実はオーナーからお礼状をいただいていました。
このBlogに、作りかけ数点の写真と、完成したときの記事を公開してすぐに連絡をいただいたのですが、その内容に携帯電話を持つ手が震えたほどでした。
それは、あまりに見事にわたし(作り手)の意図を、深く、深く汲み取ってくださっていたからです。
個人的にいただいたお礼状を公開することについては逡巡もありましたが、ひとつの表現を味読する、という姿勢について、人の表現に触れることが欠かせないわたしたちにとって、学ぶものがとても多いと思いましたので、勝手ながらご紹介させていただく次第です。
◆◆◆
作り手さん
東北行き前に製作途上のデザイン2様が披露されて以来、細部に至るまで熟視して、まるで謎々や知恵の輪を解くかの如く、あーでもない、こーでもないと想像の羽根を羽ばたかせておりました。読者に考える余地と猶予を残してくださり、感謝しています。先ずはその辺りからお礼を申し上げたく思います。◆◆◆
「造る物には人となりが表れる」とは言いますが、正にその通り!書物の行間に込められた著者の意図を正しく汲むが如く、作り手の想いを、今は離れた所にありはせよ、厳粛に受け止めているところです。
渾身の力作たる「G3」に比するモノは、私にとっては、今後も現れない。何故ならば、貴器の有り様は、これから私の手で、また自転車と共に時を刻み続けることで、如何様にも変貌していくからです。したがって現段階では、敢えて「完成」とは呼びません。
特殊な気候・風雪に耐えながら悠久ともいえる時を紡いできた屋久杉が、他に例のない程の密なる年輪を描くが如く、その時折々の良い表情を見せてくれるのでしょう。私も同様に、更に年齢を重ねていく過程で己の「顔(表情)」には「責任」を持たねばなりません。歳を重ねれば重ねるほど、その人の人間性や人格が露わになってくるはずですから…。
最も特筆すべき点は、やはりフロントバッグの「顔」とも呼べる前面。黄金比のコンポジションを重要視して構成原理を追求していく巧緻に陥らず、日本古来の柿渋染めの中でも特殊な技法を用いる妙。視野狭窄にならずに全体を見渡せる視点を持ち合わせていればこその芸当であろう。見事なまでに和洋の「調和」を表現して下さった。当に驚嘆の念を禁じ得ず。最大の感謝を述べたい。
貴殿の過去の製作記の流れを熟読して、はじめてオーナーと作り手の「議論」の必要性という、その真の意味について少し理解が進んだように思う。「議論」の過程そのものがデザインであって、形ばかりのデザインが先ではないのだと!
「弁証法」の正しい体得者として、否や「体現者」としてモノ作りされる姿勢は、改めて学問そのものなんだと認識を新たにしました。
この書面を引用させていただいたのは、なにも激賞をいただいたからではなくて、ある表現を読み解くための、正道そのものの姿勢がここに現れていることに感じ入ったからです。
わたしとしては、数十年に一度の得難い出会いだと言えるほどの人とのやり取りをこういった形で公開することは、読者のみなさんにとってなんだか内輪の自慢話、出来レースのようにも見えてもおかしくないことですから、そういった意味でも少しばかりの心配がありますが、上でも述べたように、わたしたちはオーナーさんのこの姿勢から学ぶことは少なくないと思うのです。
そう断った上で率直に言いたいのですが、わたしはこの文面を読み進むにつれて、携帯電話を握る手が震え、手のひらが汗ばみ、背筋にぞくぞくしたものが通るのを感じました。
そうして腑抜けのような体で集中して読みきった後、しばらくぼんやりしたあとやっとアタマが動き始めて、自分がこういう感想のあまりにそうなったのだとわかりました。
わたしはまだ、こういう深さで人と人とが繋がりうるということを、信じきれてはいなかったのだなあ…と。
◆◆◆
以前からの読者のみなさんには折に触れてお伝えしているとおり、弁証法的唯物論の観点からすれば、人間の精神とは人間が物質的・器質的に備えている脳のはたらきなのであり、精神が頭から抜けだして独り歩きしない以上、ひとつの表現も、そのなかに直接作り手の精神が含まれているものではない、と考えねばならないのでしたね。
そのことの論理的な帰結として、わたしたちがひとつの表現に向きあうときは、あくまでもその表現をあらゆる角度から眺めたあと、そこに込められている作り手の認識のあり方を、自分の頭の中に再現してみる形でなぞらえてゆかねばならないのでした。
G3のオーナーさんがそこを経験的にしっかりとふまえられたことが、冒頭の、「東北行き前に製作途上のデザイン2様が披露されて以来、細部に至るまで熟視して、まるで謎々や知恵の輪を解くかの如く、あーでもない、こーでもないと想像の羽根を羽ばたかせておりました。」という文面として現れています。
これは、わたしたちがひとつの建物についての数枚の写真をじっくりと眺めて、それらが全体の中でどのような位置づけになるのかと問いかける中で、最終的にはまるで鳥になったかのような視点を手に入れるとともに、各写真のあり方は形は崩されて内容を掬い取られ、その像がおおまかな絵地図として止揚されることと論理的に同一です。
おおまかな像が描けるということは裏返し、未だ明らかになっていない側面の詳細については、当然ながらおぼろげな像としてしか描けていないということですから、その事実は「ここはきっとこうなっているのだろうな、ああ、早く実物が見たい!」という強い目的意識を含んだ感情として呼び覚まされ、「読者に考える余地と猶予を残し」たことについての感謝のことばにつながっているのです。
◆◆◆
そうして芽生えた探究心というのは、作品とそこに込めたメッセージをなぞるだけでは飽きたらず、作り手の過去にあったはずの過程を自らの経験であったかのようになぞらえ、その思想性にまで歩みを進めておられるのです。
「貴殿の過去の製作記の流れを熟読して、はじめてオーナーと作り手の「議論」の必要性という、その真の意味について少し理解が進んだように思う。」
そうして、直接には手を動かして写真の向こうにあるバッグを作ったわけではないながら、その製作過程を自らのもののようにしてなぞらえることをとおして、「デザインするとはどういうことか」という一般論まで像として描いてみせておられるのです。
「「議論」の過程そのものがデザインであって、形ばかりのデザインが先ではないのだと!」
しばしの思案のあと、一気呵成に書かれたと思われるこの文面には、分析的に書かれた冷静な面と、ペンの勢いが自分の思いについてこないことがもどかしいというまでの感情に溢れた常体からなる情熱的な表現が一体となってあくまで自然に同居しており、わたしはこの文面も、全体の流れのなかでの結節点としての現在を捉えた、つまり歴史性を把握したところの、ひとつの作品だと感じ入ったものでした。
◆◆◆
わたしがG3をつくることになったきっかけというのは、オーナーとの出会いに感謝する気持ちを、この思いはとても文字などに起こせることではないと思ったのが出発点でした。それはその裏返し、頭でっかちになって、文字という手段ばかりに頼る今の自分についての反省にもつながっていたのです。
「なにも、表現は文字ばかりではないではないか」、というのがそれです。
わたしにはなにか強い想いがあると、ひたすら黙ってスケッチブックになんでも描きなぐったり、手を切り傷だらけにして石を削っていたいたころもあり、それが高じてデザインというものに手を出したことを思い出し、オーナーの人柄をそのままに映したようなものを作ってみたい、という思いに取り憑かれたのです。
そうして出来上がったものについて、こうした深い洞察をもった文面をいただけるというのは、作品を作品で返していただいたという、これは表現に携わる者としてたったひとつの、最良のお返しをいただいたことにほかならないのです。
わたしはデザインを仕事にしていたときに、面白い仕事ならタダでも構わないと言い切っていましたが、周囲からの疑念を実際に晴らすだけの仕事にはついぞめぐり合うことがありませんでした。
創造的な仕事をしている人なら誰でも、単なる格好つけなんかではなく本心から、このことには同意をしていただけるのではないでしょうか。
たしかに衣食住ができなくなれば人間はオシマイですが、そういう人間にとって、金銭というものは、「必要だが死なない以上には要らない」という意味だけなのであって、あればあるほどよいと信じきっている人から、線引きが曖昧だからそんな思想には意味がないといくら詰られても、たやすく解体してしまうような実感ではありません。
このオーナーさんも、ご自身でものづくりをされている方であり、理論的実践家・実践的理論家であることからのご発言であることは承知の上でも、読み返すたびにすごい、ありがたい、とても信じられない、という思いがこみ上げてきて、言葉に起こすのに1週間という時間をいただいてしまったものでした。
お詫びと共に、作品を通して作り手の内面までもあまさず理解し尽くそうとされ、そしてまた事実そうしてくださったことは驚き、感嘆の念を禁じえず、最大の感謝を表する次第です。
◆◆◆
この文面には続きがありますが、そちらは個人的なことがらなので公開していません。
実はわたしがG3にとりかかるのと入れ違いに、オーナーさんからデザイン案をいただいていたのですが、わたしの作り始めていたものがこれまでの流れとは異質であったことが理由で、そのデザインを後付けではうまく組み込めなかったことが気がかりだったものです。
ところがオーナーさんは、ご自身がご自身の手でデザイン案を提案してしまったことすら失敗だとおっしゃり、作り手を信じきれなかったことを悔いているとまでおっしゃられました。
わたしにとってはまさか、というほどの杞憂であると感じていますが、作り手であるわたしからはなかなかに切り出しにくいこういった話題にも、あえて率直な感想と、心底までに謙虚に臨まれ誤解を解くべく歩み寄られるというその姿勢は、まさに作り手と観念的に同一の立場からものごとを見ておられることを示していると言えましょう。
◆◆◆
以上、読者のみなさんが理論的に追い続けている認識論のうち、観念的二重化についてのよい実例となるのではと、論じてきたものです。
学問や芸術の世界で表現をしているひとりの人間として、鑑賞者は間接的なパートナーであり、そのうちオーナーは内実とものパートナーと言えます。
しかし仕事として表現をするときには、熱意に天と地ほどの差があるパートナーとの間にでも、ひとつの作品を練りあげてゆかなければならないこともありますし、最悪の場合には数年手塩にかけて温めてきたものを、一瞥して出来損ないだとゴミ箱に放り込まれることさえあるものです。
自分の分身、子どもとも言えるひとつの作品を、ことばは悪いですが変質者のような人格に委ねなければならない場面もあり得ることを考えれば、ひとりの表現者にとって、真に批判的に向き合っていただける鑑賞者の存在は、何者にも代えがたい自分自身の存在証明です。
繰り返しますが、これは決して、自分の作品を褒めてくれるから良い、というのではないのです。
なんとなくの一目惚れだと言われるよりも、これこれこういう理由で良くないのだ、とダメ出しをされることのほうが、遥かに嬉しいし、遥かに為になるものなのですから。
わたしたちも、本当の意味での批判者でありたいものです。