(1のつづき)
さてそうして、そもそも、「自転車用バッグとはどういうものなのか?」と問いかけることにすると、一般的なバッグのあり方を無批判にそのまま自転車用としても押し付けようとする姿勢を改めてゆかねばなりません。
その自覚は、G2を作り終えた直後からおぼろげながら持っていたのですが、徹底的に自転車に、そしてまたその乗り手に寄り添うかたちを模索しようとしても、G1とG2の影がちらついて、なかなかに発想を切り替えることができないでいました。
それが今回の自転車のオーナーと議論していく中で、明確な像として描けるようになっていったのでした。
その方が含めてほしいモチーフとしておっしゃったのは、以下のようなキーワードであったと思います。
・禅(ミニマリズム)
・完全-1(完全からひとつ少ない形)
・和と洋
・黄金比と白銀比
・フィボナッチ数列(0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21…)
またサイズは、幅260*高さ160*奥行き160(mm)と指定があり、幅と高さ及び奥行きも黄金比をとりたいからであるとのことでした。
さらには、黄金比と対応するものとしてオウムガイの殻まで持参していただいたことは、黄金比というのはあくまでも人類がその歴史の中で自然との対話の中から見出してきた法則なのであって、「黄金比がはじめにありきなのではない」ということを、改めて確認させていただいたものでした。
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わたしはそれを聞いて、見て、とても嬉しくなりました。
この方が、ものづくりというものをよくお分かりになっていることがよくわかったからです。
というのも、ものづくりをするにあたっては、そのオーナーの想いこそが最終的な作品として現れるのであって、オーナーが「適当に頼む」と丸投げしたものをわたしがつくることほどつまらないことはないのです。
いわば、ものづくりの出発点とは、あくまでもオーナーと作り手との共同作業こそを指していたのであって、現代の大量生産のあり方をいきなりその本質に押し付けてはいけません。
前回のオーナーとの議論もそうでしたが、こういった人たちがあってこそのものづくりなのだな、と改めて感謝の念を深めました。
さて、わたしが上のお話を聞いたときに、それまでのものづくりのなかで脳裏に浮かんでいたおぼろげな像が、ある形を取り始めているのを意識していました。
このBlogでたまに言う、「パッパッパッと脳みそに電気が走る」という感覚(おかしいでしょうか?でもほかに表現しようがないんだよねえ…)、あれです。
それが先週の土曜日で、わたしはその方を駅まで見送ったあと、自宅に帰るとすぐに図面を書き始めました。
しかし出来上がったものは、それまでにやったことのない技術が数件含まれていて、失敗すると260*1000mmほどの大きな革が無駄になってしまうという案でした。
果たしてやれるのか?と湯船に顔をつけながら思ったのですが、ダメならダメだということがわかるのが前進である、との一念ではじめることになりました。
根が楽観主義なのは、人生にとって大きな資産なのかもしれません。
昨日と今日が東北行きでしたから、それまでに完成させたかったことも背中を後押ししていました。
◆◆◆
実際の作業工程については、本年度の総決算にふさわしいと思える内実がありましたが、ものづくりをしない方にとっては退屈そのものでしょうから、結論だけを書くことにしますと、いわゆる「職人芸」の持っている構造が以前よりもはっきりと浮かび上がってきたことは収穫でした。
革細工・革工作をするときには、まず大まかな型紙をつくり、それに基づいてサイズ感を確かめたあと、革を切り出す作業に入ります。
そこから観念的に持った目的像を目指すようにして手を動かして、細部を煮詰めてゆきますが、それとともに型紙にも細かな線や注釈を付け加えてゆきますから、作業の進展と浸透する形で型紙のあり方もより詳細で明確なものになってゆくのです。
そうして、作品が出来上がったことと直接に完成した型紙こそが、いわば理論となって、次の作業工程を照らす導きの石となるわけです。
これまでが、設計図と素材から完成までの工程との一般的な構造ですが、なおのこと重要なことに、型紙が理論であっても、それが人譲りのものであるか、自分で構築したものであるかには、大きな違いがあるということなのです。
どこに違いがあるのかといえば、後者には結論的な型紙を導いたもろもろの経験が過程として止揚されているということであり、それはつまり、ものづくりの重要さとは、理論にあること以上に、理論そのものの導き方にある、ということを示唆してもいるのです。
たとえば、直径10mmの棒に3mmの厚みのある革を巻きつけたときに、それは合計でどれくらいの厚みになるのか?一般的に考えれば16mmでよさそうに思えるが、革の質によって違いが出ることはないのか?濡らすとどうなるか?そのあと乾かすとどうなるか?縫いつけたあと濡らすほうがよいのか?…
そういったふうに、いまの自分の作業を取り巻く制限を鮮やかに意識し、理論的に確からしいところにまで追い詰めたあとで実際に作業を進め、「正しく失敗する」という経験を通して自らの認識のあり方そのものを深化させてゆく、その、理論そのものの導き方に職人芸と呼ばれる技の妙があります。
これまで闇に閉ざされていたそういった技術を、認識論と論理学(弁証法)を武器にして理論化し万人の資産としてゆくことは、なかなかにエキサイティングです。
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そういうわけで、ものづくりに片足を突っ込んでいる読者のみなさんは、今度わたしと食事に行ったときに両手を振り回して喚き立てるのをうっとおしいと思うかもしれませんが、大目に見てやってください。
さて構造、構造と言うのも聞きあきたと思うので、次回ではそろそろ実際にできたものを公開して批判を仰ごうと思うのですが、その前に、わたしが適当に拾ってきた資料の中で印象的だったものを見て、自分だったらどんなものにするだろうかと考えてみてください。
わたしは、この前のお休み言い訳記事で書いておいたように、「静謐なもの」にしたいと思いました。
それは、とりもなおさずわたしが感じているオーナーの人柄に由来するところが多分にありますが、静謐で、どこにおいても場を乱さないものであるとともに、すっと立てた軸に柔らかな衣装をまとっていて、くっきりとした輪郭ながらどこかに丸みをおびているようなもの、といったようなイメージであると言えば、わかったようなわからないような、というくらいには像を描いてもらえるでしょうか。
激しい生き方をしてきた人ほど、齢を重ねるごとに同じだけのやさしさをみにつけてゆくことを、みなさんも生きた実例として何人かはお会いになったことがあるのではないでしょうか。
わたしは今回の作品で、もしそういうものができれば、これまで創り上げてきたものを過去に葬り去り、一から積み上げ直してゆくためのあたらしい土台ができるのではないか、と感じたのです。
弁証法で言う、第一の否定、ですね。
(2につづく)
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