2010/12/08

文学考察: 貨幣―太宰治

文学考察: 貨幣―太宰治


◆ノブくんの評論

 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく、他人を必死で助けようとするある人間の姿〉が描かれています。
 それはこの貨幣の彼女がある陸軍大尉の懐に巡ってきた時のことでした。その大尉というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女と、なんとその女の赤ちゃんまでも罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。自身の命が危うい中、ましてさっきまで自分とわが子を罵っていた男をそうまでして守ろうとするその姿に私たちは心をうたれてしまいます。
 この貨幣が見てきたように、世の中の人間の中には自分のことだけを見て、他人ことなんて全く考えていない人々が多くいます。その一方で、このような女性の姿を目にした時、その心の美しさに感動するのです。


◆わたしのコメント

 論者は、この物語である百円紙幣の「私」の見解を、こう理解しています。戦中の最中で食うに困りながらも必死に生きている「母子」と、それを罵る「大尉」は、まったく正反対のな性質を持っているのだ、と。そして「私」は当然ながら、他人のことなど顧みない醜い「大尉」の姿と対比させて、「母子」の「心の美しさに感動する」と言っているのです。

 しかし、本当にそうでしょうか。
 「私」が、「母子」の姿に共感と、人間の尊厳を感じ取っているのは確かです。ですが、「私」の述懐しているところを見てみましょう。彼女はこう言っているのです。
 「貨幣がこのような役目ばかりに使われるんだったらまあ、どんなに私たちは幸福だろうと思いました。」
 繰り返しますが、彼女は、私たち貨幣が、「こういう使われ方をするのなら」、どんなに幸せか、と言っているわけです。そうすると、それがどんな使われ方だったのかが問われることになりますね。そうして、その使われ方というものは、それまで彼女が抱いていた、人間の貨幣にたいする扱い方と、一体どんな違いがあったのでしょうか。

◆◆◆

 自力で答えを導いてほしいがために、こういったぼかした表現をしていますが、論者の論理性が、ここ2回の評論で、目に見えて失われていることがなにより気がかりです。

 論者は、「論理性」というものを、わたしがいつも言っているような、「人の気持ちに立って考える」ということと混同して同一視してしまっているのではないでしょうか。もしそうだとすると、勘違いも甚だしい、と言うべきです。
 論理性というものが、他者の気持ちの理解をたすけることは当然ですが、だからといって、「論理性」を、なにか人間性やヒューマニズムなどといったものと勘違いされては、いままでの指導はなんのためだったのか、と頭を抱えたくなります。

 「論理性」を正しく身につけ、現実を理解するときにそれを正しく適応して、人の気持ちを理解するということは素晴らしいことです。それはたしかです。
しかしそれは、「人の気持ちを理解することは素晴らしい」という結論を、あらかじめ自分のアタマの中に持っておいて、それを現実のあらゆるところに押し付けて解釈することとは、まったく違います。

 前者を「過程を追って一から理解すること、本質的に理解すること」だとすると、後者は、「たんにあらかじめ用意した観念を押し付けること、解釈を押し付けること」でしかありません。

◆◆◆

 わたしが、こういった文学作品の理解のために、観念論ではなくて、科学の立場から法則化されたという意味で明確な、唯物論的な弁証法を「あえて」使っているというのは、それがなにより、「価値から切り離されており」、「明確だから」です。観念論的な考え方を採用すれば、「人間が生きるということは素晴らしい」や、「人間が理解し合えることは素晴らしい」といったことが、それほどの思案を経ずともすぐに言えてしまうのですが、しかしそれと同時に、論理と価値というものの区別が明確につけにくい、結果論理を踏み外していても気づきにくい、という負の側面も背負ってしまいます。

 それが、はたから見れば、「評論と言いながら、論理論理などといって、最も大事な人間性を捨象をしている形式主義で無粋である」、という謗りを予期しながらも、それでも唯物論的な弁証法の法則を使って、階段を一から作り上げていける指導をしている理由です。ここに働いている「あえて」の論理は、学問史の流れを個人の発達の段階になぞらえて受け止められていなければ理解出来ないものですから、その理由はどうしても明確に像として描けないはずです。おそらく、これを読んでいるほとんどの読者にまるで理解されないでしょうから、上で述べたような誤解を少なからず持たれていることと、いつも思っています。しかしそれでも、論者の将来の力になればと思えばこその修練なのですから、自らが階段を踏み外していないか、ということを常に心に留めておき、自分の作品を読み返しながら、そのことを誰よりも覚悟と、強い自制心をもって確認してください。それを一番見ているのはわたしではありません、あなたです。

 いまのあなたの場合であれば、「自分の持っている人間性を前提にして、それを押し付けて作品をしていないか」、ということです。つまり、解釈ではなく本質的な「理解」をしているか、ということを確認せねばなりません。

 現実の世界で考えてください。もし誰かを看護することになったとき、その人の内面におこる過程を「理解」せずに、表面をなぞらえて「解釈」することが、いかなる不幸を引き起こすことになるかは想像できるはずです。それは、物語にたいする姿勢でも、同じことです。たんに違うのは、物語を誤って理解したとしても、目に見える形では誰も傷つかず誰も死なない、ということだけなのです。ですがそれは論者が、物語という性質に助けられただけ(対立物の相互浸透)です。あなたは、文学をとおして人を幸せにしたかったのではなかったですか。そうであれば、文学の性質に甘えて、三流の姿勢に落ちてゆかぬよう、志高く、を常に心がけてください。

◆◆◆

正誤
・そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。
→そんなどうしようもない大尉をも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。
より正確には、
→この女性はそんなどうしようもない大尉をも、その命が空爆の危険に晒されたときには必死に守ろうとしたのです。
・他人のことなんて全く考えていない→他人のことなど全く考えていない(「~なんて」は口語表現)

2 件のコメント:

  1. 「論理」「感情」区別するのは大変ですね。ノブ負けるな。

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  2. どんなに酷く辛い環境で、堕落して行きそうな自分に陥っても、明るい未来を思い描いて、>学問史の流れを個人の発達の段階になぞらえて受け止め<、自分の「夢」、「目標」…を見失わず、諦めず、自分自身を騙し妥協したりする事なく、最後まで頑張り続けたいですね…

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