2012/07/24

【メモ】最近の記事のまとめ

ここのところ、


質問に答えるかたちで記事を書いていたので、公開する順番が前後してしまっていました。

そういうわけで、ここのところの記事の一覧を下にまとめましたので、読み返す時の手がかりになれば幸いです。

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技としての弁証法

質問へのお答え
(“┗”で示したのは、派生する記事ですから、親記事・子記事をともに参照してもらうのがよいかと思います)
┗自らを恃むとはどういうことか(次回の記事)

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以上のうち、前者の一連の記事については、大きくは学問というものを、知識的な習得一辺倒のものと勘違いしてイメージしてしまっている人にたいして、「学問の本質は知識ではなく認識、しかもその技にあり」として書いたものです。

そのうち、弁証法というのは、ひとまずは認識における技として目的的に習得されなければならないものなので、このようなタイトルにしたわけです。

ここはたとえば、わたしたちがピアノでもやってみるか、とまったくの素人の段階からその修得に励むときのことを考えてください。

楽譜を読めるようになったり、またそれをアタマのなかで繰り返せるようになったところで、実際にそれを弾いてみることができるかどうか、ということはまた別の問題ですね。
つまりここが、認識が表現に移し替えられるという段階、つまり「技術」の段階における問題なのです。

ですから、楽譜を読める、暗譜できる、という認識を実際の演奏として表現するために、とににもかくにもたどたどしい運指からはじめ、何度も何度も不協和音を鳴らしながら恥ずかしい思いをしながら、日々の練習として取り組んでゆかねばならないわけです。

ここをふまえて弁証法に話を戻しますと、まずは人から教わった弁証法はこれこれこういう法則を持ったものである、ということを押さえて「習得」したのちに、それを何度も何度も認識から表現、表現から認識へとのぼりおりを繰り返すという「修練」を積んでゆかねばならないわけです。

実際の表現のためにはこの修練が必要なところを、机の上で考えるばかりの思想家たちはどうしてもわかろうとせず、弁証法など使い物にならないと切って棄てるのですが、このような「認識即ち実践」という短絡は、いわば「モーツァルトの楽譜を手に入れたから私は稀代のピアニストなのである」といった阿呆ぶりを披露するのと論理的に同じなのですから、最低でも『裸の王様』からその論理くらいは学ばねばならなかったのです。

このような修練過程をたゆまず持つということはつまり、弁証法を念頭に置きながら、それを自らの認識と何度も何度も相互浸透させる、ということです。
この相互浸透が数年間にもわたる修練のうちに結果的に量質転化し、認識そのものが弁証法的に技化されてゆくという過程を持つものなので、弁証法は絶対に知識ではなく技術なのだ、という目的意識をもって習得しなければなりません、という注意を含めてタイトルとしたわけです。

「認識における技」としたので、認識なのか?技術なのか?と、概念的な整理ができている人をかえって混乱させてしまったかもしれませんが、事情はこのようなのでご了承のほどを。


さてここでいう学問はなにも、一般に言う、学者がなにやら難しいことをごちゃごちゃやっている、という意味での学問だけに限ることではなく、本当の意味での学問が、その時代に人類が持ち得た最高の認識の形態であるからには、あらゆる対象と一流のレベルで向き合ってそれを我が物とし表現に移し替えるという時には、文芸やほかの文化を自分の道と定めた人にとっても、決して無関係のことではないのです。

むしろ、学問の冠石と呼ばれる弁証法は、最高の実践のためにはどうしても必要なものなのです。逆に言えば、高度な実践をしておられる方々の認識には、自然成長的ではあっても弁証法的な性質が働いている、とも言えます。

ただ自然成長的な認識というものは、目的的に培った認識とは違い、どこかが自己流にアレンジされてしまっているのです。たとえば三法則に当てはめてご当人の認識を調べてみただけでも、ひとつの法則は自らの金科玉条として無上の価値が置かれているけれども、他の2つの法則についてはまるで無頓着で玉に瑕になっている、などということがわかるものです。

たとえばわたしの歳上の友人は、その経験から「生があるから死がある。死があるから生もまたある。」などの関係についての法則性を引き出し、それを社会問題や業務上の実践にも当てはめて成果を出してきて、周囲からも賢人として認められておられる人です。

これは<対立物の相互浸透>の初歩の理解ですが、では他の法則についてはどうか?と、たとえば「生から死への転化はどういった過程があるのですか?」<量質転化>や、「生物種というより大きな視点から見れば、親が死んで種を残すからこその種の保存なのではないでしょうか?」<否定の否定>と、他の法則についての理解を促すかたちで質問をしても、知識的に知っている範囲内での事柄しか答えられないのです。

いくら強調しても、やはり実践から自らの手で引き出したという自信は抑えがたく、学者がなにやら言うておる、といった受け止め方でした。
しかし付き合いの長くなったある時ある拍子に、ご当人が突き当たっている問題について雑談していたとき、「えっ、あっそうか!ああっ…いま、きみの言ってることわかった…ずっと同じことを言ってたのか」と、なぜもっと早く納得させてくれなかったのか、と詰め寄られたものです。

三法則だけでも習得する気があれば、実践はより質的に違ったものになっていたはずで、事実ご当人も、眼前のあまりに大きな魚を逃したことに非常に悔いておられましたが、これが、自然成長というものなのです。

そういうわけで、せっかくこんな文字ばっかりの閻魔帳Blogを覚悟を決めて(これは本当です。読者でい続けてくださるみなさんの謙虚さにはいつも驚かされています)見に来てくださっている人たちは、せっかくエンゲルスがヘーゲルとそれ以前の哲学をとおして森羅万象のあり方と向き合い、三つの法則として引き出してくれた弁証法をありがたく学ぶことにしようではありませんか。

この三法則の導出というのは実のところ、本当に凄まじいほどの偉業なのであって、これはたとえば「ヘーゲルの考え方そのもの」を学ぼうとしても絶対的に不可能であったところを、三法則によって一般大衆にも大きく、一流への道を開いてくれたという素晴らしさがあるのです。

もっとも、弁証法にも当然ながら、まだ先があるのですが。
罵詈雑言が飛び交い猫も杓子も魑魅魍魎も跋扈するこのインターネットの片隅ででも、いつかそういうところまでみなさんとともに歩んでゆきたいものです。
本や公の記事よりも口悪くしゃべれ…おっと、本音が出せますし、なにしろ無料です。

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さて、まとめなのに全然まとまってない!というお叱りをそろそろ受けそうなので、後者の一連の記事についての説明書きは一行で済ませましょう。

後者の、とくに下記のものについては、いつまで経っても「受け身に」学ぼうとする姿勢が抜けない人には、ぜひとも一読と一考をお願いしたいと思います。
┗自らを恃むとはどういうことか(次回の記事)

次回の記事は、できれば今日の夜には公開したいと思っています。

1 件のコメント:

  1. >罵詈雑言が飛び交い猫も杓子も魑魅魍魎も跋扈するこのインターネットの片隅ででも、いつかそういうところまでみなさんとともに歩んでゆきたいものです。

    私も是非に御一緒に歩んでゆきたいです。

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