2012/07/18

質問へのお答え (3):「私のどこが弛んでいるのでしょうか」

質問へのお答えのさいごです。


◆3◆

「目が合った瞬間にあなたから「弛んでいる」と叱られたのですがどうすればよいのでしょうか…」

このところ、わたしのところに出入りしている学生たちを叱らねばならないことが数度あったのですが、これはそのうちの一人からの質問です。
期自らのまずさを自分なりにでも考える期間を置きましたから、何を叱られたのか、どうすればよかったのか、を確認してゆきましょう。

わたしは普段、人を叱るということをしませんが、自分の定めた道で一角の人物になると約束をした人間に対しては、その約束に相応しいだけの接し方をしなければならないという責任があります。

ですから、叱られたということは、そういった観点からの必要性に迫られての表現なのだ、と受け止めてください。
その意味において、以下での説明は誰かを名指しして叱責するものではありませんが、一般的に言えることですらを守れていないということは、大きな恥として受け止めてもらいたいものです。



はじめに、確認するまでもないほど、であるはずの、原則について確認しておきましょう。

上でいう約束というのは、当然ながら「わたしとの約束」というよりも、「自分で決めたことは自分自身の責任においてやり遂げる」という、「自分自身との約束」であるべきものです。
ところが、この大原則についての理解ですらが、必ずしも堅持されているとは限らないのは、あまりに残念です。

以前にもお話したことがあると思いますが、わたしは、共に研究する学生さんを、「能力」で選んだことはありません。
ではなにで選ぶかといえば、当人が持っている、自分の立てた目的、夢をなんとしてもやり遂げる、という志なのです。

少なくとも一人の人間が学生という身分を背負っているあいだには、その当人の才能というものは、自然成長的に伸ばされてきているのですから、その時点でよくできていようがよくできていまいが、それは当人の自己責任とは言い切れない部分もあります。
あなたは親を選べなかったし、その影響下において伸ばされてきた人格で判断して友人・教師をも選んできたのです。
その生涯の途中で、よほどの自覚がなんらかのきっかけで目覚めなかったのであれば、「なるようにしかなならない」という面があるのです。

ですからわたしは、特に20代前半までの学生さんを、能力で選ぶべきではないと考えているのです。
ここの段階で、受験勉強なりで人格があまりにも歪みきっていて、何事をも斜に構えた態度でしか見ることのできない、というような人はさておき(幸いお会いしたことはありませんが)、どれだけの鈍才であろうと、当人がこの道を目指すのだと言い、一回きりの生を受けた、自分自身の存在にかけてそれをやり遂げると確認した時に、どれほどの困難があろうとも何度でも起き上がってそれをやるのだ、と自分の口で、自分の言葉で言うのなら、これはわたしの同志であると思うのです。

同志というからには、生まれるタイミングがどれほどに前後していたとしても響きあうような関係でしょう。
もしわたしが、そこで認めた当人よりもずっとあとに生まれたとして考えてみた時にも、深く響きあった関係であるのなら、わたしより先に生まれた当人も、わたしのことを無下にはしないはずです。
能力はともかく志やあっぱれと、自らが進むその背中でもって、わたしを導いてくれるはずなのです。

そういうことを考えれば、わたしが志ある学生を指導するというのは、単に、わたしが先に生まれたから、たまたまそのような立場に収まっているということ以上の意味は無いのであって、だからこそ、へつらう必要もないし、必要以上に礼を尽くしてもらう道理もない、と申し上げているのです。
同志とは、そういう関係であると考えます。



然るに、それでも叱らねばならないということは、他でもなく当人が、自分自身の存在を、自分自身の責任で受け止めていない、ということに他なりません。

当人が自覚していようがいまいが、レポートや論文だけでなく、その立ち居振る舞いをふくめた<表現>に、腑抜けた根性が見え、そしてまたそれが確かな根拠とともに明らかになっている場合には、先に生まれた同志として、厳しい言葉でそれを正す、ということを絶対にせねばなりません。

師弟関係や不特定多数にたいする指導者としての経験が少ない場合には、自分自身を見ている人間の認識のあり方を、自分自身のレベルにまで押し下げて見てしまうということは、ある意味でやむを得ないところもあります。
しかしこの、「自分のわからなさをわかっていない」というところは、生涯にわたっての最大の、かつ致命的な欠陥です。
これを自分自身の責任でもって正してゆこうとするものでなければ、同志としてなぜ認めうるというのでしょうか。

ここを具体的に指摘すれば、「レポートが条件を満たしていれば、どんな生活を送っていようとも問題はないだろう」というような姿勢でものごとに臨んでいませんか、ということです。

はっきり言っておきましょう。
知らぬは自分ばかりなり、であると。

仮にも人生をかけて認識論を使って自分の専門分野と指導をしてきている人間にたいして、「自分がどんな人生を過ごしていようが外面を整えていればそんなことは知りようもないであろう」という向き合い方で臨むというのは、あまりに礼を失する態度というものです。



そもそも認識論の実践的な適用がどういうことなのかといえば、当人の表現を見た時に、その認識のあり方がいなるものであるかをおぼろげでも像として描いたうえで、その仮説に基づいてよりつっこんで当人のあり方を見ながら、それをより明確な像として描く、ということです。

ここでの観念的な二重化は当然ながら、自分にはない経験を持った人間のことは、自分自身の認識能力の埒外であるがゆえに、まともに想像してみることはできないのですが、その場合にでも、その当人に、「自分にはまだ理解できていない深みがある」ということは、やはりうかがい知ることが出来るものなのです。

わたしがこのような見方であなた方を見ていることが少しでも想像できているのならば、仮にも同志として認めた、しかも指導する側の立場にある人間のところに、猫背でふらふらとやってきて、いささかも本質的ではない話題ばかりを愚痴っぽくつぶやいて傷の舐め合いを乞う、などということは、自分自身の人格にかけてできないことではないでしょうか。

甘えるな泣くな、などという阿呆を言っているのではありません。
泣くべき時に泣けないのは、たんなる不感症であり、なんらの誇るべきところを持っていません。

ここで言いたいのは、ひとつの表現は、その当人の人格を表しているのだ、ということです。
このことを、もう一度、自分の身になって、捉え返してみなければなりません。

上でことわっておいたように、これらは誰かを名指ししているのではありませんが、たとえばあなたがカフェのテーブルで、仕事のパートナーとなる初対面の人間を待っている時、やってきた相手についてどのような印象を抱くのかを下の例から考えてください。
カフェのドアがばんと開いた。
こちらから出ていく客は、怪訝そうな顔つきで大回りして本人を避けて出ていった。
そんなことも知らぬ顔の当人はといえば、猫背でぶつぶつとひとりごとを言いながら、靴を擦ってこちらに歩いてきて、あいさつもなくどすんと椅子に座ると、睨めつけるような眼で「あんたか」とつぶやいた。
これからの仕事について話しているときにも落ち着きなく、ボールペンをしきりにノックしながら、貧乏ゆすりを続けている。
飲んでいる煙草の量も尋常ではない。
資料のページをめくる手つきが雑で、ページを破いてしまわないかと不安になる。
あなたはそれを見て、重要な工程を確認するときには、声を大きめにして強調することにしたが、「ええ」とか「まあ」とか相槌も冴えない。
さてあなたは、この人物に安心して仕事を任せようと思えますか。確かな人格であると思えますか。

こういった振る舞い、つまり表現をとる人間を見た時に、あなたの頭のなかでは、「この人は本当に理解できているのだろうか…」、「本当に仕事のパートナーとしてやっていけるのだろうか、もしかすると手伝ってもらえるどころか足を引っ張られるのではないだろうか…」という不安が生まれ始めているというのがごく一般的な受け止め方、というものでしょう。
もっといえば当人の人格についても、大いに疑問符のつくものであるのではないでしょうか。

もしここで仮に、この当人が、そのふるまい方とは似ても似つかないほどに、実のところ気配りができ、パートナーの感情の機微にも細やかな配慮ができ、仕事も申し分の無い働きができる人物であったとして、あなたはその人格を、どの表現から受け止めればよかったのでしょうか?

もし長い付き合いでそれを把握できたとしても、「ではあのときのあのがさつさには、どういった理由があったのだろうか?」と不思議に思って当然というものではないでしょうか。

ひとりの人間が持っている表現というのは、認識とは切り離して存在し得ない、ということがわかったでしょうか。
またそのことを強く自覚した時に、「これまでの自分の振る舞い方は、一体どのように見られてきたのだろうか…」と、他でもない自分の人格についての不安な感情とともに受け止められてきたでしょうか。



それとも、「よかった、このどれも当てはまらないから自分は大丈夫だ…」と考えたでしょうか。

そんな人に言っておきましょう。
いいですか、あなたの姿勢がそんなだから、叱られねばならないのです。

上の大げさな例は実のところ、イメージを膨らませる役目を終わればその記述内容自体はどうでもよいことなのであって、肝心なことは、自分のいまとっている表現が、確かな認識に基づいているものであるかどうか、というところなのです。

根本的なところから何度も繰り返しますが、これはなにも、人目を気にして生きろ、などと言っているわけでは決してありません。
あなたのいましている表現のあり方は、あなたの人格を代表するものとして、世に出して恥ずかしくないものであろうか、もう一度検討せよ、と言っているのです。

たとえば哲学書と題した書物の中に、世界を客観的に見なければならないはずのところを、自分の人生の悲喜こもごもを織り交ぜたうえに、「自分のことを自分であると実感できない」というごく個人的な私生活の思いをもとに組み立てたような体系があったとするなら、あなたはその哲学を、まっとうな哲学とは見做さないし、見做してはいけないものであるはずです。

それはもっと個人的な生活にまつわる表現についても同じことが言えるのであって、故障でもないのに背中を曲げて足を擦って歩くのは、自分が人間として格好の悪い振る舞い方をしていることすら自覚できないくらいの認識である、と表明していることになるのです。
またたとえば、笑った時に歯が黄ばんでいるということを見られるのならば、この人は禁煙していると言いながら影では実践できていないのだな、と、言ったこともできない人格として把握されることになるのです。

ここで言っていることが、我が身に捉え返してしっかりとわかるでしょうか。

わたしは、人間として格好の悪いことはやめなさい、というお話以前のことを言っているのです。
あなたは本当に、その表現から人格を読み取られても恥ずかしくないのですか、自分の人格にかけた表現が、そのようなものであっても本当に良いのですか、と言っているのです。



「人生というのは一回きりのものだ」と人は言いますね。

であればこそ、一回きりの生涯ならば、何らの悔いもなく前だけを見定めて生きてみよう、どこまで行けるのか自分の目で確かめてやろう、というのが人間としてまっとうな生き方です。

しかし翻ってみれば、このような考え方が真っ当であると、当たり前のことのように思えるようになったのも、人類がこれまでに築きあげてきた文化の発展があったればこそ、なのです。

少し歴史のお話をしましょうか。

近代化されるまでの人間のあり方といえば、中世から説き起こすとしても、封建制度のために、人々は圧政を敷く直近の封建貴族を頂点とする分断された組織の底辺の人間としてしかあり得ないものでした。
ここでは、人々の生活単位としての民族といったものは、事実上存在しなかったのであって、それが中世末期に中央集権化の流れの中で、そういったより大きな集団の一員としての自覚に目覚めさせられてゆくのです。

ここにおいて近世での、国家単位としての活動が華開いてゆくのですが、それでも依然として、人々は現代でいう自由にはとても似つかない生活を余儀なくされていたのです。
なんとなれば、この民族国家においては、勃興しつつある市民階級は、没落しつつある封建貴族に対しても自力での打倒はかなわなかったために、さらに上の王権と結びつかねばならなかったからです。

これは、人々が帰属に打ち勝つためを思って王権にくみしたことで生まれた絶対主義こそが、実のところ、頭をすげ替えた封建主義の延長でしかなかった、ということなのです。
目の上のたんこぶを切り落としたら、さらにうえの大きなひさしが邪魔をしていることがわかると同時に、それをむしろ自分たちの手によって育ててきてしまった、という、なんとも皮肉な現実が待っていたのです。

こののちに、絶対主義との闘争の時代が幕を開けるわけですが、西欧に限った近代化、民主化ですら、このような千年にも渡る苦難の歴史のうえに、さらなる数百年の歴史の流れがあることをわかってほしいと思います。

この過程で、同じ人間から蔑まれ云われのない差別を受けながら果てたひとつの人生、ひとつの正しさを手放さなかったことによって火刑に処されたひとつの人生、そういった、内実はともかくもそれに相応しくない扱いを受けた人生が、無数に横たわっていることを少し想像してみて欲しいと思います。

日本では文明開化と戦後において、急速に移入された民主化の道を、その過程についての綿密な理解なしに、またその理解を積み上げてゆく暇もないままに進まされてきたために、その反作用も現在では大きく、なんらの誇れるところも失ってしまったかの感もありと見えますが、そうではないのです。

ここまで人々が、その人類総体としての努力において獲得してきた文化と生活と、そこで生きる人間だからこそ、そのようなところにすら欠点を見いだせるほどの人生観を養えてきているのです。

不景気に不平や不満を言う前に、自分たちの生活をありのままに見てください。

引きこもりやらニートやらをやっていても餓えず、仕事を選ばなければ路上での暮らしをせずにすみ、度外れな贅沢をしなければ、家族のうちひとりでも健康に働けているだけで家族全員が不自由なく暮らすのも、難しくはないというのが現在の日本という環境でしょう。

わたしたちがこういった生活を享受している時に、その背後にあるほかの人たちとのつながりや、その過程に滔々と流れている人類総体としての過程を自分のことのように省みることができるのであれば、どのようにして生きるべきか、ということも、自ずと自覚されてゆくものと思うのです。

一回きりの人生というものについて、どのような姿勢で向きあえば人間として恥ずかしくないのか、ということも、自分自身のアタマで、自分自身の責任において考えてゆけるはずだし、そうでなければならないのです。

わたしたちが受け止めるべき自由というのは、アナーキーで野放図の感性に任せたものなのではなくて、こういった歴史の過程における必然性を、現在という一時点から、「自分という存在という立場からしっかりと捉え返したうえで、人類の代表として生きる」という認識のことを言うのです。

禁煙を確約しながら真っ黄色の歯をさらけ出してがははと笑うことの恥ずかしさと同じく、自ら道を見定めて歩むと、少なくとも形式上は自分自身に硬く誓いながら、それでも無頼の月日を過ごして恬として恥じぬというのでは、二重の恥を晒している、というものとわきまえねばなりません。



自分の思い描いた夢を目指して、いちばん得意なことを突き詰めてやることを通して、人類全体の本質的な前進のために働くことができる。

このことのできる有り難さが、この現代の日本という、時間と場所に生きているということの得難さが、我が身に捉え返すようにわかるでしょうか。
わたしたちがこんな当たり前に感じられていることも、これまでの人類の、血と涙と、立場を異にする人間から圧政、云われのない迫害から、少しずつ少しずつ、獲得してきた権利と、それに基づいた実感なのですよ。

それでもあなたは、そんな日々の過ごし方で生きるのか、と問いたいのです。


(了)

1 件のコメント:

  1. >「人生というのは一回きりのものだ」と人は言いますね。

    であればこそ、一回きりの生涯ならば、何らの悔いもなく前だけを見定めて生きてみよう、どこまで行けるのか自分の目で確かめてやろう、というのが人間としてまっとうな生き方です。<

    < 人生の折り返し地点を、十数年前に過ぎってしまった私ですが、この生き方を目指して頑張ってゆきたいと想っています。>

    >引きこもりやらニートやらをやっていても餓えず、仕事を選ばなければ路上での暮らしをせずにすみ、度外れな贅沢をしなければ、家族のうちひとりでも健康に働けているだけで家族全員が不自由なく暮らすのも、難しくはないというのが現在の日本という環境でしょう。<

    < こんな当たり前のことに気付かず、いつも…不平不満ばかり、出来ない言い訳ばかり、して…やろう!としない…そんな自分を反省させられました。>

    ありがとうこざいます ♪♪♪

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