前回の続きです。
「思想」と「哲学」の区分について、
「弁証法のほんとうの有用性とはどういうものか」、
「新しい立場を標榜する学問主義が陥りがちな一般的な誤り方とはどういうものか」
などについてはここに記しておきました。
◆◆◆
「思想」と「哲学」の区分について、
「弁証法のほんとうの有用性とはどういうものか」、
「新しい立場を標榜する学問主義が陥りがちな一般的な誤り方とはどういうものか」
などについてはここに記しておきました。
◆◆◆
ここまで論じてくると、こういった反論がありそうです。
「そうは言えるかもしれないが、一つ目の現象にも<相互浸透>は働いているし、二つ目の現象にも<量質転化>は働いているはずだ。その証拠に、日本と比較せねばヨーロッパのキリスト精神の理解度はわからなかったのだし、友人の理解というのも、幼い頃からの蓄積があってこそではないか。どちらにも含まれている法則を、それぞれ片方ずつ取り上げるのは恣意的であろう。」
ここまで明確ではないにしろ、「そこまで細かいことを指摘しなくても…」や、「日本の誇る文豪になんということを…」といった、感情的な違和感や反論はありえることです。
ただここで指摘していることは、学問的な「論理性」から見たもののわけですから、文豪といえど、学問的な修練を経ていない人間にそれほどの論理性がなくても、実のところそれほど驚くべきことではありません。太宰の見方は、ある現象と他の現象のあいだに「共通点」を見て取っているだけで、その論理性を深く追求した上で、同じ論理を含む現象を同列に論じているわけではありません。つまり、「学問」のレベルには達していない、ということです。加えて、「論理性」というものは、人類が培ってきた「過程性」にこそ、その根拠を有するものなのですから、仮にも時代を前に進めるつもりならば、階段を踏み違えるわけにはゆかないのです。そういうわけで、重箱の隅をつついているわけではありません。
ここまでが、ありうるはずの感情論への、学問の立場からのご説明です。
そうことわったうえで、太宰の物事の見方が思想レベルでしかない、というのは、以下の理由によるものです。まず、あらゆる現象の現在の形態だけを見てとって、その過程性を看過して論じることは、論理という名では呼べないものなのです。それは言ってみれば、「思想」レベルの解釈でしかないのであって、そういった知識をいくら増やしたところで、体系には決してなってゆきません。そのことはつまり、それが「学問」ではない、ということを示しています。
◆◆◆
わたしは前に、こういうことを指摘しました。(移転する前のブログのエントリーですね)
ヘラクレイトスが「同じ川に二度入ることはできない」、「万物は流転する」と言い、
鴨長明が「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」と言い、
仏陀が「諸行無常」と言ったのを空海が「いろはにほへとちりぬるを」と言い、
ヘーゲルが「世界は絶対精神の自己運動だ」と言ったという、
時代的に現れたものを、ずらっと横並びにして論じても、学問的にはなんの意味もありません。
そういう類似性だけを指摘して、人間はいつの時代も同じだ、
などと言った瞬間に、その主張は学問の道を踏み外し、思想でしかなくなったことになります。
あくまで学問の立場を堅持しようとするなら、
その発言が、感性的な認識でしかないのか、
人間の認識を定式化したものなのか、
森羅万象を法則化したものなのか、といったふうに、
それがいかなる論理性によるものなのかをこそ、とらえていなければなりません。
◆◆◆
いわゆる研究者を自認する者の中にも、論理を見て取ることをせずに、極めて常識的なところにとどまった見方しかできない人間は少なくないのです。しかし学問をしているふりをしながら、単に目の前の現象を他とは違った角度で解釈しているにすぎない研究というものを、許すことはできません。こうした解釈を現実に押し付けるだけの研究は、その見方が現実のあり方になんらの影響を与えない、空想的なものにとどまっている場合には誰を傷つけもしませんが、それが現実に力を及ぼすとなった途端に、ただちに害をもたらします。
このような文脈でいえば、弁証法を使った探求の中で最も重要であるのは、論理性が、「どのようなレベルなのか」を見極めることにある、ということです。そうであれば、手当たり次第に目の前の現象に3つの法則が当てはまることを見つけて、ここにもあそこにも、同じ法則が当てはまっている!と喜んでいても、なんらの進展も見込めないというものです。
言い換えれば、論理によって現象を一般化するという作業は、なにも「物事を浅く、大雑把に捉えるため」にしているのではなくて、それとは反対に、「物事に潜む法則性を、より深く探求してゆくため」にこそ、必要なことなのです。
◆◆◆
弁証法が、森羅万象の理解のために人類が持ち得た最高の論理性である、というのは、あくまでも、「その論理性を以てすれば、あらゆるものを<つっこんで>考えてゆける」、という意味においてなのであって、「その論理が森羅万象に遍く存在する」ことを指摘したところで思考停止するためにあるのではない、ということに注意しなければなりません。言い換えれば、ある現象と別の現象を一般化したあとで、そこに共通の論理性が働いていることを主張したからと言って、なんら新しい発見をしたことにはならないのです。
繰り返しますが、弁証法を用いたものの見方においてもっとも重要なのは、弁証法という論理に照らして物事を見て、つっこんで考えたときに、その現象の中に、どういうレベルの論理が働いているかということを指摘することです。
ですから、たとえば、「結婚した友人が、夫婦関係を長く続けるうちに、妻の口癖がうつって来た」という現象と、「革の加工は木の加工よりも、革の持つ柔軟性に助けられてやりやすいものとなっている」という現象をみて、ここには「対立物の相互浸透」という法則がともに働いている、と指摘することは、修練の段階ならまだしも、積極的な意味はないのです。
こんな説明を、弁証法を知らない人が聞いて、「そうかなるほど、深い見方をしているものだ」と思うでしょうか。それとも、「こいつはなにか怪しげな宗教にでも入ったか。そんな当たり前のことにぶつぶつと自前の法則を押し付けて、自慢気に語るなどとは…」と思うでしょうか。
ほとんどの場合は後者の反応でしょうから、続いてこういう批判が成り立つことを許すのが落ちというものです。「弁証法、弁証法などという人間は、どこにでも弁証法が働いているというが、結局指摘できるのはこの程度のことなのか。そうすると、弁証法などというなんの役にも立たないものは、さっさと棄ててしまったほうが、研究を前進させるのには都合が良さそうだ…」。
つまりこういう言い方では、弁証法を駆使したことにはならないどころか、それが最も否定するはずの、単なる解釈の域を出ないわけです。繰り返しますが、弁証法はあくまでも、物事に潜んでいる論理のレベルを正しく評価できるところにまで高まっていなければ積極的な意味は出てきません。初心の段階では、身の周りの事柄に、3つの法則を当てはめてつぶさにみてゆくことが必要ですが、それはあくまでも出発点に過ぎません。ですから、今回論じたことのように、より深い論理は隠されていないか、という姿勢を常に持ち続けてください。
◆◆◆
さいごに大前提に還れば、人類の文化というものは、脇道にそれることはあっても、長い年月で見れば間違いなく質的に進化を遂げているのです。その「流れ」がなければ、「論理」というもの自体がありえません。それを無視して、価値中立論や相対主義などを標榜したところで、それは歴史性を踏まえる努力を放棄するための逃げ口上でしかありません。そのことがわかっていてはじめて、わたしたちにできることは、自らが脇道にそれることを、最大の自制心と自省の念でもって防ぎ、歴史に新たな第一歩を、との努力であると意識できるはずです。
(余談ですが、哲学・科学史上に現れたところの、観念論・唯物論という二大世界観を超えてゆく(?)ことを目指すならば、それらを感情的に捨て去ったりいきなり統合しようとするのではなくて、せめてそれらの生成と発展の過程を慎重に検討した上で、それらそれぞれが主張することに耳を傾け、そこから見える世界を見聞きし、互いが高めあっていったという歴史的な経緯から論理を引き出したことをふまえて、それをさらに否定の段階へまで高めてゆくことが、唯一の方法論であるということくらいわかってほしいものです。「ヘーゲルは熱病者」だとか、「マルクスは死んだ」ということは、彼らに「自分の手で」引導を渡してからでしか、言うことができません。)
◆◆◆
いろいろと盛り込んだせいで長くなりましたが、論者には、わたしの常々指摘している内容を、単に口真似したり無批判になぞらえる姿勢を改めて、自らの言葉でもって、作品を論じる日が、一日でも早く来ることを願っています。(裏をかえせば、論者はいま、そういう段階になりつつある、ということです。ただ批判をしたくてしているのではありません。)そうするには、論理性への心がけはまだしも、知識的な習得がなおざりになってはいけません。常々批判されている原因として、数少ない手持ちの知識をつなぎ合わせるところに無理があるのだ、と理解すべきです。論理性の正しさを論証するのにも、自らの専門の道についての、深く、広い理解が伴っていなければなりません。
これは論者だけではなく、この記事を読まれている読者をはじめ、わたし自身への戒めでもあります。ここでは個別の知識については深く触れられませんから、論理的習得のほかに、自らの専門の知識的な習得を怠る事のないようにと誓ってください。専門的な分野での論理的な分析は、そこで武器とされている弁証法との相互浸透によって、互いに高められてゆくものです。論理と知識は、手段や表現を問わず、あらゆる仕事について、自らの得意なことで万人の幸せを願うなら、当然に必須の条件なのですから。