最近は個別の修練や研究についてのコメントをこちらには載せていなかったために、あたらしい読者の方にはなじみがないかもしれませんので簡単に説明させてください。
このBlogはもともと、わたしのところに出入りしている学生さんにたいして、個別のメールや電話で指導していては手一杯になってしまうという事情があって、個別の質問を少し一般化することで行き詰まっている問題の解法の手がかりにしたいという目的で作られたのでした。
ひとりが行きあたった特殊な問題を一般化して論じておくということは、それぞれが専攻する特殊な分野を越えたところには、ある普遍性や一般性、原理や原則が隠されていることを暗示しています。
そしてそれは、ものごとには具体的な個別を貫くものが隠されているということをおさえ、原則をしっかりとふまえておけば、どんな特殊な問題をも正しいやり方で外堀を埋めて追い詰めてゆくことができる、という側面も持っていますから、みなさんにとっては、抽象的な論理を使ってそれぞれの具体的な問題を解くための手がかりを、自分のアタマで考えてゆくというひとつの実践過程をもってもらえることにもなるのです。
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そういう理由があって、あまり特殊な問題へと言及してしまっては、当初の目的がそもそも意味をなさなかったことにもなってしまいますから、個別の学問的な話題はできるだけ取り上げないようにしているのですが、文学作品については日常言語の範囲内で表現されていることから、たたき台としてここでも積極的に取り上げてきやすく、事実そうなってきたという経緯がありました。
論者が取り扱っている文学作品については、「青空文庫」というサービスを使っているので、他の読者のみなさんも無料で参照することができます。(URLは時間が惜しいので貼りません。参照される場合はGoogleで検索すればすぐに出てきます。)
iPhone、iPadには、それぞれi文庫S、i文庫HDにすべての作品が収録されています。アプリケーションについてはこの前の記事を見てください。
ここでは著作権の切れた文学作品については読み放題なので、とてもいい時代になりました。
大学の講義を録画した「iTunes U」などもあり、工夫をすれば、いつからでも、いつでもいくらでも勉強ができる時代ですから、うまく活用してゆきましょう。
では本題です。
今回の記事は、一般の読者のみなさんもすこし付き合ってほしいと思います。
まずは、論者が書いた評論についてざっと目を通してみてください。
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文学考察: あしー新美南吉
ある二匹の馬が、窓の傍で昼寝をしていました。すると、涼しい風が吹いてきたため、一匹がくしゃみをして目を覚ましました。しかし、馬が立ち上がろうとすると、足が一本しびれて上手く立てません。ですが、これを勘違いした馬は「たいへんだ、あとあしをいっぽん、だれかにぬすまれてしまった。」と、勘違いしてしまいます。そして、この後、勘違いをしているこの馬は果たしてどうのような行動に出るのでしょうか。
さて、この作品の特徴は、〈子供の真っ白な感性ではじめての体験を瑞々しく描いている〉というところにあります。
まず、私たち大人にとって、「しびれる」という感覚はごく当たり前の身近なものです。ですが、何もしらない、経験すらしたことのない子供にとって、それは未知の感覚であり、不思議な出来事として受け取ることでしょう。この作品は、まさにそういった子供達の視点で描かれています。ですから、作中の馬はこの未知の体験にぶち当たり、自分なりに予測を立て、あれこれと実験をしているのです。そして、この初々しい馬の姿を大人の私たちが見た時、当たり前だった感覚が当たり前ではなくなり、馬(子供)のこの予測のつかない行動に目を見張り楽しむことができるのです。◆◆◆
ここで着目してもらいたいのは、この評論の構成がどのようなものになっているか、ということです。
評論中の意味段落はそれぞれ、
1. あらすじ
2. 一般性
3. 論証
となっています。
その中身に目を向けると、
「1. あらすじ」では作品そのものの要点を捕まえながら全体の流れを捉え返し、
「2. 一般性」ではそれをさらに一言で要することで、
「3. 論証」での論者自身の読み解き方を読者へ伝えることへと繋げてゆく、
という形になっているのです。
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論者がこのような構成にしてくれているのは、わたしが数年に渡ってそのように指導してきたからですが、論者はこの修練を、多い時には週に6回という密度で取り組むことをとおして、アタマの中の認識のあり方が、その修練と量質転化的に浸透する形で整えられてきています。
(もっとも修練をサボると、質から量の転化へと落ち込んでゆきますが…。これに限らずこのblogで使われている学問用語については、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』で確認してください。)
なぜこのやり方を厳しく要求してきたのかということは、指導された側である当の論者本人にもその理由を明示したことはないと思いますが、それはこの構成が、学問の世界で培われてきたやりかたになぞらえられているからです。
実はこのことは、以前に書物との向き合い方を論じたときに、「雑書に向かうを止して」、一流の本と向き合うようにお願いしておいたことと通じており、これこそが三流と一流を分ける分水嶺なのです。
一流の本というのは、
1. それまでの歴史を総括して一身に捉え返した上で、
2. 専攻分野とこれから論じる事柄を概念規定(定義付けること)したうえで、
3. 自分独自の見解を展開してゆく、
という形になっています。
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さてここまで書いたときに、ではこの構成を厳しく守らされて表現することを、毎日のように数年間に渡って取り組むと、当の修練する者はどのようなアタマになってゆくと思いますか。
わたしたちは幼少の頃、夜中にはおねしょをしていたでしょう。
あれはいつかは解消してきて今に至っており、今では夜中でも一人で起きだして用を足せるばかりか、とくに尿意を催さない場合にも、友人に連れられて手洗いに行くと、不思議と尿意を催してくるほどにもなっているはずです。
どのような過程があって、そうなってくることになっていったのでしょうか。
次回までに考えてみてください。
(2につづく)