2013/05/16

文学考察: メールストロムの旋渦ーエドガー・アラン・ポー

(※2013/05/18 20:00 冒頭の字句を訂正)

うーん、


これはなかなか。

弁証法を学んではいるけれども、自分自身の技としてどの程度身についているのかわからない、どう使ってゆけばいいのかわからない、という人は、以下の評論を読んでみてほしいと思います。

この評論中には弁証法の三法則なるものは、表向きとしては、つまりその法則名そのままのかたちとしてはまったく出てきません。
しかしいったんその根底にある構造に目を向けようとすれば、そこに把握されまた表現の中に貫かれている構造が弁証法的なものになっていることがわかるはずです。
(初心のみなさんにもわかりやすくするため、字句を訂正しました。)


◆文学作品

エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 メールストロムの旋渦 A DESCENT INTO THE MAELSTROM

◆◆◆

この物語は、「私」が、もと旅の案内者である「老人」の話を聞くところから始まります。

その男というのは、見たところ年老いた老人にしか見えないのですが、実のところ実際の年齢は相当に若いところであるものの、漁師であった頃に出遭った、ある6時間の出来事からくる死ぬほどの恐怖によって、そのような風貌となったというのです。
それが、「メールストロムの大渦巻」というものなのでした。

「私」は、大波が「岩石暗礁にせきとめられて瀑布のごとく急下す」ところに渦巻を生じる、という理屈はいちおう理解しているつもりだったけれども、そびえ立つ岩の頂上から実際にそれを見たとき、「この深淵の雷のような轟のなかにあっては、それはまったく不可解なばかげたものとさえ」思えてきた、と率直に語っています。

兄と弟ともども漁師であった「老人」は、この渦巻に取り込まれたとき、たったひとりで生還したという人物であるというのですが、一体彼は、どのようにしてそこから九死に一生を得たというのでしょうか?
その謎解きが、この物語の大部分を占めています。論者の説明を聞いてみましょう。


◆ノブくんの評論

文学考察: メールストロムの旋渦ーエドガー・アラン・ポー
 ノルウェー北部に発生するメールストロムという大渦を越えて魚を捕っていた漁師、「私」とその2人の兄弟はある台風の時、「私」のちょっとした不注意でそれに呑まれてしまいました。やがてその3人のうち、弟は自分を縛っていた船の帆ごと強風によって飛ばれてしまいます。そして残った兄と「私」は、この大自然の大いなる潮流を目の当たりにして、絶望を感じていくのでした。
 ところが「私」は大渦に近づくにつれて死を覚悟してゆく中で、なんとある時点からそれが「かえって」自身に落ち着きを取り戻させてくれたというではありませんか。更に驚くべきことに、冷静さを取り戻していった彼は自分を死の淵に追いやっている渦そのものに対して興味を抱きはじめていったのです。そうして渦を観察していく中で、彼は渦に砕かれている物体と全くいたんでいない物体がある事を発見し、そうした法則性を利用する事で脱出に成功したのでした。
 ですが彼は何故、自分が窮地に追いやられていったにも拘わらず、落ち着きを取り戻し脱出することが出来たのでしょうか。
 
 この作品では〈渦に呑まれて絶望するあまり、かえって客観的に物事を見なければならなかった、ある漁師〉が描かれています。 
 「私」が主観を失う直前(※1)、彼はこれまでに見たことのないような自然の脅威と偉大さを目の当たりにします。その光景は、彼にはとても現実のものとは思えず、あたかも神話の世界にでも迷い込んだような印象を持たせたのでしょう。そしてこうした事実が現実に起こっているにも拘わらず、それが日常の風景とは大きく異なった場面であった為に、彼は客観性を持つことに成功したのです。
 それは、私達が親しい人々の死に直面した時の心情と少し似通ったところがあるのではないでしょうか。というのも読者の方の中には、友人や家族の死が衝撃として強すぎる為に実感としては受け止められず、何か面白い冗談を聞いたようについ笑ってしまった事はないでしょうか。どうやら私達の心には、主観としては受け止められずとも、客観的に全体を見渡す事で事実を受け入れようという働きが存在しているようです。
 そしてこの作品に登場する「私」も目の前で起こっているありのままの光景、そこにいる自分というものを受け止められないために「どうやら自分はここで死ぬのだろう」と、あたかも他人ごとのように考えるほかなかったのでしょう。そして一度冷静になった彼は、次に自分の置かれている立場を理解する為、あたりを観察しようとします。
 ここで重要なのは、彼が必ずしも主観を捨て客観性を持ち得たのではなく、主観的に死を承知しすぎているからこそ、客観性を持たなければならなかったということです。ですから主観は消滅したのではく、この後も主観的に恐れたかと思えば冷静さを取り戻し、そうかと思えば再び畏怖しはじめるといった複雑な心理状態に陥っていきます。やがてそうして機微に心を変化させていき観察していく中で、彼は自分の置かれている状況を整理していき、渦から脱出することが出来たのでした。自分の置かれている状況の恐ろしさを実感すればする程、より冷静にならなければならなかったのです。
 
 注釈
1・船は左舷へぐいとなかばまわり、それからその新たな方向へ電のようにつき進みました。(中略)その右舷は渦巻に近く、左舷にはいま通ってきた大海原がもり上がっていました。それは私たちと水平線とのあいだに、巨大な、のたうちまわる壁のようにそびえ立っているのです。
 奇妙なように思われるでしょうが、こうしていよいよ渦巻の顎に呑まれかかりますと、渦巻にただ近づいているときよりもかえって気が落ちつくのを感じました。
2・胸が悪くなるようにすうっと下へ落ちてゆくのを感じたとき、私は本能的に樽につかまっている手を固くし、眼を閉じました。何秒かというものは思いきって眼 をあけることができなくて――いま死ぬかいま死ぬかと待ちかまえながら、まだ水のなかで断末魔のもがきをやらないのを不審に思っていました。しかし時は 刻々とたってゆきます。私はやはり生きているのです。落ちてゆく感じがやみました。
初めはあまり心が乱れていたので、なにも正確に眼にとめることはできませんでした。とつぜん眼の前にあらわれた恐るべき荘厳が私の見たすべてでした。しかし、いくらか心が落ちついたとき、私の視線は本能的に下の方へ向きました。
◆◆

論者の言うことを結論だけ聞くと、「老人」(評論中では「私」)がたった一人助かった理由は、渦に呑まれたという絶望によってである、となっています。

もしここを、ものごとには「あれ」か「これ」かの両極があり、それは絶対的に隔絶されているのだと見る形而上学者が読めば、「絶望によって救われたとは笑止!」となって、絶望によって人が救われるわけはないからどこかに希望があったはずだとばかりに文中を探しまわり、いったんそれを見つけたときには「ほれ見たことか」と、絶望派に対して批判の矛先を向けることになるのですが、残念ながら、笑止であるのはそちらの方です。

机の上の書物に向き合って、過去の偉人がすでに概念化・法則化してしまった人間心理、ひろくは人間の認識のあり方をあれこれ接木してオリジナルの学説とやらを作っているばかりの形而上学者にとっては、こういった、絶望転じて希望となる、という転化が実際のこの世界で事実起きているということは、いわば理論の埒外であり、絶対に起こるはずのないことなのです。

形而上学者の人間心理理解にとっては重大な命題、「人間は好きなことを好きだからやるのであり、嫌いだからやるのでは決してない」ということは、一面では真理であると言えますが、現実の人間心理のありかたに即せば、それよりもふまえておかねばならないのは、「人間は好きなことを嫌いになったり、嫌いなことを好きになることがある」という心理上の転化です。

こういった現実のあり方を理屈に合わないとか異常だとか例外だとかいって無視したり、簡単に脇に片付けてしまうから、論理が正しく延びてゆかないというとんでもなく悪いサイクルに落ち込んでいってしまうのです。

自らの論理を高めようと思ったら、その論理で持って現実を見、そして試す、という姿勢がまずは絶対に必要であり、それ以外にありません。
いくら現実をありのままに見るといっても論理がなければダメ!なのであり、いくら論理を大事にしているからといってそこから一歩も動かず現実の問題をあれこれ解釈したり斬ったつもりになっているのもまたダメ!、ということです。

現実を見れば、食わず嫌いしていたピーマンを好きな人が料理した途端食べられるようになったり、沈んだ気持ちを押して無理にでも笑顔を作ろうとしたところ気持ちも整ったりという変化は、人間心理にとってごく自然なものとして起こってくるものであって、これを正面に据えて理解するためには、やはり弁証法が必要です。

◆◆◆

その観点から言って、論者の、この作品の理解は、なかなかに弁証法的な段階に達していると言ってよいでしょう。

自然の圧倒的な脅威を前にした人間が、目の前の出来事を感情的に受け止めることができず、我を忘れて腑抜けたように逃げることも忘れてただ見る、その姿勢が、<かえって>当人を冷静たらしめ生存の道を拓いてゆくことになったという<否定の否定>のあり方を、その過程における<量質転化>および<質量転化>に目を向けながら書き出したということは、この作品を現象面からでなく構造面で理解しようとしたところから成し得たものでした。

また加えて言えば、作品の筆者にあってはこれらのことをより強調したいがために、ものごとの受け止め方の違う三兄弟を登場させて、さらに一人だけを生き残らせたことによって、彼が九死に一生を得た理由を読者に考えさせるという構成をとっているのですから、これを<相互浸透>であると言ってよいことになります。

さて評論に話を戻すと、文中の最後の段落、
ここで重要なのは、彼が必ずしも主観を捨て客観性を持ち得たのではなく、主観的に死を承知しすぎているからこそ、客観性を持たなければならなかったということです。
という箇所には、自分の物事の見方は形而上学では決してなく、あくまでも弁証法的たろうとしているのだ、という姿勢と、読者にその法則性をこそぜひとも注目してもらいたいという感情が込められており、ここまで読めているのなら作品の著者も喜んでくれたのでは、とわたしも考えているところです。

◆◆◆

惜しむらくは、続く一文
ですから主観は消滅したのでは(な)く、この後も主観的に恐れたかと思えば冷静さを取り戻し、そうかと思えば再び畏怖しはじめるといった複雑な心理状態に陥っていきます。
において、「複雑な心理」ということばで済ませてしまい、それ以上の心理状態を深く探求しようとしなかったことです。


また、本文の文頭に
 自然における神の道は、摂理におけると同様に、われら人間の道と異なっている。また、われらの造る模型は、広大深玄であって測り知れない神の業(わざ)にはとうていかなわない。まったく神の業はデモクリタスの井戸よりも深い。
とのジョオゼフ・グランヴィルの引用があり、さらに文中には
理論上ではどんなに決定的なものであっても、この深淵の雷のような轟のなかにあっては、それはまったく不可解なばかげたものとさえなってしまうからである。
とあるにもかかわらず、物語の一般性を「老人」の主体の問題としてまとめているところには、議論の余地が残されていると言えるでしょう。

この物語は自然の法則性というものは人の手に余るところにあるということを言っているのだ、という見方がこれらの引用を引いてきたときに、論者はどう反駁するのでしょうか。

◆◆◆

とはいえ、本質的に新しい創作活動をするということは、過去の作品の扱っているテーマや素材をそのままに自分の作品として横滑りさせることでは絶対になく、それらの「論理構造」をこそ学んでゆかねばならないという観点からすれば、十分な成果が得られつつあるものとしてよいと思います。

そろそろ、おそらく世では鬼門として扱われているであろうエドワード・ゴーリー『不幸な子供』といった著作についても、その論理構造を引き出しうる時期に来ているのでは、と期待しているところです。


※誤字
・ですから主観は消滅したのではく
・やがてそうして機微に心を変化させていき…「機微」の意味を誤っています。文脈からすれば、「微妙に」とでもいうべきところであり、もっと言えば一文の書き始めは「微妙な心理状態の押し戻しを繰り返す中で」などとするのが適切でしょう。

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