2013/05/13

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (1)


やってきました。


…といっても、わたしにとっては毎日取り組む創作活動のひとつでしかないのですが、どうも周囲にウケが良いように思われるのが革細工なので、求めに応じ推参、ということになります。

それでも、楽器の演奏や習字やら料理なんかの表現をここで紹介しても仕方がないような気もしますし、絵入りで説明もしやすくおまけに機能性もはっきりしておりとっつきやすいので、ちょうどよい落とし所なのかもしれません。

さてそうはいっても、ここはただならぬところ、芸術と創作活動の一般論をまずは再度ふまえておきたいと思います。
ガッカリせずに前半2回だけお付き合いいただき、次回以降の記事につなげてゆくことにしましょう。

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芸術というものを広く見渡すと、そのなかには習得に幼少の頃からの厳しい教育が必要なものから、革素材でつくった作品のように、数ヶ月で基本的な勘所は押さえてしまえるようなものまで様々です。

ただ芸術を扱う際に、こういった芸術の習得期間の長短にあまりにも目を奪われすぎて、芸術表現と技術を同一視し混同して論じるような考え方が出てくることがあり、それが芸術を論じる際のはじめの落とし穴になっているようです。

たとえばそれは、手間のかかる工程でつくった料理が上等なのだとか、常にブレのない音色を出せる奏者が一流と呼ぶに相応しいのだとか、絵筆を使った絵画よりもPC用アプリケーションを使って描いた絵のほうが精確で高度なのだとか、ありとあらゆる現れ方をするのですが、この考え方を端的に言えば、芸術というものの価値を、技術や技巧と直結させて論じる、というところに特色があります。

この考え方で言えば、画家ピカソがキュビズムに移行し、顔の正面と側面がくっついたような絵を描くようになったという事実については、むしろ描写の技術としては低下したものとみなすのが自然であるということになります。さらには抽象画が登場するようになると、筆の運びとしては赤ん坊が絵筆で遊んでいたらたまたまできたようなものと大差ないようにも見えますから、ああいったものの芸術的な価値は、相当なレトリックでコジツケなければ説明できません。

またこの考えを推し進めると、究極的には、現実の対象を写真と同じように描写することの技術を競うフォトリアリスティックこそが最高の絵画であるという結論にもなってきます。

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素朴な常識から言えば、本当にそうなのかな、リアルな絵だけしか価値はないのかな。技巧としてはまずくても味のある絵もあるのではないかな、と感じられて当然でしょう。

しかしもし、この素朴な常識にも一定の真理が含まれているのだと言いたいときにはなおのこと、芸術の価値は一体どこにあるのか?という問題を解いておかねばならないことになります。

ここの読者のみなさんはよくご存知のことと思いますが、難しい問題を解くときには、急がば回れで一般論からしっかりと押さえておくことが絶対に必要、なのでしたね。
今回も、芸術というものが人間の手による一つの<表現>である、ということがふまえてさえいれば、表現の過程的構造を手がかりに考えてゆくことができます。

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表現過程は、一般的には、芸術家当人の生活経験を土台とした芸術経験において、素材となる対象と向き合うことからはじまります。
アタマの中にないものは扱いようもありませんから、その原型が残っていようといまいと必ず、彼や彼女は自分の経験から得た対象を直接・間接の手がかりとし、それを素材として、「こんなものを創りたい」と、自らの認識の中に想像をめぐらしてゆくわけです。
さてこの想像はといえば、わたしたちのアタマの中にあるうちには、他の誰にも見えず聞こえず手にとることもできず、このままでは芸術とは呼べません。
ではこれがいつ芸術と呼びうるものになるのかといえば、その認識が作り手の五体をはじめとし、その延長である絵筆やノミや楽器といった道具を使って、実際に客観的な実在として移し替えられた時に、はじめてそう言いうるものになるのです。

この過程を、誤解を恐れずに図式化すれば(=図式そのものを丸暗記してもまったく意味はありません。使えなければ!)、
対象→認識→表現
ということになり、これは芸術のみならず、表現における一般的な構造であると言えるでしょう。

さて、ここで認識から表現へと至る過程に着目すると、たとえば、美しい旋律を思いついても楽譜にする能力がなかったり、また実際に演奏する能力がなかったり、ほかにも複雑怪奇なミステリー小説を書こうにもそれをことばとして固定化する能力がなかったり、といったことが起きてきますね。

これを一言で言えば、「アタマのものを(他の人にも感じられるようなかたちで)外に出せない」というのであり、認識を表現に移し替える力がない、つまり、<技術>がない、と言うのです。

このことを受けて学問では、「技術とは認識の現実的な適用である」と規定するのです。

◆◆◆

ではこの表現過程の構造をふまえて、「芸術の価値はどこにあるのか?」という問題を考えてみることにすると、わたしたちがひとつの芸術を鑑賞するときには、以心伝心というものがあり得ない以上、どうしたってそれが客観的な表現に移し替えられていなければいけませんから、まずはその<表現>と向き合うことになります。

この場合、受け取り手の認識能力、いわゆる審美眼と呼ばれているものやセンス、目的意識といったものが不足している場合には、その良さをまったく理解できなかったり、「なんだか目を引かれるけど理由はうまく説明できない」といった感想をもらすのみ、ということになります。

他に、自ら同様の創作活動に携わったことがある人の場合には、ひとつの表現を見て、「ここは一番難しいところだが、よく処理されているな」とか、「こんな曖昧な心情をよくぞ言葉として描写したものだ」というふうに感心したり、また、一つの絵を通して、作り手が貧困の中で喘ぎながらも人知れず創作活動を続けてきた人格を自らのことのように手繰り寄せ共感し、涙を流すということも起こってくるわけです。

芸術の価値というものは、実はこういった、現実の素朴な鑑賞経験のうちにもそれを解く手がかりがあるのですが、それは、ひとつの表現を受け取り手が目の当たりにした時に、作り手がその認識を自分の技術でもってひとつの表現へと結実したという表現過程を、今度は逆向きに辿り直して、「こういうことを思い、考え、感じていたからこその、この作品なのだ!」とわかる、つまり、そこに客観的な関係が結ばれていることがわかったときにはじめて言い得ることなのです。

ここまでを結論としてまとめておけば、芸術の価値や本質というものは、実のところ作品そのものの中にある、というのがそれなのです。

だからこそ、ひとつの表現を、その創作過程を逆向きに辿り、彼や彼女が認識したものを自らのように捉え返したときには、正しく鑑賞したということになるわけです。

であれば、誤読や曲解といったものについても、どこをわかり損なっているのかがわかってきますね。

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ここで、「芸術を鑑賞するのにそんな大それた理屈がなぜ必要なのか?私は見たいままに見、創りたいままに創るのだ!」という人もおられるでしょう。

しかし、これだけははっきりと述べておきます。

自らの専攻する分野を<目的的に>実践する、ということが、やりたくてやり方がわからない場合はともかく、その必要性をまったく認識していない(=自分のわからなさがわかっていない)場合には、恐るべき結末が待っているということを。

それはそう遠くない未来に、ほかでもない自らを「本質的な創作過程において」苦しめることになったときに、否応なしに自覚されることですから、これ以上説明する必要はないはずです。

申し添えておくと、ここで本質的に、と述べたのは、大した創作過程ができずとも、奇をてらった手法で衆目を引ければよい、政治的にうまく立ちまわったり売り込むのがうまければよい、などというのであれば、これ以上の問答は無用、ということです。

もちろんこの場合、自らの足で人類の文化を歩み自らの手で新しく文化を創ってゆくということは絶対的に不可能!になりますが、まあそういうことに興味のない芸術家(?)や実践家(?)も居るには居るかもしれませんので。


(2につづく)

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