2012/05/19

理想をいかに形にするか:自転車バッグG4 "TRUNK" (3)

すこし間が空いてしまいましたが、


前回までで、G4のだいたいの形が縫いあがった、というところまで追って来たのでした。

しかし今回の作品はなんだか、いやに認識論やら論理学やらが出てこないな?
と思われた読者の方もおられるかもしれませんね。

そうなのです。
今回の創作物は、作るものを決めるまでが大変だったと言うよりも、実際の作業工程がとんでもなく面倒だった、というものでしたから。

G4は、かなり初期の段階で実現したいことがはっきりして、それに伴いサイズまで明確にできたので、デザインする部分は今までよりも格段に少なかったのです。

では作りたかったものが設計段階ではどういうものだったかといえば、こんなふうです。

もっとも初期のデザイン案。
この時点で、タテ・ヨコ・ナナメのサイズは決まっていました。

出来上がったものと比べてみるとわかってもらえるとおり、おおまかには想像していたものとほとんど変更のないものになりました。

それだけ、はじめから目指すものが明確だった、ということです。

そもそもこの道具でなにをやりたかったのかといえば、
「とにかく自転車で、iPadを使ってみたい!」
というものだったのでした。

誰でも思いつくけれども、実際に作ってみることに価値がある、という類のものの作り方ですね。
わたしはデザインするという過程に認識論を持ち込んで、ものづくりの実践をするとともに論理化しているので、こういった技術的な部分に関してはあまり論じて来ませんでした。

◆◆◆

ここから3節は学問的な余談です。


人間が目的的に行動する動物であるという規定は、人間の表現過程においても貫かれており、その過程では観念的に思い描いた像を、いかに物質的な表現へと移し替えてゆくか、という技術の問題があります。


ここに関しては、わたしのような技術的な素人があれやこれやと下手な技を披露するよりも、やはりその道の一流の職人さんがどのような技を駆使して複雑な構造を持った創作物をつくり出してゆくのか、という向きに深く学び、探求してゆかねばなりません。


しかしともかく、デザインの過程では、こういった卓抜なレベルの手技を想定したり、技術的に習得しておくことは必ずしも必要ではありません。


円周率が解明されていなくても十分に実用に足る車のホイールやベアリングを作ることができますし、それぞれの家の表札がわからなくても駅までの地図は十分に描け、個別の知識がなくても職人さんを率いて会社を運営できることと同じで、とにかくなんでも詳しくなくてはいけない、ということはないのです。


ではどこまで知っておけば良いのか?と言えば、それは当人の持っている目的、実践上の必要性によって決まってきます。


一般性と特殊性の対立物の統一は、ひとえに実践上の必要性から導かれる原則によって規定されているのですが、机の上で思想を組み合わせているような研究だけしかしていないと、実践という観点を欠いているためにどのためにどこまでの知識が必要かが判断できず、個別的な事実の蒐集に走ってしまう傾向が強くなります。


あくまでも事実に忠実にものごとを考える(唯物論)、つまり本質論を先天的に措定(観念論)しない、という科学的な立場に立っているもりが、いつのまにか対立物へと落ち込んでいってしまうひとつの大きな理由は、「実践をしていないから」ということになります。


今回の場合で言えば、良いデザインをするという目的に照らしたレベルの製作過程を知っておくことさえ出来れば、目的は達せられるというわけです。


◆◆◆


弁証法が難解なものに映るということも、実践をしているかいないか、という問題に照らして考えることができます。


たとえばいつもの記事で、デザインにも日常生活にも文芸にも、はては自転車ツアーにも認識論や弁証法が出てくることについて、なんだかぼんやりしている印象があるだとか、例示してある個別の知識の真偽が気になって仕方がないあまりに全体の論理性がまるで読めない、という場合はこの問題を疑ってみるとよいでしょう。


そういう読者の方にとっては、ここでされているような書き方を見て、なぜにこれほどごちゃごちゃと理詰めで論じなければならないのか?もっとふつうに書けばよいではないか?当たり前の現象に学問的な味付けをしているだけなのではないか?と思われるかもしれません。
一言でいえば、「衒学くさい」というわけです。


しかしこの書き方は、実践上の厳しい困難にぶつかっている人にとっては、その「実践上の・実際の」(「机上の」ではなく)手引きとして、明確な原理・原論を提供しなければならない立場からすると、どうしても必要なことなのです。
そしてまた、そこでの記述が弁証法的であることによって、論理性をふまえることのできない時点では難渋に聞こえてしまうきらいが、どうしてもあるのです。


実際に同じことを、より高いレベルの実践を目指そうとして取り組んでみれば、単なるノウハウとはまったく違う手引きであることがわかってもらえるはずなのですが…。


◆◆◆


そういうわけで、ここでの記事を少しでも自分の専門分野に役に立てたいという人は、なんだか妙に迂遠な言い方をしているな?と感じられたときには、そこに弁証法の三法則や、人の認識のあり方や、過程的な構造についての記述があるのではないかな、と調べながら読んでほしいと思います。


そもそもの出発点が、机に向かって昔の思想家のアイデアをつなぎあわせてオリジナルだと売り込むような研究とは違い、実践を導くための論理と、その体系である理論をめざしてのものです。そこのところをまずは踏まえておいてほしいと願ってやみません。


ここでの文章にたいする反応はそのほとんどがとても好意的でありがたく思っているのですが、ときには大きな温度差があることがあります。それは「それを実際にやってみているか」または「実際にやってみるように想像できているか」という問題意識に差があるからだと思います。


たとえば指導の分野でなら、後進の上達の手助けをしたくても指導の方法が検討もつかず、自分のできていることすら伝える手段を持たず、当人の頑張りを一番知っているにも関わらず結果がでないことに気休めしか言えない、といった状況に置かれた身になったことがあるか、またはその身になって想像することができないなら、どんな論理も単なる屁理屈に聞こえて当然というものではないでしょうか。


押し付けがましい言い方かもしれませんが、ここに書いてあるのは、研究を始めたばかりのころのわたしが、知りたくて知りたくてたまらなかったけれどもそれを知る実力も術もなかったことを、少しずつ少しずつ、岩を砕いて噛むように解き明かして今では使えるようになった認識と、その実践的な適用(技術)、そして表現ばかりです。


その意味では、同じ問題意識を持っている人にとってはそれなりに面白い内容を持っているのではないかな、と思っているのです。


お目汚し失礼、余談おしまい。

◆◆◆

さて、上に載せたデザイン画が、実際にはどんなふうに仕上がったでしょうか?

上の見取り図とは少し違いますが、製作の直接の元となった正面からのデザイン画はこういうものです。

G4デザイン画。(上のラフ画とは違って、実寸台で書かれています)

で、実際に出来上がったのはこういうもの。
iPadケースが天板にくっついていますね。
これがやりたかったための道のりなのでした。
こちらはiPadケースを外したすっぴんですね。
ほとんどデザイン通りになったのではないかと思います。

出来上がってみると、それなりに大変だったけれどもやはり角を丸くしておいてよかった、と苦労が報われたような気がします。

さいごに、いくつか写真を載せておしまいにしましょう。


(4につづく)

1 件のコメント:

  1. >同じ問題意識を持っている人にとってはそれなりに面白い内容を持っているのではないかな、と思っているのです。

     「同じ…」かどうか、(まだ)ハッキリ分ることができない、のが残念ですが…
     
      それでも~今回も、とても面白く感じています。
     
      後は、実践での習練!ですね。

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