2011/10/17

作家がペンを手放してはいけないのはなぜか:原則と実践の問題 (1)

前回の革細工の記事で、


ものづくりの大原則は「現実から謙虚に学ぶ」ことだと書きました。

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このBlogを見ていると、日常生活の隅々にある発見事実や文芸などについてまでも、「原則」などというものものしい言葉を土台にして理解を進めようとするので、事実的な困難にぶつかったことのない人にとっては、なぜ普通にやればできそうなことでもそんなに難しく考えなければいけないのだろう?という疑問が出てくるかもしれません。

その理由は、結論からいえば、解くことが難しい問題にぶつかった時こそ、原則に立ち返って考えなおして見ることが、とりもなおさず重要なことだからです。

あなたがもし経営者として会社を運営していて、先行きの見えない時代に重大な選択を迫られたとしたら、なにか頼るものはあるでしょうか。それは創業者の言葉かもしれませんし、神がかりかもしれませんし、占い師の言葉かもしれません。どこのことばを念頭においたとしても、それなりの成功を収めることができるかもしれませんが、それは果たして本当に最良のやり方だったのだろうか?という思いが頭をよぎりらないとは限りませんね。

あなたの仕事が経営者であるなら、従業員とその家族の生活を一身に引き受けているわけですから、これは相当に、身に応える決断であるといって間違いがないのですが、もし同じような決断を、患者の生命を一身に担っている医師や看護師がするのだとしたら、要求される精度がまるで違ってくることも想像できます。

経営者が未だに神がかりに頼っていてもいい(?)のに、医師や看護師がお祈りやおまじないなどに頼っていてはまともな決断ができないどころか重大な医療事故として扱われざるをえないという事実から考えてゆくと、後者の場合には、彼女や彼らが依って立つ指針というものが、輪をかけて確実な、科学的なものでなければならないことがわかります。

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わたしは学問の道を志してから、立場や役職やそこでの仕事がどんなものであるときにも、必ず学問的な生き方と考え方をしなければならないと心に誓ってやってみて、そのものごとの見方と進め方がやはり、どんな仕事を行うときにでも、ときには趣味や生活の進め方についても非常に有効なものであることを確認してきたので、みなさんにもぜひとも同じところからものごとを見て欲しいと思っているのです。

原則から始めるというのは実は、後進に正しくものごとを伝えてゆくという指導や教育に携わっている人ならばなおさら、誰しもが実践しなければならない考え方なのであって、それは個別的なあれやこれやの細かな知識を伝えるときの、今日言ったことが昨日言ったことと食い違っているかもしれないという恐れに苛まれることなく指導の実践を進めてゆくに当たっての導きの石となってくれるからに他なりません。

ともあれ、どこにも反論の余地のないような原則を振りかざしてみても、現実的な実効性を持たないわけですから、次にはその原則が、現実にわたしたちが直面する実践を、どれだけ確実に導いてくれるのかを見てゆくことにしましょう。

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今回挙げる例は表現についての原則の扱い方になりますが、残念ながら反面教師としてのそれであることをお断りした上で述べてゆくことになります。

以前から、ある表現過程は、「対象→認識→表現」の順を辿って成立してゆく、ということを原則として述べてありますね。

たとえばある画家が、机に置かれたリンゴを鉛筆でデッサンするときには、対象となるリンゴをじっくり見て、それをしっかりと像として頭の中に思い描いたあと、実際に手を動かしてキャンバスに描いてゆくことになります。

この過程を別の面から見たときに、物質的な対象を観念的な認識として反映させ、それをもう一度物質的な手段で写しとるという意味で、否定の否定の関係を見いだしてもよいのでした。

ちなみにこれは学問で言えば、唯物論の立場からの規定であって、観念論は認識が先天的に存在するところから論じ始めますから、この限りではないのでしたね。

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さて、ここまではこれまでこんな文字ばかりのBlogに熱心に着いてきてくださった読者の方なら、あまり問題にはならないでしょう。

さきほどの創作過程は画家の立場からなるものでしたが、次に問題となってくるのは、鑑賞者側がその作品をどう受け止めるのか、という鑑賞過程の構造です。

よほど観念論にやられていないかぎり、額縁に入った絵画作品の中にも作家の魂が宿っているなどと、(感触としてはともかく)事実的に考えたりはしないはずですから、難しいお話には立ち入らずに、ひとまず鑑賞者が目の当たりに出来るのは「表現」でしかない、というところは押さえてもらえるでしょう。

そうすると鑑賞者は、画家のものしたリンゴのデッサン画を眺めて、そこから画家の認識がどのようなものであったかと、創作過程の矢印を逆向きにたどりながら、彼女や彼の認識を自分のアタマの中に、できるだけ精確に持とうとするはずです。(観念的二重化)

キャンバスに描かれたリンゴは、すでに色を失っていますが、そこに顕れている陰影を手がかりに、鑑賞者は、画家が目の前にありありと映していたであろうリンゴの瑞々しさを読み取り、なるほどこういうことを伝えたくて筆をとったのかと捉え返します。

その関係が築き得るときにはじめて、作品のことを表現形式といい、作品と認識の間にある客観的な関係を表現内容と呼ぶのであって、表現があまりに鑑賞者の日常からかけ離れている場合には、じっくりと何回も時間をかけて鑑賞したり、周辺事情や他の作品、時には画家の生い立ちなどを手がかりに読み解いてゆく必要に迫られるために、未読にはそれなりの時間を要するということになるわけです。

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今回の例は、表現過程のうち、文芸の創作過程を取り上げて簡単に説明しましたが、これはなにも、画家と鑑賞者の関係だけに限られるのではなくて、恋人同士、看護師と患者、指導する者とされる者との関係など、広くは人間の認識が現れるところすべてに共通する一般的な表現過程の構造を示しています。

表現というのは何も、固定化された実体的なものだけではなくて、すれ違いざまに舌打ちをされたり、自分の好きな曲をCDに入れたものを贈られたり、試合中に目と目が合ったということも、表現に含まれます。

ここまでのことは、以前からの読者であれば、「それは何回も聞いているからわかってるよ、今回の本題は?」という感想を持つかもしれませんね。

ところで、その「わかっている」というのは、本当にそう言えるでしょうか?
「わかっている」というからには、図式や概念を知識的に丸暗記しているのではなくて、実生活をとおして上で挙げたような原則を手がかりに、失敗から正しく学んで、一歩ずつ本質的な前進が認められる生き方をしていることには自信がある、ということだと思いますが、本当にそう言えるでしょうか。

それこそが、今回の本題です。
なにやら怒られそうな気がしてきた人は、きっとそのとおりになると思うので、気持ちの準備をしておいてください。


(2につづく)

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