2011/06/30

制約は発明の母か?(1):観念的な対象化とはどういうものか

誰かが作った創作物をながめて評することから一歩進んで、


自分の手でなにかを創作してみようということになると、ぶつかるひとつの壁があります。

以前にお話ししたような、一般にいう「趣味」というものをたんなる娯楽ですませずに、
より深くとらたうえで、それをとおして人間の本質に迫ろうという人には、なおのこと乗り越えなければならないものです。(Buckets*Garage: 新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか。より深い理解には、このBlogはなにを伝えたいのか(1)(2)(3)

その壁というのは、現実を取り巻く「制約」です。


芸術におけるそもそもの制約、という大きなくくりにして論じ始めると、
森羅万象の無限の広がりと、わたしたち人間が認識のあり方を有限の形でしか持ち得ないという矛盾があり、
そういう物質的な「枠」の存在と、芸術の表現形態としての「枠」のありかたを論じてゆかねばなりません。

これは簡単な例で言えば、たとえば現在主流となっている液晶パネルの比率が16:9のワイドスクリーンであるというのは、画面の比率と人間の認識とのかねあいのなかに、どのような合理性があるのか、という論じ方になります。
大雑把に言えば、一昔前までは、眼球がまぶたからのぞくことによって生まれる視野の縦横の比率が1.33:1であるという説が有力であり、一昔のテレビはこちらを採用していたのですが、近年のワイドスクリーンは、両目での周辺視野を含めたサイズとなってきたという経緯があるわけです。

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ただ、ここで表現論や映画史の講義をするのもあまり面白くありませんから、もう少し実践的に、わたしたちが実際に創作活動に取り組むときのありかたを見てゆきましょう。

表現は様々ながら、みなさんもこんなことを言われているのをご存知なのではないでしょうか。

それは、「一見すると単なる障害のようにも見える制約というものが、かえって創造性を高めるのに役立った」、
一言でいえば「制約は創造の母である」、などというものです。

さてこう問うと、もはや答えはすでに出たようなものですが、いつの場合にもそうであるように、答えそのものはさほど重要ではありません。
この格言めいたものを正しく実践へと適用するには、そこへと至る過程を正しく追えているかどうかが問われているからです。

さてそのような視点から創作活動を眺めたとき、制約といえば、たとえば
作りたいものがあるのに、画材や設備が高くて買えない場合や、
作りたいものが壮大過ぎて時間が足りるかがわからない場合などが挙げられるでしょうか。

◆◆◆

そういった外部からの物理的な制約の他に、精神的な制約もありますね。

たとえばものづくりを仕事にするなら、
「お客さんから頼まれたとおりにモノづくりをせねばならない」といった社会的な約束事が、自分のアタマのなかに「〜べきである」、「〜ねばならない」といった形で自分を縛ることもあります。

こちらは精神的な、内面的な制約であり、難しく言えば「観念的に対象化された」意志、ということです。
これは本来は自分の外部に位置するはずの「対象」(このばあいはお客さんの要望)が、
自分の内面のなかに像として残り、くり返しくり返しささやきかけてくるようになる、ということなのです。

自分のアタマの中にありながら、自由意志とはちがった形で訴えかけてくる意志が、それとは別に存在するということは、ひとつの矛盾です。
たとえば奥さんから身体を心配されタバコを禁煙を薦められているにも関わらず、「わかっちゃいるけどやめられない」という感情が生まれる場合にも、彼の内面の中に、矛盾する二つの意志が存在しているからですね。

それは、奥さんから「やめなさい」といわれたことをきっかけに生まれた「身体に悪いからやめよう」という対象化された意志と、長い年月をかけて習慣化されて定着した(量質転化した)ところの「身体に悪くても吸いたい」という自由意志が対立しているわけです。(厳密に言えば、後者はすでに自由意志よりも強い働きになっていることが、熱心な読者なら読み取れているかもしれません。ですが、ここでは意志についての矛盾について把握しておいていただければ結構です)

ここを感受性の鋭い人は、実体として好きなことをやっている「自分」のアタマの上に、ふきだしの中にはいった幽霊のような形で「ああそんなことやめとけばいいのに」と思いながら自分を客観的に眺めている「自分」を意識できたりもするのではないでしょうか。

あれは、こういったアタマの中で分裂した「もう一人の自分」を、感性的な段階で認識できているということでしかなく、人間にとっては誰でも持っている認識の在り方なのですから、いくら先生や友人から理解されなくとも、おかしなことではありません。
あなたのほうが、よりよく人間の感情を感じ取れているわけですから、将来的には人の精神を助ける仕事などにふさわしい性質だと言えるでしょう。

◆◆◆

さて外部からの命令や要望によってアタマの中に作られるものを、「観念的に対象化された意志」と言うのでした。

なぜこのような働きを持つようになったかといえば、人間の前段階であるヒトが、社会を形成するようになるにつれて他のヒトとの交通関係を持つようになると、こういったかたちで他のヒトとのあいだにあるていど共通の像を持っておかねば、総体として効率的な生活が営めなかったからです。
だって、個々別々バラバラに行動しているのなら、「社会」的な存在であることにはなってゆきませんからね。
そういうことから見れば、「観念的に対象化された意志」の成立をもって、ヒトとヒトとのあいだに「規範」の原基形態(原始的なカタチ)が成立した、ということになるわけです。


ところが、ここには一つ落とし穴があります。
これは研究職についている人間でも学問的な土台を持っていなければよく間違えるところなのですが、人間が規範を成立させるという現象だけを見てとって、それがまるで、人間の個々の体を抜けだした観念が寄り集まって、大きな「集団意志」のようなものを形成し、あろうことかそれが人間を操っているのだ、と解釈するという誤りです。

しかし、人間の認識の交通関係は、そんな霊魂のような概念を捻出せずとも十分に説明できますし、実のところわたしたち人間には「以心伝心」ということはありえません。
それがどんなに心と心でつながっているという感情を想起するものであっても、それがどうやって成立したのかを考えれば、
相手の表現した物質的な音声が空気の振動によって鼓膜に伝わることや、
注文書に記された要望を光学的な過程を経た後に自分の目に像として結ばれる、という過程を経た上で、あくまでもその上で、他者に理解されていることがわかります。

そういう過程を正しく踏まえるならば、自分の中に自由意志とは違った意志、つまり他者との間の約束である規範が存在することが理解できます。
ここの例でいいえば、自分から見れば外部からの、つまりお客さんの「ああしろこうしろ」といった口うるさいクレームや、または「できればこうしてほしい、あなたならできるはずだ」といった期待を込めての要望が、物質的な対象が感覚を通してアタマに像として反映されたものですね。

これらの意味を要して、学問の世界では「観念的に対象化された」と表現するわけです。


(2につづく)

1 件のコメント:

  1. >あれは、こういったアタマの中で分裂した「もう一人の自分」を、感性的な段階で認識できているということでしかなく、人間にとっては誰でも持っている認識の在り方なのですから、いくら先生や友人から理解されなくとも、おかしなことではありません。
     
     少しホッとしました。

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