2011/06/27

人間にとって、持って生まれた外見とはどのような位置づけのものか

みなさんが、見知らぬ人に声をかけられるというときというのは、どういう時なのでしょうか。


わたしはなんでも、どこぞの誰かに似ているらしく、
街を歩いているとそういったことで捕まってしまうことがあります。
単に見た目が誰ぞと合致しているということなどは、
正直に申しましていい迷惑そのものなのですが、先日ある出来事がありました。


ちょっと話変わって、わたしは、横断歩道で信号を変わるのを待つのが好きです。

理由といえば、自分で生活の上でいくつか設定しているルールの一つに、
「静止時は脚部を中心にして全身に力を込める」
ということを実践しているからです。

電車での通勤時、エレベーターなどをはじめ、横断歩道でもやはりやります。

これは、下駄も履かずまともな運動もまるでしない現代人が、人間としての土台を補うためにどうしても必要だから、というわけでの工夫なのですが、言ってみるほど簡単ではありません。

はじめは1分やるのでも脂汗がにじむほどで非常な努力が必要であるところを、長い間続けているとだんだんと慣れてきて、わたしの場合はこれをやらないと一日が始まった気がしません。
ですから、すんなりと信号を通過できてしまうとむしろ物足りない思いがしてしまい、あえて遅らせたりもするくらいです。

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なぜに物足りない思いがするかというと、手足に力を込めるということをとおして、全身に力が漲るということを、身体的に確かめられるからです。
またこれをあくまで平静を装った形でできるようになると、姿勢がすっと伸びて、どうしても多くなるデスクワークで曲がりがちな背筋を保つ役目も果たしてくれます。

そういった身体的な効果は、なにも身体的なものにとどまることなく、「今日も何があっても、上を向いて真っ直ぐに進んでみせよう」という気概を心の底から湧き起こさせることにももってこいだということが、一番の理由となっています。

(※これを実践してみようという方は、慣れてきて力を込めすぎる傾向のあるばあい、爪を故障させてしまうことがありますので、慣れてきた頃には注意をしてください。内出血などになり、慣れない方には見た目にも痛々しいものと映りますので…もっとも、数ヶ月も経てば、出血部分は伸びた爪に押し上げられてなくなります。手のひらに爪が食い込む場合には、棒を握っておいてください。過去のエントリに革細工の記事があります)

こうして、一般によく言われる「気合を入れて身体を前に進める」のとは逆に、身体的な運動が精神に与える影響を実感を伴った体験としてもっておくと、精神的に逃げ場がないようなときへの対処法としてとても有効なのです。

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そのことはさておき、先日、いつものとおり横断歩道で足と手にぐっと力を込めて待っていましたら、横に立った人から、「あの、」と声をかけられました。

つづく言葉がたまにある、「どこかでお会いしましたか?」なんかだったら嫌だなと思って振り向くと、「何かやっておられますか?」とのこと。

この「何か」というのは、なにも横断歩道でなんぞトレーニングをやっているとかそういうことだけではなくて、「どういうことを目指して生きておるのですか」といったより深い響きのように受け取れました。

見れば眼に少し力のある、すっきりとした物腰の方で、直接には背筋だかを評していただいたあと二言三言交わして分かれましたが、こんな人もいるのだなと思わせられたものです。

指摘されたときは死角から一本取られたような気がして、なぜに少しでも察知できなかったのかと、自らの鈍感さがとても恥ずかしかったものですが、思い返してみればなんとも不思議な体験でした。

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わたしは学生時代、服飾系の職場で働いていたことがあり、外見的なものがどれほどに人の目を惹きつけるかというものを思い知ってきましたし、普遍的な美というものは、いつも注意を払ってみてきたことでもあります。
ただこれは、だから外見を整えなければ、ということなのではなくて、わたしの場合は逆に、器量や身なりなどの外見ばかりを手がかりにして人を判断しがちである、ということへの自戒の意味合いがとても大きいものです。

たしかに、人それぞれが生まれ持ってきた背丈や体つき、器量などというものは、メスで身体に手を入れるのでもなければなかなかに変えがたいところがあります。
学生のみなさんであれば見聞きしたことがあることかもしれませんが、少なくとも若いあいだは、そのことが人生をある程度左右しているともとれる事実を見ているはずです。

大学でのミスコンで優勝するのは、なにも「お天道様に恥じることは決してするまいと心がけて日々を生きる女の子」だったりはしないでしょう。
こう言うと、くすりと笑う学生さんの顔が眼に浮かぶほどです。

ところが、ある程度齢を重ねると、やはり人の生き方というものは、見た目にも反映されてきます。

大きな腹を揺らして大衆にはおべっかを使いながら個人的な付き合いには人を見下すような態度を取る人間を、その身なりや立ち居振る舞いから見てとって、わたしたちは一見して「タヌキおやじ」などと言ったりします。
政界を知らない人からみると、そういった人間がなぜにあれほどの支持を受けるのかまるでわからない、といったところでしょう。

また、「三十がらみの、べちょっとしたいやらしい女」(高橋留美子『人魚 第1巻』)といった表現を見れば、漫画での描かれ方にあたるまでもなく、実際の像として思い浮かべて想像してみることができます。

ところが、ああいった直感的な把握というものが、その人の内面についての、ある真理をつかまえていることは、誰しも経験的に知っていることです。

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たしかに、背丈にしろ器量にしろ、持って生まれた要素がより良く見えるように伸ばしてゆく努力をしてもよいのだし、相手に失礼にならぬくらいには身なりも整えることはしてもよいのです。
女優さんが駆け出しの頃には垢抜けないように見えても、外面や服装を整えだしてからは独特の雰囲気を発するようになることは、環境や外面からの内面への浸透が大なりなのですから、過小評価し過ぎることもできません。

ただ、それで内面まで取り繕えたり潰しが効くというのは、とても限定的な期間のうちだけなのだ、ということもまた、一方の真理として想像することはしてみてほしいものです。

「想像してほしい」と書いたのは、実際にあるていど歳をとってみるまでは、学生のあいだには、まるで想像できないほどに理解しがたいことだから、です。

わたしの場合は、学生時代にそういった向きを身を持って経験してきてしまったので、いまではむしろ、外面をあまりに整えすぎている人からは距離をおくくらいがちょうどいいのではないかとさえ思えます。

わたしは学生さんから好きなタイプの人を聞かれたときに、テレビは見ないために具体的な人物としては誰も挙げられないものですから、「格好をつけて高い服を買ったり、派手に化粧をしない人でしょうか」、などと言います。
事実、自分と向き合って日々を過ごされて個人的にもとても信頼している人たちは、身なりは整えるくらいにとどめ、過度に取り繕うことは一切していません。


ともあれ、男であろうが女であろうが、明確な目標を目指して生きている人というのは、生活の中でのあらゆるところに、目標を実現するための細かな工夫を積み重ねているもので、結局のところ、齢を経て残るのは、そういった意識的な積み重ねの結果でしかないのであり、見る人が見るのならばそれは明らかなのだな、と今回の件は改めて教えてくれたものでした。

「男であろうが女であろうが」と書いたのは、横断歩道で声をかけてこられた方が異性だったためですが、学生のみなさんはぜひとも、このことをそれぞれのちいさな教訓としてほしいと思い、筆を認めた次第です。


あくまで人間であろうとする者ならば、持って生まれたものだけを誇るような存在には、なんらの感銘も受けないものですから。

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