2012/07/20

技としての弁証法は何を導くか (4)

昨日の記事で、


三浦つとむがカントの主観主義的観念論から、ヘーゲルの客観主義的観念論への発展の理解を助けるために例示していることを見てきました。

その例示と、わたしが挙げた冒頭のお題との関連性はわかってもらえるでしょうか、というところでしたね。

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ここで、同じ観念論であっても、主観主義から客観主義への発展というものは、学問を志す者にとっては驚くべき、驚天動地といってもよいほどの大きな転換であったのです。

たとえばわたしたちが月曜日の朝に起きて、窓の外の景色を見るときのことを考えてみてください。
仕事に行きたくない気持ちのあまり、「あ〜、ここから見える景色がハリボテだったらなあ…」と思ってみることはできるでしょう。

素朴な考え方ができるひとは、それでも我に返って、「つまんないこと考えてないで顔洗ってこよ」と、食事を済ませて仕事に向かうはずですが、世界をその成立根拠から考えることを生業とする哲学者にとって、これは喫緊の課題です。
なぜかといえば、自宅の窓から見える景色が、精巧な作りのハリボテであるという明確な根拠はなかったとしても、それがハリボテではない、という確かな根拠もまたないからです。

その問題だけでなく、ほかにも勤務中に町を行き交う人たちも機械であるかもしれず、また駅で乗る電車についても、地表を電車が動いているのではなくて、止まっている電車の下の地表が滑っているのかもしれません。

考え始めると童話の一つでも書けそうな、身近にありながらよく考えると不思議な、しかしそれでいて根本的なこれらの疑問に明確な答えを出したのが、大哲学者ヘーゲルその人であったのです。

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ここまで話を追ってもらえれば、この一連の記事の冒頭で出しておいた問題、
「亀は甲羅でその身を守っている、と言われるのはなぜでしょうか。」
という問いかけについて、ヘーゲルなら答えられるのかもしれないな…と思え始めたでしょうか。

ここで、わたしが冒頭で、その問題を出したあとにヒントを出していたことを思い出してください。
それはこういうものでした。

わたしたちが亀の硬い甲羅を見て、「あんなヤワなもので大丈夫だろうか」と考えるのではなくして、「頑丈そうだな、さぞかし身体をよく守ることだろう」と考えることになっているのは、いったいどういった根拠に拠っているのでしょうか?

この言い換えでどんな手がかりを読者のみなさんに伝えたかったのかといえば、亀の甲羅を柔らかいとは思わずに硬いと判断し、犬に噛み付かれることを好意ではなく敵意だと判断し、空を赤ではなく青であると判断するという、わたしたち人間が持っている判断の確からしさというものが、当人の勝手な思い込みではなくて、ひとつの客観性を持っている、ということです。

そうして話ここに至り、この客観性を森羅万象から取り出す方法を提示したのが、ほかならぬヘーゲルであった、ということです。

ではこの客観性というものがいかにして与えられ、物事の真偽を判断するための手がかりになっているか、といえば、その答えは歴史の中にある、と彼は言います。

一般の読者のみなさんは、歴史というと、何十億年も前に地球が生成されたり、数億年前に生命体が誕生したり、古代ローマ帝国が分裂したあと滅亡したり、ピラミッドが建設されたり、織田信長が本能寺の変で命を絶たれたりなどといった事柄を思い浮かべるかもしれません。

しかしここでいう歴史というのは、そういった個別的な事実ではなくて、歴史というものの流れ、というものなのです。
そうしてその歴史、つまり生物の誕生とその種の間のせめぎあいと進化、人類の民族の生成とその間の栄枯盛衰、人類が文化を作り上げるなかでの精神の生成と発展といった歴史を、その大きな流れを俯瞰するように把握した時に、わたしたちはひとつの「論理性」を獲得するのだ、ということなのです。
そうして、その論理性でもって眼の前の対象を判断するからこそ、そこに客観的な真偽を見出しうるのだ、ということなのです。

このことを踏まえて冒頭の問いかけに戻って考えなおしてみることにすると、亀の甲羅がどのようなものであるかは、現在目に見えているその対象のみで云々できるようなものではなく、それが生成され発展してきた過程をふまえてこそ判断しうるのであり、それを導くのが弁証法という論理である、ということになります。

ですから、冒頭の問いへの答えのうち、誤りであるとしておいた考え方のうち、あるものは対象としているものの歴史を辿ってみることなく現時点での対象だけを見て、硬いとは柔らかくないものだというふうに言葉遊びの域を出ないということになるのです。
そしてまたあるものは、硬いという概念を歴史的に見てこなければならないはずのところを問うことなしに、「「硬さ」がどれくらいか」と、論理の問題を事実の問題とすり替えて捉えてしまった、ということになるのです。

またさいごの、事物の性質は主観による、という考え方については、ヘーゲルが森羅万象の一般性を引き出し得たことで、森羅万象を客観的に探求するための土台が与えられることになったのです。
このことからわかるとおり、ヘーゲル哲学は観念論として完成されたものの、その探求過程は唯物論的でした。事実、ヘーゲルが森羅万象を学問的に捉え切ったことで、彼の登場後、分科の学たる個別科学は、一挙に花開くことになっていったのです。

さてともかくここをこのように、ごく簡単にでも、アイデアレベルにでも受け止めることができれば、「リンゴの本質とはなんだろうか…。リンゴとは赤いものである、いや、それだけではない。ではリンゴは丸いものであると言えるだろうか、いやそれだけではない。それではリンゴは、樹になるものであろうか、いやそうとも言い切れまい…」などと、対象の本質を概念と対応させて手繰り寄せようともかなわず、結局のところ彼岸へと落ち込んでいった思想家の二の轍を踏まずにすむわけです。

ヘーゲルの学説が歴史哲学と呼ばれたり、彼の考え方を学び、それを唯物論に作り変えたとされるマルクスやエンゲルスのものごとの見方が、「史的」唯物論と呼ばれる理由がわかるでしょう。
それだけ、ヘーゲルの考え方では歴史、もっといえば歴史の流れ、つまり歴史的な論理がその根本に置かれているのです。

ものごとの確からしさの根拠が森羅万象の生成と発展の中にある、という、誰しも一度は思いつきはするけれどもあまりに壮大過ぎて探求は不可能であると諦めた大本道をこそ真正面に据えて歩み、そうして客観主義観念論をほとんど完成させたというところに、彼の大哲学者たる所以があるわけです。

みなさんがここや三浦つとむの本で学んでいる三法則をはじめとした弁証法は、こういうヘーゲルがかつての偉人の業績を一身に受けて我が物とし、そうして導き出されてきたものなのです。

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ここまでの説明を聞いた時、大事なことを言われているような気がするけども、わかったようなわからないような…といった感想を持っているかもしれませんね。

それでよいのです。ここはいきなりわかるわけはないし、わかった気になってもらっては困る、というほどに、「なんとなくわかった」という段階に達するまでにもそれはそれは長い年月の研鑽が必要なことですから。

ここではおぼろげでもイメージを持って、弁証法という考え方があればこんなことまで追い詰められるのか、という凄まじさを感じてもらうために、目に見える、実体的な例を挙げておきましょう。

みなさんは中学校の生物の時間に、人間の身体の生成と発展を見たことがあるでしょう。
はじめは丸い卵のような受精卵であったものが、細胞分裂を繰り返して次第にヒトらしい形にまで育ってゆくのでしたね。
その途上に着目すると、受精卵が受精後30日ほど経ったときには、尻尾やエラのようなさけめを持った、魚のような形をしている段階があることに気づくはずです。
これは事実的に、魚類であろうと両生類であろうと他の哺乳類であろうとヒトであろうと、それなりの高等な生物であればみな同じような形をしています。
そうして魚のような段階を過ぎる頃になると、手足が伸び、尻尾がだんだん縮まっていって、ようやく赤ん坊を想像できるような身体つきになってゆきますね。

この過程を見た時に、なぜ、赤ん坊では消えてしまうエラや尻尾が、お母さんのお腹の中にいるころにはなければならないのだろう?という疑問が湧いてきませんか。
理科の先生が真正面から答えてくれたとしたら、その先生はすごい人です。
しかしそうでなくとも、あなたのその問いかけは、とても大事なことなのです。

この過程は実は、人間の赤ん坊というのは、母体の中で、今までの地球の生命の歴史を、ものすごい速さで繰り返している(!)ことを示しているのです。

地球上に生命が誕生し、母なる地球の発展と浸透するように微生物、カイメン、クラゲ、魚類、両生類、哺乳類、サル、ヒト、そして人間へ、と生成し発展してきたというその何億年もの過程を、わたしたち人間は誰しもが、それぞれのお母さんのお腹の中にいる1年弱という短い期間の間に、繰り返しているのです。

こういうと、魚やカエルのような姿、といったところで、それらとぴったり同じわけではないのに大雑把な決め付けは科学的ではない、といったような反論があるものです。
しかし逆にいえば、もし人間の赤ん坊が、カエルとまったく同じ発展をするのだとしたら、それは人間になるはずもない、ということではありませんか。
人間は人間にまで成長するという原則において、あくまでも一般的に、地球上の生命史をなぞらえているのです。

少し話は逸れますが、このお話から、「一般的に」というのはなにも、「大雑把に」ということではまったくないのだな、と、論理の問題としていつも述べていることの根拠を見出してもらえると、いつものお話もより理解が深まるはずです。
原則を踏まえてこその一般性である、とどうしてもわかってもらわねば、大きな流れから論理を取り出す時に、なにやら大雑把であるとの印象を抱いてしまいかねませんから。

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本当ならばもっと詳しいお話もしなければなりませんが、ここではおぼろげな像(なんとなくのイメージ)だけでも持ってもらえると、自分の道の歩み方の本質化のためには大きな意味があると思います。

たとえば上のように、わたしたちの身体が地球の生命史をなぞらえているのだとしたら、と考えてみれば、次のようなことについても考える筋道が立つことになってゆくでしょう。
ここがわかっていれば、わたしたちの精神面の生成と発展は、どのようなものになっているのかという過程的な構造、また、どのようなものであるべきなのかという育児論、教育論、指導論、というものも、より本質的に考えてゆけるはずです。

先程も言ったように、これらは一般的なお話ですから、育児や教育といった、身体の生成とは質的に違った特殊的な対象に向きあう時に、イルカのように優雅に動けだとか、カエルの動きから学べだとかの阿呆をやってしまう向きには百害あって一利なし、となってしまいます。(書店に山積みされている本には(おそらくテレビなどにも)、こういったあからさまに頭脳活動の低い著者の成したものがありますが…なんと言えばいいのでしょうね。悲しさのあまり言葉につまりますが、珍説を真に受けた犠牲者が出ないことを祈るばかりです。)

しかし、ある程度の論理をここで把握してもらっている読者のみなさんには、うまく伝わるのではないかな、との思いを込めて、ここまで書き連ねてきた次第です。

自分が扱っている対象の生成と発展、その歴史を「一般的に把握する」ということの大事さが、少しでも伝わったでしょうか。
それがなければものごとの真偽はつかないのだし、歴史性を無視すれば堂々巡りに陥ってしまうことがわかってもらえたでしょうか。
そしてまた、一般的な把握というのが、なにも大雑把にものごとを断じているわけではなく、むしろ個別的な知識にいきなり深入りすると論理性など身につくはずもない、ということまでわかってもらえるでしょうか。

弁証法を、三法則の「習得」からはじめて、それらの法則がいちおうのかたちで一体となって自らの認識が弁証法性を帯びたものとして浸透し「修得」できはじめたときには、わたしがはじめに間違いであると断っておいた考え方などは、言うまでもないほどの踏み外しとして一蹴できるのみならず、対象を確固たる一般性を持って見ることができるところから、次にはそれをより深く探求してゆくだけでよい、ということになるのです。

ここで弁証法という論理を持たないのならば、なんとなく決めた対象に、なんとなくの向き合い方で進んではみたものの、果たしてこれが正しいのであろうか…と、自らの選択に疑念を抱きながらの前進になるのであり、また時代の流れが変わると自らの主義主張が通用しないことが明らかになるがためにそれらいっさいを棄てて探求をやり直すことになったり、またそれが災いし目立った若手を政治的に潰すということだけが趣味の、見るも無残な人格として齢を重ねてゆくことにもなるわけです。

わたしはここで嫌味を述べているわけではなくて、論理性を欠いているということは、実のところ、人格のあり方にも影響せざるを得ない、という事実を指摘しているのです。

さて、ここで述べている弁証法という論理が歴史的に生成されているものである、という一事が過たずわかるのならば、このBlogであれやこれやと手を変え品を変え、ときには誤解を恐れずに述べてきていることが「なんだ、やたらめったらと当たり前のことをいちいち書くものだな」と受け止められるばかりでなく、自ら説き起こしてゆけるというくらい、大事なことなのです。

逆に言えば、歴史を軽視したり、またそこから歴史性を取り出す方法を学ばないのなら、最高のやり方で自分の道を歩んでゆくことが実質的に不可能になる、ということでもあるのですが。

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本論はこれにておしまい、ですが、あとは勝手にやれとはなんと無責任な、という人のために、もう一節設けて、具体的な一般性修練の進め方も書いておきます。

この方法論を独力で構築することこそが本当の学力というものなので、いきなり答えを知りたくないという気骨のある方(同志よ!)は、明日の21時まで考えてみてください。


(4につづく)

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