2011/04/19

本日の革細工

今日は図書館が使えなかったので、軽く授業したあとずっと学生さんと議論していました。


ほんとは就職活動の相談だったのですが、
話が弾みもっと大きくて深い話ばかりをしたので、
直接的にはなんのアドバイスもしなかったことになります。

ただこういうことのほうが人間の本質にとっては必要なのではないかと、やはり思います。

◆◆◆

わたしたちが、今日の食事に困らずに、空き時間を見つけては、
人間かくあるべき、という話ができることは、
たしかに日本という国の経済状態に余裕があるからだという前提があります。
わたしたちがのほほんと過ごせているのは、先人たちが必死に戦後の復興に力を注いでくれたからです。

しかしそれはそうであっても、
「そういう状況に生まれ、生きているからこそ」、
できることもあるのではないでしょうか。

わたしは貧しい国を旅行するのが好きで、なぜかといえば
そういうところに行くと、人間の生気というのは経済の過多に依らないのだ、
ということを触れるくらいのところで見ることができるからなのですが、
もし自分がそういうところで生まれていたら、学問を通して人を幸せにする、
などといったこと自体に想いを馳せることはなかったのです。

そういう意味で、いま自分が生まれ育った環境が豊かに恵まれていて申し訳ないと思うくらいなら、
そういう環境に生まれ育ったからこそ、そうでなかったときよりも、
自分にはより大きく羽ばたける可能性を与えてもらっているのだ、
と前向きに受け止めることをしてゆきたいし、後進にもそうしてほしいと思います。

こうして覚悟が決まると、自分の心のなかにくすぶってはいるけれど
現実的に考えたときに引け目を感じるようなことでも、
しっかりと見据えてゆくことができるようになってゆきます。

お話ししてきた内容については、後日触れてゆきます。

ただ複雑な選択に向き合う時こそ、
自分の中での原理や原則がどうしてもやっぱり必要なのだと、
今日も今日とて確認しあってきたものでした。

◆◆◆

さて、本日の回想録はさておき、気分が高まって眠れないので就寝前の作業報告。

ひとつめ、名刺ケース。


以前に友人から頼まれていたので、
しばらくいろいろと型紙とにらめっこしながら考えてみたのですが、
こういう形に落ち着きました。

一枚の長方形の革を手前にぐるっとまわして、
あいだにもう一枚の仕切り革を挟んだ形になっています。


じつはこれ、一番下側の横幅と比べると、
真ん中の仕切り革は2mm短く、上の部分の革は1mm短いのです。
こうしておくと、側面を作らなくても、内側の空間を確保できるわけですね。

横をぐっとつまむと革のテンションが働いて、蓋が開いて中身が見やすくなります。
わたしは名刺ケースが必要なほうではないので、ビジネスのプロがどんな感触を持たれるかは未知数ですが、うまくいけば食事代をもってもらえるらしいのでちょっと期待です。

もしダメなら…おごってもらえるまでがんばる。

◆◆◆

あと、こっちはどうなるかわかんないなあと思いながら作った、
ペットボトルのケース。


「からだ巡り茶」の薄型ボトルしか入らない特殊仕様ですが、
中身は詰め替えて持っていくのでこれでいいのです。

夏場に冷たい飲み物を持って行くと、ボトルが汗をかいて
鞄の中のノートがにじみまくるので、その対策のためのものです。

でも革と水は相性が最悪なので、どう出るか予想もつきません。
いい加減に放ったらかしにしてたらカビ生えちゃいそうだしねえ。

まあこればっかりは使ってみないことにはなんとも、ですが、
製作上の技術的には底面の立体処理をはじめ、問題は残らなくなりました。
というか、ぜんぜん物足りない感じです。

次はもっととんでもなく難しいことやりたいなあ。
気持ちがここまで高まってきたら、
以前から腹案を巡らしている木と革での人形作りにも、いよいよ進めそうです。

2011/04/18

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(2)

(1のつづき)



 さてここまで書いてみると、相手の立場に立ってものごとを考えてみる、というときにでも、認識における原則と論理といったような、精神についての交通関係の基礎的な理解が必要であることがわかってきます。
 わたしたちはこれまで生きてきて、その論理のレベルも、認識の深さといったありかたも、それぞれ自分勝手にしか成長してきてはいないのですから、「人の立場に立って考える」という、ことばにすると至極簡単なことでも、これほどの内実が含まれているのだと理解してもらいたいところです。

 こういうおはなしをすると、「お前にそんなことを言われなくともわかっている」と啖呵を切る方が、必ずおられるものです。社会経験や仕事を通して、自分には人を見る目がある、といった方ほど、こういった傾向が避けられないものになってきます。こういった方が失敗してもなんらの前進も見せずに失敗を繰り返すのは、失敗した原因を相手にだけ押し付けるからです。人間として尊敬されたいのならば、自分のことだけはまともに反省するという謙虚さくらいは、年齢にかかわらず持っていただきたいところです。

◆◆◆

 直近の経験では、こんなことがありました。ある留学生に、チューターをつけねばならないとなったときのことです。ある学生が、私は英語がペラペラなので立候補しますというので、彼にお願いすることになったのでした。わたしはこのとき黙っていましたが、彼が失敗するだろうなということはわかっていました。彼のことばの節々に、謙虚さが微塵も感じられなかったからです。しかし、教育者の役目は、失敗する前からどこに落とし穴があるのかを教えることではありませんから、留学生にはあとでフォローするとして、彼には身を持って失敗してもらおうと思ったわけです。
 チューターというからには、「留学生の立場に立って」、日本のことや勉学、生活の不自由を補ってゆかねばならないわけですが、やはりというか、彼はその役目を果たせませんでした。彼の言い分では、留学生の語学力が低すぎて、言っていることをやってくれない、というのです。さてどういう教え方をしているのかなと観察していましたら、一番はじめに目についたのは、彼が生地の方言でしゃべっていることです。彼の生地と大学とはそれほど離れてはいませんから、日本人の学生であればまるで問題がないのですが、留学生にとっては、これは大問題です。

 彼らは母国で日本語の基礎的な知識は習っていますが、まさか日本語の方言をすべて習うわけにはゆきません。しかも輪をかけて困るのは、こういった語学の修練というのは、一般に文語に近い口語で習わされるということです。ですから彼らは、「今から買い物に行くところなんだよね?」くらいならわかりますが、「これから神戸行きよんねんな?」などといった表現が続くと、部分部分の言葉を追うことで精一杯になってしまい、会話が成り立たなくなってしまいます。留学生にとっては、「神戸」が、「神戸全体」ではなくて、「三宮を中心としたショッピング街」を特定した言葉であることはもちろん知りませんし、ましてや「大阪で買える物、神戸で買える物」という違いもわかりません。それに、「行きよんねんな」などといった方言は、完全にお手上げといってもいいほどの難しさなのです。あとでわたしに、「よんねん」とは「四年」でしょうかと聞いておられました。そのコミュニケーション不全が積み重なって、数日後の「あの留学生は語学力が低すぎる」との意見になってしまったのでした。わたしから見れば、その留学生の日本語力は、標準的な日本語であれば十分に意思疎通のできるものです。

 この行き違いは、「もし自分が外国で育って、日本語学校で教わったことしか知らなければ」と、その人の立場に立って振る舞い方を変えることが出来れば、避けられたことです。認識論などまるで知らない人でも、こういったコミュニケーションをしっかりと成立させることができる方は、経験の上でその能力を培ってきているわけです。その優れた能力を持つ人は、いったいどうやって人の気持ちを考えているのだろうか、という、実践で得られた知識を、どんな分野にでも使えるように抽象化し、実践に向き合う際にも使えるように体系化したものも、認識論という分野の一部なのです。言い換えれば、「人の立場に立って考える」という感性的な認識のあり方を、実践的な試行錯誤の中から理性的なものとして磨き上げたものを、「観念的二重化」と呼んでいるということになります。

◆◆◆

 さて、ここでわかったことを、一言で述べて指針にしておきましょう。
 それは、「観念的二重化」の大前提は、「自分に備わっている認識のあり方を、当たり前のものだと思ってはいけない」、ということです。上でのチューターの失敗は、まさにそのことを看過した結果なのです。

 そうはいっても、いくら外国人だからとはいえ、同じヒトとしての一般性の上の特殊性として、日本人と外国人である、もっといえば生活体としての違いがあるだけなのですから、サルと話す方法を使ってはいけないことになります。
 この論理的な帰結として、「人間としての一般的な認識のあり方はどういうものか」ということを押さえておくと、日本人であろうが外国人であろうが、コミュニケーションの際の指針が導かれることになりますね。「原則というのは、実践的な問題にぶつかったときにこそ必要である」という、経験主義者には単なる逆説にしか見えない一大論理が、ここには現れています。

 「いま自分が持っている認識のあり方を、当たり前だとは思わない」、ということは、弁証法的唯物論の立場に立つ認識論にも、必須の大前提です。観念論の立場は、その本質的な前提として、「精神は物質に先行する」とするのですから、ここは問われることがありません。すでに成立した一般的な形の認識を、誰しも持っていて、それをとおして世の中を見るのだ、ということになります。唯物論はそれとは逆に、「物質は精神に先行する」というのですから、なんとしても、物質から精神のあり方へと発展してゆくさまを描ききらねばなりませんし、認識論だけをとってみても、「おぎゃあと生まれた赤ちゃんが、生育するにつれてどういった脳細胞の実力をつけてゆき、それと浸透するように認識の力を身につけてゆくのか」、ということが解明されてゆかねばならないことになります。

(3につづく)


◆2の余談:ものごとの見方の土台について、学問的に整理しておきたい方へ◆

 余談ですが、ものごとの見方(世界観)を考えるときに、唯物論でも観念論でもないとする立場をとる思想もあるにはあります。しかしそういった立場に立つと、物質と精神をその交互作用、つまり区別と連関をもって捉えることをせずに、いきなり存在一般に解消してしまう場合がほとんどです。それと同時に、いきおい認識が森羅万象に解消されてしまうことになり、論理的強制として過程的構造などは陰も形も現れませんから、歴史的な見方をしなくなり、次に歴史的な流れを踏まえないことから論理性が硬化し形而上学となってゆきます。過程にふくまれる構造をみないことを、眼に見えるものごとだけしか扱わないという意味を込めて、ときには侮蔑的に、「現象論」と言うわけです。
 現象論べったりの研究も、学問レベルではないにしろ知識的にはそれなりに通用するものですが、事実を平面的に並べて論じる姿勢から、解釈主義に滑り落ちてしまいがちです。解釈主義を現実の人間のあり方に押し付けてもそれらが傷つかないように見えるのは、それが単なるアイデアレベルで精神のごく一部にしか働きかけないために、その誤りが死傷などといった現象として顕れないからに過ぎません。眼に見えたり間接的に感じられるものに「私はこう思う」という人生観レベルのあれやこれやの解釈を押し付けるという解釈主義的な態度で、研究者としての生活の糧を得るという態度については、まるで評価はしないもののあえて無視しますが、それを生命や未来を担う後進の育成に使ってしまうという手合いはれっきとした悪ですので、容赦することはできません。
 物質と精神を弁証法的(?)に止揚する(?)などと言うと、初学者はなるほどそれが次なる段階か、などと思ってしまいがちのようですが、概念規定なくして学問なし、との言葉通り、せめて、しかるべき区分がなされなければその連関も論じられない、という事実を、相互浸透の法則を照らして導きだすことはしてほしいと思います。

 現実が何であるかをとりあえず常識的なところでおさえておくならば、認識の方法は、「観念論」と「唯物論」です。互いに移行しあうとはいえ、その認識を現実に適用するときに、前者は宗教的・思想的な形を持った「訓示」といった形で現れますし、後者ならば科学との親和性から、「技術」として現れるのであって、それ以外ではありません。ですから、安直にちゃんぽんしてはいけません。自分が採用するのは観念論でも唯物論でもいいのですが、自分がどちらの立場でものごとを考え、論じているのか、と論理的に明確に区分する実力を養って、理性的に自覚をしておかなければ、どうしたって一流にはなれません。なぜなら、ものごとを論じるときの根本が揺らいでしまうために、論じ続けている中で解決できない根本的な矛盾が露呈してくるからです。理論は論理の体系であり、論理によらねばならない学問は当然に体系性をうちに含んだものですから、根本的な矛盾を抱えたままでは学問にはなりえません。研究人生の途中で世界観を転向したある哲学者の顛末を知れば一目瞭然ですが、実践的理論家だけではなく、理論的実践家として、我が道を極めようとされる方にもこの原則は必須事項ですから、心に誓って下さるようお願いしておきます。

2011/04/17

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(1)

 前回の問いかけについて、お返事をいただきました。



 ただ書き終えてから読み直しましたら、初学者にはやや難しい内容になっているかもしれません。
 ここの読者の理解の度合いも自然に高まってきたために、彼女・彼らの反応を手がかりにするだけでは、わたしはどのあたりまで加減すればいいのかがわかりにくくなっています。
 「ここってどういう意味?」、「ここまで言っていいの?」などといった素朴な反応でかまいませんので、ご連絡をいただけましたら補完してゆきます。


 前回の問いかけは、太宰の『女人訓戒』に端を発したものでした。引用してみましょう。

【問】
 ところで、仮にもまともに人間の認識の過程的構造を唯物論的に追うならば、気にならなければならない決定的な問題が、この作品には含まれています。その箇所は、「盲目の女が、兎の眼を移植されてその日から世界を杖で探る必要が無くなった」というところです。ここでは問題を明確に浮き彫りにするために、人間に兎の眼を移植することには成功した、としてください。つまり、それまでは盲目であった女性に、「物質的には」なんらの問題のない眼球が移植され、彼女は「物質的には」五体満足になったのだ、という仮定のうえで考えてみてください。わたしが括弧書きしたことには、それ相応の意味が隠されていることはわかりますね。そうすると、実際にこのような手術が行われ成功した場合、本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?と考えればいいことになります。ちょっとヒントを書きすぎてつまらないでしょうか。考えてみてください。

◆◆◆

 この問を考えるにあたって必要な条件だけを残すと、こういうことになります。

 「盲目の人間として生まれた女性が、正常な目を移植された場合、
 その日のうちに目が見えるようになるだろうか?」

 それにたいする返事はこのようなものです。

◆◆◆

ブログを拝見しました。
今回のブログでコメント者が「物質的には」と括弧書きしたのは、では「精神的には」どうか、というところを指摘しているのだと推察しました。
太宰は物質的に何かを取り入れる、或は何かを取り替えると当然精神にも影響があるはずである、ということを指摘したかったのでしょう。
ですが、彼は物質から精神への流れは説明できても、その逆は説明できていません。
これがあなたの述べている「筆者の考察が一面的である」ということの中身です。
大雑把に全体をとらえたつもりなのですが、どうでしょうか?

◆◆◆

 彼はこの問を考えるときに、「コメント者が『物質的には』と括弧書きした」ということを手がかりとしたようです。

 まず、「物質的」に対する言葉は「精神的」である。
 そして、作品の中で太宰は、Lの発音を正確にするために西洋人の真似をしてタングシチュウ(牛の舌のシチュー)を食べる夫人の話などを挙げている。
 そうすると、太宰は、「物質から精神へのありかたを述べたのだ」。

 論者は、このように解釈したようです。


 このことについて注意をしておきますと、論者が、物質か精神か、という二律背反の考え方で留まっていないことは、いちおう評価できます。
 これは、「物質から精神」という影響を考えるにあたって、いやまてよ、「精神から物質」の影響も考えておかねばならないのではないか、と考え始めたことは悪くない、という意味です。
 しかし、この「逆をとる」という考え方そのものは、決して弁証法的な論理を使って考えていることにはなりません。それは結局のところ、形而上学的・形式論理的の域を出ないのです。形式論理で考えても、命題について裏・逆・対偶くらいはとってみて考えてみることができてしまいますからね。

 ところが、形式論理を身近な事柄に適用して考えてみればわかるとおり、あのような考え方では、あらゆるところで先に進めなくなります。
 たとえば振り込め詐欺が起きたときのことを考えてみてください。テレビを見ると、被害者やそれに同情する立場の人は、なんという痛ましい事件だろうかと思うでしょう。そうすると、これは大きな失敗であるということになります。しかし他方、人を騙してお金を稼ごうと思っている人間がその手口を見たなら、なるほどその手口があったか、と思いますね。そうすると、彼らにとってはこの出来事はある種の成功として追体験されるわけです。
 「あれかこれか」と割り切る態度では、現実の持つ立体的な構造を正しくつかむことはできません。

 その形而上学的・形式論理的に凝り固まった考え方に対して、精神と物質について弁証法的に考えるということがどういうことなのかと言っておきましょう。それは人間の精神活動ですら、物質の運動が高度に量質転化した働きであるとして考えてゆくことなのです。
 一般的なものごとの見方しかできなければ、「精神が物質の運動であるとはなんとバカなことを…」と短絡してしまいそうなところを、歴史的な流れをふまえて、物質が大きな流れを経て量質転化的に精神へと発展してゆくさまを、弁証法的に解明してゆくわけです。

 ところが今回のメールでは、論者は精神から物質か、物質から精神かという「あれかこれか」にとどまった考え方をしているように察せられました。そうしてわたしは論者のメールから彼の論理性をアタマの中に描いたうえで、彼はまだ以上のようなことはうまくふまえられていないのだと確認しましたから、この問題を解くに当たっての方法論について、こうアドバイスしました。

◆◆◆

それはコメント全体をふまえたうえでの推察のようだね。
間違ってはいないが、やや方向性がずれていると思う。
この問題を解くにあたっては、問題の部分だけをしっかり読んで、自分が同じ身体を持って生まれて同じ手術を受けたとしたら、術後に包帯を解かれたとき、目の前の景色がどのようにみえるだろうか、と想像をめぐらしてみたほうがいい。
そのとき、器質(物質)的には五体満足になっているはずだが…術後、「本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?」

ヒント:
認識のあり方は、人によって違うのだったね。

◆◆◆

 わたしはここで、弁証法的な論理をまだうまく現実の問題に適用できるだけの技術(=認識の適用)と知識が足りないことをうけて、難しく考えるよりも、同じ人間が体験することなのだから、彼女の身になってその体験を捉え返してみてはどうか、「こう想像してみたらどうか」という方向性で助言をしたわけです。

 そうしましたら、返ってきた答えはこのようなものでした。

◆◆◆

物質的には五体満足になっても、彼女はすぐに目が見えるようになったとは思えません。
彼女はこれまでの人生の中で、光や色といったものと無縁の世界で生きてきました。
その彼女が目を移植され、目をあけることができたとしても、まず世界の明るさに驚くのではないでしょうか。
そして、長い時間をかけて、光に慣れると、今度はぼんやりと色をとらえはじめるでしょう。
そして、その色がやがてくっきりと見えるようになり、物質と物質の境界が見えはじめる事でしょう。

ですので、物質的に五体満足になったとしても、認識の上では、それに追いつく迄には時間がかかるはずです。

◆◆◆

 悪くない答えですね。

 みなさんは、この解答のどこに要点があるか、おわかりになりますか。
 論者は、ある表現を対象として受け止めて、アタマの中にその人の思いを写しとり、その人の立場になって考えてみる、という「観念的二重化」ということを、あるていど行うことができています。

 それを敷衍して、彼女の認識のあり方がどういうものなのかをすこし追ってみましょう。

◆◆◆

 まず問題にあった女性は、これまで一度も、自分の目でなにも見たことがなかったわけです。
 彼女は、一般の五体満足な人間ならば、五感を通して認識できるであろうはずのところを、生まれてこのかた、いわば四感をとおした像としてしか結実出来ていません。
 わたしたちが日常的にやっているような、街角で友人の顔を見かけてぱっと明るくなるようなあの気持ちを生み出す条件、朝鏡に向かっての今日は疲れた顔をしているなあというつぶやき、美術館で先人の残した絵画や彫刻を眺めに眺めて、それでも理解できずに自宅で模写をしてみることの、土台すらないのです。
 彼女は、普通に食事を摂るときにすら、指に触れることでしかコップに入れた水のかさをはかることができませんし、口に入れてみるまでそれが醤油なのかオレンジジュースなのかもわからないのです。

 もっとも、彼女は「目が見えるということがどういうことなのかを、身を持って体感したことがない」のですから、健常者が、「目が見えなくてさぞ大変であろう」という同情を強く出した感情的な反応しかできないのにたいして、他の四感で、非常にうまく、自分なりに必要なだけの生活を送るための工夫を積み重ねてきているわけです。
 現実にも、舌を鳴らした音が反響するのを聞き分けて、物にぶつからずに外出できる盲目の少年もいるほどなのですから。

 そうすると、彼女にとっての世界のあり方は、視覚を除いた認識であることがもともとすべてなのですから、視覚をふくんだ五感覚器官がどのような認識をもたらすかは、他人の表現を受け止めて想像することしかできません。そこでの不自由というものは、周囲の健常者が「こんなこともできなくて大変だろうね」と表現することを通して、「想像してみる」ことでしかとらえられないのです。
 彼女にとっては健常者のありかたについて、「それができたら便利ね」ということではなく、「それ」がどのような中身を指しているのかはうまくはわからないけれど、目の見える人が便利だというなら便利なのだろうな、という感じ方であることに注意してください。

 彼女は、他の大多数の人たちが、自分とは違ったやり方で世界を見ているであろうことはたしかなようだとわかりますし、事実そういった前提の違う人たちが創り上げた社会の中では、直接にある種の不自由を感じることもあるのですが、だからといって「大変ね」と言われても、「そういうものかしら(=体験したことがないからなんともいえないな)、私にとってはこれが普通なのだけど」といった感想を持っていることは想像に難くないわけです。

(2につづく)

2011/04/16

新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか

 春になり、新しい読者が見に来てくれているようです。



 いきなり最新のエントリから入ると、
「さっぱりわけわからん!なんじゃこの文字ばっかのブログは!?」
となってしまうと思いますので、
過去のエントリも拾い読みしながら理解してもらえたらうれしいな、と思います。

 ただ最近の内容は、学問としては入り口であるとしても、
それでも初学者には難しいものであることに変わりはありませんから、
適宜質問をしていただければ、出来る範囲でお答えいたします。


 いまはこんなものものしい文体のおっそろしい閻魔帳になってしまったものの、
書き始めたころには、「本日のデス映画」なんていうコーナーもあったのです。
 わたしの好きなB級映画に大人気なくツッコミを入れるというものでしたが、
映画よりも学問的なものごとの見方を深める方が楽しくなってしまってご無沙汰、というわけです。

 たまには砕けた話もしたいなあとは思うのですが、なにぶん余分な力はありませんし、
いい加減なことを言って未来ある後進にインチキを吹き込む大人をどうしても許せないタチであることも災いして、
どうしても力のこもった言い方になってしまうことも多いかと思います。

 そんなときは、ああまたはじまったよ、とそれなりの距離感をとってにこにこ眺めていただけると嬉しく思います。

◆◆◆

 さて今回は、前途ある後進からこんなご質問をいただきました。

 「なにか新しいことをしようと思うのですが、どんな趣味を選べばいいでしょうか?」

 といっても、以前からの知り合いなので、わたしがどういう生活を送っているかはわりとご存知の学生さんです。
 彼に言わせると、わたしという人間は、
なんにでも興味があって死ぬまでにすべての娯楽を触り尽くしてから死にたい、
という印象だそうです。

 でもこれについてひとこと言っておきたいのですが、
表面上、いろいろなことに手を出しているようにみえても、
それが一つのことをやっているだけ、ということもあるのです。

 たとえば、わたしの家の本棚には、社会科学、自然科学と精神科学というあらゆる分野についての本があります。
 旅行ガイドも画集もありますし、図鑑も子供の頃から読み返してぼろぼろのものを置いています。漫画も、大事なものは譲らずにとってあります。一定の文化レベルに達したと思える映画やTVゲームもあります。
 もちろん、表面上の専門はいちおうありますから、すべてがまんべんなく揃っているわけではありませんが、
一見するとなんにでも手を出しているように見えるでしょう。
 少し見る目の肥えた人なら、「こいつはいろいろとつまみ食いしているだけだから、モノにはならない人間だな」
と思うことだと思います。

◆◆◆

 ただこのことについてはひとつ大きな理由があり、わたしの基本的な方針というのが、
「ある分野の歴史から流れを捉え返して、そこからその分野の論理を取り出す」
ということだからです。

 そうすると、表面上はあらゆる分野についてバラバラの書籍がありながら、
本質的にやっていることは、いわば「学史に潜む論理」という観点で、筋が通っていることになります。

 わたしはこの筋、つまり自らの道の一般性に照らして本を選びますから、
自分自身としては、決して乱読していたり、つまみ食いしているわけではありません。

 ですから、ある道を突き進んでいる方から見れば、我が家の本棚は、
「ああなるほど」と思っていただけるのではないかと思います。

◆◆◆

 わたしも大学時代は、とにかくたくさんの国に旅行に行ったり展覧会に行ったり、
たくさんの映画を見たり、たくさんの分野の人の講演会に行ったりした時期がありました。
 あの時期は毎日あらゆるジャンルの本を1冊は読みましたし、3ヶ月に一つは資格を取りました。

 でもそんなことも、それほど長くは続かなかったと思います。
 その中からいくつかを、やはり力点を定めて取り組むことになってゆき、
いまでは形として残っているのは、3ヶ月にひとつ大きなテーマを見つけて取り組む、という決まりごとくらいです。
 映画や音楽、旅行やデザインなんかの個別的な知識については、
誰かに話題をふられればそれなりに受け答えできますが、
新しい事情についてはさっぱりなので、「話を聞けるくらいの知識」しかありませんし、
特別な事情がない限り、自分から情報収集もしません。

 そうして絞りこめていったのは、やはり、「自分の目指すもの」が、おぼろげながら見えてきたからです。
 それとともに、「一流とはどういうものか」というアタマの中の像が、ある明確な形として見えてきたからです。
 それは、いま取り組んでいることとも、明確に一致していることです。

◆◆◆

 ですから、とにかく多趣味の人間としてわたしを見ておられる学生さんには、
ちょっとガッカリさせるかもしれませんが、こう言いたいと思います。

 「趣味は、あまり多くないほうがよい」。

 あらゆるジャンルについて知るということは、人間の深みを知るにあたっては大事なことですが、
それはなにも自分で取り組まなくとも、その道を真剣に歩んでいる人物との出会いがあれば、
「その人のことばの深みをしっかり受け止められる」くらいの知識や想像力はつくものです。

 ある道をしっかりと深めていっておられる方と話せばすぐにわかるとおり、
深いところでは、あらゆる道がひとつのところに通じています。
 ですから、あらゆることを知ろうとせずとも、一流の人、これはなにも有名でなくても、
自分のこれは、と思う人を見つけて、その人が「なにを見ているのか」と問うていればいいわけです。


 そこまでたどり着くためには、積極的な意味のない、
いわば趣味レベルの趣味は、むしろ無いほうがよい、とさえ言ってしまおうと思います。

 「消極的な意味しかない趣味」というのは、だらだらテレビを見たり音楽を聴いたりする、ということです。
 そもそも人間が動物と本質的に異なるとされるのは、ある物事に向かって目的意識をもって向きあい、
対象を変えることによって自らの生活と自分自身を変えてゆくことができるからです。
 そうすると、ただ口をぽかんと開けて上から降ってくる先人のおこぼれにあずかるというのは、
まさに動物レベルですから、こういった姿勢は人間的な嗜みではありません。

 ただ、表向きはただテレビを見ている場合にも、それが強い問題意識を含んでいる場合には、
しっかりとした趣味になり得ます。
 テレビ局のプロデューサーならば、より良い番組作りを目指すために番組のザッピングは欠かさないでしょう。
 それは、立派に人間的な営みと言えます。

 もし職業上のつながりがない場合には、自分が見聞きしたことの記録を残すことを強くおすすめします。
 音楽を聴いたことについて、美術館に行って見聞きしたものについて、評論を書いたり、実際に模写をしてみるのです。
 そうすると、自分の進歩が眼に見えてきますから、次に取り組もうという意欲や、
当たり前に見えるけどここにはすごい工夫があるのだなといった問題意識もより明確なものとなってきます。
 そしてまた、こうして、知識や知恵を自分のものだけにしておかず、社会性を確保するということは、まさに最高と言ってもいいほどに人間的な労働です。

◆◆◆

 また「積極的な意味」をまともに受け取ろうとしても、いろいろな意味あいをふくんでいますが、
ひとつの目安としては、「外面上をとりつくろうための趣味」は止すべき、ということは言えます。
 たとえば異性の気を引きたいとか、友だちに自慢したいとか、親に褒められたいとか、そういう動機で選ぶ趣味のことです。
 以前に流行ったことば、「マイブーム」といったようなことですね。あれは止すべきです。

 流行が、生涯を貫く道のきっかけになる場合もありますが、
物心ついたあとには、すでにどうしても合わない趣味が増えてきていますから、
ピンと来ないものに手を出しても、ものになることはほとんどありません。

 もしそういうことでも新しいことをやるぞ、というときには、
それをやらなければ身体がムズムズするくらいの習慣になるまで、決して止めてはいけません。
 わたしは身体をガタガタに壊したときにランニングとピアノをはじめましたが、
いまだに3ヶ月毎にテーマを決めて取り組んでいます。

 そのときに一つの筋をとおしているのは、一言で言えば「技術」という観点から見ているということです。
 たとえば音楽でいえば楽譜は理論ですが、
その理論を現実に適用して、実際にピアノが弾けるようになるまでには、
それこそ気の遠くなるほどの研鑽過程が必要ですね。
 最高の楽譜を手に入れたから一流のピアニストになったのだ、などというと病院に連れていかれるでしょう。
 そうするとそこには、理論と実践の大きな隔たりが矛盾として存在しているわけですから、
その一般性に照らして言えば、絵画、ランニングなど、あらゆるものが一般的には同じ論理として取り出せるはずです。

 ですから一言で言えば、ピアノやランニングを媒介として、技術論を確かめている、ということです。
 こういう見方ができるようになると、その技術論を念頭において新しいジャンルに進んでゆくことができますから、
これほど面白いことはない、というほど新しいことに取り組むのが楽しみになってきます。

◆◆◆

 ここまで述べてきたことを一言で言うならば、
自分にとって積極的な意味のある分野を探して、
そのことについて調べたり、考えたりすることが習慣になるくらいにしよう。
ということでしょうか。

 そのことが、人間として意味のある趣味ということです。
 そしてこれはもはや、単なる趣味の域を超えて、我が道そのものになりうる営みです。


 みなさんには、人間としての大道を、背筋をまっすぐに伸ばして歩いていってもらえるよう、心の底から願っておきます。
 残念ながら、まっすぐに生きようとする人間の足を引っ張る趣味の大人もいますし、僻みや嫉みなどを浴びることも少なくありませんが、まっすぐな生き方をしている人間でなければ、決して見えてこない高みというものが、現実にははっきりと存在しています。
 できうるなら、まわりの人間が暗い情熱に取り付かれてそういう落とし穴に引きずり込まれそうになったときには、その手をしっかりと握りしめて引き上げてあげることのできる人間にまで、なってほしいと思います。

 みなさんにも一刻も早く、森羅万象の圧倒的な広がりの中で生まれた生命現象が、精神を持った人間となるところにまで育まれ、ここまでの高みに上り詰めたという事実を見ていただきたいと願ってやみません。
 そうして同時に、ここまでの高みにあるからこそ、同じだけの責任をもって、最大の自負とともに歩んでいかなければならないのだ、ということも、身を持った実感としてふまえておいてほしいものです。

2011/04/13

文学考察:女人訓戒ー太宰治


女人訓戒ー太宰治

◆ノブくんの評論

著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すようになったのでしょうか。
この作品では、〈対立物の相互浸透のある一面〉が描かれています。
まず著者の主張では、「兎の目は何も知らない。けれども、兎の目を保有していた彼女は、猟夫の職業の性質を知っていた。兎の目を宿さぬ以前から、猟夫の残虐な性質に就いては聞いて知っていたのである。(中略)彼女は、家兎の目を宿して、この光る世界を見ることができ、それ自身の兎の目をこよなく大事にしたい心から、かねて聞き及ぶ猟夫という兎の敵 を、憎しみ恐れ、ついには之をあらわに回避するほどになったのである。」というものでした。恐らく、著者はそこから、兎の目が人間の性格の一面をつくっている、と主張したいようです。事実彼はこの後に、その根拠を述べるべく、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソードを綴っています。
ですが、著者が法則の性質の一面しか捉えることが出来ていないため、その論証自体に大きな欠点が二点あります。その一点目は、互いに浸透し合っているものを上手く結べていない、または根本的に見誤っているということです。著者は兎の目を持った女が、猟夫を恐れるのは、兎の眼を大事にしていた為と説明していますが、果たしてそうでしょうか。そもそも女性は兎の目を移植されたために生まれてはじめて、世界を自分の目で見ることが出来るようになったのです。そんな彼女が突然、猟銃という凶器にもなりうるものを持った男を見たらどう思うでしょうか。更にそれが狩りの最中であれば、その目つきに恐れるもの無理のない話ではないでしょうか。こう考える方が、兎の目を持ったことによりそれを大事に思うようになったために、猟夫を恐れるようになったと考えるよりは説得力があるはずです。また、タンシチューの女性のエピソードでは、タンシチューを週二回食べることにより、体の細胞が変化し英語が喋れる様になったということも可笑しな話です。確かに西洋人の食べ物を食べることにより、肉体が西洋人になっていくことは多少はあるでしょうが(食べ物が人間をつくる)、それ以上に毎日英語を喋っているので、舌が英語の発音に慣れ、変化していったと考える方が自然というものです。
次に二点目ですが、これは、兎の目からという流れは説明されていますが、その逆が説明されていないことにあります。これは兎の例は上記にもあるように根本から違うため、狐の襟巻きの女性の話を取り上げ説明することにしましょう。確かに事実はどうであれ狐という言葉を聞いて私たちは、嘘をつく、狡猾な動物であるというイメージを持っています。そしてそういった動物の襟巻きを身につけることによって、彼女が自分のイメージをつくり上げ、そういった人物になっていくことは十分に考えられます。ですが、もとからそういう人物が狐の襟巻きを着ることによって、狐にそういったイメージが付きまとうことだってあるはずです。例えば、あるモデルが全くお洒落ではないドレスを見事に着こなしていれば、そのドレスも「成程、お洒落である」と感じ、そのドレスが流行することだってあります。よって、狐の襟巻きが女性をつくっていると同時に、その女性もまた狐のイメージを作り上げているのです。
以上が、著者が見落としていた法則の一部始終となります。法則というものは何と何がくっついているのかが重要なのではなく、どのような流れでどう繋がっているのかが重要なのです。


◆わたしのコメント

 一ヶ月ほど前の評論ですので、すでに注意したことが訂正されていない場合もあるため、今でなら直せるかもしれないところを再び注意するような箇所がありますが、ご了承ください。

◆◆◆

 まず指摘しておきます。文学作品の一般性に、「対立物の相互浸透」などというものものしい用語を使ってはいけません。自分の認識がどういうものなのかは人によって様々ですが、常々言っているとおり、それはアタマのなかにだけ持っていればいいものなのであって、わざわざ表明することが評価の対象になるわけでは決してありません。たとえば、生物が環境に適応するのも夜の月が明るく見えるのも相互浸透なのだと言ったからといって、読者はそうかなるほどと、それは理解の助けになったと評してくれるでしょうか。わたしがコメントの中で、あえて弁証法の法則を明言しているというのは、論者や読者にとって、「論理力の修練の上で役に立つから」そうしているのであって、「評論や文学作品の表現にふさわしいから」そうしているのではありません。その目的をしっかりと押さえたうえで、形の上での模倣はそもそもの目的が違うのだから意味が無いのだ、と知っておいて欲しいところです。
 加えていっておきますと、ある人の表現を見れば、それが明言されていなくとも、その背後に正しい論理が潜んでいるかどうかは、見る目のある人ならば必ずわかります。わたしでも、学生の論文やレポートはもちろんですが、メールや話し方の中でさえ、その中にどれくらいのレベルの論理性が潜んでいるかはわかります。ですから、わざわざものものしい学問用語を持ち出さなくとも、あなたの論理性は常々見ていますので、心配無用です。むしろ、弁証法が技化する段階になれば、3つの法則は自らの認識の中に相互浸透した結果、一つの弁証法性として止揚されているのですから、わざわざ表明すること自体が、技化していないことを表明することにしかなりません。法則についての理解が正しいかどうかを確認したい場合には、括弧書きでするのがよいでしょう。その場合には、わたしとしても正否をお伝えしやすくなります。

◆◆◆

 さて、見苦しいところをお見せしました。評論の内実に触れてゆきましょう。
 この作品では、「兎の眼を移植された女が光を取り戻したのはいいものの、猟夫のことを恐怖するようになった」という逸話が紹介されています。筆者は、その理由というものに興味を持って、考察を巡らせているのです。
 筆者が手がかりとしているのはほかに、Lの発音を正確にするために西洋人の真似をしてタングシチュウ(牛の舌のシチュー)を食べる夫人の話、狐の襟巻きをした途端に急に狡猾になるマダムの話、色を白くするために烏賊(いか)のさしみを食べる映画女優の話です。それらがすべて女性についての話題であることから、筆者は、女性というものは「なんにでもなれる」のだ、といったん結論づけています。
 そうして最後に、そういえば人魚も女性しかいないということは、彼女たちははじめは人間であるものが、巨大な魚をたしなみを忘れて食べ過ぎた女性が、そのことが妙に心に残ってしまい、後悔の念と共に海に入ったものなのだと言います。筆者によれば、そこでの決定的な原因として、魚のことが心に残るということは、食べた魚が物質的に彼女の身体と同化をし始めてたからなのだ、ということなのです。

 ここでは筆者は、ある物質が人間に及ぼす影響を考えるに当たって、人間がその物質そのものよりも、その物質について持っている認識のあり方こそが、最も大きな影響を与えているのだ、ということを主張しているわけです。論者は、筆者が主張する影響の向きは一方的であるとして、その他の要因を考えてはいますが、人間の認識における交通関係「対象→認識→表現」を、生理学的な代謝にまで拡張して考えているために、正しい批判には至っていません。摂取した食料の色素が、肌の色にどれほど沈着するかなどは、その人間の生活全般を考慮しないことには無意味ですから、論者の理解できる範囲を大幅に超えているでしょう。筆者のものごとの見方が一面的であることは、「筆者のいちばん重視する原因が、最も決定的であるとはいえない」といった指摘を、論拠と共に明記すれば十分なのであって、自分も理解していない分野のことについてまで言及しようとする必要はありません。

 論証全体として、筆者の考察が一面的であることは、読者も認めるところでしょう。しかしそれは、筆者が意図的にそうしている部分がほとんどなのですから、そのことを指摘したとしても、決定的な批判にはなりえないのです。論者の論証が良くないのは、そのことに加えてさらに、理解していない事柄で批判しようとしていることです。自分の限界を踏まえた上での論証は、それがどんなレベルにとどまっていようとも、評価に値するものですから、無理な背伸びをしないようにお願いしておきます。
 ただ、あらゆるものごとは、現象としてみえる事柄を、原因と結果としてべったり平面的にくっつけても、なんらの真実には近づいてゆかないこと、森羅万象は立体的な構造を持っていることを指摘したいという気持ちだけは、理解できるところです。
 それとともに、限られた範囲では正しい理解も、適用する範囲を超えては誤謬に転化する、ということも、もういちど自らの姿勢について適用して反省しておいてください。そのことは皮肉なことに、論者の指摘している<相互浸透>なのでしたね。

◆◆◆

 作品の評論をするにあたっては、筆者が「女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。」などと述べていることを重要なキーワードとして読みといてゆかなければならないでしょう。現代における科学的な認識論からすれば、あらゆるところで筆者が踏み外しをしていることを認めるのは難しくありませんが、些事に言及していては、本質を掴みきれずに終わってしまいますからね。

◆◆◆

 ところで、仮にもまともに人間の認識の過程的構造を唯物論的に追うならば、気にならなければならない決定的な問題が、この作品には含まれています。その箇所は、「盲目の女が、兎の眼を移植されてその日から世界を杖で探る必要が無くなった」というところです。ここでは問題を明確に浮き彫りにするために、人間に兎の眼を移植することには成功した、としてください。つまり、それまでは盲目であった女性に、「物質的には」なんらの問題のない眼球が移植され、彼女は「物質的には」五体満足になったのだ、という仮定のうえで考えてみてください。わたしが括弧書きしたことには、それ相応の意味が隠されていることはわかりますね。そうすると、実際にこのような手術が行われ成功した場合、本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?と考えればいいことになります。ちょっとヒントを書きすぎてつまらないでしょうか。考えてみてください。

2011/04/11

文学評論:女人創造(修正)

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

毎日決められた生活と修練をしていると、季節の変化がよくわかるものです。
今年もそろそろ桜が淡く咲きはじめるころで、味気ないものになりがちな修練に彩りをそえてくれています。
とくに先週末は雨のなかひとり走っていたところでしたので、ちょっとしたご褒美のような気がしています。

ただそれと同時に、今年は震災の影響もあってか自粛ムードがあるとはいえ、
やはりこの時期の人の動きは安定感に欠けているようですね。
自動車や自転車の動きも必然的に不注意が増えてきますから、せめてご自分だけは注意に注意を重ねてください。
乗り物に乗っていると、いくら集中力がありどう警戒していても、ぶつかるときにはぶつかるものです。
こればかりはそもそも人間の力の及ぶところではないために、避けられません。
完璧に自動車・自転車事故を防ぐ方法はと聞かれれば、乗るのをやめるしかありません。

ただ心掛け次第では、重大な事故になることを防ぐことは十分にできます。
また日々同じように行動することを心がけている場合には、それがよい定点観察になることは確かです。
わたしの知り合いの送迎バスの運転手さんは、何十年も同じ夕焼けを楽しみに仕事をしており、
阪神大震災の前日のそれが、それまでとは違った色、おかしなサーモンピンク色だったとあとで述懐しておられました。
昔の武芸者が、自宅の茂みに潜む者の「殺気」を感じ取れたというのは、このこととも関連があるのです。

わたしたちはそうして、未来についての出来事に思いを巡らせるときに、
現在に起きている物事についての経験を積み重ねて、正しい判断の材料にすることができるわけです。
日常生活で得られる問題意識、前段階では「今日はなんだか違和感があるな」という感性的認識に、
いくつかの手がかりがあるときには、立ち止まってその徴候を考えてみる、ということも必要です。
わたしは自転車ツアーをしているときに、普段とは違ったサインが2つ続くときには、
一旦停まって周囲をしっかり観察することにしています。
たとえば動物が轢かれているとか、挙動不審な操者がいることなどあらゆることにわたる違和感ですが、
このおかげで大きな事故を数回免れてきています。
そういう意味では、事故を未然に防ぐのも、また問題意識である、ということができます。

春の陽気というものが、どういった現象となって顕れるのかということを、
良い面、悪い面をふくめた物事の両面から、意識的に見ることをとおして、
認識の力を自らの技として磨いていただければ嬉しく思います。

◆◆◆

さて、問題意識、問題意識と念仏のように唱えることが御題目となっているように見えてきつつある当Blogですが、
その内実が身につくためには、いくら意識的に磨こうと思っても、それ相応の時間が必要となってくるものです。
その原因はといえば、認識というものが「眼に見えない」ものなので、
特別な訓練を受けたものでないと、相手にそれがあるかどうか、
あるように思えたとしてもどのレベルのものを持っているのかなどが、
皆目検討もつかない、という極めて重要な問題を抱えているからです。

実際の仕事や人生経験を通して、「私は見る目には自信がある」という方ほど、
実のところ経験によって培われた感性的でしかない段階の認識にものをいわせることに始終しがちな人はいないのであり、
そしてまた、自分の特殊的な経験を、過度に一般化してあらゆるものへと無理に適応させようとする人はいないのです。
これはひとえに、訓練によって認識の力は伸ばせる、ということを、それこそ「経験」したことがないからです。

さてそのような方であれば、正しく進歩しようとする人間にとって欠かすことのできない謙虚さの代わりに、
自分の理論が通用しないのは現実が間違っているからだとの押しの強さや、
そもそもの人の意見を聞かないという態度を武器に、それなりの処世をすることができます。
しかし、その術を持たない学生さんたちは、ただひたすら学ぶしかありません。

◆◆◆

さあようやく、本題にたどり着きました。

「ただひたすら学び続けている」学生の一人に、いつも文学の評論を展開してくれているノブくんがおられます。
彼の専門とする分野が、読みづらい学術論文ではない文学作品であることも手伝って、
読者のみなさんのために、ここにてたたき台とさせてもらってきたわけです。
読者のみなさんは、わたしの彼への手厳しいにはほどがあるほどのコメントを見てきた方もおられますね。

そんな彼が、前回コメントしたことをうけて、修正版を書いてきてくれました。
彼は現在、やや活動が制限される状態にありますが、虚仮の一念でしょうか。

一読して、驚きました。
再読して、驚きが確かなものであることを確かめました。

ようやくここまで来たか、との感しきりです。おそらく、本人の感想は、わたし以上ではないかと思います。
細かな表現については修正の余地があれど、非常にうまいまとまり方をしています。

わたしひとりの愉しみにしておくのももったいないと思いますので、ここに公開します。


◆ノブくんの評論

女人創造(修正)

 「男と女は違うものである。」というごく当たり前の命題から、この作品ははじまります。と、いうのも著者は自身が作家であるために、違うものとは分かっていても、それを描かなければならない矛盾に悩まされています。そこで、著者はここで男である彼が女を描く手法を2つ挙げています。ひとつはドストエフスキイやストリンドベリイのように、女装をして理想の女性を描く理想主義的な方法。著者もこの手法を採用しています。そしてもうひとつは、秋江のように本当の女性を描こうとする、言わば現実主義的な方法を挙げています。ですが、著者は現実的な女性は男性読者にとってはつまらないものであり、理想的な女性の方がかえって彼らは反応する(自分が実は女性的な性格なのではないかという錯覚等)というのです。一体何故このような現象が起きてしまうのでしょうか。
 この作品では、<限られた範囲の中でしか現実を見ることができない読者の性質を利用した、著者のある作家としての手法>が描かれています。
 まず、私たちは現実の世界の出来事を見て、そして自分の頭の中に世界の像というものをつくりあげています。ですが、現実の世界を自分の頭にそのまま写すことはできません。私たちは限られた範囲の中でしか、現実をとらえることができないのです。ですから私たちは仕事で失敗をしますし、聞き間違いや言い間違いをします。
 そしてこの私たちの性質を、著者はよくとらえ利用した手法を採用していると言えます。何故なら、現実を一定の限界の中でしかとらえられないのなら、当然異性のことも限られた限界の中でしかとらえることができないからです。例えば男性である私たちは、少年時代に美しい女性を見て、美しい女性はなんの努力もせず、はじめから美しいのであると考えたことがあるのではないでしょうか。ですが青年になるにつれて、女性はすね毛を剃ったり、また眉毛をかいたりと弛まない努力によってその美しさを保っていることを知り、少年時代に考えていたことは幻想であったということを思い知ったことでしょう。
 そして小説は女性の中身が描かれています。外見ですら、女性に対して間違った認識を持っていた私たちです。ましてや目には見えない女性の内面に私たちは多くの幻想を抱いているはずです。だからこそ、男性読者を対象に女性を描くとき、その女性が現実的過ぎて読者の認識から離れ過ぎては、面白くないように思い、むしろその逆は面白く感じるのです。
 さてここまで話をすすめると、最後にある疑問が残るはずです。それは、「一体何故、秋江などの男性作家は一般の男性読者よりも現実の女性を知っているのか」ということです。それは彼らが常に、人間の内面に問題意識を向けているからなのです。例えば、ある塾講師は、生徒と少し話しただけで、その生徒がどのような家庭環境で育ち、これからどのように成長するのかがわかるといいます。またある整体師は患者の背中を少し触っただけで何処が悪いのか、また何故そうなったかまでわかるといいます。何故なら彼ら専門家は日頃から問題意識を持ち生活することで、自分たちのそういった技を常に磨いています。上記の塾講師は常に生徒のためを考え(その生徒をいかにして伸ばすか、今の指導法はこれでいいのか等)、日常を過ごしているといいます。確かに私たちは限られた範囲でしか現実をみることはできません。しかし、何らかの問題意識を持ち日常を過ごすことで、今まで見えなかったものが徐々に見えはじめ、自分の認識の限界をひろげていくことができるのです。

◆わたしのコメント

あまり、付け足して言うことがありません。

蛇足ながら説明をしておけば、「人間のアタマにうかぶ認識は、現実世界の反映である」という、
認識についての大命題がしっかり押さえられていることが、この評論を成功に導いています。
「命題をおさえる」というのは、どこかの偉人の台詞を丸暗記して、さも自分の考えのように吹聴してまわる、
ということとはまったく違います。
そうではなく、ある理論なり考え方なりを、アタマのなかに問題意識として持って、
「その問題意識をとおしてみると、現実はどのように見え、どのように考えられるだろうか」
と試行錯誤してみることです。

認識は対象とされる現実世界の「反映」であるというのは、
現実をそのままに写しとることはできない、ということです。
彼は今回、ここを起点にして、論証のあらゆる箇所がこの原則から導かれ、そしてまた論証のあらゆる箇所がこの原則に照らし返され収束してゆくということを、これまた意識的に表現してくれています。
もっと言えば、ここからさらに、「認識における像というものが、感情を含んだものとして結実している」というところにまで論を進められるのですが、さすがにそこまで立ち入る必要はないかと思います。

いちおう念を押して、「認識は対象の反映である」というのは、現在では認識についてのごく表層的な理解でしかありませんので、もっともっと複雑な構造が潜んでいることは指摘しておきたいと思います。
それでも彼は今回、原則をしっかり踏まえることの重要性を、自分の表現をもって体感したのも確かでしょう。
それは、今後の文学を専門とするときにも、人間としての生き方を創り上げてゆく時にも、大きな支えとなるものです。
彼はナイチンゲール『看護覚え書』を各章を要約しながら読んでいますから、そのことを想起されているのではないかと思います。

◆◆◆

この原則をおさえる、ということは、本来ならば学問をしているはずのところでも、あまりに軽視されてきています。

現実に社会科学系の大学や大学院での授業を受けたことがおありの方ならわかるとおり、
「書を捨てよ、フィールドに出よう」などといったことが、方法論の授業ですら、よく強調されることがあります。
要すると、「現実の在り方は歴史上様々に論じられてきており、ここが学府である以上、
(体面上)そういったことにも触れざるを得ないが、そんなことはさておき、はやく現実に向き当たって研究をせよ」ということです。

ところが、同君は、この評論をもって、そんな誤りに落ち込まず、
しっかりと自分の足で前に歩み始めているという意味では、つまらない研究者よりも上であると断言できます。
ある理論を、現実の生活や、そこでゆきづまっている事柄を解決するために「適用」する、ということができているからです。
人類が積み重ねてきた認識・論理についての最高の問題意識をアタマのなかにしっかりと持った上で現実に向き合い、それがどれほどに通用するのか、そしてまたどういった一部は通用しないのかを見極めて、理論をより発展させていこうとするのですから、
いわば、「書をアタマにしっかりと持って、書を通してフィールドを見る」ことができつつある、ということです。

これに比べれば、
上で挙げたような研究指針(?)などは、批判するのも馬鹿馬鹿しいほどの妄言というべきです。

そもそも、ごく一般的に頭を動かして身近な事柄で類推してみればわかるとおりのことですが、
大海に泳ぎ出るときに、泳法も学ばずに「とにかく泳げ」というのが、指導者たる役割でしょうか?
こんな妄言に踊らされているから、後進がなんらの指針も持つことができず右往左往するしかないことが、なぜわからないのでしょうか。
眼前に渦巻く海流を超えて、はるか遠くの島にまで泳ぎ着こうと思えば、犬かきではどうしようもないのです。
先達が命をかけ、ときには命を落としながらにでも残してくれた地図と、さらにはあらゆる物事の見方、という泳法が、
しっかりと自分の技として身についていなければ、浮輪の空気が抜けるまで波打ち際で漂っているのが関の山でしかない、
という残酷すぎるほど残酷な現実が待っているだけなのです。

夢や目標が高ければ高いほど、それにふさわしい方法論の構築が、必死になされなければなりません。そうですね?

◆◆◆

今回扱った評論について、
表現についての修正はこちらを参照してください。(PDFファイル

2011/04/04

文学考察: 女人創造ー太宰治

 久しぶりの更新です。


 この時期はなにしろ人の出入りが多いので、どうしても余分なところに時間を割かれてしまいます。わたしもそれにあわせて準備をしなければならないことにくわえて、今年はとくに生活を変えていることもあって、落ち着くまでにあと1ヶ月ほどかかってしまいます。
 その間更新が滞りますが、どうかご容赦ください。

 学生さんの持ち込みの研究や相談は随時お聞きしますので、遠慮しないでくださいね。どうしても時間が取れないときは正直に申します。


◆ノブくんの評論


「男と女は、ちがうものである。」という一文からこの作品ははじまります。これを自身でも当たり前とは感じつつも、著者はそれを作家として度々感じずにはいられない場面があることをここで述べています。それは一体どのような場面なのでしょうか。
この作品では、〈男性でありながら、作中で女性を書かなければならない作家の矛盾〉が描かれています。 
まず著者はくるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみるものの、そこに現実の女性との開きを感じ、悩んでいます。ですが不思議なことに、現実の女性を彼よりも上手く捉えているモオパッサンの作品はつまらないというのです。その一方で、男性読者が男性作家の現実とかけ離れた作品の中の女性に反応しているところに著者は注目しています。これは男性である著者が頭の中から取り出した、言わば男性的な女性像に男性読者は反応し、楽しんでいるのでしょう。ですから、男性読者は作品の中の女性にしばしば、自分は女性ではないのかと苦しめられるのです。
現実からかけ離れているからこそ、かえって男性読者には作品の中の女性が受け入れられるのです。


◆わたしのコメント

 この作品では、現実には男性でありながら、作中での女性の在り方を表現するために、どうしても自らが女性になりきって、それを作品として表現しなければならない作家の悩みが扱われています。

 ところでこう書くと、論者の一般性ともうまく一致しているように思えますが、筆者である太宰が、その方法について、明確に2つのやり方があると述べていることを、論者は指摘できていません。論者はその点で、作品の理解が浅いのです。

 では、その2つの方法とはいったいどんなものなのでしょうか。筆者の述べているところを、順を追ってみてゆきましょう。まず筆者のもつ前提としては、「男と女は、ちがうもの」、ということです。彼によればこの差異は明確なものなので、どうしても、男は女になりきることはできません。では何ならできるかと言うに、「男は、女になれるものではない。女装することは、できる。」ということです。その方法を採用するのが、筆者のやり方です。
 ドストエフスキイもストリンドベリイも、そのやり方を採用していて、彼らの作品のなかに登場する女性を見ていると、やはりそこには彼女らを表現している主体、つまり作者の工夫が見え隠れしているというのです。しかし、太宰によれば、そのことが必ずしも、作品の評価を落とすことにはつながらない、といい、やはり自らもそのやり方に倣おうとしています。なぜなら、現実にあるありのままの女性像を作品に写し取ろうとすると、かえって、それは読者のもつ女性像からかけ離れたものになってゆくのだ、というのです。だから筆者は、作品の中に描かれる女性の姿と、現実のそれに乖離があることを認めつつも、あえて読者のなかにある女性像を忠実に描こう、つまり「理想主義」に徹しようというのです。
 それが、彼が「女を描けないのではなくて、女を描かないのである。」と一言で述べていることの中身です。

 その立場に対して、もうひとつの立場は、ほんとうの女性像を描こうとする、「秋江(しゅうこう)」らの立場です。上で述べた筆者の主張を見ればわかるとおり、彼によれば、「秋江に出て来る女は、甚だつまらない。」ということになるわけですね。一言でいえば、「現実主義」や、「写実主義」ということになるでしょう。

 これら2つを明確に整理したのちに一般性として措定することができていれば、とりあえず合格点をあげられていたところでした。この整理をふまえた一般性がどういうものになるかは、いちど自分で考えてください。

◆◆◆

 論者は着眼点は悪くないのですが、「仮説を捉えて離さない」という姿勢に欠けているために、仮説が一般性へと昇華されることを拒んでいるように思われます。それは、ひとつに、「まず著者はくるしくなると~」からの4行の論証が、日本語表現だけを見てとっても極めて読みにくいものになっていること、ふたつには作品の整理が最後の一文に不明瞭な形でしか表現できていないという欠陥となって現象していることからも察せられます。
 前者については、一般の読者ならば2行目を読み進めたところで悪文とみなされ、その先は読み進んでもらえないほどのものですので、大いに反省し、一般読者の立場に立って読み返し、表現を工夫しなおしてください。論者がかつて書いたこの4行ぶんの文章の内容を踏まえた上で、この文章を「参照せずに」、新たにゼロから書きなおしてみてください。そうして、よりよい文章が書けるまで練り直すのです。近くでこういう細部を指摘してくれる人間がいない場合には、自らを師とするより外はないのですが、師の像に妥協があっては絶対にいけません。率直に言って、あなたが判断する「完璧」というものが、わたしにとってはいまだ「30点」くらいでしかないことを、肝に銘じてください。
 そういった精神的な姿勢と共に、身体的な姿勢も、日々の振る舞いから机に向かうときの姿勢も含めて、厳しく正してください。これを単なる根性論のレベルで受け取るほどでは、もはやないはずだと思っています。

◆◆◆

 もうすこし先まで進めて考えたい人にヒントを書いておきます。

 さてここまで整理が進むと、この作品がふくんでいる論理構造が見えてきます。この作品における筆者の主張を手がかりに考えてゆきましょう。それは一言で要すれば、「小説で描かれる女性は、現実的な表現よりも、理想に即した表現にするほうが、かえって本物らしく(=現実的に)なるものである」、ということなのでした。
 理想的に表現したほうが現実に近づく、というのは一つの矛盾ですが、ここにはある一つの論理が含まれています。そうすると、その理由とは一体なんでしょうか。ある作品を本物らしいとするのは、読者の認識がそうさせているからですね。そうすると、「その読者の受け取り方が、どのような性質を含んだものであるか」を説明できれば、それなりの答えが導き出せたということになりそうです。

 少しでも考えが進められたら、連絡してください。