(1のつづき)
さて、またあいさつしだすと横道にそれてしまうので本題に入りましょう。
(※今回のお題にだけ当たりたい方は◆2◆まで飛ばしてください。)
そもそも連載の途中に色々としゃべりだしてしまったのが良くなかったのですが、実のところこれらの横道のなかで、「技としての弁証法 3」に何が書かれているのか、ということの内容は、実はほとんどお話ししてしまっているのです。
弁証法というものが何かといえば、ものごとの考え方、事物の構造のあり方を抽象化するところに現れる、論理でした。
個別科学の発達した現在では、それが物質と、その高度な発展の段階である精神の根底に横たわっている構造であることがもはや否定できないところまで来たので、弁証法は科学的にものごとを調べ、考えるときには必須のものであると言えるのです。
「科学の本質は体系化ということにある」(ディーツゲン)と言われるとおり、弁証法が体系化にとって必要不可欠なものである限り、それ自体もが科学的な体系として発展させられてきているのですから、体系性ということは、弁証法とは切っても切り離せない性質であるということができます。
この、弁証法が体系性を持っているということはとりもなおさず、弁証法を論じ始めるときには、「どこから入ってもどことでも繋がっている」ということを意味しています。
たとえば、対象の中に対立物の相互浸透を見ることができるなら、その小さく見た過程には量質転化があり、それを大きく見た全体像には否定の否定が見つかるであろう、ということをもが必然性を持っている、ということなのです。
そしてまたそれは、矛盾、対立物の統一、相対的な独立、といった弁証法の周辺にある事柄をも自ずと見つけ出せるという体系性でもあるのです。
わたしはいつも、ひとつのお題を取り上げる中で、いくつかの法則性を提示しながらご説明していますが、それをただ漫然と読んで受け身のままでわかるということ以上に、「その他の法則性は働いていないだろうか?」という観点を持って、主体的に考えを進めていってもらえることこそが、唯一の上達の道なのだとわかっておいてほしいと思います。
バラバラに説明されたり、バラバラに把握していた弁証法が、実のところひとつのものであったのだ、とわかったときに、そのあまりに大きな有用性が、「そういうことだったのか!」という大きな感情とともに一挙に把握されることでしょう。
◆2◆
「面接で良い学生を採りたいのだがどうすればよいだろうか?」
まず問題の焦点を絞るために、ひとつ条件を確認させてください。
ここで「良い学生」と言うのは、「学歴が良い」とか、「長女でない」(長女だと近いうちに結婚して他家に入り退社するであろうから、という意味でマイナスポイントをつける会社もあります)とか、「器量良しで見栄えがする」などといった副次的な要素ではなくて、もっと本質的な意味において、「人の気持がわかり、必要なときには自らの責任で決断を下せる」といった「人として真っ当な人格を兼ね備えた人物」というもの、ということでよいものと心得ます。
さて、そのような人物をしっかりとした根拠を持って探したい、ということなのであれば、恐縮なことではありますが、それでもおそらくご期待を考えるほどにやはり率直に言わせてもらわねばならないことは、企業の面接官の方々の致命的な欠陥というものは、「技術と表現の違いが付けられない」ということにあると思います。
これは学問的な認識論云々ということ以上に、年に50人は新しい学生との接触があり、彼ら彼女らの学生生活、研究指導という教育実践があり、就職活動期には毎日5本の自己PRは添削してきた経験に照らして述べることですから、その意味であくまでも実践面に重きをおいたものと考えていただきたいのです。
そう断ったうえで上のように述べるのですが、たとえば面接や技能の判定をするときに、課題についての解答を提出させて当人の能力が業務に相応しいものであるかを判断する、ということがあるでしょう。
そのとき本来ならば、「それを解く学生の認識が如何なるものなのか」を問わねばならないところを、よくある面接官の方々は、「眼の前の解答そのもの、つまりその表現のあり方」だけ、を問うてしまっている、ということなのです。
◆
人間の資質としてもっとも大事なのは、何にもまして「眼の前のものごとを正しく理解し判断できる」ということであり、そうであるからこそ確かな表現が成り立ちうるのであり、そしてまた企業人においてもそのことが長期的な観点からはほんとうの実力になるのは、ご理解いただけることと存じます。
ここでイメージしやすいように、たとえば、前から向かってくる老人にぶつからないように歩く時のことを考えてみてください。
そのときの結果は、以下のようなものであったとしましょう。
学生Aは、はじめて来た都会の光景に圧倒されるあまり、注意力散漫でふらふらと歩いていましたが、運良く、ぶつかりませんでした。
学生Bは、歩きなれた道で前から老人が来ていることも前もって認知できており、まっすぐに歩けましたから、ぶつかりませんでした。
学生Cは、実家で老人とともに暮らしており人間が歳をとるとどのような注意力になるのかが経験上わかりましたので、前からくる老人を心配そうに見守りながら一定の距離をとっていましたが、老人がふらつくのを気にするあまり、かえって他の歩行者とぶつかってしまいました。
以上のような結果を出してきた学生たちを審査する時に、面接官としては、どのような学生を、人格良好として採用すべきでしょうか?
わたしはいま、文字でこの情景を書き起こしていますから、彼らの内面も詳らかにしながらお伝えできているのですが、これが現実ともなれば、そうはゆきません。
現実での表現のあり方は、このようになります。
学生Aは、ふらふらながらでもぶつかりませんでした。
学生Bは、まっすぐ歩むことができ、ぶつかりませんでした。
学生Cは、オタオタしながらあろうことか、他の歩行者とぶつかりました。
問題意識のはっきりしているご質問者様ならば、わたしがどういった趣旨のことを述べたいかがわかってもらえたと思います。
◆
実際の企業でも学生の審査のとき、業務内容に近い課題を与えてその解答を採点することがあるはずでしょう。
そのとき、解答そのものに点数をつけ優劣をはかることは間違いではないのですが、「それがいかなる認識に基づいたものであるか」、ということも同時に問うておかなければ、大きな踏み外しをすることにもなりかねない、ということなのです。
この失敗を防ぐためには、面接時には好印象だったにもかかわらず点数が極端に低い場合などには、「ここはどう考えたの?」と口頭で質問されてその解答が導き出されてきた過程に目を向けられますと、「副次的な要素を気にしすぎるあまりに、かえって当人の認識の深さが裏目に出てしまった」という、「かえって、の失敗」で良い人材を見逃すことを避けられます。
逆に、「調子を合わせるのがうまい」だけの学生はふるいにかけることができます。
一般的に言って、自分自身の本音をうまく包み隠すという表現技法だけを、たとえば接客業の経験などで身に着けていたとしても、長い就業経験の間に、いくらでもメッキは剥げる機会はあり得るというものではないでしょうか。
しかしそれとは逆に、ものごとの捉え方が真人間的であるのならば、いくら引っ込み思案や人見知りをして表現能力が乏しい場合にでも、企業内訓練と「慣れ」によって十分に、表現力については整えうるものと思うのです。
然るに昨今の不景気に煽られるあまりに、目先の使い勝手だけに勇み足となり、学歴だけで学生を判断したり、提出されてきた課題の細かな表現技法に目を奪われたり、もっと悪いことには共通する趣味があって話がはずんだ、などといった「表現のありかたそのまま」や、面接官当人の「好き嫌い」を基準に採用を決めてしまうことになると、長期的に見れば組織としての能力を大きく削がれることになるものと考えます。
繰り返しになりますが、「認識さえしっかりしておれば、表現の仕方は十分に整えうる」ものと存じます。
逆に、「表現はその場その場で合わせることができたとしても、その認識が浅い場合には、いざというときに根拠を持って決断できぬ」ということでもあるものではないでしょうか。
そうであるならば、当人の能力を見るときに、まずは「認識と表現」の区別を、ある程度にでもつけられることが肝要であると心得ます。
面接した当初に、「面接官の好みの表現ができる」ということよりも、「表現は好かぬがその根拠としている認識は確かなもの」と見定めることができうるのならば、その上で組織の流儀というものとそれに付随する表現技法を与えることによって、大きく組織に貢献する人材を育てうるものです。
ここまで申してきましたのは、いち組織の教育者に認識論を学べというのは時間がかかりますので、とにかく新入社員に表現技法を学ばせねばならないという場合にも、その土台となる認識のあり方がしっかりしておらねばならないという要件から述べてきたものですが、まずは、学生当人の「認識力」と、「表現力」との線引きを見定めるという強い問題意識を持ったうえで面接実践に向き合い、そのことをとおして面接官ご本人の学生を見る目をより高めてゆくことこそが唯一最善の道であるものと考えたためです。
学歴や調子の合わせ方で人を選ぶべきではないと言うわたしが、国立大学の学生との関わりが最も多いのですから、翻ってここにはなんらの他意もないものと判じていただけるものと思います。
(3につづく)
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