毎日少しずつやってた革細工もあと2ヶ月でおしまい、
そう思うとちょっと寂しい気もするけども、本道を忘れてはいけない。
友人はわたしのことを、「浮石が沈む前に次に飛び移る」人間だと評するもので、一緒になって笑っていたけども、いちおうは的確な評価も、あちこち手を広げてどれも物にならないバカ、というような評価も、十分にもっともだと思っているから、二言はない。
すべては学問のためである。
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表現に関する技術論を確認するために進めてきた革細工もそろそろまとめの時期だ。
今年のはじめごろに、
「革だからとあほみたいな高値をふっかけるボッタクリ業者を潰せるくらいにまでなる」
などとむちゃくちゃなことを言ったけれども、いちおうの目標は達成できそうだ。
というか、もう革のバッグは買わなくても良くなったような気がする。
親戚の子がランドセルを買う前に気づいていればよかったかなあ。
もっとも実際に手を動かしてみると、上には上がおり、「いちおうできる」のと、「掛け値なしの一流」には、恐ろしいほどの開きがあることも自らの確かな実感として思い知ることができる。
私見ではあるが、Rethinkさんのベタ張り技術、Flathorityさんの革作りから手を入れたこだわりと縫製技術などは凄まじいものがあり、他と比べるのが失礼なほどである。
わたしはあくまでも技術論や表現論の観点から見ているので、個別の技術は一定の段階にまで高まれば良い(認識をうまく表現にできる段階、その分野の特殊性が評価できる段階)のであるが、やはりその道の一流というのは流石の感がしきり。
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さて、こちらはこちらで物事を進められたところまでをメモ書きしておこう。
前に友人と作った自転車用フロントバッグが良い感じに日焼けしていたので、この前作ったサイドバッグもどうなるかやってみた。
写真は、晴れの日に外に放り出しておいたもの。
ずいぶん色が変わったのでびっくりした。
蓋を開いて放り出したので、蓋が日焼け、下半分がそのままの色。 蓋の部分、ベルトの左側がベルトの陰になり、日焼けしていないことがわかる。 |
革もこんなに日焼けするんだねえ…びっくり。 ちなみに前回書くのを忘れていたけど、天棒は340mmです。 革が縮んだので少しはみ出してきた。 |
次の日にもう半分を日焼けさせて、週末に小旅行に出かけたあとのものが、この写真。
ちなみに小旅行なら、十分に出かけられて、ベルトを緩めてお土産も入れられる。
次に作るときもサイズはこのくらいでぴったりかと。
こんがり。 |
コンチョは、チェコの硬貨。 銅色に黒い塗料で上塗りしたもので、下地を見せたいところを紙やすりで削った。 日焼けしたので、銅色と近づいてきて一体感が出てきた。 |
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次は気づいたこと。
布を縫う時と違って、革の縫製は、縫製のやり方の違いによって、シワの付き方が変わる。
表面に縫い目がないカバンは、できるかぎり裏から縫っておいて、ひっくり返すことになる。(そのほうが縫うのが楽だから)
今回は実験を兼ねて、両方のやり方を試してみておいた。
バッグの右側面。 内側から縫ったので、縫い糸での引っ張りが足りずに糸が見える。 その代わりにひっくり返さずにすんだため、シワがない。 |
バッグの左側面。 外側から縫ったので、テンションが保てて糸が見えない。 その代わりにひっくり返したので、シワができた。 |
総評として個人的には、自転車バッグとしての用途に比重を置くのなら、側面は無理をせずに箱型のほうがすっきりしていて良いのではないかと思う。
工程を短縮するための言い訳かと邪推されるかもしれないが、それが実際に使ってみたところの実感である。
ともあれ、今回の工程をうまくやるための目処は立った。
耳付きの曲面は縫えるようになったから、一般的な鞄を作成するための技術は、一定の段階に達したと言ってよさそうである。
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さいご、タバコケース。
タバコは吸ったことがないので使い勝手はどんなもんなのかよくわからないけども完成。
マグネット式なので厚みが増してしまうが、 使い勝手を考えるとやはりマグネットが良いのではということになった。 |
正面に縫い目を付けざるを得なかった。 ライターのベルトと合わせて合理性を持たせたが、より高い次元での合理性もあり得るとは思う。 |
ライターは潰れてるのしかなかったが、サイズを測れればよかったので仮に入れてある。 箱そのものの縫い目と、ライターが底から抜けないためのストッパーを統一して合理性を出した。 |
一枚革でこういう形をとれるのは、牛半頭分の大きな革を買ってあるから。 切り売りの革を買ったのなら、こんな贅沢はできなかった。 共同で革を買ってくれた友人たちに、この場を借りて感謝。 |
革細工をするときには、書籍やらインターネットやらを手当たり次第に調べまくる。
モチーフに合わせて、"leather+bag"ならまだしも、"leather"のみ、"bag"のみ、"antique"のみでも検索して画像を眺めて図書館で資料とにらめっこし、その概念に慣れるまでとにかく調べまくる。
対象とどれだけ向き合ったか、現実からどれほど学んだかが作品の質を決めるからであるが、そうして調べていると、世の中にはなんとも合理性に乏しい、無駄の多いデザインがたくさんあるなあと思わされる。
装飾については無駄なようでいて高度な合理性を保っているのだが、たとえば手帳のサイズほどもある財布なんていう、見るからに無駄の塊のようなものは、どれだけ最小限のサイズと重量で同じ物を安全に入れられるかという合理性ばかりを考えて、ミリ単位で縫い代をケチっているわたしからすれば狂気の沙汰である。
しかし、商品として成立しているからには、それを評価する消費者の存在があるのであるから、その意味ではやはり、存在しているものはそれなりの合理性があるものとして受け止めなければならない。
そうは言ってもここらへんの感覚が禅的なのは、やっぱりAppleからデザインというものの多くを学んできたからかもしれない。
それとも、旅好きだからかもしれない。旅では、無駄なものを持っていくことは死活問題だものなあ。
わたしが感性的に好きなのは、"less is more"(過ぎたるは猶及ばざるが如し)である。
原理的なことを言えば、ミニマムな形態を突き詰めていれば足すのはたやすいのだが、事実的にはこういうところを使い手の認識のあり方にあわせて、たとえばスタッズバリバリのが好きだとか、余計な金具がたくさん付いている方が強そうで好きだとかにするのは、なかなかに難しそうである。表現過程の構造はわかっていてもね。
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