2010/12/20

年末年始のごあいさつと文学考察: 世界的―太宰治(修正版) 02

前回の続きです。

「思想」と「哲学」の区分について、
「弁証法のほんとうの有用性とはどういうものか」、
「新しい立場を標榜する学問主義が陥りがちな一般的な誤り方とはどういうものか」
などについてはここに記しておきました。

◆◆◆


 ここまで論じてくると、こういった反論がありそうです。

 「そうは言えるかもしれないが、一つ目の現象にも<相互浸透>は働いているし、二つ目の現象にも<量質転化>は働いているはずだ。その証拠に、日本と比較せねばヨーロッパのキリスト精神の理解度はわからなかったのだし、友人の理解というのも、幼い頃からの蓄積があってこそではないか。どちらにも含まれている法則を、それぞれ片方ずつ取り上げるのは恣意的であろう。」

 ここまで明確ではないにしろ、「そこまで細かいことを指摘しなくても…」や、「日本の誇る文豪になんということを…」といった、感情的な違和感や反論はありえることです。

 ただここで指摘していることは、学問的な「論理性」から見たもののわけですから、文豪といえど、学問的な修練を経ていない人間にそれほどの論理性がなくても、実のところそれほど驚くべきことではありません。太宰の見方は、ある現象と他の現象のあいだに「共通点」を見て取っているだけで、その論理性を深く追求した上で、同じ論理を含む現象を同列に論じているわけではありません。つまり、「学問」のレベルには達していない、ということです。加えて、「論理性」というものは、人類が培ってきた「過程性」にこそ、その根拠を有するものなのですから、仮にも時代を前に進めるつもりならば、階段を踏み違えるわけにはゆかないのです。そういうわけで、重箱の隅をつついているわけではありません。
ここまでが、ありうるはずの感情論への、学問の立場からのご説明です。


 そうことわったうえで、太宰の物事の見方が思想レベルでしかない、というのは、以下の理由によるものです。まず、あらゆる現象の現在の形態だけを見てとって、その過程性を看過して論じることは、論理という名では呼べないものなのです。それは言ってみれば、「思想」レベルの解釈でしかないのであって、そういった知識をいくら増やしたところで、体系には決してなってゆきません。そのことはつまり、それが「学問」ではない、ということを示しています。

◆◆◆

 わたしは前に、こういうことを指摘しました。(移転する前のブログのエントリーですね)

 ヘラクレイトスが「同じ川に二度入ることはできない」、「万物は流転する」と言い、
鴨長明が「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」と言い、
仏陀が「諸行無常」と言ったのを空海が「いろはにほへとちりぬるを」と言い、
ヘーゲルが「世界は絶対精神の自己運動だ」と言ったという、
時代的に現れたものを、ずらっと横並びにして論じても、学問的にはなんの意味もありません。

 そういう類似性だけを指摘して、人間はいつの時代も同じだ、
などと言った瞬間に、その主張は学問の道を踏み外し、思想でしかなくなったことになります。

 あくまで学問の立場を堅持しようとするなら、
その発言が、感性的な認識でしかないのか、
人間の認識を定式化したものなのか、
森羅万象を法則化したものなのか、といったふうに、
それがいかなる論理性によるものなのかをこそ、とらえていなければなりません。

◆◆◆

 いわゆる研究者を自認する者の中にも、論理を見て取ることをせずに、極めて常識的なところにとどまった見方しかできない人間は少なくないのです。しかし学問をしているふりをしながら、単に目の前の現象を他とは違った角度で解釈しているにすぎない研究というものを、許すことはできません。こうした解釈を現実に押し付けるだけの研究は、その見方が現実のあり方になんらの影響を与えない、空想的なものにとどまっている場合には誰を傷つけもしませんが、それが現実に力を及ぼすとなった途端に、ただちに害をもたらします。

 このような文脈でいえば、弁証法を使った探求の中で最も重要であるのは、論理性が、「どのようなレベルなのか」を見極めることにある、ということです。そうであれば、手当たり次第に目の前の現象に3つの法則が当てはまることを見つけて、ここにもあそこにも、同じ法則が当てはまっている!と喜んでいても、なんらの進展も見込めないというものです。
 言い換えれば、論理によって現象を一般化するという作業は、なにも「物事を浅く、大雑把に捉えるため」にしているのではなくて、それとは反対に、「物事に潜む法則性を、より深く探求してゆくため」にこそ、必要なことなのです。

◆◆◆

 弁証法が、森羅万象の理解のために人類が持ち得た最高の論理性である、というのは、あくまでも、「その論理性を以てすれば、あらゆるものを<つっこんで>考えてゆける」、という意味においてなのであって、「その論理が森羅万象に遍く存在する」ことを指摘したところで思考停止するためにあるのではない、ということに注意しなければなりません。言い換えれば、ある現象と別の現象を一般化したあとで、そこに共通の論理性が働いていることを主張したからと言って、なんら新しい発見をしたことにはならないのです。

 繰り返しますが、弁証法を用いたものの見方においてもっとも重要なのは、弁証法という論理に照らして物事を見て、つっこんで考えたときに、その現象の中に、どういうレベルの論理が働いているかということを指摘することです。
 ですから、たとえば、「結婚した友人が、夫婦関係を長く続けるうちに、妻の口癖がうつって来た」という現象と、「革の加工は木の加工よりも、革の持つ柔軟性に助けられてやりやすいものとなっている」という現象をみて、ここには「対立物の相互浸透」という法則がともに働いている、と指摘することは、修練の段階ならまだしも、積極的な意味はないのです。
 こんな説明を、弁証法を知らない人が聞いて、「そうかなるほど、深い見方をしているものだ」と思うでしょうか。それとも、「こいつはなにか怪しげな宗教にでも入ったか。そんな当たり前のことにぶつぶつと自前の法則を押し付けて、自慢気に語るなどとは…」と思うでしょうか。

 ほとんどの場合は後者の反応でしょうから、続いてこういう批判が成り立つことを許すのが落ちというものです。「弁証法、弁証法などという人間は、どこにでも弁証法が働いているというが、結局指摘できるのはこの程度のことなのか。そうすると、弁証法などというなんの役にも立たないものは、さっさと棄ててしまったほうが、研究を前進させるのには都合が良さそうだ…」。

 つまりこういう言い方では、弁証法を駆使したことにはならないどころか、それが最も否定するはずの、単なる解釈の域を出ないわけです。繰り返しますが、弁証法はあくまでも、物事に潜んでいる論理のレベルを正しく評価できるところにまで高まっていなければ積極的な意味は出てきません。初心の段階では、身の周りの事柄に、3つの法則を当てはめてつぶさにみてゆくことが必要ですが、それはあくまでも出発点に過ぎません。ですから、今回論じたことのように、より深い論理は隠されていないか、という姿勢を常に持ち続けてください。

◆◆◆

 さいごに大前提に還れば、人類の文化というものは、脇道にそれることはあっても、長い年月で見れば間違いなく質的に進化を遂げているのです。その「流れ」がなければ、「論理」というもの自体がありえません。それを無視して、価値中立論や相対主義などを標榜したところで、それは歴史性を踏まえる努力を放棄するための逃げ口上でしかありません。そのことがわかっていてはじめて、わたしたちにできることは、自らが脇道にそれることを、最大の自制心と自省の念でもって防ぎ、歴史に新たな第一歩を、との努力であると意識できるはずです。
(余談ですが、哲学・科学史上に現れたところの、観念論・唯物論という二大世界観を超えてゆく(?)ことを目指すならば、それらを感情的に捨て去ったりいきなり統合しようとするのではなくて、せめてそれらの生成と発展の過程を慎重に検討した上で、それらそれぞれが主張することに耳を傾け、そこから見える世界を見聞きし、互いが高めあっていったという歴史的な経緯から論理を引き出したことをふまえて、それをさらに否定の段階へまで高めてゆくことが、唯一の方法論であるということくらいわかってほしいものです。「ヘーゲルは熱病者」だとか、「マルクスは死んだ」ということは、彼らに「自分の手で」引導を渡してからでしか、言うことができません。)

◆◆◆

 いろいろと盛り込んだせいで長くなりましたが、論者には、わたしの常々指摘している内容を、単に口真似したり無批判になぞらえる姿勢を改めて、自らの言葉でもって、作品を論じる日が、一日でも早く来ることを願っています。(裏をかえせば、論者はいま、そういう段階になりつつある、ということです。ただ批判をしたくてしているのではありません。)そうするには、論理性への心がけはまだしも、知識的な習得がなおざりになってはいけません。常々批判されている原因として、数少ない手持ちの知識をつなぎ合わせるところに無理があるのだ、と理解すべきです。論理性の正しさを論証するのにも、自らの専門の道についての、深く、広い理解が伴っていなければなりません。

 これは論者だけではなく、この記事を読まれている読者をはじめ、わたし自身への戒めでもあります。ここでは個別の知識については深く触れられませんから、論理的習得のほかに、自らの専門の知識的な習得を怠る事のないようにと誓ってください。専門的な分野での論理的な分析は、そこで武器とされている弁証法との相互浸透によって、互いに高められてゆくものです。論理と知識は、手段や表現を問わず、あらゆる仕事について、自らの得意なことで万人の幸せを願うなら、当然に必須の条件なのですから。

年末年始のごあいさつと文学考察: 世界的―太宰治(修正版) 01

年末ですね。


メールが溜まりに溜まっているのはわかっているのですが、ぜんぜん返信できてません。

メールも返さずにこんなところにいそいそと書き込みをするとは何事だ、
と叱られるかもしれませんが、わたしの優先順位は、
学生>その他の親しいみなさん=じぶん
ということになっておりますので、あしからずご了承ください。

メールそっちのけでここに記事を書いているのは、
幅広い読者に通用する事柄はここに書いてしまったほうが、
個別の連絡にも対応しやすいからです。


そういうわけで、
とにかく文字ばかり書いていて休日も何もあったものではなく、
このままだと年末年始もまともにやってきません。

なのでメールで個別に問い合わせのあった内容も、
文学修行へのコメントと合わせて解答することにします。

◆◆◆

以下は、もともとノブくんの修行
文学考察: 世界的―太宰治(修正版)
へのコメントとして用意したものですが、
最近わたしに、論理のお話などで連絡をくださった方への
間接的・直接的な答えにもなっていますから、
とくに後編02を中心に、ざっと目を通していただけると幸いです。

評論のもととなっている作品はこちら。


でははじめます。

◆◆◆

◆ノブくんの評論

 著者はあるヨーロッパ人が書いたキリスト教についての本を読んだのですが、あまり感服できず、どうもこの本を書いた人物は聖書を深く読んでいないのではと考えている様子。そこから彼は、何故この本の著者が聖書を深く読んでいないのかを考えはじめます。そして彼はそこから〈身近にあると、ものの価値がかえってわからない〉という一般性を導きだしました。ですが、これは一体どういうことなのでしょうか。
 例えば、わたし達は普段何気なく行っている「歩く」と言う動作。わたし達はこの動作をひとつの動きとして見ています。ですが、これを分解していくつかの工程に分けてみましょう。すると下記のようになります。

右足を上げる。この時バランスが崩れるので、左足に体重を乗せながら上げる。
十分左足に全体重が乗り安定したら、右足を前へ出す。そして左足に乗っている体重をゆっくりと右足へと持っていく。
右足を前につける。次第に体重が右の足へと徐々にかかってくる。
ある程度体重が右にかかると今度は左足を前に出す。
そして右足に体重をかけたまま左足を右足よりも前に出す。
徐々に右にあった体重を左足に乗せていき、足をつける。

そして、実際にこれを意識しながら歩けばどうなるでしょうか。今まで自然にできていたことが何処か不自然になり、歩きにくさを感じることでしょう。これはわたし達にとって歩くという動作をごく当たり前に行ってきましたが、ここでその動作を分解することにより、動作を行う際の留意点が多く存在することに気づき意識しました。すると今まで流れとして見えていたものが、個々として見え、かえってその動作を困難にしてしまったのです。
 話を作品に戻すと、このヨーロッパ人の著者にも同じことが言えます。恐らく彼の国ではキリスト教が生活と密着しており、だからこそ個々としてみることが中々出来ず、その価値を見出すことが出来なかったのです。


◆わたしのコメント

 「ヨーロッパの近代人が書いた『キリスト伝』を二、三冊読んでみて、あまり感服できなかった。」という書き出しで、この随筆は始まります。そこでの筆者の主張というものは、以下のようなものです。

 関連本を見るに、キリスト教を生んだヨーロッパの地において、そこで育った人物のキリスト教についての知識は、それほど深いものではないようである。日本人から見てそう言えるということは、キリスト教を異国のものとして輸入し、熱心に探求してきた過程を持った私たち日本人のほうが、いつのまにかヨーロッパの理解を追い抜いたとさえ言えるのではなかろうか。そういえば、外国の新刊本にも私の友人が出ていたことがある。キリスト精神の理解を見ていると、いまに日本は同様にして他分野へも理解を広げ、世界の文化の中心になるかもしれないと思える。そうすると、日本で有数であるということは、世界でも有数である、ということができるだろう。あまり身近にいるものは、その真価がわからないものだ。


 筆者である太宰の主張は単純ながら、明確な論理を持っています。

 彼は、大きく分けて2つの現象の中に、共通点を見て取っています。ひとつに、仏教に親しんだ日本人と同じく、「キリスト教に親しんだヨーロッパ人には、骨肉化したゆえに自分の馴染んだ思想をうまく説明することができない」、という現象。二つ目は、「自分の友人が実は世界有数であることに、身近すぎて気付かなかった」、という現象です。
 これら2つの現象に、筆者は、「身近すぎるものは、かえってその真価がわからないものだ」、という共通点を見いだし、最後に提示しているわけです。論者も筆者の主張に乗る形で、この共通点に着目したあと、「人間が『歩く』という動作」についての考察を展開しています。

◆◆◆

 しかし、これは本当に確かな論理性に基づいているのでしょうか。今回は初心の段階から脱するために、すこし突っ込んでみてゆきましょう。これまでには触れてこなかったことを指摘してありますから、姿勢を正して読み進んでいただけると幸いです。

 わたしが上の段落でまとめておいた、太宰の論拠とした二つの現象のうち、一つ目を見てください。論理に光を当てると、その内容は、こうなります。「幼少の頃からの量質転化によって身についた思想は、それが自然成長的であるがゆえに、量質転化を経たあとでは、かえって明確に言語化しにくいものだ」。ここには、<量質転化>のひとつのあり方が示されています。

 では二つ目はどうでしょうか。その内容の論理性を強調してみると、こうなります。「友人の外国での評価を見ると、それまで自分の中にいだいていた友人像とは違ったものであることが、比較対象が与えられてはじめて浮き彫りとなった」。こう整理すると、ここで働いているのは、<対立物の相互浸透>である、ということになりますね。


 もしこの整理が正しいのだとすると、太宰が2つの現象に見出した共通点は、どういう位置づけにあったのでしょうか。彼は間違っていたのでしょうか。それとも、正しかったのでしょうか。結論から言えば、その両方です。ある意味では間違っており、ある意味では正しかったわけです。では、どういう意味で間違っていたのかを一語で言えば、「筆者の論理性が足りなかったために過程を捉えそこねた」、ということになります。それを立ち入って検討してみましょう。

◆◆◆

 筆者である太宰は作品の終盤に、こう格言めいたことを言っています。「あまり身近かにいると、かえって真価がわからぬものである」、と。

 彼が2つの現象を見て、こういった表面上の共通点しか見いだせなかった理由は、以下のとおりです。

 まず彼は一つ目の現象を見るにあたって、「幼少から馴染んだ思想は、本人には自覚されにくい」ということにだけ着目しています。ところが、その結論を見ることだけに始終して、その過程に踏み込めませんでした。つまり彼は、その結果が「思想は、幼少の頃から育まれてきたことで培われた」、という過程性を持ったものであるとは気づかなかったわけです。
 そうすると、彼の眼には、その一つ目の現象と、二つ目の現象「友人が日本有数であるということに、彼が友人ゆえに気付かなかった」が、同等の現象であるというふうに映ります。

 これらを総合してみると、太宰は、「真価がわからぬ」という表現のなかに、「量質転化によってわからなくなっている」という構造と、「比較対象がないためにわかっていなかった」という、性質の異なる論理構造の二つを混同して含めてしまっているわけです。そういった、違った構造を持つ現象を、その過程性を見過ごして混同してしまったがために、その理由を「身近だから」としか言えなかった、ということになります。

◆◆◆

 また論者の誤りというのも、筆者のまとめた共通点を、一般性レベルのものだと過大評価しすぎたために、自らこの作品の論理性を点検しなかったことに由来しています。加えて言えば、論者の指摘したことは、「運動というものは、矛盾そのものである」、という弁証法の大命題を一般的に指摘したに過ぎませんから、例として的確なものとは言えないでしょう。

 評論を名乗るなら、せめて太宰の論理的な誤謬を指摘せずとも、新渡戸稲造が『武士道』を発刊するにいたったきっかけくらいには本文に即した例示を引きながら、太宰の主張をより深めることくらいはしてほしいものです。(新渡戸は、ベルギーの教授に日本の宗教教育について聞かれ、思い返すとそれが無いということに気付かされ、それでは西洋の宗教にあたるものは何かと考えた上で、日本人にとってそれは「武士道」である、と本書をものしたわけです。)


 評論そのもののコメントとしては、ここまで一区切りです。続いて、やや一般的な話になってゆきます。

2010/12/16

ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか 02

さて、前回の続きである。


ブログを続けてきて、連載が長くなる場合が多いので、
手短に済ませるお題を選んだら、結局こうなってしまった。

書きかけで、表立っては未掲載のシリーズがそろそろ10本ほどになるのだが…
誰か住み込みで、口述筆記でもしてくれんかね?

ともあれ、懲りずに続きである。

前回では、この図までたどり着いたのだった。



◆◆◆

ここまで書くと、こういう反論があるかもしれない。

もしG2に、「ガンダムMK-II」ではなくて
「パーフェクトガンダム」なんかを持ってくると、図式が崩れるではないか。

そうすると、結局、世代の変遷などというものは恣意的なものでしかないし、
その前提が崩れると、お前が今試みているデザインの流れなどというものは、
瓦解するのが当然の帰結である。


この批判は十分に有り得そうだから、その疑問に答えておこう。

まず、「世代の変遷がある」という前提への批判の反駁だが、
変遷というものは、ある世代が次の世代に移り変わったことを、
「結果から」見て取ったときに、どういう流れが見えるか、
ということを論じている。

だから、変遷そのものの存在を否定するならまだしも、
「結果から見ているから変遷は無意味である」という批判は、正当ではない。

結果から、それまでの流れを見て取ったものが変遷というものであるし、
結果から見なければ、変遷はわかりようもない。

◆◆◆

それでは次に、変遷が起こりうるとしても、それを奇数と偶数に分けて、
それを立体化したとするのは恣意的ではないか、という批判についてはどうだろうか。

この批判は、弁証法という論理に向けられたものとも通じている。
弁証法なる法則とやらがお前のアタマの中にあるから、
現象がそう見えるだけにすぎないのではないか、
ワタシにはまったくそうは見えないのだが、というものだ。


では仮に、そういう整理を避けて、たとえばG1からG5までの変遷を、
横にずらっと並べてなにが見えてくるか、と問うてみればわかるとおり、
ここにはなんらの法則も現れてはこない。
そうすると、その物ごとは、単なる「知識の羅列」や、
「情報の束」といった把握の仕方で終わりである。

それでも、法則などというものが成り立つこと自体が不自然なのだ、
という人がいるのなら、その人は、「論理」というものがいかにして
人間の中に生まれてきたか、という過程をまともに追ったことがないのである。

「論理」がなければ、すべての事象の成否を、
自分自身の直接的な経験によってしか判断できなくなってしまうのだ。

例えていえば、母親に「チューリップを買ってきて」と言われても、
どこに行けばいいのかすらわからないのである。
そんなわけがあるか、と言うのならば、論理の存在を認めていることになる。

論理の生成過程については、次の節で簡潔に述べることにしよう。

◆◆◆

話を元に戻すと、どんな物事を論理の流れのどこに当てはめるかといえば、
それは通常の意味で常識的な判断でかまわないのである。

ガンダムMK-IIとパーフェクトガンダムのどちらが先にデザインされたか、
などといった細かな知識については、わたしは持っていない。

それに誤解を恐れずに言うならば、
実のところ、G1に「初代ガンダム(RX-78-2)」ではなく、
「プロトタイプガンダム(RX-78-1)」が来てもいいのである。

そこにどんな事物が当てはまろうとも、
そこの間に「流れ」というものがたしかに存在する、
ということが認められればよいのである。


というのは、流れが見えてきたときにはじめて、次の世代に起こるであろう変化が、
観念的な像として持てるようになってゆくからである。

上で述べた例でいえば、初代からの流れが見えてきて始めて、
G5「νガンダム」に続く、G6をデザインする手がかりが得られるのである。

それがどのようなデザインならば妥当性を持ちうるかは、
G6の像を、上記で整理した図の、
横軸と縦軸の交わるところにあるものとして認識して始めて、
まっとうに予測しうるのだ。

「流れ」という法則や論理を持たなければ、創作活動そのものが不可能である、
ということを、法則を否定する方は確認してほしい。

◆◆◆

実のところ、そうして、個々の歴史的な些細な横道にとらわれず、
その大道をみてとり、その流れを一般化するという「物ごとの正しい見方」は、
深い、浅いの差はあれ、わたしたちの判断の図式に組み込まれているのである。
それも、教育を通して、である。

「私は苺が好きだ。だから、私は苺を食べる。」
という命題が不自然に聞こえないというのは、わたしたちが論理を有するからだ。

その論理というものは、物心つく前から身についてきたものだけに自覚できず、
先天的に与えられたように錯覚しがちであるが、
その形式、内容のもっともらしさともに、
ほとんどが教育によって受けてきたものである。
(唯物論。先天的に与えられるものがあるとしたら、
人間の認識を物質的なものとしてみたときに働いている弁証法性である。
ちなみに、観念論では審美眼は人間に先天的に与えられているとするから、議論する必要がない)

そしてその教育は、人類という総体が、これまでの歴史全体の中で培ってきた、
「人間らしさ」という像に照らして行われる。

人間が総体として歴史的に生きて受け止めてきた「流れ」が、
一言でいえば「論理」というものであり、
その論理が人類最高の叡智に照らして目的的に養われたときに、
それを「弁証法」と呼ぶのである。


ここまで論じてくれば、
人間が持つ認識のあり方、
そして文学、芸術を含めた人間の表現もが、
弁証法という論理に照らしてみれば、ある程度明らかになる、
ということがわかってもらえてきただろうか。

もっとも、それは「一般的な把握」でしかないから、
そのそれぞれの特殊性に沿った構造にまでつっこんで、
みてゆかねばならないことは当然である。

◆◆◆

これから載せるエントリー「感受性というものの周辺 03」でも触れるが、
歴史の流れを見てゆく時には、
ひとつにはそれを「人 対 機械」のように、
「振り子」の動きになぞらえて論じられることがある。
それは、弁証法の横の動きを、平面的にとらえたものである。

またひとつには、富永仲基の「加上説」のように、
中国の思想は、ある論者が、過去の論者の「上を出る」ことを図るときには、
過去よりさらに過去の論者の主張を援用する、という見方がある。
(つまり、G3がG2を越えようとするときには、G1を参考にする)
あれは、弁証法の縦の動きを、これまたやはり平面的にとらえたものである。


どちらも、新しいことを述べているように見えるが、
結局は、人間の認識の根底にある弁証法性の存在を指摘したにすぎない。

◆◆◆

論理が立体的な像として認識されていると、
知識的にはともかく、ある論者の表現をみて、
それがいかなる論理性を含んでいるかということは、一目瞭然なのだ。

ところが論理というものは、直接は眼に見えないから、
問題意識を持って見なければ、論理性が含まれているかはおろか、
その存在そのものに気づかない、という自体になるわけである。

このわからなさを漫画的にいえば、
「太刀筋が鋭すぎて、斬られたことすら気づかなかった」、
ということになる。

前回述べた、「わからないということすらわからない」という段階なのだ。

◆◆◆

ここまで論じたことの中で、審美眼については一定の理解が得られたと思うし、
その中から、「ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか」
という問についての答えも、見出してもらえるのではないだろうか。

答えとして一言でいえば、
「その変遷を意識でき、その特殊性を意識できれば、よい修練になる」
ということになる。

もちろんこれは、物心があるていどついてから
与えるおもちゃを選ぶときの注意なのだから、
それ以前にまっとうな子育てが成されていればこそ、である。

ガンプラが良いというから生まれる前に用意しておかねば、
などといった種類の勘違いだけはしないでいただきたい。

◆◆◆

さてそうすると、残る問題があるとすれば、
幼少の頃はさておき、現時点で自らの審美眼がないことが自覚されており、
それをなんとしても磨きたい場合にはどうすればよいか、ということが挙げられる。

この場合に最も問題なのは、「審美眼」がないことに加えて、
それを養う場合にはどんなものを参考にすれば良いかすらわからない、ということだ。

つまり、
「一流」のものを見てこなかったから「審美眼」がないのだし、
「審美眼」がないから「一流」のものがなにかもわからない、ということなのだ。

◆◆◆

現在という瞬間に限って、形而上学的に考えてみたときに
どうしてもできそうもない事柄は、弁証法的に考えてみなければ解法が見つからない。


まずは、上で見てきたように、
現在「一流」のものとして現象しているものが、
人類の「流れ」(歴史性)という観点に照らして選ばれてきた物ごとである、
ということを押さえておいてほしい。

つまり、それを一身に繰り返して、その一般性を見て取ることができればよいわけである。


そうすると、まずは論理性の習得がある程度進んだことを確認する必要がある。
とりあえずは、弁証法というものが、
バラバラの法則ではなく螺旋階段として見て取れるレベルがあればよい。

つぎに、その視点でもって、「現在一流と呼ばれている物」の「変遷」を追ってほしい。
個別の知識ではダメである。「流れ」を見てほしい。

ガンダムについて詳しいなら、
連邦のモビルスーツにおける「初代ガンダム」→「νガンダム」という変化が、
ジオン軍ではどういった変遷として対応しているのかを探してほしい。
それにあたるものが存在しないのなら、もし存在したらどんなデザインになるか、
というふうに考えるのである。

そうして、そこで見た流れを、他の分野にまで適応できるか、
できないとしたらガンダムの特殊性はどういったものだったのか、と反省してみるのである。

◆◆◆

まったく手がかりがない場合には、身の周りで一貫した見識がある人間を探し、
その人の得意とするジャンルのカタログなどを一緒に点検したり、
ウィンドウショッピングなどをしてみるとよい。

理論的なあり方を議論しているときには、現象をそれだけ一般化している、
つまり現象が現象たる特質を捨象する形で論じているのだから、
審美眼というのは体得しにくいものなのだ。
だから、この場合には、触感や味覚など、五感に訴えかける経験を通したほうがよい。

その中で、その人がとくに強調して褒めたものがあったら、
その理由をつっこんで聞いてみるのである。
ある服を褒めたときには、良いのは生地の手触りなのか、
色のコントラストなのか、品質と価格のバランスなのか、などを特定する。
そうして問題が絞り込めたら、それが「どう良いのか」、「どれくらい良いのか」を
できるところまで言語化してもらう。

言語自体がすでに一般化されたものだから、
言語の間になにが潜んでいるかを、自分で補えるところまで慣れてほしい。

こういうことを繰り返しているうちに、
自分のアタマの中にその人が「良い」とする像が描けてくる。
そうして、新しいものを見たときにでも、
「あの人ならこれを褒めるだろうな」とわかるようになったら、
まずは第一歩である。

これらすべてを、自分の主観を交えずに、批判的に構えずに、
見る目のある人のことをとりあえずすべて信じ込んでしまうべきである。
そういう経験を1年ほども持てば、効果は実感できるであろう。

◆◆◆

こういうことをあらゆるジャンルにわたって試してみる中で、
ようやく「一流」という像が描かれてくるとともに、「審美眼」が養われてくる。

そうだから、「一流」を目指す、というのも、実はけっこう難しいのである。
その志が明確に持てている人は、育った環境に感謝しすぎるということはないのだ。

「一流」がどういうものかわかるというのは、とっても幸せなことなのですよ。

ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか 01

ガンダムである。



先日、友人とメールをやりとりしていたら、どういうわけかガンダムの話になった。

「いまから振り返ると、小さい頃に何気なく触っていたガンダムに学んだことは少なくなかった。
とくに、そのデザインの変遷には、美的な論理性を磨かせてもらったように思う。」

わたしがなにげなくそう言ったら、友人から帰ってきたことばはこれ。

「それは面白い。どういう意味だ、詳しく説明せよ」

・・・こうしてこのブログは、
どんどんただならぬ方向へと突き進んでゆくわけである。

わたし(だけ)のせいではない。

◆◆◆

しかしこの友人、それが詳しく説明できると踏んでいるからこそ、
こういう話を振ってくれるのだから、出来る範囲でお答えせねばなるまい。


原理原則を掴んでおくと、どんな事柄でも、
ある程度のところまでは追い詰めてゆけ、
そしてまた、本質的な問題がどこにあるかがわかる。
(つまり、わからないということがわかる)

このエントリーを通して、そういうことを実感として把握してくれれば、
これほど嬉しいことはない。

ふざけているように見えるかもしれないが、
そういう意図があるから、あえてこんなエントリーを作る次第である。


そういうわけで、今回のお題はこういうことになった。
「ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか」

◆◆◆

結論を先取りすれば、この問の答えは「勉強になる」なのである。
そうだからこそこういう書き始め方になっているわけだが、
そうすると、「どういう意味で」勉強になるのか、が解かれていかねばならない。


ちょっと待て、なぜ「子どもにとって」と範囲を限定するのか、大人ではだめなのか、
とツッコミを入れる方がおられるとしたら、行間をよく読んでおられる方だ。
嬉しいことである。

「子どもにとって」とことわったのは、こういう理由がある。
大人でももちろん心掛け次第では勉強になるのだが、
幼少期の、まともな審美眼が養われていない場合では、
与えられたおもちゃというものが、非常に重要な意味を持ってくるから、
ということだ。

言い換えれば、大人ならば「勉強しよう」という気持ちで向きあえば勉強になるのに対し、
子どもの場合には、ほとんど先入観なしに与えられたものに向きあうから、
そのときに与えられたものを通した経験を、
これから自らの審美眼を養う土台としていくわけである。

ここから、それでは、子どもに与えるものを一流のものにすれば、
そこで得た経験を土台として育つ子どもの審美眼というものも、
やはり一流になってゆくのだな、
とさらに行間を読んでもらえると、なおさら嬉しい。

◆◆◆

ただ、一流のものを与えていればそれだけで足りるかといえば、
もうひとつ不可欠の要素がある。

それは、与える物事をとおして、デザインならデザインの変遷、
「流れ」の存在を意識できるかどうか、ということである。

一流のものを、あらゆるジャンルにまたがって見せたとしても、
それはなかなかにまっとうな受け止められ方をしないであろう。

たとえば、ある「音楽」とある「思想」を、全体の流れとして把握するためには、
その接点となる手がかりが、「知識」として必要になってくる。

この場合の手がかりは、たとえばワーグナーとニーチェの類似性、などである。
これでは敷居が高すぎるし、それが同じデザインの分野だとしても、
たとえばバウハウスとガンダムを総合的に流れとして見ることは難しい。

だから、ガンダムが好きならガンダムを、
継続的かつ比較しうる状態で触れられる機会を与えてあげる、
ということが必要になってくるわけである。


そういう意味では、金銭的に余裕がありすぎて、あれもこれもと与えられるよりも、
限られたジャンルのものを、系統的に与えられる場合のほうが、
とりあえずの審美眼を磨くに当たっては都合が良い、ということになりそうだ。

知識や情報は多すぎると、「流れ」が読めなくなる(論理性が獲得できなくなる)、
というのは、幼少期や受験勉強に限らず通用する、ひとつの論理である。

◆◆◆

ところで、そこで得られた審美眼というのは、当然ながら「ガンダム」という
事物の特殊性に規定されたものでしかないから、
そのガンダム的審美眼をただちに他の分野にまで広げて発揮することはできない。

ではどうすればよいかといえば、「ガンダムの変遷」を「流れ」として意識した上で、
その「流れ」が、他の分野においても通用するか、という観点で眺め、
自らが持つ審美眼が「特殊的であること」を自覚させる、という過程を持つことだ。

簡単にいえば、「オタク」になる前に外に出して見聞を広げさせる、ということだ。


ガンダム的な審美眼が、広い文芸の世界では特殊性にしかすぎないということがわかれば、
自分の今持っている審美眼では、すべてのことは理解し得ない、とわかるわけだ。
つまり、「わからないことがわかる」、ということである。

しかし、そこでは、ガンダムを流れとしてみてきた経験から、
他の分野においても、「流れ」というものが何らかの重要な意味を持っていることがすでに把握されているから、その習得もまっとうな目的を持ったものになる。


さらに、自分の特殊的な審美眼を他分野にも広げて見ることは結果として、
ガンダムにはこういうデザインの流れ、つまり美的な論理性があるから、
世間の評価に耐えることができたのだ、
ほかのロボットとは違って一流になっていったのだ、という理解としても浮上する。



ここができなければ、単に「オタク」となって脇道にそれたところで完成するだけである。
その審美眼からすれば、ガンダム以外のものを見るときにも、
それがガンダム的かどうか、ガンダム的に見るとどうか、
という観点からしか判断されないということになる。


ここまでを要すると、「審美眼がある」、というのは、
物ごとの変遷という「流れ」・「流れ方」を一般的な像として持てており、
さらに、それに照らして未体験の分野の物事の優劣をとりあえずつけることができ、
さらにその流れをも認識してゆける能力である。

◆◆◆

ここまで踏まえておいて、冒頭のガンダムのデザインを改めて見てみよう。

わたしはガンダムというアニメをリアルタイムで見れた人間ではないから、
プラモデルやおもちゃだけから、そのデザインを受け止めてきた。

そのため、そのガンダムを、「どういう活躍をしたのか、誰が乗っているのか」
という事情から一旦切り離して、デザインだけを見てきた、ということになる。
振り返れば、純粋に審美眼を養う観点からすれば、この環境はプラスであった。

歴代のガンダムを、ずらっと平面的に並べると、こうである。
物事の変遷、つまりその歴史を見ようとするときには、
やはり順番が重要なので、とりあえず時系列に並べてみよう。
便宜のためそれぞれに、G1(第1世代)~G5(第5世代)とナンバリングした。

ここで、G1からG5へとデザインの変遷が起こったときに、
どういう変化があるかを見て取れると、見方が変わってくる。

デザインというものは主観的なものだが、
だからといって、なんらの手がかりがないということではない。

◆◆◆

さてG1「初代ガンダム」がデザインされたあと次のモデルを作るとなったとき、
G2を考えるとしたら、どうすればいいだろうか。
あなたが製作者だったらどうするか、と考えてみてほしい。

そこでは、すでに完成されたG1らしさを汲みながら、
それでも新しいものになるようにデザインしてゆくわけである。

それでも、新しすぎて、それが「ガンダム」かどうか
判別の付き難いものであるわけにはゆかない。

具体的にいえば、次世代のガンダムを作るつもりなのに、
主役級から劣る次世代ジムでもいけないし、敵役の次世代ザクでもいけない。
あろうことか次世代マジンガーZになってしまってはいけないから、
その区別の中に、ガンダムらしさ、が見えてくる。
(これは生物学でいう生存圏の「棲み分け」と対応している。
より大きい論理から見れば、対立物の相互浸透)

つまり、「ガンダムらしさ」という像に問いかけながら、
そこから離れない範囲で、新しいものを、と考えてゆくことになる。

このとき結果からいえば、
G1のデザインが完成されていればいるほど、
G2ではそれに線が加えられがちなのである。

「ガンダムらしさ」がまだ確立されていない過程においては、
その像をぶれさせることはできないから、
どうしてもG2はG1のプラスアルファにしかならないのだ。

このことは、G1「初代」→G2「MK-II」のデザインの変遷を見れば、
誰しも首肯しうるところではないだろうか。

◆◆◆

次の変化に目を向けると、G1からG2への変遷に対して、
G2からG3へは、また違った変化が試みられる。


というのは、複雑化するという方向の変化は、どこかの段階で
それを際限なく繰り返してゆくわけにはいかなくなるために、
一旦G2を「リセット」する形で、G3が考えられることになるからだ。

とはいえ、これまでの流れを完全に壊してしまうわけにはいかないから、
G3は、違った変化を試みながらも、新しい出発点になるべくデザインされることになる。

G2「MK-II」からG3「Zガンダム」の変化を見ると、
前代の意匠はあちこちで引き継がれつつも、
それが「複雑化」とは違った変わり方をしていることがわかる。


この変化のありかたの違いに着目して、
G1→G2の「複雑化」的変化を「同じ系列の上での進化」、
G2→G3の「リセット」的変化を「系列そのものの進化」、
と呼ぶことにしよう。

◆◆◆

いったん流れをリセットする形で受け継がれたG2からG3の変化に比べると、
G3からG4へは、また「複雑化」という変化になる。
これは、G1からG2の変化と類似したものとなる。

G3「Zガンダム」からG4「ガンダムZZ」への変化を見ると、
シンプルな形となってリファインされたG3が、
かなり複雑化した形でG4に進化していることがわかる。
これは、「同系列上での進化」ということになろう。

◆◆◆

それではG4からG5はといえば、もう言わずともおわかりかもしれない。
流れを、一旦「リセット」する形になるのである。
G4「ガンダムZZ」からG5「νガンダム」の変化では、
複雑化して行き詰まり感のあったデザインが、かなりシンプルなものとなった。

◆◆◆

これまでの流れを整理すると、こうなる。

・前代を受けて複雑化する流れのもの
…G1からG2、G3からG4

・前代の流れを一旦リセットする流れのもの
…G2からG3、G4からG5

前者を同系列上の進化ととらえて横への矢印(→)として表し、
後者を系列自体の進化ととらえて上への矢印(↑)として表すと、下の図のようになる。


こうして整理して、縦の軸を通してみれば、
奇数番G1, G3, G5は、ある系列の始まりを示しているし、
偶数番G2,G4は、それに続くデザインとして位置づけられていることが分かる。

全体の変遷を流れとしてみてとると、螺旋を描いているようにみえるはずだ。

◆◆◆


さて、上の図を見て、読者は、
「おや、どこかで見たような?」と思ってくれただろうか。

そう、これは以前にお話しした、弁証法という論理の螺旋階段と同じなのだ。

「そうすると、デザインの変遷を追うときにも、論理が必要ということになるのか。
言語を使った証明においてならいざしらず、
人の気持ちの理解も、ここでは芸術までも論理で語るとは…
お前の言う論理というものは、いささか範囲が広すぎるのではないか。」

とても良い問いかけだと思う。
次でわかってもらえるとよいのだが。


長くなってしまうので、ここで一旦区切ろう。


次は、上で観てきた見方に対して考えうる反論を、まずは検討してゆくことにしよう。

2010/12/14

明石市立天文科学館に行ってきた

そういえば、先週末に行ったのは、飲み会だけじゃなかった。


お誘いがあって、明石市立天文科学館に行ってきたのだった。
ブログ(Web+Log)のもともとの意味からいえば、
いつもの堅苦しい文章じゃなしに、
ほんとはこういう日頃のことを書かにゃあならんのだよね。

しかしわたしの場合は、毎日やってることが「研究」の一言で済んでしまうから、
原則を忠実に守ったところで、まるでつまんないのだ。

◆◆◆

そんなわけですばるの天体望遠会に行ったのだけど、
その日はあいにくの天候で、とりあえずプラネタリウムを見ることに。

これは昼間の写真。

上映が終わっても天候がすぐれないもので、帰ろうとしたときに、
招待してくださった方が機転を利かせて、学芸員さんに話をつけてくれた。
で、こっそり天体観測室に向かう。(写真のてっぺんの部分)

内側は直径10mくらいの半球になっていて、
中央にはニシムラ製の天体望遠鏡が備え付けられている。
居合わせた数人の方々は真剣に望遠鏡を覗き込んでおられて、
今か今かと晴れ間を待ち望んでいるわけである。

ところが、自然というのは人間の手には負えぬものと見えて、月すら出てこない始末。

◆◆◆

そんなわけでそろそろ出ようかと思っていたら、
学芸員の方が、ただで帰すのも忍びないと、
半球のドームのコントローラを触らせてくれるとのこと。


手元のコントローラのボタン押下に合わせて、
直系10mほどの分厚い鉄の壁が、ゴゴゴと動くのである。これはたまらない。

シャッターはきっとあそこから出てくるのだとか、
これ動かすのに電力はいくらかとか、
駆動部はレールかベアリングかとか、
普通のひとにはまったくどうでもいいことばかりが気になって、
結局全部、学芸員さんに聞いてしまった。(駆動部はタイヤらしい)

それより面白かったのは、
今が旬「はやぶさ」なんかの、小惑星探査機にまつわるドラマである。
なんでも、どれだけ人間が計算しても、まだ不確定の部分があるらしく、
トラブルというのはどうしても完全には防ぎようがないらしい。

テレビの中で失敗の理由を問われる同僚の、申し訳なさそうな姿を見ると、
自分のことのように心が痛む、できるなら庇ってあげたい、と言っておられた。

◆◆◆

むべなるかな、地球の中の、直接手に触れられることだって、
わたしたちにはわからないことだらけなのだ。

それでも、学芸員さんいわく、宇宙のことを調べている人間は、
「世界一アキラメの悪い連中」だそうで。

あれだけのことをやってのける人たちは、
いったいなにに突き動かされているのかと言えば、
やはり、何がなんでも「知らないことを知りたい」、という欲求であろう。


そうだ、学問という営みの大本は、
内から沸き起こる、あの感触だ。

かつてサルは、樹上生活の中で像の矛盾の起こりから、
ヒトになりつつあったのだが、
それでも彼らにはわからなかったはずのことがある。

それは、「おやっ?」という問題意識が、
「そうか、わかったぞ!」になったときの、
あのえも言われぬ至高の感覚、
宇宙との全的な一体感(観念的な言い方だが)、これなのだ。


だいたい外に出ると、この感覚を頼みに生きている人間が、
研究者の間でさえほとんど皆無という悲しい事実に気付かされるものだ。
それでも市井にもこういう人がいることを知ると、
やっぱり人間っていいものだなあと、しみじみ思えてくるものである。

志新たにと、気持ちが洗われた思いであった。
この出会いに、感謝。

◆◆◆

そういえばアポロ号は実は月に行かなかった、という都市伝説、
まだたまに聞くのだが、そろそろ飽きないものなのだろうか。

あのときに反射板が置かれていなければ、
月が地球から年に数センチずつ遠ざかっているという事実も
今の私たちは知り得ていないわけで、
あまりにありそうもない、ありえないでっち上げは、
都市伝説としてあんまし面白くないと思うのだが。

なんでもあのVTRを作ったのは、故 S.キューブリック監督なのだそうな。
『2001年宇宙の旅』つながりなんだろうが、なんとも安直である。
故人で反対しようもない人に、どうでもいい濡れ衣を着せるんぢゃないよ。

じゃあなんでもう一回月面着陸できないのか、と言えば、
他の国との先取権争い、言い換えれば国家間の見栄の張り合いに、
いまはそこまでの資源をつぎ込む余裕が無いからです。

◆◆◆

しかし宇宙にしろ人間の内面にしろ、
その道を、「知りたい」、ただその一心で突き詰める人たちにこそ、
資源というものは使われてほしいものである。

だいたい、今すぐ結果の望めるようなものだけに意識を向けるようになったら、
それこそ人間の終わりではなかろうか。

古代人だって、持ち前の創意工夫で、
ピラミッドなんていうとんでもないものを建てているではないか。
あれは、効率を考える現代人からみれば、途方も無い労力と時間を
かけることができたからこその、結果にすぎないのである。

現代人が、同じような途方も無い作業を「したがらない」からといって、
「古代人にもできるわけがない」と短絡して、
すぐに宇宙人のせいにしちゃうというのは、想像力の欠如も甚だしい。

外にも内にも、まだわからないことはたしかにたくさんある。
しかしそれでも、人間の精神を以てすれば、
いかに堅牢に見えようとも、その扉を開かない真理というものはない。

「真理」というものが胡散臭く聞こえるとしたら、近道をしたがるからである。

そのくらいの気概とアキラメの悪さを、現代人は遍く持っていてよい。

学生さんからのしつもん

ゼミで発表することがあるらしく、ある学生さんから聞かれたのがこれ。

「善悪を判断する基準はありうるか」。

本文の構成はだいたい下の通りでどうかとお話ししたのだけど、
一般的すぎるだろうか、もしかすると難しいだろうか。
(わかるひとにはすぐわかるが、観念論に触れたあと、唯物論の触りだけ書いた)
決着がつくまでのメモを下に。


それはそうと、前回の更新からちょっと時間が経ってしまった。
ここのところ、わたしのような人間にも年末進行の余波が押し寄せてきており、
酒の席からチョコマカと逃げ回っていても、やっぱりいくつかには捕まってしまう。

それから、後進からのお誘いにはできるだけ出ることにしているから、
ある程度は時間も押してしまうのである。

今月に入ってからそういう状態でここの記事を更新していたら、
「最近誤字多いですね」と指摘されてしまった。

まったく申し訳ない限りである。

◆◆◆

積み残している記事は自分でも分かっていながら書きためているのだが、
記事の大筋は完成していても、最後の推敲というのに時間がかかるのである。

近頃、なぜか一般の方から「ブログ見てますよ」という反応をいただくことが多いので、
広がった読者層を意識すればするほど、
行間をなるべくうまく空けるようにしよう(空けないように、ではない)という
注意が働いて、けっきょく長くなるわ、くどくなるわで時間がとられちゃうのだ。

かといって、論理のわかっている人にとっては、
「こんなすぐわかることを偉そうに…」と思われているだろうから、なかなか難しい。


最近ここを読み始めた読者にはピンと来ないかもしれないけれど、
ここで記事にしているような一般的な構造の把握は、
論理性についての理解がある人にとっては、
「一目見てすぐにわかる」という類のものでしかない。

取り扱った現象について、より突っ込んでみれば、
もっと複雑で、とんでもなく面白い構造があるので、
勉強を始めた読者のみなさんをも、そこまでご案内できれば、と思っている。

こちらとしては、20代のうちに基礎をお伝えしておかないと、
森羅万象についての正しい理解が身につかずに終わってしまい、
まともな頭脳活動の道が閉ざされるという危惧があるから、けっこう必死である。

経験を重ねて変に自信がついて、誰のどんな話も、腕組みしながら
「ワタシもそう思う!(いつも自分の考えているとおりだ!)」
と頷くようになってしまったら、終わりである。

◆◆◆

このブログでしょっちゅう出てくる
「相互浸透」、「量質転化」、「否定の否定」というのは、
三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』
でだいたい学べると思うので、参考にしてください。

その法則を日常生活の中で見つけながら、
弁証法のばらばらな三法則が合わさって、
ひとつの球体のような感触として持てるように意識してください。

次に、三法則を念頭において、
法則が下の本のどこに顕れているか、ということをメモしながら読みといてください。
『発展コラム式 中学理科の教科書 第1分野』
『発展コラム式 中学理科の教科書 第2分野』
加えて、中学レベルの社会の教科書の類を同じように読み解く。

とんでもなく時間がかかりますよ。
わたしはこの本はどれも2,3年間ほど毎日使って
ボロボロになって空中分解したので、買い直しました。

注意して欲しいのは、
「覚える」ことではなくて、「使えるかどうか」ということです。


ではよしなに。


◆◆◆

◆善悪を判断する基準はありうるか◆

「善とはなにか、悪とはなにか。」
そういうふうにこの問題を抽象的に考えてみても、なかなか答えが見つかりませんでした。
それに、複雑に考えすぎるとそんなものは人によって違う、ということにもなりますから、
もっと具体的で、判断しやすいところから考えてみることにしました。

私は以前、こういう光景を目にしたことがあります。

おばあさんが道で倒れているのを見つけたときに、
あっ助けなきゃ、と思っていたら、
ある青年が、さっと駆けつけて彼女に声をかけたのです。

他の人たちといえば、遠巻きに眺めたりしているだけでした。
かくいう私もその一人で、なにも力にはなれなかったのですが、
少なくとも、私は「良い人もいるんだなあ」という感想を持ったことは確かでした。

◆◆◆

いま、あの時のことを思い返してみると、
「良い人もいるんだなあ」という感想を持ったということは、
おばあさんを助けた青年のことを、私は「善」だと感じた、ということになります。

あのとき私は、彼のことをみたときに、
「悪い人がいるんだなあ」とは思わずに、
「良い人もいるんだなあ」と思いました。

ほとんどの人は、そう感じると思うのです。

私たちが何かの物事を見たときに、そういうふうに感じられるとしたら、
ここには、たしかに「善」が存在する、ということになります。

◆◆◆

そもそも、善と悪という価値は、自然界には存在しません。

たとえば、ライオンがシマウマを捕らえるときには、
ライオンそのものは、シマウマのことを「かわいそう」だ、などとは感じません。

それを私たち人間の心に照らしてみるとようやく、
私たちは自分の心をこれから殺されて食べられるシマウマの立場に置き換えてみて、
「かわいそう」、というふうに感じます。

◆◆◆

こういう善悪の感覚は、私たち人間が、ほとんどの場合に持っているものです。

それは、今から見れば、自然に身についているように思えますから、
自分が生まれる前から、善悪の判断基準を与えられているように思います。

そういう不思議さが、宗教などを産んでいます。

ただ見方を変えれば、オオカミに育てられた少女たちは、
小動物をとらえて食べているときにでも、なんの罪悪感も感じてはいなかったのですから、
私たち人間は、教育やしつけを教わって始めて、まっとうな人間として育ってゆくことができる、ということができます。

そういった善悪の判断基準というものは、
私たちがおぎゃあと生まれて今まで生きてきた中で、少しずつ培われてきたものだ、ということです。

お母さんやお父さん、周りの人たちの行動を、意味もわからないながらとりあえず真似をしてみて、
自分の行動にたいする相手の反応を見ながら、少しずつ自分の性格や判断として、身につけてきたものなのです。

◆◆◆

そういう、人間とは教育を受けて始めて人間になったのだ、という立場にたって考えるとき、
私たちが日常的に向きあうことになる問題には、大体の場合は、適切な答えを見つけることができます。

たとえば、「子どもを褒めることは善いことだ」、「人を殺すのは悪いことだ」、などです。


しかし人間の社会では、それがもっと複雑になってしまうことも、少なくありません。

たとえば、子どもが年下の友達の腕をつねって泣かしたのに、
それを褒めるとしたら、それは善い行いとは言えません。
また、戦争で自分を殺そうとしている相手が目の前にいるときにも、
人を殺すな、という常識が通じるかというと、難しい問題です。


そういう複雑な問題に正しい答えを見つけようとするときには、
「善か悪か」というふうに、あれかこれかという考え方ではなくて、
それがどういう条件の時にはそう言えるのか、と考えてみることが必要なのではないか。
私は、そう思うのです。

文学考察: 虻のおれいー夢野久作

文学考察: 虻のおれいー夢野久作


◆ノブくんの評論
 今年六つになる可愛いお嬢さんのチエ子さんはある時裏の庭で一人遊んでいると、一匹の虻がサイダーの瓶の中でもがいている姿を目にします。苦しそうにしている虻を、彼女はどうにかして助けてあげようと奮闘します。果たして虻は無事瓶から出ることが出来るのでしょうか。
 この作品では、〈情けは人の為ならず〉ということが描かれています。
 結局、チエ子さんはどうにかして虻を助けることが出来ました。虻は彼女にこう言いました。「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」そしてこの約束は後にちゃんと果たされることになります。
 その数日後、チエ子さんは一人で留守番している時、泥棒が家の中に侵入し、なんと彼女の命を狙おうとします。そこに以前彼女が助けたあの虻が現れ、身を挺してチエ子さんを守り抜きます。そしてその結果、チエ子さんは助かりましたが、虻は泥棒にやられ、その一生を終えてしまいます。ですが、彼は見事彼女への恩をこうして返すことが出来たのです。しかしチエ子さんは自分の為に虻を助けたわけではなく、本心から虻を助けたいと思い、瓶から出してあげたのです。この本心からの行動が虻を感動させ、彼女の為に命を賭したのでしょう。

◆わたしのコメント

今年六つになる「チエ子」は、サイダーの瓶に落ちて出られなくなっていた「虻」を四苦八苦して助けます。そこからはじまるこの物語は、いわば「虻」の恩返し、といったわかりやすいもので、論者はそれを忠実になぞって理解しようとしたようです。論者の書いた評論というものは、この物語をそのままの形で理解したならば、悪くないものに仕上がっているのですが、理解の深さからいえば、表面的なところにとどまっているように見えます。そう言うのも、この評論では、物語を掘り下げて読者の理解を助けたり、読者に新しい見方を与えたりはできないからです。物語を素直に読んで理解できるようなレベルのことしか書かれていないときに、誰が評論など読むものでしょうか。

では、そういった現象論的な理解を脱し、少しつっこんで論じるには、どういう視覚からの論述にするのがよいでしょうか。そう考えたときに、この物語が典型的な児童文学であることに着目すると、児童文学の一般的な成り立ち方を見てゆくことができるはずです。

◆◆◆

この物語には、「チエ子」が助けた「虻」をめぐって、2つの世界観が成り立っています。そのどちらもが共有している事実は、「チエ子」が助けた「虻」が、彼女が泥棒に襲われるという危機を、身を呈して救った、というものです。

まずはじめの見方は、「チエ子」の側のものです。彼女は、自分が「虻」を助けたときに、「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」と言ったと思っています。ですから、彼女の中では、この物語は、「虻のおれい」という、虻の恩返しに他ならないのです。泥棒の危機が去ったあとも、やはり彼女は「お母さん、御覧なさい。この間の虻が泥棒を刺したのよ。あたしが助けてやったお礼をしてくれたのよ」と、虻の気持ちを疑うことをまるでしていません。

かたやもう一方の見方に目を向けると、「お母さん」と「お父さん」の側のものです。上で引用したように、「チエ子」が「虻」を助けたあと、それが恩返しを約束したのだと聞いた「お母さん」は、「大そうお笑いにな」って受け止めたものです。泥棒の危機が去ったあとの「お父さん」の反応を見ても、やはり「『あぶとお話した子は世界中でチエ子一人だろう』とお笑いにな」ったのですから、「お父さん」も、「お母さん」と同じ立場から、「チエ子」の言動を見ていたということになるでしょう。彼らにとっては、「虻」が泥棒を刺して「チエ子」を助けたというのは、単に自然界の偶然の出来事なのであって、決して人間と自然が心通わしたという証拠ではないのです。

◆◆◆

同じ事実を見るときにも、その説明の仕方が全く異なるという2つの世界観を整理してみると、ここには児童文学というジャンルの、典型的なあり方が現れていることがわかってくるのではないでしょうか。この物語は、多くは「チエ子」の側の表現に始終する児童文学にあって、「お母さん」と「お父さん」の視点を導入することによって、その対比と、前者の立場を際立たせる効果を狙っています。

前者の「チエ子」の立場というものは、大人の世界観にまだ馴染んでいませんから、人間以外の、自然界の存在にまで、自分の持つ精神のあり方を延長させて(二重化して)理解する傾向が強い、ということになります。彼女の「虻」についての真剣な言いぶりを見ると、彼女は「虻」が自分の恩を理解し、おまけにそれを返すまでに高度な精神性を持っていることについて、絶対の確信を持っています。
逆にそれを見ている両親は、彼女の主張を、子どもらしい素朴な感情だと認めて尊重しつつも、実のところ、彼女の世界観を自分のものとして採用することはしていません。

両者の世界観を整理していえば、前者が物語的、観念論的だとすると、後者は事実的、唯物論的、ということになるでしょう。

後者の世界観による理解は、児童文学を楽しむ大人が、それをどういった仕方で理解しているか、ということと対応しています。
そしてこの物語を全体としてみれば、児童文学を創作するにあたって、どのような世界観でそれを構築してゆけばよいか、という方法論が見えてくるはずです。仮にも文学に携わろうとする者ならば、いま接している作品と同じものを、「どうすれば書くことができるのか」という問題意識を持って、作品の理解に取り組むことを忘れずにいて欲しいものです。

2010/12/08

文学考察: 貨幣―太宰治

文学考察: 貨幣―太宰治


◆ノブくんの評論

 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく、他人を必死で助けようとするある人間の姿〉が描かれています。
 それはこの貨幣の彼女がある陸軍大尉の懐に巡ってきた時のことでした。その大尉というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女と、なんとその女の赤ちゃんまでも罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。自身の命が危うい中、ましてさっきまで自分とわが子を罵っていた男をそうまでして守ろうとするその姿に私たちは心をうたれてしまいます。
 この貨幣が見てきたように、世の中の人間の中には自分のことだけを見て、他人ことなんて全く考えていない人々が多くいます。その一方で、このような女性の姿を目にした時、その心の美しさに感動するのです。


◆わたしのコメント

 論者は、この物語である百円紙幣の「私」の見解を、こう理解しています。戦中の最中で食うに困りながらも必死に生きている「母子」と、それを罵る「大尉」は、まったく正反対のな性質を持っているのだ、と。そして「私」は当然ながら、他人のことなど顧みない醜い「大尉」の姿と対比させて、「母子」の「心の美しさに感動する」と言っているのです。

 しかし、本当にそうでしょうか。
 「私」が、「母子」の姿に共感と、人間の尊厳を感じ取っているのは確かです。ですが、「私」の述懐しているところを見てみましょう。彼女はこう言っているのです。
 「貨幣がこのような役目ばかりに使われるんだったらまあ、どんなに私たちは幸福だろうと思いました。」
 繰り返しますが、彼女は、私たち貨幣が、「こういう使われ方をするのなら」、どんなに幸せか、と言っているわけです。そうすると、それがどんな使われ方だったのかが問われることになりますね。そうして、その使われ方というものは、それまで彼女が抱いていた、人間の貨幣にたいする扱い方と、一体どんな違いがあったのでしょうか。

◆◆◆

 自力で答えを導いてほしいがために、こういったぼかした表現をしていますが、論者の論理性が、ここ2回の評論で、目に見えて失われていることがなにより気がかりです。

 論者は、「論理性」というものを、わたしがいつも言っているような、「人の気持ちに立って考える」ということと混同して同一視してしまっているのではないでしょうか。もしそうだとすると、勘違いも甚だしい、と言うべきです。
 論理性というものが、他者の気持ちの理解をたすけることは当然ですが、だからといって、「論理性」を、なにか人間性やヒューマニズムなどといったものと勘違いされては、いままでの指導はなんのためだったのか、と頭を抱えたくなります。

 「論理性」を正しく身につけ、現実を理解するときにそれを正しく適応して、人の気持ちを理解するということは素晴らしいことです。それはたしかです。
しかしそれは、「人の気持ちを理解することは素晴らしい」という結論を、あらかじめ自分のアタマの中に持っておいて、それを現実のあらゆるところに押し付けて解釈することとは、まったく違います。

 前者を「過程を追って一から理解すること、本質的に理解すること」だとすると、後者は、「たんにあらかじめ用意した観念を押し付けること、解釈を押し付けること」でしかありません。

◆◆◆

 わたしが、こういった文学作品の理解のために、観念論ではなくて、科学の立場から法則化されたという意味で明確な、唯物論的な弁証法を「あえて」使っているというのは、それがなにより、「価値から切り離されており」、「明確だから」です。観念論的な考え方を採用すれば、「人間が生きるということは素晴らしい」や、「人間が理解し合えることは素晴らしい」といったことが、それほどの思案を経ずともすぐに言えてしまうのですが、しかしそれと同時に、論理と価値というものの区別が明確につけにくい、結果論理を踏み外していても気づきにくい、という負の側面も背負ってしまいます。

 それが、はたから見れば、「評論と言いながら、論理論理などといって、最も大事な人間性を捨象をしている形式主義で無粋である」、という謗りを予期しながらも、それでも唯物論的な弁証法の法則を使って、階段を一から作り上げていける指導をしている理由です。ここに働いている「あえて」の論理は、学問史の流れを個人の発達の段階になぞらえて受け止められていなければ理解出来ないものですから、その理由はどうしても明確に像として描けないはずです。おそらく、これを読んでいるほとんどの読者にまるで理解されないでしょうから、上で述べたような誤解を少なからず持たれていることと、いつも思っています。しかしそれでも、論者の将来の力になればと思えばこその修練なのですから、自らが階段を踏み外していないか、ということを常に心に留めておき、自分の作品を読み返しながら、そのことを誰よりも覚悟と、強い自制心をもって確認してください。それを一番見ているのはわたしではありません、あなたです。

 いまのあなたの場合であれば、「自分の持っている人間性を前提にして、それを押し付けて作品をしていないか」、ということです。つまり、解釈ではなく本質的な「理解」をしているか、ということを確認せねばなりません。

 現実の世界で考えてください。もし誰かを看護することになったとき、その人の内面におこる過程を「理解」せずに、表面をなぞらえて「解釈」することが、いかなる不幸を引き起こすことになるかは想像できるはずです。それは、物語にたいする姿勢でも、同じことです。たんに違うのは、物語を誤って理解したとしても、目に見える形では誰も傷つかず誰も死なない、ということだけなのです。ですがそれは論者が、物語という性質に助けられただけ(対立物の相互浸透)です。あなたは、文学をとおして人を幸せにしたかったのではなかったですか。そうであれば、文学の性質に甘えて、三流の姿勢に落ちてゆかぬよう、志高く、を常に心がけてください。

◆◆◆

正誤
・そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。
→そんなどうしようもない大尉をも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。
より正確には、
→この女性はそんなどうしようもない大尉をも、その命が空爆の危険に晒されたときには必死に守ろうとしたのです。
・他人のことなんて全く考えていない→他人のことなど全く考えていない(「~なんて」は口語表現)

文学考察: 巨男の話―新美南吉

文学考察: 巨男の話―新美南吉


◆ノブくんの評論
 ある大変遠くの森の中に、巨男とその母親の恐ろしい魔女が住んでいました。ある月夜のこと、そんな彼らの家に二人の女と一人の少女がやってきました。彼女たちは王女とその侍女で、森に遊びに来たところ迷ってしまったので、一晩泊めて欲しいというのです。魔女はやさしく彼女たちを受け入れました。ところが、巨男が目を覚ますと三人は魔女によって黒と白の三羽の鳥に変えられてしまったのです。やがて彼女たちは何処かへ飛び立っていきましたが、どうしてだか白い王女様鳥だけが魔女の家に戻ってきました。巨男は不憫に思い、彼女をこっそりと飼ってやることにしました。
 そうして時が経ち、魔女もやがて老いていきます。それにつれて彼女自身の魔法を息子に徐々に教えていき、そして白い鳥を不憫に思うやさしい巨男はある時、王女を元に戻す方法を知ることになるのです。果たして王女は元の姿に戻れるでしょうか。
 この作品では、〈自分のことも省みず、ただ相手のことだけを案じていた巨男の姿〉が描かれています。
 まず、王女の魔法を解く方法とは、「彼女が涙を流す」ことにあるのです。これを知った巨男は彼女にどうにかして涙を流させるかを常に考えていました。例え、自身がどんなに理不尽な目にあおうとも、どんなに苦しくても巨男は王女を肩に乗せて彼女のことだけを考えていました。この姿こそが私たちに感動を与えるのです。何故なら、自分の命を賭してまで王女を元の姿に戻そうとした彼の心情を私たちは考えずにはいられないはずです。ましてや、現実の世界でこの巨男のように全うに生きている人間にとっては尚更考えてしまうはずです。だからこそ彼の姿は、私たちを感動させるだけでなく、何か一物を抱えて生きている人々を励ましているようにも見えてくるはずなのです。

◆わたしのコメント

 あらすじの部分は悪くありません。
 しかし、論証の部分では、評論の読者に、共感を呼びかけるような文章が続いているだけで、なんらの評論にもなっていないことは残念です。

 「巨男」が、自分の母親の手によって白鳥に化かされた「お姫様」の<幸せ>を想い続けていたことは事実です。それは、彼をして自らを死に至らしめるほどの強さを持っていました。ところが、彼の死によって魔法を解かれ、元の姿に戻ることのできた「お姫様」は、王様たちにこう言っています。
 「私は、いつまでも白鳥でいて、 巨男の背中にとまっていたかったわ。」

 そうすると、彼女にとっての<幸せ>とは、いったい何だったのでしょうか。


 わたしは、<幸せ>ということばを、キーワードとして特別な括弧書きで扱いました。それは2箇所あったのですが、それらはまったく等しい意味で使われたものだったでしょうか。もし違うとしたら、それは<矛盾>なわけです。弁証法という論理は、たとえば同じ事象について論じたときにでも、そこに矛盾があることに着目して、その構造に深く分け入るためのものだったのですから、それを踏まえれば、続いてどういう論じ方をすべきだったのかが見えてくるのではないでしょうか。
 児童文学では、生身の人間のあり方を抽象した人物が物語を演じますが、だからといって、そこに人間にとっての深い感情が含まれていないことにはなりません。むしろ物語の構造が単純なことが、その物語の主張を明確に浮き上がらせてもいるのです。その事情を踏まえるならば、その物語について、ある確信を持ってキーワードを見つけ出さなければ、それを本当に理解したことにならない、ということになるでしょう。再読をお願いしておきます。


正誤
・これを知った巨男は彼女にどうにかして涙を流させるかを常に考えていました。
 →これを知った巨男は彼女にどうにかして涙を流させようと、常に考えていました。
 または、
 →これを知った巨男は彼女にどうすれば涙を流させることができるのかを常に考えていました。
・全うに生きている→真っ当に生きている

2010/12/07

感受性というものの周辺 02:考え事がぐるぐるまわるのはなぜか

前回のあらすじ。

感受性を持つ人間というものを、
理解されにくいものにしている理由をいくつか書いてきた。

そのことを通して言いたかったのは、
それが難しいということそのものではもちろんなくて、
難しいと言われているけれど、不可能ではない、ということであった。

◆◆◆

前回の話に出てこなかった、ある人と話した具体的な内容についての説明、
というものが気になっている人もおられるのではないかと思う。

そういうわけで、冒頭のお題に戻ることにするのだが、そのまえにちょっとおことわり。


感受性が、感受性が、というと、まるでそれを持っていなければ
まともな人間ではない、と言っているように聞こえるかもしれないが、
もちろんそんなことを言っているのではない。

たしかに他人の気持ちを理解する、という時には重要な要素であるが、
そういった能力がそれほどなくても、あるいはまったくなくても、
真っ当に生涯を終える人間はいくらでもいる。


この場合は、いわば内容は理解していなくても、
周囲の人達の行動や、自らが置かれている環境に付随する規範から、
自身のそれなりに正しい行動を導いてこれているのである。
宗教も、その規範の一端を担っていることがある。

一般的な大衆としては、それでかまわないのである。
事実、日本人はそういった協調性には非常に長けているから、
そういう道徳は染み付いて、いわば一定の倫理となっている、と言っていいわけだ。


行動としてはそれほど変わりがなくとも、その内面はどうかと考えたとき、
アメリカでハリケーン・カトリーナが起こったときに発生した
暴徒のことを思い出していただきたい。
あれと同じことが、日本の阪神大震災のときに起こったか、と少しでも比べてみれば、
表面上「宗教をしている人間」が、直ちに内面まで「宗教的な人間である」ということにはならないことがわかるはずである。

事実としてはむしろ逆、ともいえるほどで、
宗教的な民族ではない(各自の倫理観に頼ることができない)から、
宗教(による統制)がなければならない、とさえ言えるのだ。


平時ならばいざしらず、有事となれば、
道徳という皮を脱ぎ捨て、多かれ少なかれ本性を表すわけである。

人のことを想うということを、
単に外的な規範からの推論や他者の模倣としてだけではなく、
心の奥底から湧き上がる実感として持っておいてほしい、
「我が一身に繰り返す」かのごとく理解してほしい、
と言う理由がわかってもらえればと思う。

◆◆◆

さていつものとおり前置きばかり長くなってしまうのだが、
こう書いたことで、少しは興味が深まっていただければ幸いである。
本題をはじめよう。


「考え事が、同じところをぐるぐる回るのはなぜか」
という疑問について考えてゆくのだった。


さて、科学的な観点(唯物論)からすると、
人間というものも、もとは物質の中から生まれた生命現象から、
数億年という長い年月の果てに、進化を遂げてきた生物として説明することになる。
(観念論の立場ならば、いきなり「精神が存在する」と言える。詳細は後述)

そうすると、人間の認識の中にも、
その土台には物質と共通する一般的な構造が隠されていることになる。


もともとそれは、古代ギリシャ時代に哲学的な弁論術として究明をなされたのち、
「弁証法」という名前が与えられていたものである。

当時としては、哲学的な問答を経たあと、互いの認識が高まってゆくことによって
矛盾が乗り越えられる、という仕組みに着目されたものであったから、
その過程では何が起きているか、というところの解明はなされていなかったわけである。

それが人類が持つ最良の論理性として認められ、
2000年という年月を経た発展の後に、
いまでは、科学的な立場にたって法則化がなされている。

法則の良いところは、それが誰にでも使えるということである。

だから、今回わたしたちは、それに助けられながら、上記した問題について考えてゆこう。

◆◆◆


「しばらく考え事をしていると、いくつかの過程を経た後に、振出しに戻ってきてしまう」
そういうことが、誰にでもあるのではなかろうか。


「考え事の堂々巡り」である。


物事を簡単にするために2つの事柄を選ぶときにでも、
重要な決断をするときには、やはりそれは大きな問題として認識されるから、
その振れ幅も大きくなってくるはずである。

たとえば、誰かに結婚を迫られた時や、生涯の家を選ぶとき。
これも良いが、あれも良い。
いったん心に決めたつもりになったとしても、
誰かのアドバイスで簡単に揺らいでしまうことだってあるはずだ。

あれかこれか、と決断するときにすらこれだけの悩みなのだから、
その程度や内容を決めなければならないときなどは、
より一層の重みとなってのしかかってくるのだ。

◆◆◆

あることに悩みながら考えを巡らせるというのは、森の中をめぐり歩くようなものだ。


そのときの考え方を、歩き方になぞらえてみると、
考え事を始めたときには、なにもないところから手探りで考え始めるわけだから、
ゼロ地点から歩き始めるわけである。

そうして手探りに歩くとなると、どうしても蛇行しながらとなるから、
出発点からその地点を直線で結んだ道よりも、遠回りをしているはずだ。

それを円形に単純化して、30度、45度と歩んでいき、
つまり悩みながら考えを進めて、180度のところにまで来たとき、
自分はこんな道を歩いてきたのだ、ということがわかるとしよう。



その地点から0度のところを振り返ってみると、
文字通り、180度違うところに出てきた訳だから、
いまは元とは反対の側に立って物事を考えているのである。

その道程を思うと、
「迷いながらだったから道のロスも多かったけれど、
それでもずいぶん遠くまで来たなあ」、
という感慨と共に、
「あのころはなんだか幼かった、あれくらいの考え方しかできなかったのか」、
となんだか恥ずかしい気もしてくるものである。

◆◆◆

ところが、
「さてここまで来たけれど、まだ先があるのではないか」、
と思い直して、再び歩き出してみたとしよう。

そうすると、今度は、210度、225度と歩んでいき、
いつかはついに、360度の地点に出てしまうことだろう。



見覚えのあるところに出てしまった、という感触とともに、
ああなんだ、これは結局0度のところ、つまり出発点に戻ってきただけだったのか、
という感想を持つはずである。


白い服に決めていた立場をひっくり返して黒い服を選んだはずなのに、
カタログを眺め直していたら、また黒いほうが気になってきた…

株を手放そうと思っていたのに、もう少し持ってみたほうがいいような、
しかし妻の意見ももっともだ…


こういう考え事における逡巡のあり方を、
一般化して論理としてとらえることができれば、
今回紹介したひとのような経験則を持つことになるのである。

◆◆◆

しかしそうすると、
「回りまわって元の所に戻ってきたということは、
まったく歩かなかったのと同じことだろうか?」
という疑問が湧くに違いない。

これは森を歩くというたとえであるから、今回の話に表現を合わせれば、
「ぐるぐると考えをめぐらしてきたはいいけれど、
結論としては元の所に戻ってきたのだから、
なにも考えなかったほうが良かったのだろうか?」
ということになる。


これは、感性のレベルの認識ではあるけれど、たしかに一面の真理を捉えている。
0度から180度までの運動が「否定」、180度から360度も「否定」、
つまり、「否定の否定」という、弁証法の法則のひとつである。

これは、今回の場合には認識における運動法則を表しているのであるが、
歴史の流れを見たときに、それが大局的には「振り子の振れ」のように見えることからも、
導いてくることができる。

◆◆◆

弁証法について勉強をしている人であればご存知だろうが、
「否定の否定」の過程を経るということは、それは元の段階が、
ひとつ高まっていることを表しているのだ、ということ知っているはずだ。


では、先程の森の散歩のはなしのどこに、
「段階が高まった」という要素があるのか、と思われるだろう。

それは、「円」という例えではなく、
「螺旋階段」というイメージで考えてみればわかりやすくなる。



真上から見ていると、円周上をぐるぐると回っているようにしか見えない場合にでも、
それを横から見れば、元の所に戻ってきているように見えて、
実は一段階、上に出てきているのだ。


弁証法の法則でいえば、螺旋階段を一歩ずつ登って厚みを増してゆくことが、
「量質転化」にあたる。

その一歩ずつは小さくとも、大きく見たときには「否定の否定」的な進化をとげている、
というものである。


◆◆◆

こういうわけで、弁証法は、原因と結果という二元論や、
まったく相容れない0度と180度、右派と左派といったような形而上学的な捉え方を越え、
その「過程」にこそ、本質が隠されていることを主張するのである。


過程の中で出合ったものこそが、そのものの本質を作り上げている。
これが、残された弁証法の法則、「対立物の相互浸透」ということになる。

生物を例にとれば、
クラゲが魚類に進化したのは、その時の地球に海流ができはじめ、
泳ぐ必要が出てきたからだし、
魚類が両生類に進化したのは、大陸が隆起して、陸地ができてきたからである。

どちらも、生物種と環境の、互いにたいする影響の与え合い、
つまり相互浸透なのである。


小さく見れば、赤の他人であった夫婦が似てくること、
はじめは靴ずれしていたのにだんだん慣れてくることもおなじである。

◆◆◆

前回のエントリーの冒頭で紹介した友人は、
わたしのここまでの説明で、
「なるほど、そう理解すればいいのですね」と言ってくださった。


学問というのは、「役に立つ」ことが実感できる段階に到達するまでに、
途方も無い時間がかかるものなのだが、
「納得できるかどうか」が最重要である人にとっては、
直接的に救いになるものなのである。

ついでに言っておくと、
以上の説明が、形式的な説明なものにもかかわらず納得できる理由は、
ひとつに彼女の「感受性」というものに助けられて(対立物の相互浸透)、
端的な表現の行間を、彼女が埋めてくれている(量質転化)からである。

◆◆◆

弁証法については、誤解が少なくないから、
すべての批判についてみてみるわけにはいかないのだけど、
それが「あまりにあちらこちらに当てはまりすぎている」ことを指摘されることは多い。

そういうことが気になってくると、弁証法といいながら、
結局はあらかじめ用意した形式に、
目の前の事象を無理やり押し込めているだけではないか、
という疑念が湧いてくるのも無理はないと思うのだ。


しかし頭から批判するつもりがないのに、
その有用性を認識しないままに等閑視してしまうのはあまりに勿体無い。
なぜなら、何回も言うが、弁証法というものが、
「森羅万象を理解するときの、人類が持ち得た最高の論理性」だから、である。


今回は主に個人の中の認識についてみてきたが、
こういった疑念については、大きな視点から見たときのほうが、
理解してもらいやすいので、次の回には、そういった視点から論じることにしよう。

その理由というのは、大きな視点で見ると、
「あれかこれか」としか考えられない論理であるところの、
「形而上学」なものの見方との比較において、
弁証法というものの見方の有用性を確かめられるからだ。


今回のおはなしの中では、少なくとも、以下の基本線をおさえておいてほしい。


弁証法は人類が持ち得た最高の論理性である。

そして、それは3つの法則から成り立っており、
全体像としては、平面的なのではなくて立体的な、
それも螺旋階段のようなものである、とイメージしていただければよい。

◆◆◆

机に向かって考え事だけしているつもりの学者と違い、
現実に向きあたって弁証法を身の回りの事象に適用してみる場合には、
それが最終的には「像」として持てておかねばならない。

チワワ、キリン、オラウータンを「哺乳類」という「像」でくくれるように、
量質転化、相互浸透、否定の否定を「弁証法」という「像」でくくれなければいけない、
ということである。

だから、これは単なるイメージとしてではなく、弁証法の教科書の再読を通して、
あくまでも「像」として持てているかどうかを確認しておいてほしい。


弁証法の像を簡単に使って武道の修練で例えてみると、
はじめは意識しても技が使えない段階から、
師の導きに学ぶこと幾千日、
修練を重ねるうちに意識して技が使える段階へ、
そして最終的には、意識せずとも技が使えるようになってゆく。

つづめていえば、「相互浸透」的な「量質転化」の後の「否定の否定」である。

最終的な段階から初心を振り返ると、双方ともに「意識していない」という意味合いでは
共通しているから、これが「否定の否定」にあたる。
(もっとも、これはあくまで例えの段階にまで極度に一般化しているから、より深い構造が隠されているし、上達論とはまったく異なっているのは言を待たない。)

◆◆◆

さて、ここまで念を押しておけば、あるていどの納得はしてもらえただろうか。

ほんとうならば、わたし自身の考えてきた過程や、思い悩み、回り道などを
陳述したほうがより具体的にはなるのだが、ここで書くような性質のことでもなし…


余談だが、
SNSなんかでは、そういうことを「公開」している御仁がおられる、
というか、そういうことをするものらしいのだが、
そもそも日記というものは、公開するということに馴染むものではないはずである。

読者を想定した日記というものが、物語じみてくるのは、
読者としては真に迫るものなのだろうか。
返されたコメントを見て、当の本人は納得できるものなのだろうか。

もっとも、なんの論理も含まないたんなる書きなぐりでよいのなら、
そんなことに悩む必要もないのだけれど。


よけいなおせっかいだとは思いますが、
本当にちゃんと悩んだり考えたりしたいのなら、
自分なりに最高の話し相手というものを、
ちゃんと見つかるまで探したほうがいいと思いますよ。

一番大事なことは、そんなおいそれと、
誰にでも見せられるようなことではないと思うのです。

文学考察: 気の毒な奥様―岡本かの子

コメントを書いたけど公開し忘れたものがあったのでいくつか。


いまこのブログで論じていることの主な流れというのは、
「人の気持ちを理解するためにはなにが必要か」
「感受性とはどういうものか」というものなので、
そういう文脈で一言前置きをさせてください。

◆◆◆

わたしがこのブログで取り上げてコメントしている、
文学作品とその評論についてなのだけれど、
なぜわざわざこちらへ転載してまでコメントしているのか、
とお考えになったことはあるだろうか。

しかも、内容をちらと読めば、こんなことを思われても仕方がないはずだ。

「一度も評論をまともに褒めたことがないようだし、
飛び交っている言葉といえば、一方的な罵声に近いものに見える。
このコメント者(わたしのことですね)というのは、
重箱の隅をつついているようなことをして、
馬鹿正直についてくる後輩をいじめて悦に浸っているだけなのではないか。」

なるほどそういった誤解も、やむを得ないことかもしれない。

◆◆◆

この際なのでご説明しておくと、
わたしがこの評論にたいして行っているコメントのやり方については、
「文学作品の評論を通して、その作家の論理性を確認し、獲得する」
という目標を常に念頭においたものとなっている。

そうであれば、誤字脱字は当然ながら、一切の論理的な飛躍も許さないし、
少なくとも、過去の文学作品のうちにある論理性が見えてこないようでは、
文学者でもない門外漢であるわたしを絶句させるくらいの表現がなければ、
新しい道を築いてゆくことはできないのだ。


だから、
思想性に劣る時や志に陰りが見られるとき、
言いたいことはわかるが表現がまずいとき、
細部はあっていても本質を捉えられていないとき、

などには、それぞれ

「この体たらくでは評論と呼べない」、
「何が言いたいのかわからない」、
「結論からいえば、(論者の見方は)誤りです。」

といった、厳しいことばが飛ぶことになるわけである。


おまけに、こうして公開された上で叩きのめされるというのは、
何にもまして堪えることは、百も承知である。
それでもあえて、の理由は、文学とは読者がいてこそ、だからなのだ。
読者の存在を失念したり、読まれることを恐れていては、
文学者足りえないのは当然であろう。


この一連の評論とコメントには、おおまかにはそういった意味合いがありますので、
もし内容まで読まれている方がおられましたら、そういうことをご理解いただければ、
と思うわけです。

わざわざ言わずともよいことを申しておきますと、
「人の気持ちがわかる」という観点からするものの考え方は、
「ヤレヤレいつもあんなに怒られてどうしようもないものだ」、
という人の失敗への快哉ではなく、
「あんなに怒られても懲りずに再び立ち上がるのは大したものだ」、
というように、人のことでも我が一身に起こることのように捉えて、
そこから我が身に返って評価する、といったものであってほしいということなのです。

ぜひとも、道を歩む人間へのご理解を頂きたく。

◆◆◆


文学考察: 気の毒な奥様―岡本かの子

◆ノブくんの評論

 或る大きな都会の娯楽街に屹立している映画殿堂で満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されている夜のこと、そこに鬢はほつれ、眼は血走り、全身はわなわな顫えている一人の女が飛び込んできました。女はそこにいた少女たちにこう告げました。
 「私の夫が恋人と一緒に此処へ来ているのを知りました。家では子供が急病で苦しんでいます。その子供を、かかり付けのお医者様に頼んで置いて、私は夫をつれに飛んで来ました。どうか早く夫を呼び出して下さい」
 それを聞いた少女たちは彼女の夫を探すべく、彼女とその夫の名前を尋ねました。しかし女は自身の名誉のため、名前を告げることをためらっている様子。そこにある「才はじけた少女」が全てを心得、「筆を持って立札の上に、女の言葉をその儘そっくり書きしるして、舞台わきに持って行って立」ちました。ですが、この後、少女が予想もしなかった意外なことが起こってしまうのです。
 この作品の面白さは、〈現実と少女たちのある認識のギャップ〉にあるのです。
 「才はじけた少女」は恐らくこう考えたはずです。子供と奥さんがいながら浮気をする紳士もそう多くはない。こう書いておけば夫は特定できるはずだ、と。ところが、現実には浮気はしている紳士は彼女とその他少女たちの予想に反して多く、この紳士たちの姿を見て世の中の奥様を哀れんでいるのです。
 さて、こう言った現実と私たちの認識との間にあるギャップというものは、私たちに驚愕と関心をもたらしてくれます。現に今日の多くのテレビ番組では、私たちの認識の塊である常識というものにまず着眼し、現実とどうずれているのかを暴くという構造が主流であり、多くの視聴者はそこに関心を寄せています。この作品もまた、私たちが少女たちの立場に立つことによって世の紳士の実態の一部を知り、そこに興味を持つことになるのです。

◆わたしのコメント

 子供の急病のために夫を探す妻のために、映画館の受付の「才はじけた少女」が機転を利かせます。「恋人を連れた男の方、あなたの本当の奥様が迎えにいらっしゃいました。お子様が急病だそうです、至急正面玄関へ」。彼女の立札を見て、数十名の紳士たちが受付へと殺到したのでした。

 それがこの作品のあらすじです。

 はじめに余談から指摘しておきます。論者は、「才はじけた少女」が、名前は知らせてほしくない、という「女」の要望を聞き機転を利かせた理由を、少女が「子供と奥さんがいながら浮気をする紳士もそう多くはない」と思った、としています。このことについては、推測の域をでないながら修正を加えておきますと、少女は、他の紳士たちが浮気をしていることそのものを想定していなかったのではないでしょうか。あらかじめ複数の紳士が受付へと急ぐことが想定できていたなら、「女」に、より詳しい紳士の特徴などを聞いて、そのことを立札に盛り込んでいたはずですから。

 ともあれ、この物語の面白さが、少女の計らいが、劇場内で浮気をしていた紳士の多さを「図らずながら」露呈した、ということにあるのは事実です。そうすると、それをどう整理して深めてゆくかが評論をする者の力の見せどころ、ということになります。
論者は、その論理性を引き出してこようとしたようで、「この作品の面白さは、〈現実と少女たちのある認識のギャップ〉にある」、としています。いうなれば、「現実」と「少女たちが持つ認識」の矛盾を指摘しているわけです。

 ところが、「矛盾」といえば、そもそも森羅万象と認識の間には、それが横たわっているのです。論者の指摘した矛盾というものも、無限の森羅万象を、有限にしか認識し得ない人間にとって、必然的で不可避な、ごく一般的な矛盾なのであって、この物語に特有のものではありません。言い換えれば、論者の指摘した矛盾は、一般的すぎる、のです。
 現実と認識の間に矛盾が存在するという一般的な構造を指摘しても、その作品を論じたことにはなりませんから、より突っ込んで調べてみる、ということが必要です。

 本質的な構造を捉えて言えば、「少女」は「夫」を探し出すために工夫して立札を用意したのですが、それを見たのは目的の夫だけではなく、その他の男性たちも含めてでした。そうすると、彼女のせっかくの工夫が、思わぬ副作用をもたらすことになったのです。
 そういう物語の結果から見れば、「少女」の特質をたたえた「才はじけた」という表現は、かえって皮肉の性質を帯びてくるわけで、そこにこそ、この物語の面白さというものがあります。

 「少女」が、「女」のために「夫」を探すためのうまい方法はないだろうか、と考えたところまではよかったものの、その表現が「女」のそれをそのままに横滑りさせたものだったために、この茶番が起こったわけです。そうすると、この作品は、一旦表現になったものは、受け取り手の判断いかんによっていかようにも読み取られる、というところに、本質があったことになります。言い換えれば、ある者の表現というものは、他方ではそれを表現した者の手を離れた面もある、という相対的な独立や、また自己疎外を示しているのだ、ということになるでしょう。