2012/05/17

文学考察: 牛鍋ー森鴎外(続)

前回の評論記事のさいごで、


わたしは一つ問題を出しておきました。

それは、
作品の最後で2度、同じ表現が使われているけれども、同じ意味として受け止めてよいものだろうか?
というものでした。

そのことについて論者から返事がありましたので、検討してみましょう。


◆ノブくんからの返信◆

(※わたしが、菊池寛と森鴎外を比べると、作風と、作品が持っている構造が随分違うでしょう、と言ったことに対して)
確かに鴎外は菊池寛に比べると、作風は淡々としていて、なんだか読み応えがなく、難しい感じがします。
 
さて、今回の評論の「人は猿より進化している。」という箇所ですが、確かに落ち着いて読んでみると、第一回目の意味と二回目の意味が違う事がわかります。
第一回目の場合は、人間は猿の親子のような関係を他人と築いている事に対してそう述べています。
そして二回目は、猿は餌の取り合いに関して子供を叱りはしないものの、その手を止めないのに対し、人間は子供の為に箸を止める事がある事に対してそう述べています。
ここまでは理解出来たのですが、何故箸を止めたのか、までは分かりませんしでした。
ここまでが、自分がコメントを読んで、理解出来たところです。

◆わたしのコメント◆

わたしの指摘で論者もなるほど、と気づいたように、前回引用しておいた作品の最後では、同じ表現が使われながらもなお、その意味合いが異なっている箇所があります。

その箇所を、2つの意味段落に分けてもういちど引用しておきましょう。

・第1段落
母猿は争いはする。しかし芋がたまさか子猿の口に這入(はい)っても子猿を窘(いじ)めはしない。本能は存外醜悪でない。
箸のすばしこい本能の人は娘の親ではない。親でないのに、たまさか箸の運動に娘が成功しても叱りはしない。
人は猿よりも進化している。
・第2段落
四本の箸は、すばしこくなっている男の手と、すばしこくなろうとしている娘の手とに使役せられているのに、今二本の箸はとうとう動かずにしまった。
永遠に渇している目は、依然として男の顔に注がれている。世に苦味走ったという質(たち)の男の顔に注がれている。
一の本能は他の本能を犠牲にする。
こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。
人は猿より進化している。
◆◆◆

第1段落については、論者の言うとおり、「人間は猿の親子のような関係を他人と築いている」ことを述べているのですが、大2段落については論者は読み間違いをしているようです。

なぜかといえば、第2段落の1文目にある「今二本の箸」の主体についての理解に誤りがあるからです。

該当箇所の表現は、このようになっていますね。
四本の箸は、すばしこくなっている男の手と、すばしこくなろうとしている娘の手とに使役せられているのに、今二本の箸はとうとう動かずにしまった。
牛鍋を囲む3人の情景を想像しながら考えてゆきましょう。
まず牛鍋の近くに、2本の箸をその手に持ちながら駆け引きをしつつ食事をしている二人がいますね。
筆者が、男の手と娘の手を一緒に扱って、合計で「四本の箸」としたのは、それ以外の箸と区別をつけるためです。

しかし、牛鍋を囲んでいるのは2人だけではないのでした。男に寄り添うようにして酒を注いでいる人間がいましたね。
「今二本の箸」というのが誰かといえば、これは「永遠に渇している目」の女、その人なのです。

◆◆◆

ここまでわかったときに、続きの箇所がどのように理解されてゆくかも考えてみましょう。
永遠に渇している目は、依然として男の顔に注がれている。世に苦味走ったという質(たち)の男の顔に注がれている。
「そのまま膳の縁に寄せ掛けてある」「今二本の箸」であり、「永遠に渇している目」でもある「女」は、他の二人の駆け引きに注意を向ける余裕を持たず、また当然に、「男」がその権威でもって「娘」を牽制していることにも最後まで気づかないままであった、ということが書かれています。

つまり、
一の本能は他の本能を犠牲にする。
こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。
という表現が扱っているのは、二人の駆け引きにまるで気づかない「女」のことを評しているのであって、彼女は、食欲よりも、男に阿(おもね)る心、いわば色欲のような本能が勝っているのだ、と言っているわけです。

そのことを受けたさいごの結論は、
人は猿より進化している。
というものなのでしたね。

◆◆◆

以上のことからわかるのは、第2段落のさいごの「人は猿より進化している。」が言う「進化」というのは、論者の考えているような、人間としての高度さや優しさ、などといったものが質的に高い、といった意味でないことがわかってもらえるはずです。

「女」がもし、女性らしい優しさや人間としての配慮を見せるだけの余裕を持ち合わせていたのなら、「男」に「娘」への譲歩を促したりなどといった、「娘」にたいする気遣いというものがあってもよさそうなものです。
しかしそれがまるでないということは、筆者が「進化」と表現しているものも、一般的な意味での、質的な向上といった意味合いとして受け止めてはいけない、ということがわかりますね。

この第2段落の理解と、第1段落の理解を統一して考えると、筆者は「進化」ということばについて2つの意味をもたせているのであって、それは日常言語で言えば、人間は、猿より「良くも悪くも」人間らしい部分を兼ね備えているのだ、ということなのです。

文中での記述は、前半部には淡々と進むなかで、「これは何を言いたいがための作品なのだろう…?」という読者の思いなど意に介さぬかのように、後半部では人間は良くも悪くも猿とは違うのだ、と表明し、結局のところ自らのスタンスを明確にしない筆者の姿が明らかになったところで、作品は終わります。

牛鍋を囲む3人は、2人の駆け引きと、それに頓着しない一人とが、微妙な緊張感を保ったまま描かれており、それ以上でもそれ以下でもないのです。

その居心地の悪さに、どうしても物語上の結論や落とし所の欲しい論者にあっては、「人間の優しさ」といった価値観のメガネをかけてこの作品を解釈しようとしますが、それでは作品を正しく理解したことにはならないのです。

この作品の一般性を引き出すときには、牛鍋に顔を近づけて言葉少なに駆け引きをしている2人が真っ先に思い浮かびますが、残る一人の女についても、作品の客観性と緊張感を引き立てるに十分な位置づけにあることから、<牛鍋を囲む三人の情景を淡々と描いた作品>などとするのがふさわしい、ということになりそうです。

◆◆◆

以下は余談です。
学問論なので難しいとは思いつつ、先取りしておくことにします。

さて、ひとえに文学作品とまとめて言うことにしても、ここまで違った作風があり得るのか、これは一般性を引き出すとしてもなかなか一筋縄ではいかないな、との思いを新たにしてもらえたでしょうか。

いくつかの作品で見つけた構造の理解の仕方を、紋切り型にあらゆる作品に当てはめて理解しようとすると、無理な解釈が起きてくることもわかってもらえたでしょうか。

論者は先月まで、「菊池寛」の作品について、集中して取り組んできましたね。
そのことをとおして、彼の作品についてはそれぞれにある程度の正当性を持った一般性が引き出せているのでした。

そうであるならば、それを一歩進めて、各作品の一般性を総合して、「菊池寛作品の一般性」を引き出すとしたら、いったいどのようなものになるでしょうか?
形式面から言えば、それが、筆者それぞれがもっている「作風」というものです。

その内実に目を向けて、筆者ごとの「作風」というものを明確に規定する必要はまだありません。
しかし少なくとも、すでに取り組んだ作家の作風と、ほかの作家のもっている作風が明らかになるにつれて、対立物の相互浸透のかたちで、そのどちらも、そのどれもが明らかになってくるはずです。

そのためには、これから取り組む作品をとおして、さいごには筆者の作風が明らかになってゆく過程を通して、ここで獲得しつつある「作風」という概念の像を、より明確にしてゆく、という問題意識を常々持っていてほしいと思います。

「この作品がこんなことを主眼においているのはわかった。
ではこの人の作風は、どんなものだと言えるだろう?」

常々、それを考えながら読み進めるようにしましょう。

そのためには、以前にお願いしておいたように、文学史の通史という大まかな絵地図をあらかじめ頭の中に用意しておくことが、力強い手引きになるのです。

これからするのは、大まかな絵地図を自分の足で実際に歩いてみて、細かな箇所を書き込んでゆく、ということであるとともに、大まかな絵地図をもより高度なものとして完成させてゆく、という過程です。

◆◆◆

まずは通史を念頭に置いて、その中に息づいている作家群のひとりひとりに当たる中で、少しずつ「文学」というものの像が明らかになってゆき、それらの抽象と具体とののぼりおりの中で、文学というものの歴史の流れ、歴史的な論理性、歴史性がわかってゆく。これが、学問における歴史性の把握の方法です。

わたしは以前に、論者の選んだ職業に照らして、ひとつの名著を取り上げて、その章・節を少しずつ読みながら、自分の力で小見出しをつけなさい、と言っておきました。

あの時の「小見出し」は、文学作品を理解する際の「一般性」と、論理的に同一のものであり、そうであるからには、あのとき指定した学問的な修練の過程と、現在のそれもが論理的に同一のものであることも理解してもらえると思います。

もちろん、自分の専門分野に向き合う際に、目的意識なくただ漫然と過ごしていたとしても、ある程度の年齢ともなればそれなりの見識眼はつくものです。

しかし、わたしたちの目指しているのは、「一番高い山に絶対に登る、登りきってそこから世界を見渡す」、ということにあるのですから、あらかじめ方法論をこそ、じっくりと考えておかねばならないのです。

浜辺で遊ぶだけなら犬掻きですみますが、はるか向こうに霧がかって見える孤島や、はたまた地平線の向こうまで漕ぎだそうとするなら、それなりの時間をかけて準備しようというのが普通の頭脳の働きである…と、誰でも判断できそうなものですが、残念ながら、実際にはそうではないのです。

だからこそ、過去の偉人たちから謙虚に、謙虚に学び、まずはこれから目指すための目指し方、つまり方法論をしっかりと整えておく必要があるのです。
ここで挙げている方法論は、そのようなものであるとふまえて、まずは安心して、力強く引き続き前進をしてください。

また今回の余談で取り上げたことを極意論的に言えば、抽象と具体、概念と実体、全体と部分、というものは、常に対立物の統一という問題意識に照らして習得しなければ、机上の空論や、または逆に極端な経験主義という踏み外しが待ち受けているのだ、ということになります。

ここはとても難しいので、追々折にふれて説明してゆくことになりますが、「一般性」という概念や、「一般化」という作業が、単なるまとめなどといったものではないということは、まず理解しておいてほしいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿