2010/12/14

文学考察: 虻のおれいー夢野久作

文学考察: 虻のおれいー夢野久作


◆ノブくんの評論
 今年六つになる可愛いお嬢さんのチエ子さんはある時裏の庭で一人遊んでいると、一匹の虻がサイダーの瓶の中でもがいている姿を目にします。苦しそうにしている虻を、彼女はどうにかして助けてあげようと奮闘します。果たして虻は無事瓶から出ることが出来るのでしょうか。
 この作品では、〈情けは人の為ならず〉ということが描かれています。
 結局、チエ子さんはどうにかして虻を助けることが出来ました。虻は彼女にこう言いました。「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」そしてこの約束は後にちゃんと果たされることになります。
 その数日後、チエ子さんは一人で留守番している時、泥棒が家の中に侵入し、なんと彼女の命を狙おうとします。そこに以前彼女が助けたあの虻が現れ、身を挺してチエ子さんを守り抜きます。そしてその結果、チエ子さんは助かりましたが、虻は泥棒にやられ、その一生を終えてしまいます。ですが、彼は見事彼女への恩をこうして返すことが出来たのです。しかしチエ子さんは自分の為に虻を助けたわけではなく、本心から虻を助けたいと思い、瓶から出してあげたのです。この本心からの行動が虻を感動させ、彼女の為に命を賭したのでしょう。

◆わたしのコメント

今年六つになる「チエ子」は、サイダーの瓶に落ちて出られなくなっていた「虻」を四苦八苦して助けます。そこからはじまるこの物語は、いわば「虻」の恩返し、といったわかりやすいもので、論者はそれを忠実になぞって理解しようとしたようです。論者の書いた評論というものは、この物語をそのままの形で理解したならば、悪くないものに仕上がっているのですが、理解の深さからいえば、表面的なところにとどまっているように見えます。そう言うのも、この評論では、物語を掘り下げて読者の理解を助けたり、読者に新しい見方を与えたりはできないからです。物語を素直に読んで理解できるようなレベルのことしか書かれていないときに、誰が評論など読むものでしょうか。

では、そういった現象論的な理解を脱し、少しつっこんで論じるには、どういう視覚からの論述にするのがよいでしょうか。そう考えたときに、この物語が典型的な児童文学であることに着目すると、児童文学の一般的な成り立ち方を見てゆくことができるはずです。

◆◆◆

この物語には、「チエ子」が助けた「虻」をめぐって、2つの世界観が成り立っています。そのどちらもが共有している事実は、「チエ子」が助けた「虻」が、彼女が泥棒に襲われるという危機を、身を呈して救った、というものです。

まずはじめの見方は、「チエ子」の側のものです。彼女は、自分が「虻」を助けたときに、「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」と言ったと思っています。ですから、彼女の中では、この物語は、「虻のおれい」という、虻の恩返しに他ならないのです。泥棒の危機が去ったあとも、やはり彼女は「お母さん、御覧なさい。この間の虻が泥棒を刺したのよ。あたしが助けてやったお礼をしてくれたのよ」と、虻の気持ちを疑うことをまるでしていません。

かたやもう一方の見方に目を向けると、「お母さん」と「お父さん」の側のものです。上で引用したように、「チエ子」が「虻」を助けたあと、それが恩返しを約束したのだと聞いた「お母さん」は、「大そうお笑いにな」って受け止めたものです。泥棒の危機が去ったあとの「お父さん」の反応を見ても、やはり「『あぶとお話した子は世界中でチエ子一人だろう』とお笑いにな」ったのですから、「お父さん」も、「お母さん」と同じ立場から、「チエ子」の言動を見ていたということになるでしょう。彼らにとっては、「虻」が泥棒を刺して「チエ子」を助けたというのは、単に自然界の偶然の出来事なのであって、決して人間と自然が心通わしたという証拠ではないのです。

◆◆◆

同じ事実を見るときにも、その説明の仕方が全く異なるという2つの世界観を整理してみると、ここには児童文学というジャンルの、典型的なあり方が現れていることがわかってくるのではないでしょうか。この物語は、多くは「チエ子」の側の表現に始終する児童文学にあって、「お母さん」と「お父さん」の視点を導入することによって、その対比と、前者の立場を際立たせる効果を狙っています。

前者の「チエ子」の立場というものは、大人の世界観にまだ馴染んでいませんから、人間以外の、自然界の存在にまで、自分の持つ精神のあり方を延長させて(二重化して)理解する傾向が強い、ということになります。彼女の「虻」についての真剣な言いぶりを見ると、彼女は「虻」が自分の恩を理解し、おまけにそれを返すまでに高度な精神性を持っていることについて、絶対の確信を持っています。
逆にそれを見ている両親は、彼女の主張を、子どもらしい素朴な感情だと認めて尊重しつつも、実のところ、彼女の世界観を自分のものとして採用することはしていません。

両者の世界観を整理していえば、前者が物語的、観念論的だとすると、後者は事実的、唯物論的、ということになるでしょう。

後者の世界観による理解は、児童文学を楽しむ大人が、それをどういった仕方で理解しているか、ということと対応しています。
そしてこの物語を全体としてみれば、児童文学を創作するにあたって、どのような世界観でそれを構築してゆけばよいか、という方法論が見えてくるはずです。仮にも文学に携わろうとする者ならば、いま接している作品と同じものを、「どうすれば書くことができるのか」という問題意識を持って、作品の理解に取り組むことを忘れずにいて欲しいものです。

1 件のコメント:

  1. 何か(誰か)を助けた時に、
    なぜ助けたのか自問しても分からない。
    「ただ、体が動いた。」

    チエ子の世界を捉えるにも一苦労します。

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