2010/12/16

ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか 01

ガンダムである。



先日、友人とメールをやりとりしていたら、どういうわけかガンダムの話になった。

「いまから振り返ると、小さい頃に何気なく触っていたガンダムに学んだことは少なくなかった。
とくに、そのデザインの変遷には、美的な論理性を磨かせてもらったように思う。」

わたしがなにげなくそう言ったら、友人から帰ってきたことばはこれ。

「それは面白い。どういう意味だ、詳しく説明せよ」

・・・こうしてこのブログは、
どんどんただならぬ方向へと突き進んでゆくわけである。

わたし(だけ)のせいではない。

◆◆◆

しかしこの友人、それが詳しく説明できると踏んでいるからこそ、
こういう話を振ってくれるのだから、出来る範囲でお答えせねばなるまい。


原理原則を掴んでおくと、どんな事柄でも、
ある程度のところまでは追い詰めてゆけ、
そしてまた、本質的な問題がどこにあるかがわかる。
(つまり、わからないということがわかる)

このエントリーを通して、そういうことを実感として把握してくれれば、
これほど嬉しいことはない。

ふざけているように見えるかもしれないが、
そういう意図があるから、あえてこんなエントリーを作る次第である。


そういうわけで、今回のお題はこういうことになった。
「ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか」

◆◆◆

結論を先取りすれば、この問の答えは「勉強になる」なのである。
そうだからこそこういう書き始め方になっているわけだが、
そうすると、「どういう意味で」勉強になるのか、が解かれていかねばならない。


ちょっと待て、なぜ「子どもにとって」と範囲を限定するのか、大人ではだめなのか、
とツッコミを入れる方がおられるとしたら、行間をよく読んでおられる方だ。
嬉しいことである。

「子どもにとって」とことわったのは、こういう理由がある。
大人でももちろん心掛け次第では勉強になるのだが、
幼少期の、まともな審美眼が養われていない場合では、
与えられたおもちゃというものが、非常に重要な意味を持ってくるから、
ということだ。

言い換えれば、大人ならば「勉強しよう」という気持ちで向きあえば勉強になるのに対し、
子どもの場合には、ほとんど先入観なしに与えられたものに向きあうから、
そのときに与えられたものを通した経験を、
これから自らの審美眼を養う土台としていくわけである。

ここから、それでは、子どもに与えるものを一流のものにすれば、
そこで得た経験を土台として育つ子どもの審美眼というものも、
やはり一流になってゆくのだな、
とさらに行間を読んでもらえると、なおさら嬉しい。

◆◆◆

ただ、一流のものを与えていればそれだけで足りるかといえば、
もうひとつ不可欠の要素がある。

それは、与える物事をとおして、デザインならデザインの変遷、
「流れ」の存在を意識できるかどうか、ということである。

一流のものを、あらゆるジャンルにまたがって見せたとしても、
それはなかなかにまっとうな受け止められ方をしないであろう。

たとえば、ある「音楽」とある「思想」を、全体の流れとして把握するためには、
その接点となる手がかりが、「知識」として必要になってくる。

この場合の手がかりは、たとえばワーグナーとニーチェの類似性、などである。
これでは敷居が高すぎるし、それが同じデザインの分野だとしても、
たとえばバウハウスとガンダムを総合的に流れとして見ることは難しい。

だから、ガンダムが好きならガンダムを、
継続的かつ比較しうる状態で触れられる機会を与えてあげる、
ということが必要になってくるわけである。


そういう意味では、金銭的に余裕がありすぎて、あれもこれもと与えられるよりも、
限られたジャンルのものを、系統的に与えられる場合のほうが、
とりあえずの審美眼を磨くに当たっては都合が良い、ということになりそうだ。

知識や情報は多すぎると、「流れ」が読めなくなる(論理性が獲得できなくなる)、
というのは、幼少期や受験勉強に限らず通用する、ひとつの論理である。

◆◆◆

ところで、そこで得られた審美眼というのは、当然ながら「ガンダム」という
事物の特殊性に規定されたものでしかないから、
そのガンダム的審美眼をただちに他の分野にまで広げて発揮することはできない。

ではどうすればよいかといえば、「ガンダムの変遷」を「流れ」として意識した上で、
その「流れ」が、他の分野においても通用するか、という観点で眺め、
自らが持つ審美眼が「特殊的であること」を自覚させる、という過程を持つことだ。

簡単にいえば、「オタク」になる前に外に出して見聞を広げさせる、ということだ。


ガンダム的な審美眼が、広い文芸の世界では特殊性にしかすぎないということがわかれば、
自分の今持っている審美眼では、すべてのことは理解し得ない、とわかるわけだ。
つまり、「わからないことがわかる」、ということである。

しかし、そこでは、ガンダムを流れとしてみてきた経験から、
他の分野においても、「流れ」というものが何らかの重要な意味を持っていることがすでに把握されているから、その習得もまっとうな目的を持ったものになる。


さらに、自分の特殊的な審美眼を他分野にも広げて見ることは結果として、
ガンダムにはこういうデザインの流れ、つまり美的な論理性があるから、
世間の評価に耐えることができたのだ、
ほかのロボットとは違って一流になっていったのだ、という理解としても浮上する。



ここができなければ、単に「オタク」となって脇道にそれたところで完成するだけである。
その審美眼からすれば、ガンダム以外のものを見るときにも、
それがガンダム的かどうか、ガンダム的に見るとどうか、
という観点からしか判断されないということになる。


ここまでを要すると、「審美眼がある」、というのは、
物ごとの変遷という「流れ」・「流れ方」を一般的な像として持てており、
さらに、それに照らして未体験の分野の物事の優劣をとりあえずつけることができ、
さらにその流れをも認識してゆける能力である。

◆◆◆

ここまで踏まえておいて、冒頭のガンダムのデザインを改めて見てみよう。

わたしはガンダムというアニメをリアルタイムで見れた人間ではないから、
プラモデルやおもちゃだけから、そのデザインを受け止めてきた。

そのため、そのガンダムを、「どういう活躍をしたのか、誰が乗っているのか」
という事情から一旦切り離して、デザインだけを見てきた、ということになる。
振り返れば、純粋に審美眼を養う観点からすれば、この環境はプラスであった。

歴代のガンダムを、ずらっと平面的に並べると、こうである。
物事の変遷、つまりその歴史を見ようとするときには、
やはり順番が重要なので、とりあえず時系列に並べてみよう。
便宜のためそれぞれに、G1(第1世代)~G5(第5世代)とナンバリングした。

ここで、G1からG5へとデザインの変遷が起こったときに、
どういう変化があるかを見て取れると、見方が変わってくる。

デザインというものは主観的なものだが、
だからといって、なんらの手がかりがないということではない。

◆◆◆

さてG1「初代ガンダム」がデザインされたあと次のモデルを作るとなったとき、
G2を考えるとしたら、どうすればいいだろうか。
あなたが製作者だったらどうするか、と考えてみてほしい。

そこでは、すでに完成されたG1らしさを汲みながら、
それでも新しいものになるようにデザインしてゆくわけである。

それでも、新しすぎて、それが「ガンダム」かどうか
判別の付き難いものであるわけにはゆかない。

具体的にいえば、次世代のガンダムを作るつもりなのに、
主役級から劣る次世代ジムでもいけないし、敵役の次世代ザクでもいけない。
あろうことか次世代マジンガーZになってしまってはいけないから、
その区別の中に、ガンダムらしさ、が見えてくる。
(これは生物学でいう生存圏の「棲み分け」と対応している。
より大きい論理から見れば、対立物の相互浸透)

つまり、「ガンダムらしさ」という像に問いかけながら、
そこから離れない範囲で、新しいものを、と考えてゆくことになる。

このとき結果からいえば、
G1のデザインが完成されていればいるほど、
G2ではそれに線が加えられがちなのである。

「ガンダムらしさ」がまだ確立されていない過程においては、
その像をぶれさせることはできないから、
どうしてもG2はG1のプラスアルファにしかならないのだ。

このことは、G1「初代」→G2「MK-II」のデザインの変遷を見れば、
誰しも首肯しうるところではないだろうか。

◆◆◆

次の変化に目を向けると、G1からG2への変遷に対して、
G2からG3へは、また違った変化が試みられる。


というのは、複雑化するという方向の変化は、どこかの段階で
それを際限なく繰り返してゆくわけにはいかなくなるために、
一旦G2を「リセット」する形で、G3が考えられることになるからだ。

とはいえ、これまでの流れを完全に壊してしまうわけにはいかないから、
G3は、違った変化を試みながらも、新しい出発点になるべくデザインされることになる。

G2「MK-II」からG3「Zガンダム」の変化を見ると、
前代の意匠はあちこちで引き継がれつつも、
それが「複雑化」とは違った変わり方をしていることがわかる。


この変化のありかたの違いに着目して、
G1→G2の「複雑化」的変化を「同じ系列の上での進化」、
G2→G3の「リセット」的変化を「系列そのものの進化」、
と呼ぶことにしよう。

◆◆◆

いったん流れをリセットする形で受け継がれたG2からG3の変化に比べると、
G3からG4へは、また「複雑化」という変化になる。
これは、G1からG2の変化と類似したものとなる。

G3「Zガンダム」からG4「ガンダムZZ」への変化を見ると、
シンプルな形となってリファインされたG3が、
かなり複雑化した形でG4に進化していることがわかる。
これは、「同系列上での進化」ということになろう。

◆◆◆

それではG4からG5はといえば、もう言わずともおわかりかもしれない。
流れを、一旦「リセット」する形になるのである。
G4「ガンダムZZ」からG5「νガンダム」の変化では、
複雑化して行き詰まり感のあったデザインが、かなりシンプルなものとなった。

◆◆◆

これまでの流れを整理すると、こうなる。

・前代を受けて複雑化する流れのもの
…G1からG2、G3からG4

・前代の流れを一旦リセットする流れのもの
…G2からG3、G4からG5

前者を同系列上の進化ととらえて横への矢印(→)として表し、
後者を系列自体の進化ととらえて上への矢印(↑)として表すと、下の図のようになる。


こうして整理して、縦の軸を通してみれば、
奇数番G1, G3, G5は、ある系列の始まりを示しているし、
偶数番G2,G4は、それに続くデザインとして位置づけられていることが分かる。

全体の変遷を流れとしてみてとると、螺旋を描いているようにみえるはずだ。

◆◆◆


さて、上の図を見て、読者は、
「おや、どこかで見たような?」と思ってくれただろうか。

そう、これは以前にお話しした、弁証法という論理の螺旋階段と同じなのだ。

「そうすると、デザインの変遷を追うときにも、論理が必要ということになるのか。
言語を使った証明においてならいざしらず、
人の気持ちの理解も、ここでは芸術までも論理で語るとは…
お前の言う論理というものは、いささか範囲が広すぎるのではないか。」

とても良い問いかけだと思う。
次でわかってもらえるとよいのだが。


長くなってしまうので、ここで一旦区切ろう。


次は、上で観てきた見方に対して考えうる反論を、まずは検討してゆくことにしよう。

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