2012/07/21

技としての弁証法は何を導くか (5)

この節は、具体的な一般性修得の進め方です。


さて上で述べてきていることはなんとなくわかったが、擱筆する前に具体的にどういう修練をすべきなのか教えろ、という方もおられるかもしれません。
その場合には、まずは自らの専攻分野の歴史の流れを、一般性において把握してください、ということになります。

つい最近の記事でも出しておきましたが、林健太郎『歴史の流れ』に、知識的にではなく、その一般化の程度をしっかりと学び、自分の専門分野の歴史を、それと同じレベルの一般性において把握できるのであれば、自らの目指すべき本道がいかなるものであるかがおぼろげながらわかってきます。

言い換えれば、西洋史が『歴史の流れ』という一般性として示されているのと同じようなかたちで、たとえば日本史、物理学史や経済学史、そのほか芸術史、武道の歴史、文学史といった、自らの先行する分野の歴史を一般性において表すべきである、ということです。

この一般化というものを、決して軽視しないでください。
これが把握できるということが、直接的に一流となるための条件となっているのですが、人はあまりにもここを軽視し、またあまりにも努力しなさすぎます。
だから、根拠薄弱のまま前に進み、少し小突かれては一度立てたはずの主義を撤回せざるを得なくなり、あまつさえ真理なるものはないのだ、などといった甘えた相対主義に落ち着かざるを得なくなるのです。

わたしたちは、歴史を先人から引き継ぎ、新たに創造することで受け継いでゆくのです。
自分勝手にでっち上げるのではありません。

それでも一般化というものを、「大まかなあらすじを書けばいいだけだろう、なにがそんなに難しいのか」と言いたい人には、「ではやってみなさい」と言ってあげてください。
実際にやってみれば、これはとてもとても難しいことであると、すぐさまわかります。

なぜと言うに、対象となる分野の大道が見えていなければ、どの歴史的な事実を拾ってゆけば良いのかが解らず、結局のところ、年代順に事実を並べてゆく羽目に陥るからです。
しかしそんなものは、一般性では絶対にありません。
繰り返し言いますが、本質や原理原則がおぼろげにでも見えなければ、対象を選びとることはできないのです。
原理や原則があるからこそ個別もありうるのである、という対立物の相互浸透のありかたを今一度押さえてください。

ことはこうであるからこそ、入門者用の教科書は、ものごとを一般的にでも突き詰めてからでしか書けない、と言われるのです。
しかし、専門分野の全体像が見えてくることを自然成長性に任せていては、教科書を書ける頃には引退間近、ということにもなりかねませんから、初心においてでも力不足を顧みず、全体像を見渡してやるぞ、そこに一本の筋道を見つけてやるぞ、という不退転の決意と問題意識でもって、はじめの一歩をとにもかくにも踏み出してください。

まずは、一般性を引き出すために必要な書籍の選定をやることです。
自らの専攻分野についての、通史、〜の歴史、学史、などといったものの中から、その歴史が持っている全体像を浮き彫りにしてくれる書物を探すとよいでしょう。
通史と言いながら年号と出来事を並べているようなものなど、名前負けしているものはどんなものものしい冊数の、分厚い全集であろうとダメです。
むしろ、薄くコンパクトにまとまっている本のほうがよいことさえありますので、先入観なしに網羅的にあたってください。
ある程度見て回れば、芋づる式によい本が見えてくるでしょう。

また、扱っている対象について、たとえば物理学なら「物理」、経済学なら「経済」、その根本概念について、「物理とはこれこれこういう現象である」と、明確に概念規定してあるものは最良です。

そうして、弁証法を最大の導きの石としながら、その壮大な流れを一般性をもって書いてみることです。
A3を二つ折りにして、時代ごとに一枚見開きを使って書ききる、ということを歴史全体を通してやってみて、それを何度も何度も読み返しながら不足を補い、ある程度の流れが踏まえられたら、さいごにA3一枚に、前歴史の流れを書き起こしてみてください。
それができたときには、一度見せてください。

これはいくら強調してもし足りないほどに、またまともな一般性というものはとんとお目にかかったことがないというほどに、重要でありながら軽視されていることなのです。
どんな分野の歴史でも、ある程度の一般性でもって書いてこられる学生さんがあれば、わたしは生涯にわたってその分野についてはその当人に聞くことになりますし、その人格をも尊敬してやまないことになるでしょう。

***

私事ですが、わたしは所属したすべての大学で、すべての学科の「総論」、「概論」、「入門」、「原論」、「学史」といった総論的な授業に出ましたが、そのうち見事であると思えたのはたったひとりの人物の手による、総論と学史だけでした。
わたしが記事のはじめに、いつも「前回は〜〜という内容をお話してきましたね」とあらすじを述べるのは、「それまでの流れを一般的に押さえる」ということを、読者のためのみならず自らの修練として繰り返し繰り返しやっているのだと、その構造を押さえて理解してほしいと思います。

このことの重要性は、その恩師の背中から次第次第にわからされてきたことです。
その学恩を受けて、授業修了時の試験の解答として制限時間内にありったけの筆の勢いで書き下ろした、当時のわたしなりに把握した歴史の流れを見るや、恩師は「あなたの解答は私の学問教育の一里塚として誇らしい。額縁に入れて飾ってある」と、こちらが卒倒するくらいの過大な、それはそれは受け取り切れないほどの最大限の賛辞を持って喜ばれたことを、いまでも鮮やかに思い出します。

わたしはそのときには、飛び上がらんばかりに嬉しい反面、「なぜあの解答がそれほどまでに喜ばれたのか?もっと時間があれば詳しく書けたはずであろうに…」という疑問符だらけの感情のこもった問題意識でもって、わけもわからないながら毎日毎日、頭の中の恩師と議論しながら学問と取り組んだのち、弁証法、そしてそのうちの一般性というものの無上の重要性に、これまた次第次第に気付かせてもらえることになったのです。

あの日々というは、まことに牛歩そのもので、自らのわからなさ加減、馬鹿さ加減、根性の至らなさ加減に深い失望を覚えつつも、かけていただいた言葉を唯一かつ無上の糧として自らを奮い立たせる毎日でありましたから、こうしてみなさんに確からしくなったところをお伝えできるというのも、それはそれは嬉しいことなのです。

さて思い出話はさておき、本道を歩むにあたってのはじめの難関である一般化の修練過程においては、自分の把握している歴史を、弟子や人に話して伝える、わかるように教える、ということが最良の訓練になります。

そこではあくまでも歴史の王道を一つの流れでもって示せねばなりませんから、実のところ、個々別々の人物名や年代、なんたら条約、会議、といった名称は、歴史上必要不可欠なものを除いてほとんど顔を出さないものと考えてください。
またそれらが出てくるときには、大きな歴史の流れのひとつの要素として取り込まれて登場しなければならないのです。

我こそは、と思わん方はぜひとも取り組んで、それなりのまとまりができたときにはわたしにも聞かせて、見せていただきたいと思います。
出来がいかなるものであってもダメで元々、取り組んだこと自体が価値であるとの最大の敬意を払って歓迎します。存分に志のほどを見せていただきましょう。

その暁には、また次の一歩について議論したいものですね。
少し先取りしますと、一般性を把握した後には、それを否定の否定で本質論へと転化させてゆく過程が待っています。
ものごとの探求ということには、終わりというものはないのです。
これまでには想像すらできなかった地平を目の当たりにした時の感動を、ぜひとも共に分かち合いたいものだと願ってやみません。


(了)

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