この時期はなにしろ人の出入りが多いので、どうしても余分なところに時間を割かれてしまいます。わたしもそれにあわせて準備をしなければならないことにくわえて、今年はとくに生活を変えていることもあって、落ち着くまでにあと1ヶ月ほどかかってしまいます。
その間更新が滞りますが、どうかご容赦ください。
学生さんの持ち込みの研究や相談は随時お聞きしますので、遠慮しないでくださいね。どうしても時間が取れないときは正直に申します。
◆ノブくんの評論
「男と女は、ちがうものである。」という一文からこの作品ははじまります。これを自身でも当たり前とは感じつつも、著者はそれを作家として度々感じずにはいられない場面があることをここで述べています。それは一体どのような場面なのでしょうか。
この作品では、〈男性でありながら、作中で女性を書かなければならない作家の矛盾〉が描かれています。
まず著者はくるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみるものの、そこに現実の女性との開きを感じ、悩んでいます。ですが不思議なことに、現実の女性を彼よりも上手く捉えているモオパッサンの作品はつまらないというのです。その一方で、男性読者が男性作家の現実とかけ離れた作品の中の女性に反応しているところに著者は注目しています。これは男性である著者が頭の中から取り出した、言わば男性的な女性像に男性読者は反応し、楽しんでいるのでしょう。ですから、男性読者は作品の中の女性にしばしば、自分は女性ではないのかと苦しめられるのです。
現実からかけ離れているからこそ、かえって男性読者には作品の中の女性が受け入れられるのです。
◆わたしのコメント
この作品では、現実には男性でありながら、作中での女性の在り方を表現するために、どうしても自らが女性になりきって、それを作品として表現しなければならない作家の悩みが扱われています。
ところでこう書くと、論者の一般性ともうまく一致しているように思えますが、筆者である太宰が、その方法について、明確に2つのやり方があると述べていることを、論者は指摘できていません。論者はその点で、作品の理解が浅いのです。
では、その2つの方法とはいったいどんなものなのでしょうか。筆者の述べているところを、順を追ってみてゆきましょう。まず筆者のもつ前提としては、「男と女は、ちがうもの」、ということです。彼によればこの差異は明確なものなので、どうしても、男は女になりきることはできません。では何ならできるかと言うに、「男は、女になれるものではない。女装することは、できる。」ということです。その方法を採用するのが、筆者のやり方です。
ドストエフスキイもストリンドベリイも、そのやり方を採用していて、彼らの作品のなかに登場する女性を見ていると、やはりそこには彼女らを表現している主体、つまり作者の工夫が見え隠れしているというのです。しかし、太宰によれば、そのことが必ずしも、作品の評価を落とすことにはつながらない、といい、やはり自らもそのやり方に倣おうとしています。なぜなら、現実にあるありのままの女性像を作品に写し取ろうとすると、かえって、それは読者のもつ女性像からかけ離れたものになってゆくのだ、というのです。だから筆者は、作品の中に描かれる女性の姿と、現実のそれに乖離があることを認めつつも、あえて読者のなかにある女性像を忠実に描こう、つまり「理想主義」に徹しようというのです。
それが、彼が「女を描けないのではなくて、女を描かないのである。」と一言で述べていることの中身です。
その立場に対して、もうひとつの立場は、ほんとうの女性像を描こうとする、「秋江(しゅうこう)」らの立場です。上で述べた筆者の主張を見ればわかるとおり、彼によれば、「秋江に出て来る女は、甚だつまらない。」ということになるわけですね。一言でいえば、「現実主義」や、「写実主義」ということになるでしょう。
これら2つを明確に整理したのちに一般性として措定することができていれば、とりあえず合格点をあげられていたところでした。この整理をふまえた一般性がどういうものになるかは、いちど自分で考えてください。
◆◆◆
論者は着眼点は悪くないのですが、「仮説を捉えて離さない」という姿勢に欠けているために、仮説が一般性へと昇華されることを拒んでいるように思われます。それは、ひとつに、「まず著者はくるしくなると~」からの4行の論証が、日本語表現だけを見てとっても極めて読みにくいものになっていること、ふたつには作品の整理が最後の一文に不明瞭な形でしか表現できていないという欠陥となって現象していることからも察せられます。
前者については、一般の読者ならば2行目を読み進めたところで悪文とみなされ、その先は読み進んでもらえないほどのものですので、大いに反省し、一般読者の立場に立って読み返し、表現を工夫しなおしてください。論者がかつて書いたこの4行ぶんの文章の内容を踏まえた上で、この文章を「参照せずに」、新たにゼロから書きなおしてみてください。そうして、よりよい文章が書けるまで練り直すのです。近くでこういう細部を指摘してくれる人間がいない場合には、自らを師とするより外はないのですが、師の像に妥協があっては絶対にいけません。率直に言って、あなたが判断する「完璧」というものが、わたしにとってはいまだ「30点」くらいでしかないことを、肝に銘じてください。
そういった精神的な姿勢と共に、身体的な姿勢も、日々の振る舞いから机に向かうときの姿勢も含めて、厳しく正してください。これを単なる根性論のレベルで受け取るほどでは、もはやないはずだと思っています。
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もうすこし先まで進めて考えたい人にヒントを書いておきます。
さてここまで整理が進むと、この作品がふくんでいる論理構造が見えてきます。この作品における筆者の主張を手がかりに考えてゆきましょう。それは一言で要すれば、「小説で描かれる女性は、現実的な表現よりも、理想に即した表現にするほうが、かえって本物らしく(=現実的に)なるものである」、ということなのでした。
理想的に表現したほうが現実に近づく、というのは一つの矛盾ですが、ここにはある一つの論理が含まれています。そうすると、その理由とは一体なんでしょうか。ある作品を本物らしいとするのは、読者の認識がそうさせているからですね。そうすると、「その読者の受け取り方が、どのような性質を含んだものであるか」を説明できれば、それなりの答えが導き出せたということになりそうです。
少しでも考えが進められたら、連絡してください。
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