さてここまで書いてみると、相手の立場に立ってものごとを考えてみる、というときにでも、認識における原則と論理といったような、精神についての交通関係の基礎的な理解が必要であることがわかってきます。
わたしたちはこれまで生きてきて、その論理のレベルも、認識の深さといったありかたも、それぞれ自分勝手にしか成長してきてはいないのですから、「人の立場に立って考える」という、ことばにすると至極簡単なことでも、これほどの内実が含まれているのだと理解してもらいたいところです。
こういうおはなしをすると、「お前にそんなことを言われなくともわかっている」と啖呵を切る方が、必ずおられるものです。社会経験や仕事を通して、自分には人を見る目がある、といった方ほど、こういった傾向が避けられないものになってきます。こういった方が失敗してもなんらの前進も見せずに失敗を繰り返すのは、失敗した原因を相手にだけ押し付けるからです。人間として尊敬されたいのならば、自分のことだけはまともに反省するという謙虚さくらいは、年齢にかかわらず持っていただきたいところです。
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直近の経験では、こんなことがありました。ある留学生に、チューターをつけねばならないとなったときのことです。ある学生が、私は英語がペラペラなので立候補しますというので、彼にお願いすることになったのでした。わたしはこのとき黙っていましたが、彼が失敗するだろうなということはわかっていました。彼のことばの節々に、謙虚さが微塵も感じられなかったからです。しかし、教育者の役目は、失敗する前からどこに落とし穴があるのかを教えることではありませんから、留学生にはあとでフォローするとして、彼には身を持って失敗してもらおうと思ったわけです。
チューターというからには、「留学生の立場に立って」、日本のことや勉学、生活の不自由を補ってゆかねばならないわけですが、やはりというか、彼はその役目を果たせませんでした。彼の言い分では、留学生の語学力が低すぎて、言っていることをやってくれない、というのです。さてどういう教え方をしているのかなと観察していましたら、一番はじめに目についたのは、彼が生地の方言でしゃべっていることです。彼の生地と大学とはそれほど離れてはいませんから、日本人の学生であればまるで問題がないのですが、留学生にとっては、これは大問題です。
彼らは母国で日本語の基礎的な知識は習っていますが、まさか日本語の方言をすべて習うわけにはゆきません。しかも輪をかけて困るのは、こういった語学の修練というのは、一般に文語に近い口語で習わされるということです。ですから彼らは、「今から買い物に行くところなんだよね?」くらいならわかりますが、「これから神戸行きよんねんな?」などといった表現が続くと、部分部分の言葉を追うことで精一杯になってしまい、会話が成り立たなくなってしまいます。留学生にとっては、「神戸」が、「神戸全体」ではなくて、「三宮を中心としたショッピング街」を特定した言葉であることはもちろん知りませんし、ましてや「大阪で買える物、神戸で買える物」という違いもわかりません。それに、「行きよんねんな」などといった方言は、完全にお手上げといってもいいほどの難しさなのです。あとでわたしに、「よんねん」とは「四年」でしょうかと聞いておられました。そのコミュニケーション不全が積み重なって、数日後の「あの留学生は語学力が低すぎる」との意見になってしまったのでした。わたしから見れば、その留学生の日本語力は、標準的な日本語であれば十分に意思疎通のできるものです。
この行き違いは、「もし自分が外国で育って、日本語学校で教わったことしか知らなければ」と、その人の立場に立って振る舞い方を変えることが出来れば、避けられたことです。認識論などまるで知らない人でも、こういったコミュニケーションをしっかりと成立させることができる方は、経験の上でその能力を培ってきているわけです。その優れた能力を持つ人は、いったいどうやって人の気持ちを考えているのだろうか、という、実践で得られた知識を、どんな分野にでも使えるように抽象化し、実践に向き合う際にも使えるように体系化したものも、認識論という分野の一部なのです。言い換えれば、「人の立場に立って考える」という感性的な認識のあり方を、実践的な試行錯誤の中から理性的なものとして磨き上げたものを、「観念的二重化」と呼んでいるということになります。
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さて、ここでわかったことを、一言で述べて指針にしておきましょう。
それは、「観念的二重化」の大前提は、「自分に備わっている認識のあり方を、当たり前のものだと思ってはいけない」、ということです。上でのチューターの失敗は、まさにそのことを看過した結果なのです。
そうはいっても、いくら外国人だからとはいえ、同じヒトとしての一般性の上の特殊性として、日本人と外国人である、もっといえば生活体としての違いがあるだけなのですから、サルと話す方法を使ってはいけないことになります。
この論理的な帰結として、「人間としての一般的な認識のあり方はどういうものか」ということを押さえておくと、日本人であろうが外国人であろうが、コミュニケーションの際の指針が導かれることになりますね。「原則というのは、実践的な問題にぶつかったときにこそ必要である」という、経験主義者には単なる逆説にしか見えない一大論理が、ここには現れています。
「いま自分が持っている認識のあり方を、当たり前だとは思わない」、ということは、弁証法的唯物論の立場に立つ認識論にも、必須の大前提です。観念論の立場は、その本質的な前提として、「精神は物質に先行する」とするのですから、ここは問われることがありません。すでに成立した一般的な形の認識を、誰しも持っていて、それをとおして世の中を見るのだ、ということになります。唯物論はそれとは逆に、「物質は精神に先行する」というのですから、なんとしても、物質から精神のあり方へと発展してゆくさまを描ききらねばなりませんし、認識論だけをとってみても、「おぎゃあと生まれた赤ちゃんが、生育するにつれてどういった脳細胞の実力をつけてゆき、それと浸透するように認識の力を身につけてゆくのか」、ということが解明されてゆかねばならないことになります。
(3につづく)
◆2の余談:ものごとの見方の土台について、学問的に整理しておきたい方へ◆
余談ですが、ものごとの見方(世界観)を考えるときに、唯物論でも観念論でもないとする立場をとる思想もあるにはあります。しかしそういった立場に立つと、物質と精神をその交互作用、つまり区別と連関をもって捉えることをせずに、いきなり存在一般に解消してしまう場合がほとんどです。それと同時に、いきおい認識が森羅万象に解消されてしまうことになり、論理的強制として過程的構造などは陰も形も現れませんから、歴史的な見方をしなくなり、次に歴史的な流れを踏まえないことから論理性が硬化し形而上学となってゆきます。過程にふくまれる構造をみないことを、眼に見えるものごとだけしか扱わないという意味を込めて、ときには侮蔑的に、「現象論」と言うわけです。
現象論べったりの研究も、学問レベルではないにしろ知識的にはそれなりに通用するものですが、事実を平面的に並べて論じる姿勢から、解釈主義に滑り落ちてしまいがちです。解釈主義を現実の人間のあり方に押し付けてもそれらが傷つかないように見えるのは、それが単なるアイデアレベルで精神のごく一部にしか働きかけないために、その誤りが死傷などといった現象として顕れないからに過ぎません。眼に見えたり間接的に感じられるものに「私はこう思う」という人生観レベルのあれやこれやの解釈を押し付けるという解釈主義的な態度で、研究者としての生活の糧を得るという態度については、まるで評価はしないもののあえて無視しますが、それを生命や未来を担う後進の育成に使ってしまうという手合いはれっきとした悪ですので、容赦することはできません。
物質と精神を弁証法的(?)に止揚する(?)などと言うと、初学者はなるほどそれが次なる段階か、などと思ってしまいがちのようですが、概念規定なくして学問なし、との言葉通り、せめて、しかるべき区分がなされなければその連関も論じられない、という事実を、相互浸透の法則を照らして導きだすことはしてほしいと思います。
現実が何であるかをとりあえず常識的なところでおさえておくならば、認識の方法は、「観念論」と「唯物論」です。互いに移行しあうとはいえ、その認識を現実に適用するときに、前者は宗教的・思想的な形を持った「訓示」といった形で現れますし、後者ならば科学との親和性から、「技術」として現れるのであって、それ以外ではありません。ですから、安直にちゃんぽんしてはいけません。自分が採用するのは観念論でも唯物論でもいいのですが、自分がどちらの立場でものごとを考え、論じているのか、と論理的に明確に区分する実力を養って、理性的に自覚をしておかなければ、どうしたって一流にはなれません。なぜなら、ものごとを論じるときの根本が揺らいでしまうために、論じ続けている中で解決できない根本的な矛盾が露呈してくるからです。理論は論理の体系であり、論理によらねばならない学問は当然に体系性をうちに含んだものですから、根本的な矛盾を抱えたままでは学問にはなりえません。研究人生の途中で世界観を転向したある哲学者の顛末を知れば一目瞭然ですが、実践的理論家だけではなく、理論的実践家として、我が道を極めようとされる方にもこの原則は必須事項ですから、心に誓って下さるようお願いしておきます。
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