さて、前回の続きである。
ブログを続けてきて、連載が長くなる場合が多いので、
手短に済ませるお題を選んだら、結局こうなってしまった。
書きかけで、表立っては未掲載のシリーズがそろそろ10本ほどになるのだが…
誰か住み込みで、口述筆記でもしてくれんかね?
ともあれ、懲りずに続きである。
前回では、この図までたどり着いたのだった。
◆◆◆
ここまで書くと、こういう反論があるかもしれない。
もしG2に、「ガンダムMK-II」ではなくて
「パーフェクトガンダム」なんかを持ってくると、図式が崩れるではないか。
そうすると、結局、世代の変遷などというものは恣意的なものでしかないし、
その前提が崩れると、お前が今試みているデザインの流れなどというものは、
瓦解するのが当然の帰結である。
この批判は十分に有り得そうだから、その疑問に答えておこう。
まず、「世代の変遷がある」という前提への批判の反駁だが、
変遷というものは、ある世代が次の世代に移り変わったことを、
「結果から」見て取ったときに、どういう流れが見えるか、
ということを論じている。
だから、変遷そのものの存在を否定するならまだしも、
「結果から見ているから変遷は無意味である」という批判は、正当ではない。
結果から、それまでの流れを見て取ったものが変遷というものであるし、
結果から見なければ、変遷はわかりようもない。
◆◆◆
それでは次に、変遷が起こりうるとしても、それを奇数と偶数に分けて、
それを立体化したとするのは恣意的ではないか、という批判についてはどうだろうか。
この批判は、弁証法という論理に向けられたものとも通じている。
弁証法なる法則とやらがお前のアタマの中にあるから、
現象がそう見えるだけにすぎないのではないか、
ワタシにはまったくそうは見えないのだが、というものだ。
では仮に、そういう整理を避けて、たとえばG1からG5までの変遷を、
横にずらっと並べてなにが見えてくるか、と問うてみればわかるとおり、
ここにはなんらの法則も現れてはこない。
そうすると、その物ごとは、単なる「知識の羅列」や、
「情報の束」といった把握の仕方で終わりである。
それでも、法則などというものが成り立つこと自体が不自然なのだ、
という人がいるのなら、その人は、「論理」というものがいかにして
人間の中に生まれてきたか、という過程をまともに追ったことがないのである。
「論理」がなければ、すべての事象の成否を、
自分自身の直接的な経験によってしか判断できなくなってしまうのだ。
例えていえば、母親に「チューリップを買ってきて」と言われても、
どこに行けばいいのかすらわからないのである。
そんなわけがあるか、と言うのならば、論理の存在を認めていることになる。
論理の生成過程については、次の節で簡潔に述べることにしよう。
◆◆◆
話を元に戻すと、どんな物事を論理の流れのどこに当てはめるかといえば、
それは通常の意味で常識的な判断でかまわないのである。
ガンダムMK-IIとパーフェクトガンダムのどちらが先にデザインされたか、
などといった細かな知識については、わたしは持っていない。
それに誤解を恐れずに言うならば、
実のところ、G1に「初代ガンダム(RX-78-2)」ではなく、
「プロトタイプガンダム(RX-78-1)」が来てもいいのである。
そこにどんな事物が当てはまろうとも、
そこの間に「流れ」というものがたしかに存在する、
ということが認められればよいのである。
というのは、流れが見えてきたときにはじめて、次の世代に起こるであろう変化が、
観念的な像として持てるようになってゆくからである。
上で述べた例でいえば、初代からの流れが見えてきて始めて、
G5「νガンダム」に続く、G6をデザインする手がかりが得られるのである。
それがどのようなデザインならば妥当性を持ちうるかは、
G6の像を、上記で整理した図の、
横軸と縦軸の交わるところにあるものとして認識して始めて、
まっとうに予測しうるのだ。
「流れ」という法則や論理を持たなければ、創作活動そのものが不可能である、
ということを、法則を否定する方は確認してほしい。
◆◆◆
実のところ、そうして、個々の歴史的な些細な横道にとらわれず、
その大道をみてとり、その流れを一般化するという「物ごとの正しい見方」は、
深い、浅いの差はあれ、わたしたちの判断の図式に組み込まれているのである。
それも、教育を通して、である。
「私は苺が好きだ。だから、私は苺を食べる。」
という命題が不自然に聞こえないというのは、わたしたちが論理を有するからだ。
その論理というものは、物心つく前から身についてきたものだけに自覚できず、
先天的に与えられたように錯覚しがちであるが、
その形式、内容のもっともらしさともに、
ほとんどが教育によって受けてきたものである。
(唯物論。先天的に与えられるものがあるとしたら、
人間の認識を物質的なものとしてみたときに働いている弁証法性である。
ちなみに、観念論では審美眼は人間に先天的に与えられているとするから、議論する必要がない)
そしてその教育は、人類という総体が、これまでの歴史全体の中で培ってきた、
「人間らしさ」という像に照らして行われる。
人間が総体として歴史的に生きて受け止めてきた「流れ」が、
一言でいえば「論理」というものであり、
その論理が人類最高の叡智に照らして目的的に養われたときに、
それを「弁証法」と呼ぶのである。
ここまで論じてくれば、
人間が持つ認識のあり方、
そして文学、芸術を含めた人間の表現もが、
弁証法という論理に照らしてみれば、ある程度明らかになる、
ということがわかってもらえてきただろうか。
もっとも、それは「一般的な把握」でしかないから、
そのそれぞれの特殊性に沿った構造にまでつっこんで、
みてゆかねばならないことは当然である。
◆◆◆
これから載せるエントリー「感受性というものの周辺 03」でも触れるが、
歴史の流れを見てゆく時には、
ひとつにはそれを「人 対 機械」のように、
「振り子」の動きになぞらえて論じられることがある。
それは、弁証法の横の動きを、平面的にとらえたものである。
またひとつには、富永仲基の「加上説」のように、
中国の思想は、ある論者が、過去の論者の「上を出る」ことを図るときには、
過去よりさらに過去の論者の主張を援用する、という見方がある。
(つまり、G3がG2を越えようとするときには、G1を参考にする)
あれは、弁証法の縦の動きを、これまたやはり平面的にとらえたものである。
どちらも、新しいことを述べているように見えるが、
結局は、人間の認識の根底にある弁証法性の存在を指摘したにすぎない。
◆◆◆
論理が立体的な像として認識されていると、
知識的にはともかく、ある論者の表現をみて、
それがいかなる論理性を含んでいるかということは、一目瞭然なのだ。
ところが論理というものは、直接は眼に見えないから、
問題意識を持って見なければ、論理性が含まれているかはおろか、
その存在そのものに気づかない、という自体になるわけである。
このわからなさを漫画的にいえば、
「太刀筋が鋭すぎて、斬られたことすら気づかなかった」、
ということになる。
前回述べた、「わからないということすらわからない」という段階なのだ。
◆◆◆
ここまで論じたことの中で、審美眼については一定の理解が得られたと思うし、
その中から、「ガンプラをいじるのは、子どもにとって審美眼の修練になるか」
という問についての答えも、見出してもらえるのではないだろうか。
答えとして一言でいえば、
「その変遷を意識でき、その特殊性を意識できれば、よい修練になる」
ということになる。
もちろんこれは、物心があるていどついてから
与えるおもちゃを選ぶときの注意なのだから、
それ以前にまっとうな子育てが成されていればこそ、である。
ガンプラが良いというから生まれる前に用意しておかねば、
などといった種類の勘違いだけはしないでいただきたい。
◆◆◆
さてそうすると、残る問題があるとすれば、
幼少の頃はさておき、現時点で自らの審美眼がないことが自覚されており、
それをなんとしても磨きたい場合にはどうすればよいか、ということが挙げられる。
この場合に最も問題なのは、「審美眼」がないことに加えて、
それを養う場合にはどんなものを参考にすれば良いかすらわからない、ということだ。
つまり、
「一流」のものを見てこなかったから「審美眼」がないのだし、
「審美眼」がないから「一流」のものがなにかもわからない、ということなのだ。
◆◆◆
現在という瞬間に限って、形而上学的に考えてみたときに
どうしてもできそうもない事柄は、弁証法的に考えてみなければ解法が見つからない。
まずは、上で見てきたように、
現在「一流」のものとして現象しているものが、
人類の「流れ」(歴史性)という観点に照らして選ばれてきた物ごとである、
ということを押さえておいてほしい。
つまり、それを一身に繰り返して、その一般性を見て取ることができればよいわけである。
そうすると、まずは論理性の習得がある程度進んだことを確認する必要がある。
とりあえずは、弁証法というものが、
バラバラの法則ではなく螺旋階段として見て取れるレベルがあればよい。
つぎに、その視点でもって、「現在一流と呼ばれている物」の「変遷」を追ってほしい。
個別の知識ではダメである。「流れ」を見てほしい。
ガンダムについて詳しいなら、
連邦のモビルスーツにおける「初代ガンダム」→「νガンダム」という変化が、
ジオン軍ではどういった変遷として対応しているのかを探してほしい。
それにあたるものが存在しないのなら、もし存在したらどんなデザインになるか、
というふうに考えるのである。
そうして、そこで見た流れを、他の分野にまで適応できるか、
できないとしたらガンダムの特殊性はどういったものだったのか、と反省してみるのである。
◆◆◆
まったく手がかりがない場合には、身の周りで一貫した見識がある人間を探し、
その人の得意とするジャンルのカタログなどを一緒に点検したり、
ウィンドウショッピングなどをしてみるとよい。
理論的なあり方を議論しているときには、現象をそれだけ一般化している、
つまり現象が現象たる特質を捨象する形で論じているのだから、
審美眼というのは体得しにくいものなのだ。
だから、この場合には、触感や味覚など、五感に訴えかける経験を通したほうがよい。
その中で、その人がとくに強調して褒めたものがあったら、
その理由をつっこんで聞いてみるのである。
ある服を褒めたときには、良いのは生地の手触りなのか、
色のコントラストなのか、品質と価格のバランスなのか、などを特定する。
そうして問題が絞り込めたら、それが「どう良いのか」、「どれくらい良いのか」を
できるところまで言語化してもらう。
言語自体がすでに一般化されたものだから、
言語の間になにが潜んでいるかを、自分で補えるところまで慣れてほしい。
こういうことを繰り返しているうちに、
自分のアタマの中にその人が「良い」とする像が描けてくる。
そうして、新しいものを見たときにでも、
「あの人ならこれを褒めるだろうな」とわかるようになったら、
まずは第一歩である。
これらすべてを、自分の主観を交えずに、批判的に構えずに、
見る目のある人のことをとりあえずすべて信じ込んでしまうべきである。
そういう経験を1年ほども持てば、効果は実感できるであろう。
◆◆◆
こういうことをあらゆるジャンルにわたって試してみる中で、
ようやく「一流」という像が描かれてくるとともに、「審美眼」が養われてくる。
そうだから、「一流」を目指す、というのも、実はけっこう難しいのである。
その志が明確に持てている人は、育った環境に感謝しすぎるということはないのだ。
「一流」がどういうものかわかるというのは、とっても幸せなことなのですよ。
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