2012/05/18

文学考察: 寒山拾得ー森鴎外

評論とは関係ない話ですが、


前に保護した仔猫はとっても元気になりました。
気遣いくださったみなさんに感謝いたします。


◆文学作品◆
森鴎外 寒山拾得

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 寒山拾得ー森鴎外
閭丘胤(りょきゅういん)という官吏は、ある時仕事で任地へ旅立とうとしていましたが、こらえきれぬほどの頭痛が起こり仕事を延期しなくてはいけない危機に陥っていました。ですが、そんな彼のもとに豊干(ぶかん)と名乗る乞食坊主が彼の頭痛を治すため、どこからともなくやってきました。閭はその申し出を受けることにして、彼から咒い(まじない)を施してもらいます。すると、なんとあれ程気になっていた彼の頭の痛みは、豊干の咒いによって消えてしまったというではありませんか。
そして豊干をすっかり気に入ってしまった閭は、仕事で台州(豊干のやってきた土地)に行くのだが、誰か偉い人はいないかと彼に問います。すると彼は「国清寺に拾得(じっとく)と申すものがおります。実は普賢(菩薩)でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊(菩薩)でございます。」と答えてその場を去っていきます。これを鵜呑みにした閭は彼ら2人を探す為、台州へと向かいます。
しかし実はこの2人の正体は、やはり菩薩などではなくただの下僧だったのです。ですが、豊干の言ったことを信じきってしまっている閭は、結局彼らの前で丁寧に挨拶をしたばかりに、下僧に笑われ恥をかいてしまいます。
 
 この作品では、〈自分よりも信仰心の強い相手を尊敬するあまり、かえって信仰を外れてしまった、ある官吏〉が描かれています。 
 この作品での閭の失敗は、言うまでもなく豊干のいう事をその儘鵜呑みにしてしまったというところにあります。では、何故彼は豊干の言うことを鵜呑みにしてしまったのかを、一度考えてみましょう。そもそも閭は豊干のことをあまり信用してはいませんでしたが、自身の悩みの種である頭痛をいともたやすく治したことで尊敬の念を抱いていきます。この尊敬というのは、彼が坊主であり日々の仏道修行によって磨いたであろう咒いによって彼の頭痛を治した事から、信仰の面から起こっているのでしょう。しかし閭は信仰心というものをそれなりには持っているものの、豊干の咒いは彼のそれを遥かに超えており、正しくはかることは出来ませんでした。そこで彼は、自分より強い信仰心を持っているであろう豊干の言葉をまるっきり信じることにしたのです。
ですが、閭よりも強い信仰心を持っているからと言って、豊干が常に正しい行動をしているとは限りません。例えば、一般的に親は子供よりも知識は豊富にありますが、童話「裸の王様」のように大人が間違っており、子供が正しい場合だってあるではありませんか。しかし閭の場合、そうした考えに至らなかったのは、豊干の言葉をその儘採用することで自分で考えることをやめてしまったというところにあります。まさに、閭の信仰心が彼の考える力を奪ってしまい、結果的に恥をかかなければならなかったのです。


◆わたしのコメント◆

あらすじは、論者のまとめているとおりです。

主人公である「閭(りょ)」という官吏は、「豊干(ぶかん)」という名の乞食坊主に持病の頭痛を治してもらったことをきっかけに、彼に大層な尊敬の念を抱きます。そのような理由があって、彼の紹介で二人の菩薩に会いにゆこうとするのですが…
という物語です。

結局のところ、閭が、豊干の紹介で会った二人は、菩薩などではなくてただの下僧であり、さいごには彼らに笑われて立ち尽くす閭と案内役の姿をもって物語は幕を閉じることになります。

では、閭はなぜ豊干らに謀られることになったのか、という問題に焦点が当たることになりますが、論者はそれを一般性として引き出すかたちで、この物語は〈自分よりも信仰心の強い相手を尊敬するあまり、かえって信仰を外れてしまった、ある官吏〉を描いているのだ、としています。

論者は、この作品を大きく見たときには、<対立物への転化>がその論理性として浮かび上がってくるのだ、としているわけです。
この指摘は誤りではありませんが、ここのところ、物語の一般性を登場人物の主体に置く傾向が強くなっているため、果たしてその導出の仕方が惰性的な、紋切り型のものになっていないかという自省を促すことも含めて、すこし突っ込んでみてゆくことにしましょう。

◆◆◆

わたしがこのように言って、特にこの作品を取り上げた理由は、この作品が、登場人物の心理描写だけではなく、ひとつの格言的な内実を持っているからです。

とくに、その内実は物語の背後に隠されているようなものではなく、明示的な表現としてあらわれていますから、この場合、一般性は登場人物の主体に置くよりも、物語全体の教訓や格言のかたちに整えたほうが文意に即するのではないか?という疑問があるのです。

やや長いですが、その箇所を書き抜いてみましょう。(註:小見出しは引用者による)
 全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。 
・道に無頓着な人
自分の職業に気を取られて、ただ営々役々(えきえき)と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着(むとんじゃく)な人である。
 
・道を求める人
つぎに着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督(クリスト)教に入っても同じことである。こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
 
・中間人物
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念(あきら)め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠(せいこく)を得ていても、なんにもならぬのである。
◆◆◆

この箇所を読んでみて、どう感じましたか。
筆者がこのようにまとめている以上、これを使わない手はない、と思ったのではないでしょうか。

そこでまず考えてもらいたいのは、この整理の仕方で見たときには、この作品に登場するそれぞれの人物は、いったいどの種類の人なのだろうか?ということです。

この区分は固定化されたものではなくて、その種類の中にも一定の範囲を持っており、相互に移行し合う関係にあるのですが、その転化こそ、この作品の本質を理解するにあたっての大きな手がかりになるものです。

まず、「豊干」らはどうでしょうか。
「閭」を謀(はかりごと)にかけたとは言え、彼とその小間使いたちは少なくとも肩書きの上では僧侶ですから、筆者の定義に従えば「道を求める人」ということになります。

ちなみに、彼らがいたずらのような策をめぐらせたという、その理由を知りたくなるのも読者としての人情ではあると思いますが、その動機については直接的な記述が見当たらないことと、また間接的にも読み解く手がかりがないこと、またそもそも、彼らの存在は、この作品全体をひとつの教訓たらしめるための舞台装置としての役割を果たしていることから、その内面に深入りする必要はないでしょう。

彼らの性質というのは、いわば天候や気まぐれな神様のようなものなのであって、物語全体で指し示したいことがあるときには、筆者の手によってその性質をいかようにも変更することができるというものですから。
わたしたちは、帽子が風に飛ばされたことが縁で恋仲に落ちた二人の物語を読む時に、「この風はなぜタイミングよく吹いてきたのだろう?」ということを少し気にはしても、物語の展開が無理なく進むときには深入りして考えないことと同じです。

◆◆◆

さて次に、この分類で言えば、「閭」はどの種類の人間だということになるでしょうか。ここが問題です。

彼は、持病である頭痛に悩まされてきたという人間です。
その彼が、出かけなければならないときに頭痛に襲われ、やむを得ず外出を先延ばしにしようとしていた時に出会ったのが「豊干」なのでした。

豊干が閭にほどこした咒というものは、口に含んだ水を閭の顔に吹きかける、という簡単なものですが、どんな咒が始まるものかと構えていた閭にとってこれは青天の霹靂だったのであり、驚きのあまりにそれまで気にしていた頭痛というものが、どこかへ吹き飛んでしまったのです。

この時を境に、それまで僧侶や道士というものに対して漠然とした尊敬の念だけしか持っていなかった彼は、その念を確固たるものへと転化させることになったわけです。

彼の性質を、さきほどの分類で言うことにすると、このようになるでしょう。
彼は以前から「中間人物」であったものの、その位置づけから言えば「道に無頓着な人」に近いものであったところを、この咒をきっかけにして、一挙に「道を求める人」寄りの性質に変化させたのだ、と。

しかしだからといって、彼は自ら道を求めたのかといえばそうではなった、ここに、大きな落とし穴があったのです。

彼は道に感化されながらもなお、自らその道を歩むという選択はとらなかったために、道を求める者を、ただ遠くから眺めて憧れるしかなかったのです。
そうだからこそ、豊干の紹介するままに、二人の菩薩と言われる人物に会いにゆき、さいごには謀られていたことに気づくことになるという失敗につながっていったわけです。

◆◆◆

結論から言えば、彼はどれだけその姿勢を変化させようとも、「中間人物」の枠から一歩も抜けだそうとしなかったために、このような辱めを受けることになったのですから、これはひとつの教訓を示している、と理解してもよいでしょう。

豊干が紹介した二人の菩薩は、実のところ単なる食器洗いと小間使いでしかなかったのですが、それが明らかになる箇所を見てください。
 二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」と言ったのが聞えた。
深々と頭を下げて挨拶をした閭にとっては、あまりにもの仕打ちだとも思えますが、この失敗というものが、閭の道についての姿勢が引き起こしたものである以上、彼にも反省すべき点があったのだ、ということになるのではないでしょうか。

ここで筆者が言いたいことは、このようなことでしょう。

自ら道を歩む気がない者は、対象とするものがわからないからとか、なんとなく有りがたいように感じられるからとかいった理由で、それを尊敬しようとするが、これはいわば「盲目の尊敬」というものなのであって、内実を伴わないものなのである。
対象への敬意を本当に示す気があるのであれば、そのものの内実を知ろうというのでなければ、当然ながらその理解は表面的なものにとどまらざるをえないのであり、そのことは単に道に無頓着な者よりも、大きな失敗を招くことにもつながるのである。

ここまでの流れを教訓面に焦点を当てて一般性として要することにすると、この物語は、<尊敬の念は、内実が伴わないときには、かえってそれを持つ当人に手痛いしっぺ返しを招くことがある>、などとするのがよさそうです。

論者の理解でも間違いではないですし、論証部を見ればその理解が浅くないことは窺い知れるのですが、せっかく筆者が物語の理解を助ける整理をしているのですから、そこを活かすかたちで論証をすれば、より物語に即した、説得力の高いものとなったはずです。

2 件のコメント:

  1. <尊敬の念は、内実が伴わないときには、かえってそれを持つ当人に手痛いしっぺ返しを招くことがある>

     ↑  ↑  ↑
    私も気を付けなければ…

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  2. きこり文五郎2017年8月15日 12:54

    私は卑怯な人間で、卑怯なコメントを書かせていただきます。私は、高校の国語教員で、この作品に疑問だらけだったので、となりの席の同僚に質問したところ、のぶさんと同じ意見を回答されました。そのとき、私は「そんな単純な話を鴎外が書くだろうか」と疑問を返しましたが、今も同じ気持ちです。それなら、おまえの解釈は何か、と問われると、よくわからないのです。しかし、よくわからない作品があってはいけませんか。

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