていくことができるのです。

◆わたしのコメント

あまり、付け足して言うことがありません。

蛇足ながら説明をしておけば、「人間のアタマにうかぶ認識は、現実世界の反映である」という、
認識についての大命題がしっかり押さえられていることが、この評論を成功に導いています。
「命題をおさえる」というのは、どこかの偉人の台詞を丸暗記して、さも自分の考えのように吹聴してまわる、
ということとはまったく違います。
そうではなく、ある理論なり考え方なりを、アタマのなかに問題意識として持って、
「その問題意識をとおしてみると、現実はどのように見え、どのように考えられるだろうか」
と試行錯誤してみることです。

認識は対象とされる現実世界の「反映」であるというのは、
現実をそのままに写しとることはできない、ということです。
彼は今回、ここを起点にして、論証のあらゆる箇所がこの原則から導かれ、そしてまた論証のあらゆる箇所がこの原則に照らし返され収束してゆくということを、これまた意識的に表現してくれています。
もっと言えば、ここからさらに、「認識における像というものが、感情を含んだものとして結実している」というところにまで論を進められるのですが、さすがにそこまで立ち入る必要はないかと思います。

いちおう念を押して、「認識は対象の反映である」というのは、現在では認識についてのごく表層的な理解でしかありませんので、もっともっと複雑な構造が潜んでいることは指摘しておきたいと思います。
それでも彼は今回、原則をしっかり踏まえることの重要性を、自分の表現をもって体感したのも確かでしょう。
それは、今後の文学を専門とするときにも、人間としての生き方を創り上げてゆく時にも、大きな支えとなるものです。
彼はナイチンゲール『看護覚え書』を各章を要約しながら読んでいますから、そのことを想起されているのではないかと思います。

◆◆◆

この原則をおさえる、ということは、本来ならば学問をしているはずのところでも、あまりに軽視されてきています。

現実に社会科学系の大学や大学院での授業を受けたことがおありの方ならわかるとおり、
「書を捨てよ、フィールドに出よう」などといったことが、方法論の授業ですら、よく強調されることがあります。
要すると、「現実の在り方は歴史上様々に論じられてきており、ここが学府である以上、
(体面上)そういったことにも触れざるを得ないが、そんなことはさておき、はやく現実に向き当たって研究をせよ」ということです。

ところが、同君は、この評論をもって、そんな誤りに落ち込まず、
しっかりと自分の足で前に歩み始めているという意味では、つまらない研究者よりも上であると断言できます。
ある理論を、現実の生活や、そこでゆきづまっている事柄を解決するために「適用」する、ということができているからです。
人類が積み重ねてきた認識・論理についての最高の問題意識をアタマのなかにしっかりと持った上で現実に向き合い、それがどれほどに通用するのか、そしてまたどういった一部は通用しないのかを見極めて、理論をより発展させていこうとするのですから、
いわば、「書をアタマにしっかりと持って、書を通してフィールドを見る」ことができつつある、ということです。

これに比べれば、
上で挙げたような研究指針(?)などは、批判するのも馬鹿馬鹿しいほどの妄言というべきです。

そもそも、ごく一般的に頭を動かして身近な事柄で類推してみればわかるとおりのことですが、
大海に泳ぎ出るときに、泳法も学ばずに「とにかく泳げ」というのが、指導者たる役割でしょうか?
こんな妄言に踊らされているから、後進がなんらの指針も持つことができず右往左往するしかないことが、なぜわからないのでしょうか。
眼前に渦巻く海流を超えて、はるか遠くの島にまで泳ぎ着こうと思えば、犬かきではどうしようもないのです。
先達が命をかけ、ときには命を落としながらにでも残してくれた地図と、さらにはあらゆる物事の見方、という泳法が、
しっかりと自分の技として身についていなければ、浮輪の空気が抜けるまで波打ち際で漂っているのが関の山でしかない、
という残酷すぎるほど残酷な現実が待っているだけなのです。

夢や目標が高ければ高いほど、それにふさわしい方法論の構築が、必死になされなければなりません。そうですね?

◆◆◆

今回扱った評論について、
表現についての修正はこちらを参照してください。(PDFファイル

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