2012/03/11

極意論とはどう向きあうべきか (2):「文学考察: 仇討三態・その三ー菊池寛」を中心にして

(1のつづき)


前回の記事では、今回の評論へのコメントの前書き、注意書きとして、極意論をまる覚えすることの恐ろしさについて触れました。

そのことは裏返し、知識的なまる覚えではなくて論理的に記事を読んでほしいからだったのですが、この記事にはどのような論理性が含まれているでしょうか。
弁証法の三法則、「否定の否定」、「対立物の相互浸透」、「量質転化」がどこにはたらいているのかを探しながら、読み進めてみてください。



◆文学作品◆
菊池寛 仇討三態

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 仇討三態・その三ー菊池寛
宝暦三年、正月五日の夜のこと、江戸牛込二十騎町の旗本鳥居孫太夫の家では、奉公人達だけで祝酒が下されていました。そして、人々の酔いがまわってきた頃、料理番の嘉平次はその楽しさのあまり、自分の仕事を放り出して酒の席へと顔を出してきました。そして、一座の人々は「お膳番といえば、立派なお武士だ!」と、彼を煽てはじめます。すると、嘉平次もその気になりはじめ、あたかも自分は刀が振れるかのように、武士であったかのうに語りはじめます。やがて、調子にのった彼は旧主の鈴木源太夫が朋輩を討ち果たした話を、あたかも自分の話のように話しはじめてしまいます。そして一座の方も、嘉平次の話を一切疑わず、彼の話をすっかり聞きいっている様子。
ですがその晩、彼はつい先頃奉公に上ったばかりの召使いのおとよという女に刺し殺されてしまいます。実はおとよは鈴木源太夫の娘であり、母が死んで以来、父の仇を討つ機会を待っていたのでした。
 
この作品では、〈武士に憧れるあまり、かえって武士になる危険を理解できなかった、ある男〉が描かれています。 
まず、嘉平次は酒の席で、自分が煽てられて気持よくなる手段として、自分はかつて武士であったという嘘をついています。つまり、彼は武士に対して、強い憧れを抱いていると言えるでしょう。そしてその憧れが強くなっていくにつれて、彼の嘘は大きく膨れ上がっていきます。ですが、この時彼は、武士とはどのような職業か、或いはどうやって生計をたてているのか、全く理解出来ていません。これは、病人を看病する姿に憧れるも、血や摘便(便を肛門から取り出す作業)を体験して退職する看護師や、或いは雄弁に語る姿に憧れ立候補するも、当選した後、他人からの批判に堪えられず辞任してしまう政治家と同じです。いずれの人々も、自分の職業が何をするのかが理解できていないのです。看護師は人の健康を守るため、血や尿、必要ならば便を扱うこともありますし、政治家は人々に批判されながらも、お互いの意見をぶつけて国を運営していくことが仕事です。武士という職業もやはり同じで、彼らは人を斬り殺して生計をたてています。つまりその一方では、自分が斬り殺される側の人々がいるのであり、自分が知らない何処かで誰かに恨まれているのです。また相手に斬りかかるということは、当然相手も反撃してくるので、自分がいつ死んでも可笑しくありません。ですが、そうした危険を嘉平次は一切理解していませんでした。彼は、武士という言葉の響きの良さに酔いしれて、それを全体に押し広げていたに過ぎないのです。もし、彼がそうした危険性を少しでも考えていたならば、平然と自分は人を殺した事がある等とは言わず、こうした悲劇は起こらなかったことでしょう。

◆わたしのコメント◆

評論中、一節目のあらすじのまとめ方は悪くありません。
しかしあらすじからわかるとおり、この物語の焦点というものは、料理番の「嘉平次」が、場を盛り上げるために嘘の話をこしらえたところ、その創作の元になった刃傷事件の娘であった「おとよ」に本気にされてしまい、討ち取られてしまった、というところにあります。

そのことをふまえて論者の引き出した一般性を読むと、果たしてこの物語全体の本質をうまく捉えきれていると言えるでしょうか。
〈武士に憧れるあまり、かえって武士になる危険を理解できなかった、ある男〉という一般性は、嘉平次が犯した過ちを、結果から見て解釈したものに過ぎないのであって、作品全体に含まれている過程をうまく引き出せた一般性ではありません。

◆◆◆

『仇討三態』のうち、他の作品の評論についてコメントした時も指摘しておきましたが、論者はこのところ、「かえって」という<対立物への転化>の論理性がいくつかの文学作品に含まれていることを見いだしているようです。
しかし、弁証法が森羅万象に普遍的に存在する法則である以上、ものごとを細かく見れば、あらゆるところに弁証法的な論理というものは見つけられるのであって、細部の論理性を指摘したからといって、そのもの全体を正しく捉えたことにはならないのです。

皮肉なことながら、細部における真理を全体に押し広げて主張することが誤謬に繋がるということは、文学作品の理解についても同じことが言えるのですから、論者の誤りは、「弁証法に憧れるあまり、かえって作品の理解を妨げることになった」とすべきところなのです。

弁証法を身の回りのあちこちで見つけられるようになることは、修練が初歩の段階に達したことを意味してもいるので、一面では評価されるべきことなのですが、だからといって、そのうれしさのあまり勇み足をしてはいけません。
よく切れる刀は、その力のためにかえって自らをも傷つけることがある(対立物への転化)というのは、実に弁証法的な事実です。

弁証法の実力を磨くことは何にもまして必要なことですが、その認識を実際に正しく適用するためには、認識の現実への適用の段階、つまり「技術」の段階においての確からしさを確保するために、俗に言う「自制心」が真っ当に養われていなければなりません。
認識の適用に感情の問題が含まれてくるとは!?と面食らった顔をされるかもしれませんね。

たしかにここは相当に難しいところだと思いますが、少し褒められただけで有頂天になって大失敗する人と、褒められても増長しないどころか、かえって舞い上がるまいと自身を諌めながら着実に前進を続ける人とで、どれだけの差が出てくるか、というたとえで結論的にでも、なんとなくでもわかってほしいところです。

ここは「差が大きい」というよりも、「質的な差として現れた頃には取り返しがつかない」という恐ろしさがあるものとして、厳粛に受け止めてもらいたいと思います。
ところで、「厳粛に受け止める」ということそのものについても、認識の力が必要であることは言を俟たないところです。

◆◆◆

この作品に話を戻して、一般性について簡単に考えてみましょう。

この作品をおおまかにつかまえるならば、嘉平次のついた嘘がもたらした意図しない結果が主題なのであり、そこにある論理性は「認識と表現の相対的な独立」であると言えるでしょう。

嘉平次は、場を盛り上げるために嘘の創作をしたのですが、その認識が嘘を含んだ表現として現れた時には、もともとあった認識とは相対的に独立したものとして、つまり受け取り手がいかようにも解釈しうるという形態において現れることになりました。
そのことは、一面には、たしかに場を盛り上げるために有効に作用したという意味では成功であったのですが、他面、おとよにとっては、嘉平次を父の仇を見做すだけの証拠と誤って受け止められたために、彼は命まで奪われることになったのです。

こう整理したうえで、「嘘の話をよりもっともらしく脚色しようとしたあまりに〜」などというふうに一般性をまとめたのであれば、作品「全体」がわかりやすく一語で要されているな、と思ってもらえるでしょう。
自身がついた嘘によって、他でもない自分自身が害せられることになったのです。
これは皮肉ですね。そうしてそれが、この物語の面白さです。

結果から見れば、論者の引き出した一般性とは、<対立物への転化>の論理性をふまえているという面で共通していますが、論者の主題であるとみなしているものが「武士という仕事についての像の深さ」である以上、正しい一般性とは言えないことになるのです。

この物語は、あくまでも嘘の話が独り歩きをして、思わぬ結果をもたらした、というところに面白さがありますから、主題をきちんと踏まえられているだろうかと、自分の引き出した一般性に照らして作品を読みなおした時に、作品全体が過不足なく一語で要されているかどうかをしっかりと確認して欲しいと思います。
またそのことを通して、仮説を把持してものごとをじっくりと確認するための、自制心・集中力というものを養っていってほしいと思います。


【誤】
・武士であったかのうに語りはじめます。
・自分がいつ死んでも可笑しくありません
→同じ「おかしい」ということばでも、「可笑しい」という当て字を用いる場合には、「滑稽である」という意味しかありません。「おかしい」の語源は古文の「をかし」ですから、「論理的に筋が通らない」という意味を表したい場合には、「おかしい」とひらがなで表現するのが適切です。

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