以前の記事、
「構成とはなにを意味するか」は、5つめの節がまだ公開されないままになっていましたね。
(1)〜(4)までが一般的な意味合いの構成について書いたあと、(5)で、文学作品という特殊性に照らして書き進めてゆく予定でしたが、時期尚早の感があり公開を控えているのです。
今回の記事は、一昨日公開の記事で書きかけていたことを独立させたものですが、構成についての考え方をすこし含んでいますから、「構成とはなにを意味するか」の5節目の内容を先取りする形になっているかもしれません。
ただこの記事が書かれた理由というのは、日々自らの専攻する分野の修練に余念が無いはずの人たちが、いつまで経っても監督者に見張られていないと、だんだんと手を抜きがちになってしまうということを目にしてきたからです。
そうして、そういう自分の性質をいちばん不甲斐なく思っているのが、他でもない本人たちであることを見てきたからです。
ここには、その時々でこまめに連絡をとってモチベーションを維持するのが後進育成の秘訣なのだ、などといった自己啓発本レベルの根性論などではどうにもならない大きな問題があるのであって、そもそもこれが根本的な欠陥であるのは、どんな指導者でも後進の人生を代わりに生きてやることは絶対にできないからこその問題なのです。
そういうわけで、ひとり修練がどうしてもうまくいかない、いつまで経っても誰かに見ていてもらわないと横道に逸れてしまう、やれと言われたとおりにやっているのになぜか評価してもらえない、という人には、ほんの触りですがすこしは参考になる記事なのではないかなと思っています。
ただいちおうは前回の評論へのコメントの続きとして書かれているので、まずは文学の評論について触れさせてください。
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本題を始める前に、作品に忠実な評論を書く手順をおさらいしておきましょう。
まずは一読する中で作品に忠実に一般性を引き出してきたあと、それを仮説として持ちながら作品にふたたび向き合い、その一般性で作品全体が鮮やかに解ききれることを確認しながら表現を修正し、否定の否定の段階を経た本質的な規定である<一般性>として提示する、ということが基本線なのでした。
認識そのものをきちんとした論理的なものとして完成させてほしいわたしとしては、細かな表現はさておき、論者が認識している論理性をこそ確かめたいと考えていますから、実のところこの<一般性>を一目見て、的確であると判断できれば他の論証部については提出してもらわなくともよいとも思っています。
それでも、文章というものの評価には、最終的には全体の構成のほかに、細かな表現までもが厳しく問われることになりますから、毎日のように自らのアタマを働かせ、手を動かして文字を書いて修練に当たってもらうことがどうしても必要なので、「あらすじ」と「論証」部も、その意味において重視しています。
ただそうはいっても、<一般性>が正しくなければどうしても全体の評論としての質が引きずられてしまいますから、ここが過不足無く引き出せているかどうかについては、もっとも力を注いでもらわなければならないということをふまえておいてください。
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わたしは、文学の読解であれば、その作品の本質を一言で言うとしたらどうなるかと、作品を<一般性>として把握しなさいと言いますし、他の分野を専攻する人にも、乗り越えねばならない本を取り上げて、その本の節ごとにタイトルをつけなさい、主張を一言で言いなさい、と言うことにしています。
これは、全体を過不足無く一言で表現するとき、つまり極めて単純な形で要約するときには、当人のアタマの中で、「ああでもない、こうでもない」という議論が闘わされるからです。
そこでの正しい答えがほとんどひとつのところに収斂してゆくというのは、ギリシャ時代に哲学者たちが、「ああでもない、こうでもない」と議論をするなかで、ことばの意味内容が埋められていったのと同一の過程を踏んでいるのです。
それが、弁証法のもっとも初期の段階としてあったのでしたね。
また実利的にも、答えが一つになるので答え合わせがとてもしやすい、という利点もあるのです。
こう言うと、いくつかの正しい答えがありうるのではないですか、と言われることもありますが、小規模な文章を一言で要約するときには、まず答えは1つになると言ってもよいでしょう。
なぜなら、最終的にふたつの一般性が答えとしてあり得るとなったときにでも、それぞれの一般性を鍵にして作品に向き合いなおしてみたときには、「ここは解けないのではないですか」、「いやそこは、行間をこう読めばぴったりくるのでは」、「なるほど、でもここはどうですか」、というふうに、その一般性で作品全体が鮮やかに解ききれるのはどちらかと意見を出し合うなかで、やはりどちらかの一般性のほうが優れているのだ、という合意に辿りつくからです。
(もっとも、自分の意見を正しいことにしたい、という人間が相手である場合はこの限りではありませんが…幸いなことに、わたしのそばにはそういう人間は一人もおりません。あくまでも、それが正しい意見なのならば、もともとの出所が誰のものであろうとも等しく尊重しようとする人たちばかりです。だって、そのほうが誰にとっても成長しますから。一歩でも先に進みたくて集まっているのですから。)
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そうして議論を尽くしたときにはひとつのところに収斂されてゆくはずの<一般性>について、いくら<一般性>に力を入れましたと言われても結論としてガッカリせざるを得ないというときがあるのは、そこで書かれている一般性が、あまりに議論が尽くされて「いなさすぎる」ことを目の当たりにしたときです。
議論というのは、現象ばかりに目を向けてしまう人にとっては、複数人であれやこれやと話し合うというイメージしかないかもしれませんが、これはなにも、実体を持った人間が膝を付き合わせて話し合うことを指すばかりではなく、アタマの中に、観念的に置いた人物との対話でもよいのです。
ところで、議論する相手を、自分の妹に設定するか、乗り越えたいと思う偉人に設定するかは、実践上の必要性によって選ばれます。
議論の必要性はなにも、自分よりも実力が上の人間だけに限ることはないのですが、一言で言えば、「観念的な人物が誰でも良いかといえばそんなことはない」というのは言われなくてもわかってもらっているはずのことですね。
でももし本当にわかってるのなら、提出するレポートに厳しい評価をせずにすんでいるはずでしょう。
わたしたちは、人生の岐路に差し掛かって大事な決断をしなければならない時や、周囲からの不理解に耐えかねて価値判断の基準が揺らいでしまいそうなときには、かつての偉人や自分の人生で直接師事した人のことをアタマに思い浮かべて、「あの人ならなんと言うだろうか」と問いかけてみますね。
もちろん、つい最近知り合った人を観念的な像として持つことは難しいですから、ここには相互浸透的な量質転化、量質転化的な相互浸透の過程が必要なのですが、それでも、多かれ少なかれ誰しもが、こうして他者の考えを手がかりにして自らの歩みを先に進めようとします。
原則を言えば、自分のそれを凌駕する人の認識過程を読み取ることは難しいものですが、それでも、表向きの行動指針や作品について、「あの人ならなんと言うだろうか」という判断は十分にしうるものです。(エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』中の、「丁か半か」を当てるのがうまい少年の話を参照)
またそうであるからこそ、そうされるであろうと考えられる評価を手がかりとして、「これではまだダメだ、まだ褒めてはもらえないだろう」と、自らの実力をその人の立場から判断し、さらには越えてゆくことができるわけです。
(ここの上達の論理はとても難しいですね。この過程が鮮やかに理解できているのなら、自分の認識が弁証法的なものになりつつあると判断して結構です。逆にまだわからないときには、形而上学的にしか物事を考えられていないということになります。)
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個人的なことですが、わたしは長い間、生身の人間の中に直接師事できる人がいませんでしたから、そのあいだはずっと、アタマの中に残るかつての師の印象をたぐり寄せたり、本の中の偉人たちと向き合い、観念的な師との議論を闘わせる中でその時の自分を乗り越えさせられる形で、己を磨いてきました。
それは今でもなんらの変わりもないのですが、そういう立場から見て、学生(もちろん職業が学生、というだけに限りません)のみなさんに致命的に足りていないと思うのは、そういった観念的な二重化の発想と姿勢です。
余談のように聞こえるかもしれませんが、関西は京都の近くに哲学の道というものがあり、かつての哲学者が哲学書を読みふけったあとに出かけ、そこで思索を巡らせたのだと伝えられていることを知っている方もおられるでしょう。
あれは、文字表現として書き起こされた文章は、あくまでも知識的・論理的に、静的に習得されるのと比べて、尊敬する偉人を観念的にアタマの中に置いたあと同じ方向を見つめながら並んで歩く、という行動が、自分の実践上の問題に照らして物事を動的に解決してゆくためにはどうしても必要だったのではないか、とわたしは思っています。
観念的な偉人と並んで話しながら歩こうとしてみると、その議論を尽くそうとすればするほどに、相手の像がまだ自分の中で明確でないことがわかってきますから、帰宅したときには、新たな問題意識を持ってその偉人の書物に取り組むことができるような準備が整うことになります。
つまり、自分の解けない問題について、観念的な偉人に話を聞こうとしたけれども、「なんと言いそうなのかがまだわからない」という感触があるということです。
これは整理して言えば、「その人の像が浅い」ということなので、その像を深めるべく書かれた書物に向き合うことになりますね。
そうして、「こういう時にはなんと言うのだろうか」という強い問題意識をもって、目的的に読書に取り組むことになると、普段は見過ごされていた箇所が、まるで光り輝くように浮かび上がってきて、「なるほど、行間にはこのようなことが書かれてあったのか、ひとり合点して卒業してしまわなくてよかった、もっと謙虚にならなくては」という姿勢を含めて、その人の像を深めてゆくことができます。
以前に、いつか読書の姿勢について論じたことがありますが、その時その時のあたらしい情報を仕入れることよりも、こうして、この人は、と認めた人の表現を通して、その人の人格そのものとの格闘とも言える長い長い年月を持つことなくしては、情報をどのように考えてゆけばよいのかもわからないのは、当然というべきではないでしょうか。
原則をふまえてこその現象、という構造は相互浸透のひとつのあり方です。
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直接に師事している人間に、何回も何回も怒られても、今回なにか言われれば前回のことを忘れ、次に何か言われれば前のことを忘れ、と、埋めたものを3つしか覚えられない犬よろしく、叱られてシュンとするのはその時だけ、という自分に不甲斐ないという思いをする人もいると思います。
これは決して擁護しているわけではないので心して聞いてほしいのですが、土台ができつつあるかと思えば崩れ、崩れきるかと思えば持ち直し、という過程を幾度も幾度も踏むことによって得られるものも少なくありませんから(それが何かを聞けば安心してしまうので言いません)、怒られてばかりだからもうダメだ、などとそこだけを見て短絡せずともよいのですが、いずれにしても、残念ながら物心つくまでに正しい学び方が自分のものになっていないような場合には、現在鈍才そのものの資質として現象することになっているはずですから、それをまずは認めて、正しい学び方を目的的に創り上げてゆかねばならないことは、一人の人間として独り立ちするにあたっては、どれだけ強調してもしすぎることはないほどの必要性があるのです。
いいですか、鈍才というのが恐ろしいのは、自分のわかっていなさ加減すらわかっていない、という一事に尽きるのです。
それを乗り越えるのは、直接指導を仰ぐ相手だけではなく、その経験から得られた、「アタマの中の師」こそなのだ、ということをぜひともわかってもらわねばなりません。
「ああでもない、こうでもない」という考え方がきちんと出来る人は、ひとりでもどんどん上達してゆくのです。
その時の個別の答えではなくて、「ああでもない、こうでもない」のやり方そのもの(!)を上達させてゆくことができるなら、長い長い道のりを着実に登ってゆくことができるのです。
個別の作品の出来映えの良し悪しについて評価をし、その書き手・描き手の前進を助けるというのは、ともにひとつの道を歩むことを約束した人間として当然の仕事ですから、その意味では地獄の底にまでもつきあう用意はあるのですが、「あまりにも議論が尽くされていない作品」については、叱る以前にとてもガッカリしてしまうことにもなりますから、表現として発表する以上は、自分の仕事にまずは責任を持つことを心がけてほしいと思います。
いまできた作品を見せたとき、あなたが尊敬する人はなんと言うでしょうか?
生まれや育ちなどに関係なく、わたしも向きあう相手を、一人の表現者として尊敬したいですからね。