2010/12/03

認識の土台について

昨日もどうでもいい話を書き散らしてしまったのだけど、
あれ、実は他のことを書こうと思っていたのだった。それがこれ。


わたしは前に、「わからないことはわからない」ということをわかっていることが、
物事を本当に知るときにはどうしても必要なのだ、と書いた。
そうしたら、何人かの人から、とても共感できる、という反応をいただいた。

具体的なことは一切書いていないこのブログの内容に、
わざわざ感想を送ってくださるということは、
よほど体験として同じ感触を持っている方なのだろうと思う。
(具体的な話なら、「ワタシもそれ好きだったんだ!」、「その歌手知ってるぅ〜!」とかって言いやすいもの)


古くはソクラテスが、最近の日本だと橋本治が、同じことを言っている。
わたしは唯物論の立場で研究をしているので、
ああいった観念的、思想的な書き方はいかがなものか、とも思ったが、
唯物論的に「わかる」という認識の作用を説明すると、
実に学問的な話になってしまうと思い、上のような表現に留めたものだ。

◆◆◆

ただそういう端的な表現だと、経験したことのある人以外にはなかなか伝わりにくい。
よくよく考えて見れば、わたしの言ったようなことは、二重の意味で誤解を生むかもしれない。

もともとあの文章は、何かをわかったと思ったときには、そこにまだ理解しきれていない
部分があるはずだ、という残心を常にもっておいて欲しい、という意味合いで書いたものだ。

そうすると、誤解のひとつには、
わたしの発言を見て、「オレもそう思う!」「ワタシも!」と安直に反応されると、
もともとの内容がまったく意味のなかったものになってしまうこと。

もうひとつは、
わたしが、物ごとの伝わらない誰かに対して、
「このわからずや!」とでもいいたげな文脈に見えてしまうということ。

◆◆◆

それでも読者の方が共感を覚えてくれたというのは、おそらく実体験でも身にしみているからだろう。
人の気持ちを読むことについては、自分が不理解を受けることもあるが、
自分が誰かのことを不理解のままだったのだ、と気付かされることもある。


わたしにも、こんな経験がある。

ある大学生の家庭教師をしていたときのこと、
勤務時間が長くなるために、月額でいえばけっこうな給料をいただいていたのだ。
それは月のはじめに手渡しで頂いていたのだが、生徒のお母さんが外出中には、
飲み物と一緒におぼんの上にポンと置かれていることがあった。

はじめはこんなところに置いておいていいものか、と思っていたのだが、
数カ月が経つ頃には、そんなことも思わなくなっていた。


そうして月始めを迎えたある日のこと、
いつもどおりにご自宅に伺うと、そこには学生さんだけが留守番であった。
わたしは鍵を閉めたことを確認して2階に上がって席に着く。
そうすると、おやっと思ったことがあったのだ。
学生の机の引き出しから、白いものがはみ出ている。
よくみると、いつも給料をもらうときの封筒と同じものである。

わたしは授業をしている間もそのことが頭から離れず、
「今日が月始めであること」、「学生の引き出しに白い封筒があること」、
というふたつの証拠を、どうしてもあるひとつのところに結び付けずにはいられなかった。
彼が買うつもりだと言っていた大きなフィギュアのことも頭をよぎった。


わたしがなにを思っていたか、いや疑っていたかはおわかりであろう。
しかし、いざ問いただそうとしても、言葉は喉の奥にひっかかって出てこなかった。
彼に、器質的な特徴があったこともあり、それだからこそ逆に言えなかったのだ。
心苦しいが授業の終わりにはそれとなく聞いてみるしかないか…
と思っていたら、玄関を開ける音がする。
学生の母親が帰ってきたのだ。

授業時間が終わる数分前というときに、お母さんが、
わたしの給料を持ってきてくれた。

◆◆◆

わたしは今思い返しても、あのときほど、自分の醜さを自覚したことはなかったと思う。
口から出なかったとは言え、なんというくだらぬ考えを持ったものか。
言ってみてくだらぬ奴だとばれてしまったほうが、いくらか収まりがよかったはずだ。


その学生さんは、覚えが悪い、集中力がないと、
あちこちをたらい回しにされた挙句、わたしに声がかかったひとであった。
そんな事情を知っていたから、わたしは学業がもっとも忙しい時期でも二つ返事に授業を引き受けたものだ。
はじめての顔合わせの時、どういう人なのか、わかった。
誰にもわからないかもしれないが、わたしには、きっとわかる。
わたしがこの学生さんを見てやらねば、彼はもはや、誰にも理解されぬだろう。
わたしが最後の砦、そう自負していた。
それなのに。

◆◆◆

ひとが、あることを考えるといった場合には、
その素材のもともとの形は、外部からの反映によって与えられたものである。
素材がどんな形に変えられていようと、やはりそうである。
(対象も認識も、先天的には与えられない。唯物論)

そうすると、あるていど状況証拠を揃えてしまうと、
あとはそうして育まれた問題意識の上に載せる形で、物事を認識してゆくことになる。
(対立物の相互浸透、量質転化)

そこでの頭脳活動はこうだ。
目の前にある表現が作られた過程を、
作り手になったつもりで自分の頭の中に思い描き直して、
その表現の作り手の認識を得ようとする。
(言い換えれば、表現の創出過程が、対象から認識を媒介に表現へと顕れるのとは逆に、
表現から対象へ、という過程を、作り手の認識を媒介として「遡る」。観念的二重化)


これが料理研究家のばあいには、
ある食事を食べたときに、
「これを私も作れるだろうか(=これを作った人はどんなことを考えていたのか)」
という視点で見ることになる。

他方、これが刑事のばあいには、
ある事件現場を見たときに、
「これは誰がやったのか(=これをやった人間にはどんな動機があったのか)」

という視点で、ある問題意識を持った状態で見ることになる。


当然に、これはあらかじめ強い問題意識が働いている場合だから、
なんの興味も知識も持たない場合には、そこから得られる反映も変わってくる。

論理的な教育を受けていない場合に、心霊現象と呼ばれるものが認識されるのも、
ある現象を目の当たりにしたときに、「誰が」という主体を考えずにはいられないからだ。
そうして人間の意志が働いていない自然現象にも、「誰が」と問いかけ、
霊魂だ、神様だ、悪魔だ、と結論づけることになってしまう。
(過度の一般化、つまり対立物の相互浸透)

対して、専門的に物事を考える立場にある人間は、
そういった常識的な見方から、さらに「つっこんで考える」。
その土台が、一般の常識的な人間が持つ認識の土台であってはいけないのは当然である。
武道をするときに、人間体で取り組んでは、いいところ喧嘩殺法にしかならないのと同じだ。

そうすると、人間にまつわるものをわかろうとすれば、
物ごとの探求に、「我が一身に繰り返す」という視点が、どうしても必要になることもおわかりであろう。

◆◆◆

一般に人間は、上で述べたような仕方で、別個の事象を「ひとつの流れ」として、
因果づけてとらえようとするから、その結果の形としては、
いわば「物語」のように見えるものである。

科学的な論じ方をするときにも、この「流れ」という性質は共通して見て取れるから、
そこを過度に一般化して、科学は物語である、といった極論も生まれてくるのだ。
(結論からいえば、科学のみならず学問一般は歴史性をその根拠とするから、
物語とは区別し、「相対的な真理である」、とするのが正しい)


しかし、ここにこそ陥穽がある。
いったんひとつの流れとして認められたときには、
それに属さないものが、ことごとく例外的なものとして、拒否される。

さらに悪いことには、認識しはしたもののその対象を意図して拒否するならまだしも、
認識の上にすら、その物事が上らない場合がある、ということだ。

(誤解を恐れずにイメージづくりの一助のためにあえていえば、こうなります。たとえば、本屋に行ったとき、手に取ってみるのはどんな本かを考えてみてください。どうしても、まったく関心のないテーマや色のものは調べてみようがないでしょう。そうではないものを知るのは、友人に薦められた時や、落ちていた本を拾った時くらいのものです。あくまでイメージとしては、とことわっておきますが、そういった経験と同じです。)


認識の上にすら上らないものは、当然ながら、
当人の姿勢がどれだけ「謙虚」を自覚したものであろうと、認識されない。
その土台すらないからである。
(だから、わたしのところに真剣に弟子入りしてくる学生さんには、それを決めた瞬間に、「これまでモノを考えていた土台は全部棄ててください」、と、もっとも難しく、厳しいことを要求します。)

認識されないものは、認識されない。
これが、「わからないものはわからない」と言ったことの内実である。

◆◆◆

わたしが挙げたのは、自分が誰かのことをわからなかった場合の例だが、
その反対のことだって往々にして起こりうる。

一般の読者の方々にとっては、こちらの経験のほうが、印象には色濃いはずである。

上司に「あれやっといて」と言われてやったが、
「これじゃねえ、なに聞いてたんだ!」と叱られた。
じゃあこれか、とやってみたけれど、「それも違う!」とまた叱られる。
「言われたとおりにやっているつもりなんだけど…」と自信を失うこともあるだろう。


上司だけに、あなただけに、また二人の間にだけ問題があるのではない。
また、「あれ」や「これ」と書いているから実感がわかない、
というのも本質的な問題ではない。
言葉が、そもそも対象の一般性としてしか表現し得ないものであるという性質に由来する、不可避の現象なのだ。


それとは反対に、わかっていて細かな工夫を凝らしたときにでも、
分かる人とそうでない人がでてくる。

わたしがロゴデザインをしたときのこと、
ロゴのバックに木目を手書きで薄く入れた。気づいたのは1人だけだった。

わたしが毎年大切に育てているカワエビの子どもが春先に生まれる。2mmほどである。
来客のうち、気づいたのは生き物が好きな保険会社のお兄さんだけだった。


知識があったり目が良かったりするのではない、認識の土台、問題意識が違うのである。

◆◆◆

ところが、「わからないものは未来永劫わからない」というわけではない。
これが救いである。

わたしのところに出入りしている学生のひとり。
来るまでは、自他共に認める、人の気持ちがさっぱりわからない人間だった。
最近では、人の気持ちがわかっていないということは、わかるようになってきた。


当人の志次第では、0から1を作ってゆくことができる。
それができるというのが、人間が認識の中にもった、唯一の希望ではなかろうか。

◆◆◆




…ここまで書くと、
お前は肝心なことを書いていない、
最も大事な、「わからないことがわかる」という過程はどうなっているのだ、
という声があるかもしれない。

この質問があるということは嬉しいことだけれど、
説明ばかりしているのもつまらないので、自分で考えてください。
キーワードは、「対立物の相互浸透」のあとの「量質転化」、です。
順番は崩せません。
もっとも、実は上にだいたいのことは書いてあるのですが。
(まとまりにやや欠けるのは時間の都合です。これ以上のことは直接お話ししましょう)

ここまで書いたら頃合いなので、つぎは自転車ツアーの話でもしましょうか。
実に関係のある話です、けむに巻いているわけではありませんよ。

2 件のコメント:

  1. 認識土台、肝に銘じておきます。
    仮説に対する正しい反証が行われなければ、猜疑心に悩ませられそうです。

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  2. >認識されないものは、認識されない。
    >「わからないことがわかる」という過程

    己をむなしゅうし、自己の行為に対し
    ての周囲の反応、評価を受け入れる。
    自分に自信を持ちすぎない。無知の知。


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