2013/05/14

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (2)


(1のつづき)


前回までで、芸術の創作における過程的構造をおさらいしました。

さて、上で述べたような論理が正しく抽出された際には、それをどう使って、正しい創作活動をしてゆく手がかりとすればよいのか?という局面が待っています。

論理や理論は、実践において抽出され、かつ実践において試されることでさらに磨かれてゆくものですから、形而上学者が論じたり頭の硬い実践家が主張するような、絶対的に独立した位置づけのものでは決してない、のですから。どちらが欠けても共倒れになるのみ、です。

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ここは、芸術の本質についての論理がある場合にはどのような創作活動となるのか、という説明よりも、それが「ない」場合にはどのようなことになるのか、という論じ方のほうがわかりやすいと思います。

たとえば、読者のみなさんがウェブサイトのデザイナーになりたいと思いたち、その道のプロがどういうことをしているのか勉強しようとしたときのことを考えてみましょう。

ウェブデザイナーなんかなりたいとはちっとも思わない?それでもかまいません。
そういう人のほうが、むしろ自分のことのように考えやすいと思いますよ。

さてこの場合、Webデザイナーになりたい、などといったタイトルの本がたくさん出版されていますから、どんな本屋に行っても数冊は見つけることができるでしょう。

ただ、そのうちのいくつかを手にとって見てもらえればわかるとおり、Webデザインとはどういうものか、や、芸術の中での位置づけ、それが誰にどう訴えかけるものなのかといった本質的な論理は素通りされ、目につくのは、「コンピュータはMacが望ましくこれこれのアプリケーションを用意すべし」だの、「トーンカーブはこう使え」だの、「HTMLの記述をどう揃えておけばブラウザ間の互換性がとれるか」といった、コンピュータに馴染みのない人なら、帰るまでの電車の中ですら強烈な眠気を誘うような文句ばかり、ではないでしょうか。

なぜこんなことになるのかといえば、ここでもやはり、表現というものの本質が、その技巧や技術のところにある、という前提にあるのです。

前提そのものが間違ったまま、単にPhotoshopやIllustratorといったアプリケーションのガイドブックばかりを買い込んで習得することになると、個別の技術は望みどおり、その努力にしたがって磨かれてゆくのですが、数年仕事をしてゆく段になると、デザインのアイデアそのものが枯渇し、いわばネタ切れ、の状態となってゆくのです。

技術そのもののなかには、芸術における創造性を担保するものがまったく含まれていないことから、これは論理的に言えば当然、といえるのですが、当人においては、「芸術=技術」、特殊的には「ウェブデザイン=アプリケーションの使い方」という誤った前提が反省されることがないために、自分がどうしてジリ貧の状態に陥ってしまっているのかが解けず、結局、アイデアのある人間のもとで働き蟻よろしく働くことになるか、まだ仕事ざかりという年齢のうちに、「この仕事とは合わなかった」と引退せざるをなってゆくのです。

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ここで気づかねばならないのは、たとえば、同じ「写真を加工する」という操作をする場合にも、現実に手にとった現像した写真の角をカッターで丸めるのと、画面の中のアプリケーションでアルファチャンネルとマスクを使いこなして角を丸めるのとでは、「いったい何が違うのか?」と考えること、なのです。

前者は誰にでもできますが、後者についてはそれなりにアプリケーションの操作に習熟した人間しか行うことができないという事実をそのまま見て取って、「後者が芸術的に優れた人間なのだ」という思いあがりが、芸術の本質にたいする見る目をまったく曇らせ、芸術=技術という考え方に固執させてしまっているわけです。

実のところここで本質的なのは、写真を丸めるための手段にあるのではなくて、「それを丸めるとその写真の価値はどう高まるのか?」、「全体としてウェブサイトの価値はどう高まるのか?」ということ、なのです。

これを決めるのは、当然に、作り手がどういうものを認識し、それを創りたいとしているかにかかっているのですから、ウェブサイトを作るにあたっても、それを「どう作るのか」ということよりも、「なぜ作るのか」、「何のために作るのか」、「何を作るのか」ということのほうが、はるかに力点をおかれるべきなのであって、そこを意識できるのであるならば、アプリケーションのガイドブックばかりに投資するのではなく、より歴史のある絵画や彫刻を美術館で見たり、海外旅行に行って創作の素材となる対象により多く触れる、というところをより多く重視するべき、という答えが出るはずなのです。

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個人的なことがらで恐縮ですが、自宅を開放して学生さんと議論したあと、食材を買い出しに行って、わたしのいつも食べているような料理をふるまうことがあります。

このとき、学生さんはみな口を揃えて美味い、この値段でこれだけのものが、と言ってくれるのですが、わたしにとっては「まずい」料理、です。

というのも、自分の料理技術というものが、自分自身の「こういうものが作りたいな」という認識に追いついておらず、思った通りの味や香り、彩りといったものになっていないので、褒められるところはないな、と思うからです。

同じように、あるだけの音感に照らして自分で満足の行く音が出せない場合や、描きたいものははっきりしているのに筆の運びがついてこない場合にも、人からどう評価されようとも同じことを思います。

もっとも、もしひとつの表現ができたあと自分の満足にできたと思った場合にも、自分の見えていないところがどこかにあるはずだ、わかっていないことすらわかることができていないところがあるはずだと考えますので、結局のところやはり、芸術に終わりはない、という命題にたどり着きますね。

さてここからわかることを学問的に整理してしまえば、「認識と表現は相対的に独立している」となりますが、ひとつの表現がまずいという場合に、認識能力がまずいのか、それを表現へ移し替える技術力がまずいのかということは、どうしても、区別と連関の関係において捉えておきたいところです。

以上、芸術における創作活動の過程的構造と、それをふまえておかねばどうなるか、という実践の問題に少しばかり触れてきました。

これらのことは、ひろく表現にたずさわる人たちは直接的に、実践を理論的に進めたい人たちはとくに認識と表現の区別と連関について、自身の専門分野に照らして考えていってもらいたいと思います。

認識と表現の区別がまともにつくだけでも、どんな仕事でも実務・指導のレベルは当初より飛躍的に高まると思うのですが…。実務界の無理論は見るも無残、心底悲しく思うところです。

ともあれ文字ばかりの記事でもがんばって読了してもらわなければ、当Blogの内容を本当に役に立ててもらうことはできないので、まえがきとして書いてきたものです。

次回ではようやく、写真を多めに、革細工を見てゆくことになります。


(3につづく)

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