2011/05/14

文学考察: 一つの約束ー太宰治

先日の不具合以降、Bloggerのシステムが安定しませんね。
更新が数日分巻き戻ってしまったようです。
これはとっても困りますね。
とりあえず、手持ちのバックアップから復元します。


文学考察: 一つの約束ー太宰治


◆ノブくんの評論

 難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、燈台の窓際につかまっていた人物がいました。彼は燈台守の家族に助けを求めようとしましたが、自身のせいで家族の団欒を破壊することを一瞬躊躇ったせいで、並に流されてしまいました。そして、著者はそういった誰もが知らない、不幸にもある種の輝きをはなっている人物たちにむけて、ある約束をしています。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈文学に対する、ある使命〉が描かれています。
まず、この作品の要諦は次の一文に集約されています。「誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。」つまり、このようなだれも知らない、喜劇であり、またある種の輝きをもった人物たちを作品として発表し、世に知らしめることが文学のひとつの使命であることをこの一文で述べています。そうしてそれらの作品は人間の輝きを世の人々に見せ、私たちに希望や感動、そしてその苦悩を教えてくれるものになるはずです。


◆わたしのコメント

 文意に即した内容の評論を目指していることは読み取れますが、あえて言うならば、作品についての理解が表面的です。
指摘は簡潔な表現に留めるので、行間は自分自身で読みといて行ってほしいと思います。結論的に言って、論者は「この作品では、〈文学に対する、ある使命〉が描かれてい」ると指摘していますが、それは本当なのか、というのが最大の焦点です。筆者は、「文学そのもの」に対する使命を表明しているというよりも、「文学で描かれている対象」に対して、何らかの約束をしているのではないでしょうか。
 そこを丁寧に踏まえれば、一般性の形式は、<●●に対して、●●を表現しようとする文学者としての使命>などといった形になるでしょう。筆者は、文中で述べているような、市井におけるある人間の姿を、文学者としてどのように扱い、そしてまた、実在するであろう彼女・彼らのような人間にたいして、どのようなメッセージを伝えたいがために、約束を表明したのでしょうか。そのことをしっかりと含む形で論証できれば、評論の基礎的な土台は完成したといってもよいでしょう。

 また文学の道をめざす論者が、筆者の主張を参考にしながら、彼と同様の形式を使えば、どのような約束になるだろうかと、筆者の思いを我が身に捉え返すかのごとく考えてください。偉大なる先達の背中を見て、彼らが何を目指して生きていたのかを読み取ろうとすることをとおして、人としてつながる者たちの恩に報いるべく生きるという姿勢も、「ほんとうの独学」というものです。


【誤】
・並に流されてしまいました。

2011/05/10

Blogger復旧と本日の革細工

Bloggerのシステムがもとに戻ったようです。


革でつくったiPhoneスタンドが思いの外便利なので、iPad用も。
時間がないときに限って手を動かしたくなるこまった癖があり、昨日は不眠。
しかし創作意欲というのは、時と場所を選ばないもの。
今回はこれくらいですんで良かった。

◆◆◆

さて今回は、前回の反省点を踏まえて、
内側1枚の周りに外側に大きな1枚を巻きつける形に変更。
こうすると、縫い目が少なくてすむのと、接地部が丸みを帯びて安定する。


でもこれ、いざ使ってみるとなかなか難しいな。


どうしても重みでぐにゃっとなる。
でもまあ、横置きするときになら使えないこともない。

次つくるときは、内側に木かアクリルかで芯をつくって入れなきゃあ。
デザインもMovie Peg風だけど、まだまだ検討の余地あり。

【残った問題点】
・それなりに角度をつけて縦置きしようとすると、本体ごと後ろに倒れそうになる。
・それを避けると縦置き時の角度が緩すぎて、覗き込むような姿勢になる。
Smart Coverは角度が急すぎる(横置きだけだが)ので、両立させるのは難しい。

◆◆◆

総じて言えば、iPadはiPhoneとは大きさが違うために重みも違ってくるので、
スタンドの形状もそれにあわせて工夫しなければならない。
ただiPhoneのものを大型化してもダメ、だということがわかった。

当たり前に聞こえるけれど、実際に試して得た情報しか、
次へのステップには使えないのだ。

しかしこれなら、前からある木のスタンドのほうがスマートだねえ。(下の写真の左側)


iPadとにらめっこしながら、しっくりする形状を探す日々が続きそうです。

ともあれ、やはり思考実験は試してみてナンボ。
欠点が明確になって方針が決まったので、今日は心安らかに眠れます。

2011/05/09

どうでもいい雑記(メンテナンスモード)

【追記】画像のサイズがおかしくなっちゃいますね。URLタグを手直しするのもめんどうなので、不具合がなおったらなおします。

【追記2】いろいろと試してみたところ、
ダッシュボード>設定>投稿エディタを選択>以前のエディタ
を選択すると、とりあえずは編集ができるようになることを確認しました。
編集画面を新しいバージョンに更新するところなのかもしれません。

◆◆◆

今日は図書館がお休みで、そこそこ人間らしい生活です。
GW中はけっこう時間をうまく使えたので、やり残した仕事はなし。これは嬉しい。


ところがどっこい、この時間を有意義に使おうと、
書き溜めた記事を掲載したり、iPad 2のレポートなんかも更新しようと思ったら、
Bloggerのシステムがおかしくなっているらしく、Macからだと満足に書き込めない。。

でもせっかくだから、できることはやっておこう。
本当の力が試されるのは、異常時なればこそ。
iPadの実力を見せてもらおう。

◆◆◆

今回のモデルの目玉はなにかといえば、薄型化や軽量化なんかよりも、
「Smart Cover」のほうがずっと大きな意味合いを持っているように思う。

通称「風呂の蓋」と呼ばれるこれ、画面のカバーなのはもちろん、スタンドにも使えるのだ。
そういうわけで、蓋がどれほどスマートなのかというテストも兼ねて、
届いたばかりのiPadには早速働いてもらうことにする。カバーを折りたたんでスタンドにし、Bluetootheキーボードを接続。

わ、これはだめだ。

スタンドの傾斜が急すぎて、背筋を伸ばしたままだとタイプしにくくて仕方がない。
スタンドの下になにか噛ませるか、iPad本体と距離をとるかしないといけない。
このスタンドの斜度からすると、動画の再生に使えということなのだろう。
昨日のiPhoneスタンド風のiPadスタンドも作ろうかな。

◆◆◆

いちばん期待していたのはSmart Coverだったので、個人的にはちょっと惜しい。
でも、タブレット型のコンピュータをはじめて触る方にとっては、
しばらくはこれ以上の最適解は現れなさそうだ。

次はやれ3Dだ、Retinaディスプレイだと噂だけが一人歩きしがちなiPad 3も、
ミーハーの期待を裏切ってこのホームファクターを継承したとしても、なにもおかしくはないだろう。


初代と違う点で、あまり触れられていない点を書いておく。
・画面については、初代よりも色調が白い。
…大手メディアは、こぞって綺麗になったと言っていたが、初代のほうが色が深くて綺麗だ。
今回のディスプレイはコスト削減なのか、初代よりも黒に深みがなく、白っぽい。
わたしは初代に引き続き黒モデルを選んだので、色温度の影響はほぼないため、
初代は手元にないけれどそこそこ正確なことを言っていると思う。
ただ、指紋がつきにくくなったことは良い点。

・スピーカーについては、初代よりも音がこもる、シャリシャリする。
…これも、大手メディアは音質が良くなったなどと言っていたが、どんな耳をしているのだろうか。
音質に加えて、本体のデザインが変更されたために、iPad 2のスピーカーは、斜め向こうを向いているから、
どこかに反射させるのでなければ、ユーザーの耳には音が入りにくくなってしまっている。
床にベタ置きするのでなければ、なにか反射板をつけるなりしたほうがいいだろう。
もっとも、モノラルスピーカーでしかないから、どちらにせよ過度の期待には値しないのだけど。

◆◆◆

しかし、大手メディアというものは、あまり当てにならないものなのだろうか。
わたしはよくも悪くも色キチガイだから、たとえばMac OS Xが10.6になったとたん、
色味がとんでもなく変わってしまったことを気持ち悪く感じ、
原因を探して探しまくった挙句、標準のガンマ値が変わったことを確認してほっとしたような人間であるから、
一見したところの違和感というものの理由が明らかになるまで心安らかでない。

音についてもやはり近しいものがあるが、こういう感覚は、日頃の過ごし方が認識へと転化しているものだ。
音感などというものは、あるかないかではなくて、その間には決して同一視できないほどの開きがある。
こういったことについてのわたしのものの見方などは、趣味の域をでない。
それでも、明らかな間違いは指摘できる。

もし、音や色なんかを、生業として論評するのなら、自らの見識眼を高めるという意識をもって日常に向き合い、
そこでの違和感というものが、どういう理由によるものなのか、また勘違いでしかないのかということを確かめ、
仮説の段階からすこしでもたしかな認識になるべく研鑽を欠かしてはいけないのは当然だと思う。

ここの研鑽過程を努力せずに、言い訳を作り上げることばかりに努力をするから、
素人のそれなりに正しい「音がおかしい」という感覚を、
「エイジングがまだだから」などといった神秘主義に解消してしまうのである。
エイジングなどは、本来ソースとなる音やスピーカーはという物質的な条件だけで論じることはできず、
必ず聞き手との相互浸透の過程をふまえねばならないものだ。

再聴のたびに、新しいジャンルの音楽が理解できるようになっていく実感から類推すれば、
一般的なところまではごくふつうの常識的な判断でわかることである。

プロというのは、自分のわからない事柄については、決して語らないことをもって、そうと自負するのではなかろうか。
iPadのようなタブレット型の機器は、これからはいちばん大衆に近いコンピュータになっていくのだから、
PC系のメディアというのは、これまで以上にリベラルアーツ、人間の芸術文化への深い理解が必要になるはずである。

◆◆◆

さて悪口はともかく、iPad 2自体は、けっこう良いものですよ。
円高も手伝って安くなりましたし、ふだんコンピュータを使わない子供さん、年配の方にこそおすすめです。

眠れない夜のための革細工

クイズ、これなんだ?

おおよそ55mm*35mm

ヒント:隙間に何かを挿し込んで使います。

厚みは約10mm
◆◆◆

実はこれ、iPhoneのスタンドなのだ。

外出先で動画を観たり、外付けのキーボードを使うときに、
ちょうどいい角度で固定できるスタンドがほしくて、
いろいろと探してみたのだけど、あんまりない。

かさばるのも大きいのもどうしてもイヤで、
それを頑として譲らないから選択肢がほとんどないのだが、
そこをなにかスマートな解決策を提案してくれるものはないものかと探しまわった。


研究でもそうなのだけど、わたしはとにかく、
取り組んでいるものごとの全体像が見えなければ気持ち悪くてたまらないのだ。

いま流行りだからとか、自分の先生がやっているからだとかいうやり方を採用して、
研究が進んだあとに、もっといいやり方を知ったら?これは悲劇である。
だから、おおまかな地図を手に入れたあとで、
目的地にうまく辿り着くことの出来る、
考えうる限り最良の泳法がどれかなのかは、とても注意して選ぶ。

こういう人間なもので、周りからみると、スタート時には、
まるで微動だにせずに足踏みしているように見えるらしく、
事実全行程の8割ほどもこの方法論の検討に当てることも珍しくないものだから、
「あいつはなにもやっていないが大丈夫か」と言われることがある。

◆◆◆

そうして、「iPhoneに最適なスタンドは何か」どころか、
「スタンドとはどういうものか」まで網羅的に検索してみた挙句、
結局さいごにたどり着いたのはこれ、MoviePeg。


選ぶ基準になったのは、「Less is More」(過ぎたるは猶及ばざるが如し)である。
ずいぶんまえにMacBook Airのレザーケースを作った時もそう言ってたっけ。

すこし具体的に言うなら、「なんにでも使える」ことを目指してかさばるものをつくるくらいなら、「この用途だけにしか使えないけれど、シンプルなもの」を目指そうと思ったのだ。

◆◆◆

ただ、「この用途だけにしか使えない」というのは、
「この使い方だけしか認めない」のとは、用途の範囲以上に、その思想が違うと思っている。

一時期流行った「ユニバーサルデザイン」とか、「エルゴノミクスデザイン」だとかは、わたしは当時から、どうも苦手である。
道具というものをとおして、開発者の「こう使え」という思惑が伝わってきてしまうのは、正直言って窮屈に思えてしまうんだもの。

「ユニバーサルデザイン」が売りらしいマウス
「エルゴノミクスデザイン」が売りらしいキーボード

「手で使うものだから手のひらそのままの形にするべきだ」というのは、
いくら製造工程が複雑でコストがかかってプレミアがつくのだとしても、
「理論」と「実践」をいきなりイコールで結んでしまうという短絡そのものなのである。
道具というものはそれが道具である限り、必ず使用者の「使う」という過程との相互浸透において把握せねばならないから、道具の作り手は、「理論」と「実践」をむすぶ、「方法」にこそ着目せねばならないのである。

砕いていえば、使い手である人間に、「どれだけの使い方をまかせるか」、
という観点を持たねばならないということである。

そうして、それぞれの使い手にそれぞれの使い方ができうるように考えて、
論理的帰結としては柔軟性のあるデザインを考案せねばならないのであって、
「こうでしか使えない」というものは、多くの人の手に渡ることはない。
これは、こと大衆向けの工業製品としてロングセラーを目指すのなら、不可欠な視点である。


スタンドについてもその思想は当てはまると思ったので、
いつもの、いちばんいいものだけに「勝手に弟子入り(=私淑)」する、
というルールに従って、取り寄せるつもりであった。

ただこれ、日本に送ってもらうのに英国からの送料がかかるらしく、
本体が8ドル弱なのに送料のほうが高くつきそうである。

◆◆◆

100円のアプリを買うのも1週間ほどかけて、
「ホントにいまの自分にこれが必要か?」と尋ねてしまうわたしにとって、
これはとてもじゃないが割りに合わない。

でも見ているうちに、
これなら作れるんじゃないか、と思ったので自作することにしたのだった。
(あいかわらず、本題までが長いな!)


3mmの革を3枚がさねで作ろうと思ったときに、
ふにゃふにゃにならないだろうかと心配したけれど、ちゃんと自立してくれた。


縦でも横でも、かなり柔軟に使える。


誰かに同じものをくれ、と言われたら、「パクリなのでやれん」
というお答えになってしまうのだが、とりあえず自分で使ってみて欠点を洗い出し、
なにかとんでもないいいアイデアが思いついたらそういうこともできるかもしれない。

創作は模倣からはじまるのはたしかだけれど、
そこにとどまっているわけにはいかないものね。
わたしたちは人間だから。

2011/05/04

このBlogはなにを伝えたいのか(3)

(2のつづき)

※一節目を中心に、初学者にも読み解くための手がかりを記した上で、圧縮した表現をやや解きほぐす形で、補足と修正を行いました。なんとか理解したいがどうにかならないか、とご意見をくださった読者の方、ありがとうございます。(2011/5/4)




 余談として、趣味についてのエントリが持っていた大まかな構造を述べておきます。
(ここで「余談」と前置きして、「読まなくてもいいよ」というニュアンスを持たせたのは、
同記事がもともと初学者向けのものだったからです。
ところがある表現を弁証法、つまり事物を固定したものではなくそれらの運動形態として描き出そうとすると、
それが「あれからこれへ」といった変化ではないために、それ相応の立体構造への理解が必要になってきます。
初学者のみなさんへは、こういった立ち入った構造の精確な理解ではなくて、
「なるほど、あの記事はこういった『思い』をもって書かれたのか」、
とわかっていただければ十分だと思っていたから、というわけです。)

 あの記事にふくまれていた、全体の構造はこのようなものでした。
それはひとつに、一般的な人間観から人間らしい趣味を媒介としての本質的な人間観へ。
ふたつには、趣味レベルの感性的な趣味を正しい人間観で捉え返しての理性的な筋を通した趣味(=我が道)へ。
それら二重性を持った否定の否定の流れです。


 ここでは「正しい人間観」が把握されていることが前提となっていますが、その内実とは、「人間とは、目的意識を持って対象に働きかけるとともに、その対象を変えることによって自らをも変えるものである」というものです。その人間観を土台として趣味というものを考えてみれば、「人間らしい趣味」というものが、どのような方向性を持っているのかを一般的に示すことができるというわけです。そういうことをふまえて、わたしは「趣味」を、単なる余技だとか暇つぶしの娯楽だとは扱わなかったのでした。そういうものは、そもそも人間らしい営みではないのですから。動物と人間を分けるのは、目的意識を持った「労働」をしているかどうかにあり、「趣味」はそのなかの特殊性として位置づけられるのですから、そこにも、やはり「目的意識を持って対象に働きかける」という性質がなければならないことになりますね。

 その前提を踏まえて、全体の論理性についてもう一度文章で表現してみると、あらゆるジャンルの趣味という具体的な段階から、それを突き詰めることによって抽象的な段階へとのぼり、そしてその抽象的な段階で得られた一般性・本質・原理・原則というものをとおして、具体的な段階にくだり具体的なものを捉え返す、という、「のぼり、くだり」の構造があります。そしてそれら全体の流れは、感性的認識から理性的認識への発展を示しているのです。

 あの趣味についての記事がふくんでいたのは、そういう大まかな構造です。
その大まかな構造のなかで、上で述べた二つの構造が互いに浸透しあう形で量質転化していますから、
これらは全体としてみたときにはじめて、弁証法の法則を踏まえていることがわかってくるのです。
 ですから、これは入口であって出口であり、そのことは直接に、
これらが全体として弁証法的な発展の構造を指し示しているということになります。

 そうであればこそ、表題を「趣味は何を選ぶべきか」ではなくて、「趣味はどう選ぶべきか」としたのです。
内容ではなくて、形式をこそ指し示したかったわけですね。


 弁証法を使わずに、形而上学まで論理のレベルを落とした上で言いたいことを述べるとすれば、趣味は、正しい土台に基づく目的意識さえあれば人間としての真っ当な営みになりうるのだし、ぜひみなさんにもそうしていただきたい、ということに尽きていました。べったり平面的に要約してしまうと、これだけのことなのですから、なおのこと全体をとおしての弁証法性を把握していただかなければ、あまり意味のない記事になってしまうのです。この記事を読んだ感想が、「発展というのはあれからこれへ、といったような直線的な矢印で指し示されるようなものではないのだな」といったものであれば、言いたいことは十分に伝わったと言えるでしょう。

 そういったことをわたしなりに確認し、全体の構造が描けたと思ったときに、これで言いたいことはすべて言えたと思い、最後に人間の豊かさと責任に軽く触れて擱筆したのでした。

◆◆◆

 次に、なにやら予言じみたふうに、こんなことを言ったことがあると(1)で書きました。
わたしは根拠のないことは言いませんから、理由を説明しておきたいと思います。

 わたしが「あなたの今までやってきたことは、ある時にすべて活かすことのできる瞬間が来ますから、どれもあきらめないで、ずっと持っていてください」という個人的なアドバイスをした、とありましたが、これはお話しした当人が、すでに「一つの筋」を見つけているのだな、と判断できたからこそ、そうしたのです。

 もっと言えば、自分の生涯をかけての一つの筋を見つけつつありながらも、その若さ故の不安定さや、その不足を過度に引き合いにだしてすべてが間違っているかのように頭ごなしに封じ込めるといった不理解からの外圧に負けずに、しっかりとその道を進んでくださるよう激励する意味合いが含まれているのです。
 ですから、ここではわたしは人間としてごくごく浅いとはいえ、自らの経験でもって、その人の「一つの筋」、つまりこの先に生涯をかけた道になりうる、生き方における論理的な一般性を見て取った上で、「それは間違っていない」と言っているのですから、単なる運命論や気休めなどでは断じてありません。


 本質から目を逸らさずに生きるひとたちが、そのあらゆる過程で味わうであろう、あの、気を抜いた途端に底が抜けるような不安感、道行く人の雑踏や木のざわめきまでが自らの批判に向けられているのではないかというような、息も詰まるような孤独というのは、体験したことがない人間にはとても想像のつかない重圧です。

 自分の何倍も長生きしている人間から、しかも自らを指導するはずの立場にある複数の先達からの、やれ「お前はキチガイだ」、「お前にそんなことができるか、身の程を知れ」、「前例がないからやめろ」などといった心無い批判に加えて、その尻馬に乗った連中からの、ありったけの罵詈雑言の類を浴びせかけられることが、人間の世界にはあるのです。
 その不理解に追い打ちをかけるように、理解あるような体を装いながらまるで思惑を汲むことのない、「若気の至りで一旗揚げたいのはわかるが」といった前置き。これは、想像するに余りある境遇ではないでしょうか。

 「一旗揚げる」!?
これだけのことを、目立つためにやっていると思っておられるというのか。
そうではない、そんな動機ではない、そんなことのために生きているんじゃない!

 夢のため、後進のために道を譲れないひとならば、こう叫びたくなることだってあるでしょう。

◆◆◆

 程度はどうあれ、わたしもこういった期間を、「これを諦めるのなら生きる意味がない」といった覚悟を確固たるものにしようともできない意志の弱さの揺れ動きの中で、毎日鏡に写る悄げた顔が性格として定着しないよう空元気で励ましながら、「覚悟を決めろ」、「覚悟を決めろ」と念じながら前に出る足一歩一歩に力を入れながら歩んだことによって、その意志の内実を確かなものにしてゆくという日々を過ごしてきました。
 目標が高ければ高いほど、周囲からこれが一流だと薦められるものをどう検討しても、私が探しているのは「決してこれではない、あれでもない」としか思えないものです。自分の、「これではない」という感性的な、なんの根拠もない感覚以外に、確かなものがまるで無いという中でも、周囲の理解しようとしてくれる人たち、そしてまた理念の実在形たる偉大なる先達に支えられて、どうにか心を歪めずに、志を持ち続けてこれたのです。

 そうだからこそ、ひとりの個人が持っているにもかかわらず、その身をはるかに超える夢の大きさ、重さに押しつぶされそうになる人たちにたいしても、自分が助けられたぶんの、できればそれ以上の手助けをすることで、人類全体に恩返しをしてゆきたいと決心しているのです。

◆◆◆

 たどり着いてみなければわからないのですから、
直接触れるように感じさせてあげることはできないことが本当に、心底もどかしいのですが、
決して大げさでもないのです、人間が築いてきたものの広さと、深さを強調するということは。
決して根拠のないことではないのですよ、あなたの持っている夢というものは。
現在のわたしの立場に立ってですらそう感じられるほどなのですから、
これはまだまだ捉えきれていないほどの豊かさが、間違いなくあります。

 そして「深いところでは、あらゆる道がひとつのところに通じている」のですから、
表向きはどんな職業についていたとしても、誰かの残した表現の裏側に、
その人が生涯をかけて貫いてきた姿勢を見つけ響き合うことがあるときには、
これまでの孤独にはすべて意味があったのだ、この瞬間のために生きてきたのだという、
たとえようもない感動があるものです。

 ですから、「誰にも認められない」ということは、相手の理解する気持ちが欠けている場合はともかく、
やはり現時点での自分には、目標とする高みに比べれば内実も表現力も
まだ伴っていないのだなと冷静に真摯に受け止めつつ、
それでもその事実をもって夢を諦めなければならない根拠にはならないのだ、
ということだけは、心に誓ってしっかりと覚えておいてください。

 人間存在の深さに触れるまで、そこへの信頼が根付くまで、
倒れてもなんとか起き上がってほしい、そうしてさいごまで道を歩み続けてほしい、
そういう激励を込めた後進へ向けての、趣味についての一節なのでした。

(了)

どうでもいい雑記:反省と独学の精神

世間は連休でのようですね。


連休なので、どこかに行ってきた、といったようなご報告をすればいいのかもしれませんが、
そういうことは他の方におまかせするとして、わたしは、
連休中だからこそ気を引き締めて修練を欠かさない人のことを応援したいと思います。
というわけで、あいも変わらずの内容ですが、どうぞよろしく。

◆◆◆

さて先日、趣味のエントリについての読み方を公開したら、いくつか感想をいただきました。

一部には脳天をたたき割られたような衝撃があったというような感想もあり、
自分のものごとの見方がまだ表面的な段階に留まっていたのだと気付かされた、
といった率直なご意見などは、うまく言いたいところが伝わったのだとありがたく受け取りました。

ほかにも暗に陽にあの記事での内容を踏まえた連絡をくださった方はありがとうございます。
お気持ちは、直接に表現されていなくても、しっかりと伝わっていますよ。

ものものしい文体の学術論文と向き合うときならば、わたしたちが読者になるときの視点というものは、
「そこに潜んでいる論理性とはなんなのか」と問いかけながらのものになりやすいですが、
日常言語で書かれた文章や、ある人の日常的な言動などを見たときにも
そこから論理性を引き出せるかどうかは、受け取り手のものごとの見る目の高さにこそかかっています。

表現が平易だからといって、内容が薄いのだとただちに直結しないようにしたいものです。


趣味についての補足、3つめのエントリは、より深い理解のために表現を圧縮して書いたものでしたが、
なんとか理解したいというご意見もありましたので、
表現のまずかったところなど、すこし補足しておきたいと思います。
あとで参照なさってください。

◆◆◆

反省していただいておいてなんですが、ちょっと気になることがあるので書いておきます。

先にありがたいと言ったように、
まだまだ自分にやるべきことはあったのだという実感をきっかけにして、
日常生活、また自分の道についても、目の前にあるものごとをより深く理解する、
という姿勢を身につけていってもらえれば、ここでの記事も役目を果たしたことになります。


ただそれと同時に、自分の認識の実力について、
「ああ!なるほど!そういうことだったのか!」といった大きな反省があったときには、
その浮きあがったぶんの感情が災いして、沈むのもまた極端になることを想定しておいてください。
(ここは<対立物の相互浸透>です)

いま大きな反省があり、本来ならばそこでの思いを持ち続けることによって、
将来的には大きな発展がありうるにもかかわらず、そのときの感動の大きさのあまり、
次の日には前日ほどの思いの大きさが維持できず、
とたんに縮小していくかのような感触になっていってしまう、ということです。


わたしはどちらかというと、こういった感情の浮き沈みがあまりないほうで、
さらにいえば人生を旅(=今日と同じことを明日できることが最低条件)だと思っていることもあり、
毎日同じ姿勢を続けるのがそれほど苦ではないしむしろ好きなのですが、
「やる気があったらなんでもできる」式の気合論で育ってきた方には、
こういった場合に感情の浮き沈みがとても大きい場合があるように感じます。

漫画やアニメの中の主人公達は、友人の危機に「うおお!」で強くなったりできるのだし、
現実の世界でもそういったことを意識的に行い、いわば瞬発力をあげることはあらゆる面で欠かせないわけですが、
ああいう姿勢は、空想の世界で極端に描かれているほどには長続きしない、ということは覚えておいてください。
もちろん、これは浮き沈みが激しいといったような「性格」のことを批判しているのではありません、念のため。
「やる気でがんばる」、の姿勢はすばらしいですが、そこを形而上学的に逆をとって、
「やる気がないとがんばれない」のでは困ります、ということです。

どんなものごとに対しても、ほんとうの実力を付けたければ、
やる気などに頼るよりも、習慣として身につけてしまったほうがはるかに楽です。
人間というのは認識的な実在とされているとおり、動物とは違って、
精神面での消耗が身体的なそれよりも、体力をはるかに消耗させるものです。
この問題は、習慣として身につけて、「やらないと身体が変になる」とすることで安々と乗り越えられます。
(ここでは、「精神→身体」への影響と、「身体→精神」への影響を述べています)

ですからやはり、週末に気合を出して24時間徹夜で努力するよりも、
必要のないつきあいはそこそこにしてマイペースな生活を保ち、
毎日3時間でも2時間でも自分なりの努力を続けたほうが、はるかに成果として現れるものです。
(ここは<量質転化>ですね)

◆◆◆

学生さんたちの、人の話を聞くときの姿勢をみていると、
たとえばなにかの上達するための基本的な姿勢などをお伝えしたときに、
「なるほど!そういうことだったのかあ!」といったような勢い任せの姿勢で受け止めようとする方は、
1ヶ月後にはさっぱり忘れて身についていないことがほとんどです。

たいして、「あっそうか、そうすればよかったんだ」というふうに、
それまで疑問だと思っていたことが氷解した、といった姿勢で受け止めることのできる方は、
それがどんなに些細な反応に見えたとしても、だまっていても自分で進めていってくれるものです。

すこし背中をそっと押してあげると、どんどん前に進んでゆける。
前に進んだところでぶつかって、「なぜだろう、なぜかしら」という問題意識がつく。
その問題意識を通して、自分から質問したり、実際に試してみることができる。
これが、独学の精神です。

そんな姿勢というものがなぜわかるかといえば、うなずき方やノートの取り方から、
わたしが「ここは大事なことを言ってるから、他のところはさておきここだけはわかってね!」
と心を込めておはなしをしているところを、とても敏感に察知しておられることが伝わってくるからです。
教師が教壇に立つというのは、学生を見下して偉そうにいばるためではなくて、
そういう学生の、些細な反応を見逃さずに、指導のあり方を反省するためです。

◆◆◆

これらことを、学生さんからではなくて教育者・保護者の観点からいえば、
子どもに与えなければならないのは、「些事に渡る知識」ではなくて、
「ものごとの考え方」や、「人との関わり方、話の聞き方」といったものである、と言えることになりますね。
実のところ、「学校ではこれこれを勉強してきなさい」というのではなくて、
「友だちと仲良くしなさい、先生のおっしゃることをよく聞きなさい」という漠然としたアドバイスのほうが、
子どもにとってはかえって有意義なことも少なくないのです。

(ここでもやはり、ものごとはその流れを大つかみにしなければ、
具体的なものごとをうまく成し遂げる指針にはつかえないのだ、
という論理が浮上していますね。ここは、<否定の否定>です)

わたしたちは、いかに子どもに対してであっても、その人の人生をすべて背負って立つことはできません。
問題を起こした大学生に対して、「あなたももう大人なんだから」という保護者がいますが、
「大人になった事実」よりも、「どう大人になったか」という過程こそが、当人の人格を形成しているのです。
ですから、本質的にその人のためになるはなにかと探すのであれば、いちばんの近道は、
その人が「自分の足で」歩みを進めてゆけるように、人としての正しい姿勢を身につけさせてあげることです。

もしわたしたちがおとなになってから、
すでについてしまった物心を捉え返して、それがまだ足りないと反省する場合には、
これからの意識でもって自ら培ってゆくしかありません。
しかしその努力は必ず、次の世代に受け継がれてゆきます。

わたしたちは来る日のために、
ほんとうの独学の精神を、日々の生活というくりかえしの中で身につけてゆきたいものです。

2011/05/01

本日の革細工

なかなか暖かくなりませんね。GWは大丈夫だろうか。

いちばん左の分厚いの、一般の方は知らない人がけっこういるらしい。
最近ちょっと使ってみたら、花屋の店員さんに中国製のパチモンだと思われた。
…初代iPodですよ!

今日は仕事のあと、iPhoneを新調したのでケースづくり。

以前から、RethinkさんのところのiPod touchケースを使っていて、
touchからiPhone 3Gに切り替えた時も、無理やり引き伸ばして使っていた。
でも今回のiPhone 4、角が角張っているのではみ出てしまう。

というわけで、余った革を切って縫って90分、作業完了。

◆◆◆

デザインは、わたしが革の工作をはじめるときに、
勝手に弟子入り(=私淑)したRethinkさんの、ほぼそのまま。
いろいろと無駄な知恵をしぼってみたけれど、
やっぱり使い慣れている形がいまのところいちばん。


◆◆◆

ところがいざ使ってみると、やっぱり使い勝手が違う。



Rethinkさんのものは、「ベタ張り」という技術で、
非常に薄く漉いた革を貼りあわせて、両面を表になるようにできている。

対してわたしの使っている革は、2mmのもので、ベタ張りなんて技術もない。
(日本で数人の職人さんしかできないらしい)
そんなわけで、見た目を同じに作っても、iPhoneの裏側に回した状態で
本体を操作しようとすると、なんかゴワゴワする。


くらべてみると、お師匠さまのものは1mmちょっとしかないのである。
ということは、革を0.5mmくらいに漉いた上で貼りあわせているだから、
これは恐るべし、というしかない。

さらにケースのカーブに合わせて、貼り目を少しずらしているらしく、
ここ5年ほど毎日使っているのに、型崩れがほとんどないのである。
参りました、というしかない。

見た目にはほとんど同じにみえるけれど、
一流の仕事というものは、残りの5%で勝負しているのだ。

やはり、神は細部に宿る。

◆◆◆


わたしはいいかげんなものを身の周りに置くくらいなら
そんなもの無いほうがよっぽどマシだと思っているので、
製品を買うまでこそが真剣勝負なのだが、そういう人間に言わせると、
iPhoneの完成度にふさわしいのは、世界広しといえどRethinkさんのケースだけだ。

わけのわからんメーカーの、
毛羽立ったままのほんとに革だか疑わしいようなわからんケースとか、
埃だらけのシリコンケースがぴったり張り付いたのを見ていると、iPhoneが可哀想である。

別にこれはなにもiPhoneに限ったことではないけれど、
その状況や使い方、その人間にはふさわしいモノというものがあるのであって、
中学生がブランド物のバッグを持っていてもおかしいのだし、
中に入っている金額の何倍もする財布というのも、やはりおかしいものである。

そんなところをチグハグな選び方をしている人を見るに付け、
「この人に、このモノの良さが分かっているとは思えない…」
と、こっそり思ってしまう(ごめんなさい)。

◆◆◆

しかしこのiPhone 4、自分のものとして使うのははじめてだけれど、
手にとってじっくり確かめるほどに、
iPhone 3G,3GSとは比べものにならないほどの洗練具合である。

シンプルなようでいて隅々に至るまで考えつくされたカーブと、
手にとったときに顔がほころぶようなモノとしての重み。
ボタンを押したときのしっとりとした感触と、
ガラスに張り付いたようなくっきりとした画面。
これは、誰にでもできるものではない。

国内のある車メーカーの技術者が、ベンツのドアの閉まるときの、
「パタン」という、かっちりとしながらしっとりとした音を再現するために、
どこからこんないい音がするのかと、分解して調べてみたそうである。
そのときにわかったのは、その音というのは、
あらゆる部品、部品にこだわり抜いた結果、
車内の空気がドアの周りの隙間からあくまでも自然に、
均等に漏れ出ることから来るものだったらしい。

表面だけを真似ても、いけないのである。


iPhone 3Gを手にとった時も、裏面の陶器のような黒に魅入ったけれども、
あれとはひと味も二味も違う、モノとしての確かな存在感だ。
いまの時代は、こういうものがそこそこの値段で手に入るんだねえ。


これにふさわしいケースは、わたしにはまだまだ作れないけれど、
しばらく自作のケースとにらめっこして、次のステップのための反省である。