2012/03/17

文学考察: 屋上の狂人(修正版)

来てしまいました。


千尋の谷コメントです。


◆文学作品◆
菊池寛 屋上の狂人

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 屋上の狂人(修正版)

身体に障害を持っている狂人、「勝島義太郎」は毎日屋根の上に上がって雲を眺めていました。彼曰く、その中で金毘羅さんの天狗や天女等の神、或いはそれに類するものたちが踊っており、自分を呼んでいるというのです。そうした彼の様子に、父親である「義助」は手を焼いていました。
そんなある時、彼らの家の隣に住んでいる「藤作」がやってきて、昨日から島に来ている「巫女」に義太郎を祈祷してもらってはどうかと、義介に提案します。もともと義太郎の狂人的な性質は狐にとり憑かれている為だと考えていた彼は、早速巫女に祈祷を頼みます。そして彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の身体にのりうつり、青松葉に火をつけて義太郎をいぶしてやれというお告げをしました。そこで義助は彼を可哀想に思いながらも、彼の顔を煙の中へつき入れます。そんな中、義太郎の弟、「末次郎」がたまたま家へと帰ってきました。彼は義助から一切を聞くと憤慨し、燃えている松葉を足で消してました。そして、自身を巫女と名乗っていた女を「詐欺め、かたりめ!」と罵倒し、追い払います。こうして兄は弟に救われ、再び屋根の上にあがります。そして兄弟は互いをいたわりながら、夕日を眺めるのでした。
 
この作品では、〈現実とかけ離れ、神々の世界に憧れを抱くあまり、かえって自分がそのような人物になってしまった、ある狂人への皮肉〉が描かれています。 
この作品では、狂人である義太郎をめぐって、物語は展開していきます。そしてその中で重要になってくるものが、神の存在です。というのも、巫女と名乗る女は、自分は自分の身体に金毘羅さんの神様をおろすことができ、それによってお祓いができるのだと主張していました。そして、こうした彼女の主張を周りの人々は信じ、彼女の言うがままに義太郎の顔を煙におしつけてしまいます。ところが、末次郎だけはそんな彼女の胡散臭さを一見して見破り、「あんなかたりの女子に神さんが乗り移るもんですか。無茶な嘘をむかしやがる。」と述べています。そしてこのように断定している彼の主張の裏には、どうやらはっきりとしたそれはなくとも、神というものの像が朧げながらもあるようです。物語のラストで、彼は兄と話している最中、「そうやろう、あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや」と言っています。つまり、彼は狂人たる兄の中に、彼が考えている神の一面を認めているのです。
では、彼は兄のどのようなところに神的な性質を認めているのでしょうか。そもそも、義太郎は屋根の上に登って、現実とはかけ離れた神の世界に憧れを感じるあまり、それが見えると発言していました。物語のラストでも、彼ははやり屋根に上がって、自分達とは違う世界の出来事を覗いています。そして、こうした義太郎と同じ見方を、違う立場から行なっている人物がいます。それが末次郎その人です。
現実と関わりを持ちながらも、そこで何が起こっていようと、またどれだけ自分が巻き込まれようとも、次の瞬間には自分の世界へと戻っていく兄に対して、末次郎は彼が全く別の世界を生きている印象を受けているからこそ、「あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや」と述べているのです。つまり彼が考えている神とは、巫女の神の様に現実に干渉せず、関心をよせず、ただ自分達の世界に没頭しているものということになります。ですから、彼ははじめから巫女の主張を信じず、兄を救うことが出来たのです。

◆わたしのコメント◆
前回のコメントを受けて、論者は一般性を書きなおしています。
〈現実とかけ離れ、神々の世界に憧れを抱くあまり、かえって自分がそのような人物になってしまった、ある狂人への皮肉〉
結論から言って、少なくともこの表現をそのままに受け止めた時には、これは大きな誤りです。
論証部を見れば、作品理解は悪くないというのに、どうしてこのような誤り方になってしまうのか理解に苦しみますが、理由となっているのはおそらく次のような心情からなのだろうな、と見做されるのが当然です。

「かえって」や「皮肉」といったフレーズを、作品に押し付けて解釈したくてたまらない。

これらはどちらも、<対立物への転化>を日常言語で表現するときに、わたしが使ったことのあることばですが、フレーズだけを丸暗記して誤った文脈にも適応してしまうと、実に滑稽なことになってしまうものです。

◆◆◆

論者の作品理解にたいしての姿勢には、まずはそのような誤り、というか過ちがあるように映りますが、そのことを念頭においた上で一般性の表現を見た時には、大きく2つの誤りが浮上してきます。

ひとつには、この物語はなにも、義太郎が狂人になった「過程」を描いているのではありません。
神に憧れるあまりに自分が狂人となってしまった、などという記述はいったい本文のどこを探せば出てくるのだろうか?と首をかしげてしまいます。

もうひとつは、「ある狂人への皮肉」とあることについてです。
正気を保っている弟とともに夕日を見据える兄の姿の、いったいどこに「皮肉」なるものがあるのでしょうか?
素直に見れば、感動的なシーンで終わっているようですが…。

おそらく、「皮肉」という言葉の意味をまったく理解していないということでしょう。
この場合には、そう受け止めることくらいでなければ筋がとおりませんから。

◆◆◆

しかし、一般の読者をまったく呆れ返らせてしまうほどの一般性はともかく、論証部については前回の指摘を受けていて、それなりに的を射ています。

そうすると、なんだかおかしいな?一般性はめちゃくちゃなのに作品はいちおう理解できているようだ、との疑念が起こります。
そうしたうえで、気持ちを落ち着かせてもう一度一般性を読むことにすると、違った見方ができてきます。
〈a)現実とかけ離れ、神々の世界に憧れを抱くあまり、b)かえって自分がそのような人物になってしまった、c)ある狂人への皮肉〉
わたしは上での理解で、a)とb)とが、c)に掛かっているものとして理解しました。
そうすると、「神に憧れを抱くあまりに度が過ぎて狂った狂人」という意味になります。

しかし実のところ、ここはおそらく、c)にかかるのは、a)だけなのだ、ということなのでしょう。
そうすると、「神に憧れを抱く狂人」となります。

それでは、b)「かえって自分がそのようになった」とは何なのか?となりますが、ここはおそらく、「末次郎」の視点から、兄を見た時の有様がそう見えた、ということなのではないでしょうか。
そうするとこの一般性は、「神に憧れを抱いている狂人は、実のところ最も神に近かったのだ」、などという意味になってもおかしくありません。

◆◆◆

もっともそれでも、「皮肉」という謎の言葉が含まれていますが、ここもおそらく、「末次郎」の視点から見て、「巫女よりも兄のほうがむしろ神に近いといえる」という意味合いを含めたかったのだろう、ということになりそうです。
おそろしい努力で行間を読んだうえで敷衍すれば、という条件付きですが。

とにかく、どのようなことが書きたかったのであれ、読者にここまでの努力を要する一般性などは、書くべきではありません。
言うまでもないほど当たり前のことです。

一般性というのは、その作品の本質を、過不足なく一言で引き出したものなのであって、読者はたとえ難解な作品に立ち会った時にでも、その一般性さえ参考にすることが出来れば、大きな手がかりとともに安心して作品を理解してゆくことのできるもの、であるべきなのです。

論者がいくら作品を理解できていたとしても、そのことはひとつの表現をとって表明されざるを得ません。
わたしたち人間には、以心伝心ということはあり得ませんから。
そうすると、ひとつの表現を作るときには、必ず、それを見る者がどう見るのか、を踏まえておかねばならないのです。

偉大な内容を持った哲学書のように、抽象度の高い概念が用いられているために、読む者がそれ相応の資質を兼ね備えていなければならないこともありますが、少なくとも日常言語で議論できる範囲の表現について、読者を無駄な徒労に終わらせるような表現は、最大限の努力でもって、あらかじめ排除しておくべきです。

そのことも、文字を使った表現をする人間の責務です。
能力が足りずに悪文になってしまうというのなら許されますが、能力があるのに配慮が足らずにできてしまった悪文は、ひとつも良いところのない、ただの悪い文章です。そしてそれは、作家の人格を傷つけることになります。

自分がいったん書き終わった文章を、読者の立場に立って、「いったいどう読まれるだろうか?」ということを、しっかりと確かめながら読みなおして修正してゆくことを怠ってはいけません。
ダメな文章を読んで、この人はきっと人格もダメなのだろうと判断されたからといって、作家には反論できる余地はないのですから。

その立場に立っても、なおのこと、伝えなければならない内容を持っている箇所については、一般的でない表現を使うことも当然ながら許されており、有効なのですが、それはあくまでも土台がしっかりとできてからの、細かな技法の話です。

しっかりと自省して、ゆめゆめ忘れぬようにしてください。

◆◆◆

さて、ではこの作品はどう読まれるべきだったのでしょうか。

論証部では論者も理解しているように、この作品は結局のところ、巫女の言う「神」と、狂人である義太郎が見えているという「神」とをめぐっての、末次郎の考察が焦点です。
彼は、神を語る巫女の茶番を目にしたことをきっかけにして、ほんとうの意味での「神」とは、いったいどういうものなのだろうか?ということを考えているのです。

末次郎が、兄である義太郎を巫女の口車にのって火で燻そうとする家族たちをたしなめて、巫女を追い出したあとの描写を見てみましょう。この作品では、もっともさいごの部分に当たります。
義太郎 (狂人の心にも弟に対して特別の愛情があるごとく)末やあ! 金比羅さんにきいたら、あなな女子知らんいうとったぞ。
末次郎 (微笑して)そうやろう、あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや。(雲を放れて金色の夕日が屋根へ一面に射しかかる)ええ夕日やな。
義太郎 (金色の夕日の中に義太郎の顔はある輝きを持っている)末、見いや、向うの雲の中に金色の御殿が見えるやろ。ほらちょっと見い! 奇麗やなあ。
末次郎 (やや不狂人の悲哀を感ずるごとく)ああ見える。ええなあ。
義太郎 (歓喜の状態で)ほら! 御殿の中から、俺の大好きな笛の音がきこえて来るぜ! ええ音色やなあ。
(父母は母屋の中にはいってしまって、狂せる兄は屋上に、賢き弟は地上に、共に金色の夕日を見つめている)
◆◆◆

わたしたちは、この作品を理解するにあたって、この箇所で、末次郎はいったいどんなことを考えていたのか、ということを読み取ってゆかねばなりません。

まず前提としては、神をめぐる2つの立場がありましたね。
巫女にとっての神というのは、神がかりで口寄せした上で民衆から金銭を得るための手段です。
それに対して、義太郎にとっての神というものは、寝食を忘れてまでも没頭する価値のあるほどの対象です。

どこが違うのかといえば、義太郎は、狂人であることによって、世慣れた者のきな臭さから解放されているという意味で、非常に純粋な存在であるわけです。

同じ神を語るときにも、金づるとして騙るという姿勢と、狂っているとはいえ本心からそれを有り難がる姿勢とは、いったいどちらが本当の信心というものなのだろうか?と、末次郎の脳裏には新たな疑問が宿りつつあります。

この物語の最後では、義太郎と末次郎がひとつの夕日を並んで眺めて終わりますが、そのときの末次郎の様子をもう一度書き抜いてみましょう。
末次郎 (やや不狂人の悲哀を感ずるごとく)ああ見える。ええなあ。
ここで、「(やや不狂人の悲哀を感ずるごとく)」というのは、いったいどういう意味なのかがわかりますか。

「狂人の悲哀」なら話はわかりやすいですね。
事実、家族たちも、狂人の義太郎がいることによって、苦労してきた様子が描かれているほどです。
徹頭徹尾兄の味方を堅持する末次郎も、少なくとも最後のシーンまでは兄の狂気については積極的な意味を見出してはおらず、「自分の兄はたしかに狂人だが、それでもかけがえのないひとりの兄であることに変わりはない」などというふうな姿勢で、義務感から兄のことを見守っているのです。

しかしここでは、「不狂人の悲哀」、とあるのです。
これはつまり、狂っていない人間にこそ、かえって目に見えにくい悲哀があるものなのだ、ということを感じ入っているということになりますね。

彼の念頭には、あれだけの不理解を被った兄が、騒動が済んだと見るや、なんの遺恨もなくあっさりとそのことを忘れたように、また屋根に登って神と対話しているということが、より印象深く刻まれているのです。

そうしてそのことは、衆目からすれば狂人と見られる兄と、霊媒師の口車にのって常軌を逸した方法で彼に接しようとした周囲の人間たちとは、いったいどちらがほんとうの意味での狂気なのだろうか?という疑問にも繋がっているのです。
だからこその、「不狂人の悲哀」なのです。

それでも、自らは賢い常人、つまり「不狂人」なのですから、「狂人」である兄のことは、心底理解し尽くしたいと思っていたとしても、到底理解し得ない壁は消えることはないのです。

そうであればこそ、末次郎の「ああ見える。ええなあ。」ということばが、超えられぬ隔たりの存在を知りながらもなお、いまこの時点では兄と並んで、同じ物を見ているのだ、という実感として現れているわけです。

さらに言うならばそのことが、「金色の夕日」という一語として象徴的に表され、読後の余韻を深く残す効果に繋がっているのです。

◆◆◆

どうですか、この物語をどう読めばいいかがしっかりとわかってきましたか。

末次郎の立場に立って、狂人だけだとばかり思い込んでいた兄のなかに、新たな面があったことを見つけ、彼とともにしみじみと夕日を見つめているという情景が描けているでしょうか。

わたしは前回のコメントで、この作品では、巫女の茶番について書かれているところは、彼女がいわば引き立て役となった喜劇的な表現だと言いましたが、そのことと、感動的なさいごのシーンが明確な対比を産んでおり(相互浸透)、そのことがこれほどまでの読後感となって現れているのです。

一般性についても書いてしまおうかと思いましたが、ここでは書かないでおくことにします。
神についての対照的な立場を主眼に置けば「相互浸透」、事件をきっかけに兄弟の仲が深まったことは「量質転化」、狂気が正気に通じているというのは「対立物への転化」、などなど、法則性はいくつか見つかりますから、そのどれを一般性として表すかというのは、なかなかに難しいものがあると思います。

しかしそれでも、しっかりと理解しておく必要のある作品であることには変わりがありません。
それだけにこの作品は、立体的な構造を持っているからです。

焦る必要はありませんから、後回しにしてでもじっくりと物語に取り組んで、論者自身の手で書いてもらえることを願っています。


【誤】
・無茶な嘘をむかしやがる。
・彼ははやり屋根に上がって、

1 件のコメント:

  1. >偉大な内容を持った哲学書のように、……作家には反論できる余地はないのですから。<

     心に響きました。
     ありがとうこざいます。

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