2013/05/20

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (2)

まさかの続編です。


これくらいは解けるかな?と思って出した問題だったのですが、思いのほかみなさんを悩ませているようで、幸い。

これはもちろんイジワルを楽しんでいるというのではないのですが、まともな論理を持って実践に取り組みたい人にとっては、必ず通らなければならないところですので、つまづきの石が見つかってよかった、ということです。

加えて言えば、こういうところで自ら躓いてみて、正しい姿勢と考え方へと歩き方を変えることのできた人のほうが、あとあとずっと延びますので、「なるほど、それならこれではどうか?」という答えをお持ちの方は、ぜひとも見せてもらいたいと思います。

さてこの記事は、以下の記事の続きとして書かれていますので、同じく問題に取り組みたい方は目を通しておいてください。

1. 文学考察: 人を動かすーD・カーネギー 1-1

2. 「人を動かす」一般論はどう引き出すか

3. この記事

◆◆◆

以下の文面は、Oくんからいただいたものです。
この問について自分なりに回答を考えてみました

 この課題図書のタイトルは『人を動かす』であり、この本のうち、例として挙げられている第二章は『人に好かれる6原則』である。
 
 まず、この書物全体を読んでみた時に、「人」を対象として、「(人を)動かす」という目的について、人を動かすための方法論や、その方法を導くための認識のしかたについて、筆者が言及したい、あるいはしているであろうということを念頭におくべきである。次に、例として挙げられている、第二章では「人」を対象として、さらに「人に好かれる」ことを目的としてその章の内容が構成されていると考えられる。しかし同時に第二章は、本全体において表現されるべき「人を動かす」という目的に対しての「好かれる」という方法論としての性格を直接的に持っているといえる。
 
 そこから第二章の中で記述されている、「誠実な関心を寄せる」、「笑顔を忘れない」、「名前を覚える」、「聞き手にまわる」、「関心のありかを見抜く」、「心からほめる」の6つの原則のうち、例として「誠実な関心を寄せる」について考察していくと、
 「誠実な関心を寄せる」ということは「(対象となる相手の行動などに)誠実な関心を寄せるという方法によって対象とした人に好かれるという目的を達成する」ことを第二章の中の一つの要素として示していると考えられる。つまり、この一つずつの原則の中には目的を「人に好かれる」とおいたのちに、対象として「好きになってもらいたい相手」に関することがらが内包されており、この原則に書かれている行動自体が方法論として示されているのではなかろうか。そして更に、その方法論が文中においては目的となるという構造をとると考えられる。
 そこで「人」を対象にして「動かす」という目的について記述することを「この本において一貫する」(=この本の一般性とする)ならば、この本では本の中で区切られている章の表題は「人」を対象にして「動かす」という目的をもち、章の表題の内容そのものが方法を示すという形式は一貫している必要があるのではないだろうか。
 そして章の中で区切られている節では対象を一貫している必要があり、目的は章の表題で示されている方法論が目的として降りてくるべきである。そして節の表題そのものが、目的の達成のための方法論を示すことを一貫させる必要があると考えられる
 その上で本の文中にて節によって対象にし、かつ節の表題によって示された目的達成の方法を記述するという構造を一貫する必要がある。
 つまり本の文章ごとに記述された方法論によって、節の示す目的に到達した後に、目的と同時に方法論としての性格も内包する節が集まって章の示す目的達成の形に変化していき、章が示す方法が一冊の本として集約された時、その章それぞれの対象と目的は一貫していなければならないのではないだろうか?その構造をとることによって、一冊の本の目的は一冊の本に内包された世界の一貫性=一般性として機能すると考えられる。


 個人的に感じたことなのですが、本の構造を読み解く際には目的が方法として存在する同一性と、文章の塊や節や章が集まり、変化することで目的が方法に、方法が目的に変化しつつ積み重なる構造を見つける必要性があるという感触がありました。
 長文となり、申し訳ありません
◆◆◆

読者のみなさんにおことわりしておきますが、この人は、論理というものに触れたくともまったく触れられずに、アタマの中が実に混沌としたままそれが混沌状態であると自覚できずに育ってきたという鈍才ではなく、むしろ論理的にものごとを考えたいと祈念し、事実あるところまではそうできている人です。

しかし弁証法が教えるとおり、あるものはそれが度外れに極端なかたちで出てくるときには、かえって害をもたらし誤りとなるという対立物への転化が起きるのであり、実にこの回答は、その典型例となっています。

それがどう出てきているかは、まさにみなさんが以上の文面を「読んで感じられたとおり!」ですが、今回の誤りは、正しく発揮されるならば大きな力となりうるものを秘めているだけに、ぜひともまずは、正しい姿勢を身につけて、正しい考え方へとつなげていってもらいたいと思い、一筆を認めました。それが、以下のお返事でした。

◆◆◆

◆わたしからの返事

もともと持っている論理力が、あらぬ方向に発揮されてしまい、かえって大きな誤りを導いているようである。
はからずながら良いケースであると思うので、勝手ながらほかの読者とも相並んで、正しい姿勢と論理の使い方というものを考えてゆきたい。

まずはじめにことわっておきたいのは、以下の返事について、Oくんの今年一年における本質的前進を願って、そのためにこそ書いたということである。
そのため、苛烈な表現に見える箇所もあろうが、ウッとなる感情をいったん棚上げしたうえで、学問研究・人格の向上をぜひに、との思いが込められていることを読み取ってもらえると嬉しく思うところである。

さて、いただいたメールの文面を読んだとき抱いた感想というのは、「これは何を言っているのだ?」というものであった。

一般的な読者や、ほとんどの研究者にとってはこの感想がすべてであり、彼らの場合には、「わけがわからない、書きなおせ」でおしまいとなるところであろうと思う。

それでも、と、これが何かを理解したという思いに駆られて書かれたものであるということ、つまり、これが形式だけは整えられているが内容のない空文ではないはずである、というところを信頼して読み進めると、このメールの内容は、「一般的な書物の構成について考察されたもの」であるということがわかる。

ところが問題は、この文章が、たしかに『人を動かす』という書物を例に挙げて述べられているにもかかわらず、途中からその内容についての言及はどこへやら、いつのまにか「構造」や「構成」そのもののみを考え始める、という落とし穴に陥っているところにある。

これは一言で言えば、構成、構造、方法、目的、といったそれらしい言葉を使った言葉遊びの域を出ないのであって、観念論的な衒学、のそしりを免れぬものなのである。



たしかに学問においては、概念や法則というものがあり、また必要な場合にはそれらが組み合わされたりもするのだが、もし唯物論の立場に立とうと思うのであれば、これらの操作は必ず、現実の問題、実践の問題に照らして行われねばならない。このことを、深く胸に刻んでもらいたい。

もし仮に、方法と目的との転化といったものを法則性として示すのであれば、「それを使えば」、本書がいかに鮮やかに読めてゆくのか、ということを考え、提示せねばならない。今回の課題について言えば、このことをいくら振り回したとしても、課題の本質から遠ざかるばかりであろう。


まずは、大きく姿勢を変えることである。

今回の課題をおさらいすると、看護の一般論が「生命力の消耗を最小にするよう 生活過程をととのえる」であるところを参考にしながら、『人を動かす』の一般論を引き出す、ということであった。

であれば、これこそをまずは解こうとするべきなのである。
それが解ける過程において、様々な法則性が見つかるのであれば、それは認識の中に持っておいてもよいのであるし、折にふれて確かめて磨いていってもよいのである。

さてそういう姿勢で、看護一般論を参考にしながら「人を動かす」一般論を引き出すときには、まず全体の形式的なイメージとしては当然に、「○○が、××するよう □□する」というかたちになるはずである。

本書をざっと一読してから○○に何が入るのかと考えたとき、「植物が」とか、「弦楽器が」などと考える人間はいないはずであろう。
これは本書のタイトルを一瞥してもわかるとおり、である。

さてしかし、本書のタイトルを、安直にここに入れてみるとどうなるか?
それはおそらく、「人が動くよう□□する」となる。

ところが、本書の中には、ほかにも「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」などの原則が書かれていることをふまえようとすると、これらは直接的には排他的になることがわかってもらえるはずである。
これを、これまた安直に「人が動き人に好かれ人を説得でき人を変えられるよう□□する」としてしまっては<一般性>にならない。

であるから、ここで採用すべき考え方は、「これらそれぞれの表現を一旦崩したのちに、その内容をすくい上げ、一言で表現するとすればどうなるか?」ということ、なのである。

もしある本を読んだときそこで扱われている対象が、「水を作り」、「魚類に餌をやり」、「色揚げをする」などにあると考えられるときには、この本の対象は「鯉が」などとするのが相応しいであろう。
直接の章題を見ても「鯉が」などと出てこない場合でも、内容をすくい取ったればこそ、この概念を導けたのであるから、これを<止揚>した、というのである。

これらのことをふまえて、本書を正面に見据えて取り組んでもらいたい。



以上の内容をわかってもらえるであろうか。

論理は確かに何を置いても重要であるのだが、これは、論理をそのままにあれやこれや解釈したり組合せたりするということとは決して違う、のである。

論理というものは、それを念頭に置きながら目の前の現象を考えてゆく時に初めて、現象の根底にある、直接目には見えない構造が抜き出せるものであるし、そしてまた、その引き出した構造を認識の中に持って新しい現象に適用してみることで、さらに論理を高めてゆけるものである。

しかしここには必ず、現象・実践が媒介とされていなければならないのであって、論理そのものから直接的に新しい論理を展開する、ということでは決してない、のである。

それなのにこんなどうしようもない考え方を、世の研究者や思想家はあまりにもの手抜きをして採用しようとするから、主観と客観の弁証法的統一などなど、わけのわからない空文が飛び交う始末になるのである。

一つの概念は、歴史的な生成と発展の過程を持ちそれらの必然性があって現在の形態をとることになってきているものであるのに、それらの歴史的必然性と概念のあいだの区別と連関をまったく無視して、質的に異なる概念を直接的に同一のものとして考えることを促したとして、一体人類文化がどう進められるというのか?

一般大衆を屁理屈で騙して目立ったり飯を食うということが文化を進めることなのだというなら、もはや問答無用といったところであるが…。

こういったものが意味のない空文であると断言するのは、この論理?とやらをいくら使ってみても、現実の問題を何ら本質的に解決できないし、考えを進めることもできない、という一事によってである。

学問の歴史を振り返れば、人類文化の誇る哲学者のほとんどは観念論の立場に立った、というよりも時代的な必然性によって立たざるを得なかったのであるが、彼ら観念論者においては、そういった空文を振り回すことを決してしなかったのみならず何よりも嫌った、ということを忘れてはならない。であるから、空文それのみをただただ振り回すという人間のことを観念論者と呼ぶのは、罰当たりもいいところであり、精確に言えば大きく間違いなのである。

さて余談が過ぎたが、Oくんにあっては、今回の課題を正面に据えて取り組み、正しい姿勢と考え方で進め、論理に振り回されないような認識を創りあげてもらいたいと願ってやまない。

繰り返すが、あなたには論理がないのではない、論理的たろうとしてアタマの中にある論理なるものに振り回されているだけなのである。課題を極端に難しいものとして、姿勢をガチガチに構えすぎているのである。

であるから、だからこそそれが、正しい論理として把握され、さらに技として身についたときには、その論理を何よりも大事にしようとする姿勢とそれによる実力が、他に並ぶもののない大きな力として、生涯にわたって研究・生活のあらゆる面において自らのもっとも頼りとなるものとなることを、ここに保証するものである。

まずは難しいことを考えずに、肩の力を抜いて素直に、課題と向き合うことが大事である。
このバランスがうまくとれるまで付き合うつもりでいるので、諦めず取り組んでほしい。

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