2011/06/29

学問用語はなぜあんなに物々しいのか

更新が遅れがちですみません。


昨日はまともな更新ができなかったので、
早起きして書きかけのものを見返したのですが、
勢いに乗って書きすぎて、表現が難しくなりすぎたのでボツにしてしまいました。

実のところ、こういうことがよくあります。

ボツにされた記事の慰霊というわけではありませんが、
転んでもただでは起きたくないし、この失敗を記事にしましょうか。

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一般の方は、学問用語というものはなぜにあんなに物々しいのか、と思われることが多いでしょう。
このBlogにはじめて来た人は、「あんなに」というか「こんなに」だろ、とおっしゃるかもしれませんね。

くわしいご説明は以下として、まずはじめに弁解させてもらうと、
実のところ、使いこなせればあれほど便利なものはありません。

なにしろ、論文1本ぶんくらいの意味合いをふくめたことばを、一語で表現できるからです。
本質的な概念規定になると、それこそ全集10冊分くらいの重みがある言葉もあります。

武谷の「技術」、三浦の「弁証法」、エンゲルスの「三法則」、カントの「二律背反」や「物自体」、ヘーゲルの「絶対精神」などなどに出合ったときには、わたしは本に額を押し当てて「参りました」、と心の底から感じ入ったものです。


わたしはここでは、一般の方にも読んでもらえるようにしたいと思っているので、
「これくらいの説明でわかってもらえるかな?、まだ誤解されるかな?」などと考えていると、
あれやこれやとたとえ話が多くなって、えらく長くなってしまったりもするわけです。

実はここ数カ月で、少しずつ話の内容をこっそり難しくしてきたので、
先週まではデザインという新しい分野の話を織りまぜながら、
難しくなりすぎないように配慮したつもりです。

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ただこれもまあ、言ってみれば、料理を仕掛けているあいまに赤ん坊をあやしながら来年大学受験を控えた高校生に数学を教えつつ足では雑巾がけをしながら子どもが寝静まった夜中に自分の仕事をするための考え事をしている…という有様なので、手が行き届かないところも多々あると思います。

どだい、ここだけで学問のすべてのことを網羅しつくすのは無理なので、その土台部分のところを、わたしや近しい人にとって身近なジャンルを引き合いにだしながら話をしてゆく、ということになります。

そうやって表現は馴染みのあるものとするにしても、内容についてはたしかなものにしたいという思いを常に持っているので、その言葉だけを見ると、学問などとは無縁の方にはたいへんに物々しいものに映るかもしれませんし、「なにを当たり前のことをわざわざ難しく言っておるのだ」、といった疑念さえ呼び起こすほどのものかもしれません。

実際にわたしも、実業家の方と人間というものの捉え方についてお話ししているときに、「変数」ということばを出してしまって、とても怒られたことがありました。
曰く、「人間を数で論じるとは何事か!?」、ということで、こんなところまで仔細にわたって誤解を解かねばならないとするなら、学者は一言もしゃべれないな、と心底落ち込んだものでした。

事実、言葉尻を捕まえて感情的に反発される場合には、誤解の種はそこかしこに転がっているものですが、それらに対する説明や反論を事前に用意しておくわけにはいきません。
たとえば「変数」というのは、別に「数」のことだけを指しているわけではなくて、これは定数や定量だけではなく一般のことば、つまり定性的な表現も含めた用語で、単に、「論じやすくするために規定されたことば」、といった意味合いしか持たないのです。
ましてや、人間を数字の上で、機械的に見るためのものでは決してありません。

こういった必要上の作法を、なにか価値観を含めたものとして受け止めるというやり方は、一般の方に少なくありません。
その理由は簡単で、論争で勝つ時にいちばん手っ取り早いのが、そのやり方だからです。
そのおかげで、たとえばお役所が発行している文章には、当たり障りの無さすぎて、これだけの文量があるからには何か書いていなければおかしいはずだとは思いつつも、いくら読んでもなんらの主張も見いだせないような、そんな文字列が踊っているでしょう。
あれは、言葉尻を捕まえて批判するような人間が、市井に少なからずいることの裏返し(浸透のあり方)でしかありません。

ここで論じている根本原理、「唯物論」にしたって、「精神を物質で論じるとは何事か!?」と憤慨して去ってしまえばオシマイです。

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ですから、このBlogで踊っているのは、お役所の出す文字列とは違って、存在そのものがリスクの塊のような文章であり、書き主はさしずめ誤解の種どころが誤解の実をたわわに実らせた大樹、というような具合です。
もし枝葉の下に、わたしが風に負けて実をおとすことを待ち受けているような、つまり揚げ足を取ることを今か今かと心待ちにしているような人間がいるのなら、とっくにこんなところは閉めてしまっているはずです。

しかし学者であるからには、ものごとを誤りなく伝えることをとおして、人類の文化に新たな第一歩を書き加えることこそ命がけの仕事なのですから、たとえ憤慨されて斬りつけられることになったとしても、譲れないことがあります。
「哲学」と「思想」は別のものですし、「科学」と「技術」、「武道」と「武術」も違います。

またこれは、このBlogでも意識していることですが、そういった「誤りなく伝えるための技術」は、なにも用語だけにとどまりません。

たとえば、「私はイチゴを食べた」と、「私はイチゴを食べたのだ」という表現のどちらが適切かとなったときにも、後者の表現を採用するときには、言い手が「私はイチゴを食べた」と<断定>の判断をしたあと、それをおおつかみに一語で捉え直したことと直接に「もの」を略したところの「の」を加え、もう一度「だ」をつけて<断定>したのだ、というすべての過程を通して<強調>を表現したのである、という理解がおこなわれています。
(掛詞です、気づいたら笑ってもいいところですよ。そのほうがよく覚えますし。)

またその理解を、いわゆる「文法」を通した理解ではなくて、日本語の文章そのものを見ることによって、既存の文法を批判的に捉え返し、「なるほど、『おおつかみに一語で捉え返す』という行為を一般的に把握したからこそ、それが<名詞>と呼ばれることになったのだな」、と、日本語から文法の理解が生成されてきた過程そのものをふくめて理解してゆきます。
逆に、「これを<名刺>だというので忘れないように」としか説明のできない先生方は、いくら肩書きがそうであっても、決して人類を代表して意味のある一歩を踏み出せる、ほんとうの学者ではありませんから。

これはなにも自慢などではなくて、それが学問だからそうである、というだけの話です。
(物を書いているのに知らなかった、と赤面している正直なお人は、三浦つとむ『こころとことば』などからはじめてください。新版は挿絵がないので、旧版を買ってください)

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こういうことをするのが当然であるというのは、学問という世界が、一般には同じように考えられている隣接する諸学と、隣接する概念の間に、明確な線引きをした上でなければ、まともにものごとを論じようもない、絶対に学問にはならない、という厳しさがあるからです。

この厳しさが伝わらない場合には、「細かいことを言いやがって、それがなんの役に立つのだ」と誤解されてしまうというわけですが、このことは、ビジネスはビジネスの存在意義があり、学問には学問の存在意義があるというふうに、職業に貴賎なしと理解するならば、同じ専門家としてこういった必要性はお互いに認めてゆきたいところですが…。
もっとも、実践は順序が先だから理論に勝るのだ、というような平面的な考え方を譲れない場合には、対話の可能性はなくなってしまうものです。

ただどこの世界にも俗物は居るものであり、学問の世界にも、どこぞの思想家の作った概念を、ただ単に足しあわせたようなヨコモジを、自分のオリジナルな思想だとかいって売り込もうとする恥知らずもいることは、残念ながら事実と言わねばなりません。

誤解を防ぐためにも、ああいった手合いが人様に迷惑をおかけしないよう、士道不覚悟にて内々に「処理」しなければならない責任もあるのかもしれませんね。

◆◆◆

さて、学問についての誤解が少し解けたとして、
明日はうまくいけばこんな記事が待っているはずです。

「制約は創造の母か?」、そんなところ。

これまでお話ししてきた、認識の話と、新しくはじめたデザインの話が、
一致し始めるところですが、はたしてわたしは、今日の失敗を生かせるか、どうか。


それにしても、こんな文字ばっかりのBlogを、あちこちに口をあけている誤解の落とし穴に落ちること無くさいごまで読んでくれている読者のみなさんには、感謝のことばもありません。

表現というのは、書き手と読み手の共同作業です。
谷底に転げ落ちても這い上がるのはわたしの役目ですが、
そうできるのは読み手がいてこそです。

どうか、山の頂までともに歩み進まれんことを。

1 件のコメント:

  1. >山の頂までともに歩み進まれんことを。

     ついて行きます。

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