同じ「たのむ」でも、わたしたちがよく使うほうの「頼む」が、「まかせる」という意味であるのにたいし、こちらの「恃む」というのは、「あてにする」といった意味合いを強く含んでいることばです。
ですので、「自らを恃む」といえば、自分自信を深く信用して、ものごとを決める時の最終的な拠り所として認める、有事の時の頼みの綱とする、といったことを指しています。
さてでは、あなたには自分自身を恃むだけの力がありますか、と問うたとき、読者のみなさんはどのようにお答えになるでしょうか。
たとえば万事休す、となったときにでも、「自分にまだ何かできることはないだろうか」という一点から、解決の糸口を探していけるだけの気概を持てているかどうか、ということとして考えてもらえばよいと思います。
今回は、そうやって恃めるだけの自分というものを、いかにして作るべきか、ということをお話したいのです。
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なぜこんなことを言うのかといえば、今の世をみると、二言目には「自分には無理です」と言うことを、なにやら謙虚さや慎ましさと勘違いしている傾向があるのでは、と思われてならないからです。
自分を恃みにできないことの原因を、世の人は、「私は天才じゃないから…」だとか、「良い大学を出ていないから」だとか、はたまた遺伝子やらのせいにしてしまうことで正当化してしまいますが、根本的な問題はそんなことではないのです。
ここに頭脳活動の良さを伸ばしてゆくことのできた人物がいるとしても、その人は、そうしてゆけるだけの過程があってこそですね。
ですから本来ならば、その過程にこそ目を向けねばならないのです。
それは運動能力にしても、芸術的な感性にしても、また自分を恃みに出来るだけの自信の積み重ねにしても、やはりそれを伸ばしてゆくための過程があったのであり、たとえばそのやり方がいったいどのようなものであったのか、と考えてゆかねばならないのです。
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ここで過程、ということばが出てきた時に、弁証法は<量質転化>の大事さを教えますから、ここの読者のみなさんならば、ふむふむ上達のためには…と、だいたいの筋道をつけられる方もおられることと思います。
たとえば、ということでイメージしやすいように実体的な例を引きますが、腕の筋肉をつけようとするときに、一週間に100回の腕立て伏せをすると決めたときにでも、1週間のうち1日に集中的に100回をやるのか、それとも1日10回程度に分けてそれを継続するのかでは、まったく効果は違ってきますね。
この「継続は力なり」ということは、なにも体力づくりなどに限らず、頭脳活動についても同じことが言えるのですが、そういった上達の方法を具体的に突き詰めようとするのなら、より土台となることがらも、やはり確かなものとして作り上げてゆかねばならないことがわかってきます。
それが、自分自身の生活習慣、というものなのです。
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結論を先取りすると、今回の記事は、質問へのお答え (3):「私のどこが弛んでいるのでしょうか」という記事の中でわたしが、「自分自身の表現というものは、自分自身の人格を表しているのですよ」と述べていたことと深いつながりがあります。
このことを少し具体的に考えていくことで、生活習慣のまずさが、なぜ上達の妨げになり、またそのことで成功体験が得られずに「自分自身を恃みにする」ことのできない人格を形成させてしまっているのか、ということをどうしてもお伝えしておきたいのです。
人の人格形成を見れば、20代に創り上げた習慣こそが、その先の全人生を決定づける、というほどに大事なものですから、手遅れになっては遅いから、というのがその理由です。
たとえば学生さんがわたしにレポートをメールで送信するときのことを考えてみましょう。
ここを生活習慣や如何に、という問題意識に照らして言えば、メールの文面はさておき、大きな問題となっているのは実は、その「送信時刻」、なのです。
一人の人が、ある時は夜中の2時に、次の日は昼前の10時に、そのまた次の時は朝方の5時に…といった、極端にばらばらの時間に送ってくるとしましょう。
その時間と内容を照らし合わせれば、その連絡の必要に応じて、締切時間ぎりぎりになってその時間にならざるをえなかった場合や、夜中にすごいアイデアを思いついたあまりに急ぎ報告したかった場合などは、それとわかるものです。
しかし、まったく「その時間である必然性がない」連絡が何回も続くのであれば、わたしは、「この学生さんはどうも、ただれた生活をしているのではないかな」という問題意識を持ちますから、雑談やアルバイト、交友関係のお話を聞くときにも、それに照らして生活習慣を浮き彫りにしてゆくことになるわけです。
これも、当人の表現は、その認識のあり方を表す、ということのひとつです。
もしこの学生さんが万が一、自分がこれと見定めた道に向かって歩みたい、と言うのならば、わたしはその修練内容をお伝えすることはさておいて、「まずその生活習慣をなんとかしないことには、まともな上達はあり得ないものと心得てください」、と伝えなければならないことになるでしょう。
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それがなぜだかわかってもらえるでしょうか。
みなさんが知っている、<量質転化>になぞらえて、そのことを考えてみてほしいのですが、その手がかりとして、以下の引用を読んでください。
昭和40年の前後に集英社から出版された本、日本子どもを守る会・編 『世界100人の物語全集 私はこんな人になりたい 10 芸術に生きぬく物語』からの引用です。
ちなみに、これはいちおうは子ども向けの本なのですが、自分の人生の目標、みちしるべ、苦境の際の心の拠り所となる人物を探すにはとても良い本で、全12巻で、全世界の歴史を作り上げてきた偉人が計100人ほどが紹介されています。
わたしは国会図書館の書庫に入り浸りの日々のなかで疲れ果てた時、たまたま家にあったこの全集を手に取りました。
そのあとすぐ休みのとき、日本で唯一全巻を所蔵している奈良の図書館まで足を運び、数日通い読了し、大いに感化され勇気づけられたものです。
偉人の生涯というものは、子どもに夢を抱かせるだけでなく、大人になったればこそ響くものも持っているので、自らが目指す分野だけでも先人の伝記をお読みになることをおすすめします。
現在では、こういった全集のかたちをとったものはほとんどが絶版になっているのは教育の上でも残念な限りですが…。
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さてともかく、その本から、このBlogで扱った偉人二人にご登場願いましょう。
この二人に共通する日々の生活の仕方は、いったいどういうものでしょうか?
近代彫刻の道を開いた人 フランスが生んだ偉大な彫刻家ロダン
ロダンは、そのころは、たいへん有名な人なのに、いつも質素にくらしていた。また、何年も心をこめて作った像が、たのんだ人に気に入られないために返されれば、お金はもらわなかった。くらしがたち、仕事ができればそれでよかった。◆
日曜日には、夫人とふたりで、場末のレストランへ行き、スープと、肉と、キャベツとを食べたが、それが夫婦のごちそうだった。
朝は早く起き、すぐに仕事にかかり、夕方になると、休み、食事を終わると、七時か八時にねてしまう。それが毎日、規則正しくくりかえされた。
「パリは、小さすぎるくつのようだ。」
と、住居をムードンといういなかにうつし、毎日、パリまで汽車で出てきて、アトリエに通った。
こうして、時がたつうちに、ロダンの芸術の高さや深さが、だんだん世間の人にもわかってきた。
(ロダンが、わかいころから、どんな歩みを彫刻にみせていただろう。)
と、人びとは考えた。
東洋の愛を詩に ノーベル賞を得たインドの詩人タゴール
(※引用者による要約:タゴールがノーベル賞を受賞したあと第一次世界大戦が起こった。彼はそれらの国ぐにに心から怒り、現代の文明に失望して学校を作ることに力を入れた。このささやかな学校を愛と平和と国際的な知識による、未来の新しい文明のよりどころにしようと決心をかためたのである。)
かれは、じぶんの全財産を投げ出して、イギリス、フランス、日本など、世界の各国からすぐれた先生をまねいて、一歩一歩、じぶんの理想の大学を作りあげていった。そして、タゴールのその努力は、みごとにむくわれた。かれをしたって、多くの学生が世界の各地から、この国際大学に集まってきたのであった。◆◆◆
やがて、この、幼稚園から大学までそなえた国際大学は、世界でも、もっとも特色のある学校のひとつといわれるほどになっていた。
今や、タゴールは学校の中に住みこんで、すべてをこの学校のためにささげた。
かれの学校での生活は、ほがらかなユーモアにあふれたものであった。タゴールの一日は、毎朝早く、決まって屋上に上り、静かに考えごとにひたることから始まるのであった。食事には、米やジャガイモ、それにマメやバターなどの菜食しかとらず、散歩と庭づくりをとても喜び、しっそな生活をしながら、けだかい考え方をするという生活を続けたのだった。
どうですか、彼ら文芸の巨人に共通する日々の生き方というものがわかったでしょうか。
質素な生活をした、という価値観の問題については、生まれ育った時代性や地域性などを加味しなければ良し悪しがわからないのでさておくとしても、彼らができうるかぎり、「規則正しく」日々の生活をこそ大事に、自分の道を歩んでいた、ということがわかってもらえたでしょうか。
では、なぜに、自らの道を歩むためには生活をこそまずは整えねばならないのかといえば、これは、日々をそのような目的意識をもって過ごしている方にとっては、実のところ、なぜそんなことが問題になるのか?と怪訝な顔をされるほどの、常識中の常識、であることなのです。
一流の道を目指すということは、数日全力の努力をしたからといって成されるものではないということは、どんな方であっても納得されるはずです。
では、数日ぶっ倒れるほど頑張る、のではなくて、少しずつでも毎日、量質転化を心がけて頑張る、というときに、どんな工夫がなされねばならないでしょうか。
たとえば毎日8時間、椅子に座り続けて研究するためには?毎日8時間、キャンバスと向きあうためには?毎日8時間、武道の修練をするためには?
しかもそれを、1年と言わず5年、10年と続けてゆくためには?
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ここまで念押しすると、そういうものかなあ、と、なんとなくの像を描けてきた人が多いのではないかなと思います。
ここをもう少し具体的なお話をすることにしましょう。
同じ時間働くにしても、動き続けの武道や立ちっぱなしの油絵というのは大変そうだが、椅子に座って本を読むくらいならできそうだ…と思われるかもしれませんので、ならばということで、もしあなたが研究者になったとしたらどうなるか、と考えてみてもらいましょう。
あなたは1日8時間、本を読んだりノートを取ったり原稿用紙にペンを走らせます。
この際、どんなやりかたでこれらの仕事に向き合いますか。
その姿勢はといえば、椅子に座り続け、でしょう。
本来は運動し続けるのが常体のはずの万物、人間の身体を、同じ姿勢のままの状態を強いる、ということになるのです。
動くのが億劫になった老齢の人間が寝続けて床ずれによる褥瘡に悩まされていることを考えれば、また航空機のフライト時間の中でもエコノミークラス症候群がこれほど危険なものとして知られるまでになったことを考えれば、いかに働き盛りの人間であっても、この身体の使い方は実に酷、ということがわかるでしょう。
これに加えて、実際の労働を見れば8時間で終わるはずもなく、身体の硬化をほぐすためには湯船での時間をかけてのマッサージが必要になりますし、また身体を満足に動かさないために、自律神経をはじめ、精神にまで異常をきたしがちになるのです。
ニーチェやマックス・ウェーバーの晩年を想起してもらえればなるほどと分かる通り、机上であっても激務ともなれば有り体に言って鬱的な症状が見えてきます。
生理学的な観点から言っても、身体の器官のはたらきを極度に制限するということを続ければ、結果、質から量への転化がおきるために、器官そのものの実体的な能力もが低下してゆくことになるのです。
したがって、座って凝り固まった心身をほぐすために五体を日常的に動かしておかなければ、人間として満足な身体運用も精神状態も保てないはめになります。
しかしこの対策として毎日ランニングを日課にすると、さらに足の甲や足首を痛めないように、走法とケアのまともな技術が必要になります。
さて、これらの事柄を精神的に高度な問題意識を持ったままに日々を送るということにしたときに、これらの仕事と日課を、毎日バラバラの時間帯に、バラバラの順番でこなすことにすると、どういった結果を招くと思いますか。
今日は朝4:30に起床し1時間走ったのち8:00から研究に取り掛かり、17:00に帰宅し学生のレポート添削をすませ22:00に就寝した。
しかし次の日は、起床したくも寝足りなかったために8:00直前まで睡眠をとり、それから机に向かって20:00まで机に向かい、夜にランニングすることにした。
3日目はと言えば、起床してからランニングに行こうかと思ったが先ほどやったところで回復もままならないままである…
といったふうになるのが自然、というものではないでしょうか。
この上さらに酒好きで付き合いが多く夜遊びもしばし、となると、どうしようもないほどに生活は乱れます。
◆◆◆
大上段に構えた志など立てなくとも、日々を懸命に生きておられる労働者ならばわかることですが、毎日の疲れをしっかりと癒すこと自体が難しい時に、生活上の不摂生が、どれほどまでに心身ともの重荷としてのしかかっているか、ということは、言うまでもないことなのです。
こういった観点からみたとき、学生さんや同業者のふるまい方を見ていると、その人がどういう心がけで生きておられるのか、ということはどうしても一目瞭然となるわけです。
めちゃくちゃな時間に連絡をする人は、いつもそうなのです。
ですからわたしは、そういった学生さんや知り合いが連絡をしてきても、ああまたか、と受け止めてしまいます。
逆に規則正しい生活をしている人が深夜に連絡をしてくるときには、緊急であろうと受け止めますから、直ちに電話に出ます。
わたしはこの対応で、いまだ失敗したことがありません。
いかに「習慣」というものの恐ろしさが現れているかがわかろうというものです。
これらのことを要して、前回の親記事のほうで、立ち居振る舞いは当人の人格を表す、もっと大きくは、表現はその当人の認識を表す、と言っておいたのですが、その内実を受け止めてもらえたでしょうか。
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念のためにことわっておきますが、わたしはここで、酒を飲むな付き合いは断れ睡眠時間を削れ、などと言っているわけではないのです。
同じことをやるのならば、規則正しい生活をしなければ最大限の効果は得られるはずもないし、また量質転化で自らの心身を質的に高めてゆこうとするならば、今日の努力が明日もその次も続いてゆくものでなければならないのだ、と言いたいのです。
ですからまずは、せめて起床時間と就寝時間だけは、その時間はともかく、毎日同じ時刻に行うものとして整えてゆかねばなりません。
またそれが、習慣として身について、「そうしなければ身体に違和感がある」というくらいにまで続けて、真剣そのもので生活を整えてください。
そのうち専門とする仕事に専念するなかで、その毎日を支えるためにするべきことが次第に明らかになるでしょう。
その上で、より自分のあり方を高めたいのであれば、これも真剣に趣味を選び、これまた時間をきっちり決めて一定期間のなかでの目標を定め、それに取り組んでゆけばよいのです。
この上の、たった四行の中身を生真面目に守って、まともにやってゆくだけで、それなりの年齢になればいったいどれだけの人格を養えてゆくかが想像してみれるでしょうか。
逆にこれまでのことを振り返って、わけのわからない時間に「しょっちゅう」連絡をよこすということが、いかに自分の人格を傷つけていたのか、ということをふまえてみれるでしょうか。
毎日規則正しい習慣を続けている者にとって、決まった時間に決めたことができないというのは、実に残念で、恥ずかしいことなのです。
そういった実感が、自然に湧き出るくらいのことを、「習慣」というのです。
ですから、自分が努力を続けているつもりでも、気を抜けばたちまち実力が質的に低下してしまうというのは、またそれだからいつまで経っても自分自身を恃みにできないというのは、突き詰めて言えば、それを支える生活の基盤がないから!なのです。
これはなにも、配偶者がおらず家事が大変だからダメなのではなく、ましてや、自らに「努力する遺伝子が欠けているから」などでも決してない、純然たる自らの意識の問題なのだということを、ほかでもない自分の人生のこととして、ぜひとも受け止めてほしいのです。
◆◆◆
先ほど引用したロダンの一節には、このような箇所があります。
この記事の締めとして、読んでください。
(※引用者要約:第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに逃れていたロダンがパリに戻ったときのこと)
いったんロンドンへのがれたロダンは、それからしばらくたって、パリが安全だとわかると、またもとの所へ引き返した。しかし、ドイツとの戦争は、そのあとも五年続き、フランスはたいそう苦しんだ。その苦しい間にも、ロダンは、ずっと仕事にはげんだ。彼が周囲からの不理解にもめげず、さりとて周囲からの強制でもなく自らを律することができたのは、彼が、自分の人生を自分の人生として生きるという、ごくごく当たり前のことを続ける工夫をしてきたからだ、とわかるでしょう。
それは、たゆまない努力だった。
しかも、他人からしいられる努力ではなく、心の中からほとばしる芸術への情熱であった。くる日もくる日も雨の日も、風のふきすさぶ日も、朝から夕方まで、規則正しい生活が続けられたが、それでもロダンは、少しも疲れなかった。
いったい誰が、自分の人生を背にかついで高みへと連れて行ってくれるでしょうか。
そんなことを頼みにしているようでは何事をもなし得ません。
恃みにするのは自らのみ、なのです。
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