2012/03/06

文学考察: M侯爵と写真師ー菊池寛

学生さんたちから届く作品やレポートを見ていると、


はやくいつもの更新ペースに戻りたいと気持ちが逸ります。

あれもしたい、これもしたい!
というのが率直なところなのですが、メリハリもつけねばどれもこれも倒れてしまいますから、いま少し辛抱して、今やるべきことをしっかりとやろうと思っています。


読者のみなさんも、たとえ今はそのことだけで食べていけていないのだとしても、率直に自分の気持ちと向き合ったときに、どうしても譲れないものがあるのなら、毎日3時間は欠かさず、そのことに取り組んでほしいと願っています。

毎日の生活のうちの3時間という時間は、3ヶ月続けるならば、泳げない人が平泳ぎできるようになる期間であり、楽譜の読めない人間がピアノソロの運指をできるようになる期間であり、絵筆を握ったことのない人間が見たままをデッサンできるようになる期間でもあるのです。

これを1年でも続けるなら、どんなに見よう見真似であっても、自分なりのコツをいくつかつかめるのであって、そのことを手がかりに一流の人に「これを聞いてみたい」という問題意識もしっかりと養ってゆけるのです。

そうして、10年も経ったらどれだけのことができるようになるか、想像してみてください!
素人がなにを一丁前に、と人は言いますが、素人であったことのない一流は居ません。
過程を見ようとしない人の評価は、気にするだけ時間の無駄です。
それに結果が出た時には、つまらない侮蔑は尊敬の眼差しに変わっているものです。



◆文学作品◆
菊池寛 M侯爵と写真師

◆ノブくんの評論◆
文学考察: M公爵と写真師ー菊池寛
「僕」と同じ社に勤めている杉浦という写真師は、華族の中でも第一の名家で、政界にも影響を及ぼす可能性のある人物、M侯爵の写真を撮るため、日頃から彼を追っていました。そんな杉浦の努力が実を結んでか、彼はM侯爵に顔を覚えてもらい、やがてはすっぽん料理をご馳走してもらう仲にまで2人の関係は発展していきます。これを聞いた「僕」ははじめ、「大名華族の筆頭といってもよいM侯爵、そのうえ国家の重職にあるM侯爵が、杉浦のような小僧っ子の写真師、爪の先をいつも薬品で樺色にしている薄汚い写真師と、快く食卓を共にすることにもかなり感嘆」していました。
「僕」はある時、仕事でそんなM侯爵と話す機会を得ることになりました。もともと公爵を尊敬していた彼は、早速一人で侯爵家へと出かけます。ですが、やがて「僕」はこの対談で、M侯爵の話と杉浦の話との間には、ある大きな食い違いがあるということを知ることになるのです。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
 
この作品では、〈他人に好意のあるフリをする事は不快なものである〉ということが描かれています。 
まず、上記にある大きな食い違いとは、実は侯爵は杉浦に対して嫌悪感を感じているということです。しかし当の杉浦の話ではあらすじの通り、彼は侯爵に気に入られていると言っています。そして、この2人の意見を聞いた後、「僕」は「どんな二人の人間の関係であるとしても、不快ないやな関係であると思いました。」では、彼は具体的に一体どのようなところに不快感を示したのでしょうか。どうやら彼は、侯爵が言ったであろう、「フランス料理を食わせてやる。金曜においで」という一言に関してそう感じている模様です。というのも、「僕」はこの台詞から、次第に侯爵は大なり小なり、杉浦に対して好意のある「フリ」をしていたのだろうと考えていきます。少し余談になりますが、この「フリ」というものは、実は現実の私達の生活にもありふれているものではないでしょうか。本人の前では好意的に友達として仲良く接していても、その人がその場を離れた途端に非難する人々もいますし、仕事の上、組織の上で致し方なく付き合っているとは言え、周りの人々にその人の非難の言葉を撒き散らす人々だっています。そして、こうした人々の行動はどうにもやりきれない不気味さがあるように感じます。というのも、彼らは相手に自分の気持ちを決して知らせません。それがお互いの溝をより深めていってしまいます。つまり、一方は関われば関わる程好意を持ちますし、もう一方は嫌悪を助長させていくのです。これが「僕」の感じた不快感の正体なのではないでしょうか。そして、この不快感を感じているからこそ、何も知らず、いつものようにM侯爵のところに向かう杉浦「僕」は哀れみを感じているのです。

◆わたしのコメント◆

この物語は、「僕」の主観によって書かれており、そこでは同僚であり写真師でもある「杉浦」が、「M侯爵」に取り入ろうとする姿が描かれています。

杉浦という青年が「無邪気で一本調子」という人柄であることは、この物語の登場人物誰にとっても、同じ印象であるようです。

「僕」も当初はそうした印象を持っていたようです。
杉浦があの調子でありながらも、M侯爵にすっぽんを御馳走になっているところから察するに、きっとその性格が、M侯爵のような地位のある人間からすればかえって好ましく映るのであろう。そのように解釈していました。

ところが「僕」がM侯爵に会ったときに、その思い込みが誤りであったことに気付かされるのです。
それは、侯爵自身の口から、「ああ杉浦というのかね。ありゃ君、うるさくていかんよ」ということばを聞かされたからなのでした。

杉浦によれば彼は侯爵から他の誰より気に入られているようなのに、M侯爵本人からすれば、杉浦はうるさいいやがられ者であるとすると、この食い違いはいったいどこに理由があるのか、と「僕」は考えます。

他でもない、気分を害した当人であるところのM侯爵の発言を真に受けるなら、杉浦の自惚れが過ぎたあまりに失礼になっているのだと結論づけることができます。

しかしそうだとすると、杉浦がM侯爵からすっぽんを御馳走になったことの理由が説明できない。
そのように考えてゆくと、結局のところ、侯爵がフランス料理を食わせてやる、と約束したのはたしかに客観的な事実ではあっても、その約束というのが、侯爵にとっては口先だけの約束であったのに対して、杉浦にとっては好意からの発言であったと受け取られたところに、食い違いの根本的な原因があったのだとするのが自然なのでした。

◆◆◆

M侯爵にとっては、彼を取り巻く多様な利害関係者を軽くあしらえる術を身につけていることもいわば当然なのであり、その力関係からすれば、ほとんどの者は彼の申し出にたいして恐れ多く感じるところから、たとえ本人から食事を勧められてもありがたく遠慮する、というのが筋なのかもしれません。
「僕」も、侯爵にとってはその振る舞い方が日常的なことはいちおう認めてはいますが、それでも、杉浦の、裏表のない人柄が、そのことによって本人のあずかり知らぬところで悪意をもって見られていることを気の毒に感じています。

このことから、「僕」という人間は、侯爵をとりまくルールはともかく、裏表のある表現というものをどうしても好きになれない人物なのだということがわかりますね。
その受け止め方からすると、やはり杉浦の方に肩入れせざるを得なかった、ということなのです。

しかし、というわけでここで論者の見方について断っておきますが、この物語はなにも、誰に対しても裏表なく接するべきだ、という「僕」の価値観を、読者にも啓蒙するために書かれたものなのではありません。
ですから、論者の指摘している一般性は誤りです。

あらすじは必要十分で悪くありませんし、論証部を見ても作品理解はいちおうの段階に達しているようですから、面倒臭がらずに、「僕」が二人の食い違いの理由を、「ああでもない、こうでもない」と考え進めているところを丁寧にとらえていってほしいと思います。

そのことを通して、人間の認識にとっての「ああでもない、こうでもない」という思考の過程が、どれほどに考える力を鍛えるのかをわかってほしいと思います。
「僕」の考えている過程の次の行を隠しても、その行がどのような内容であるかを自分で想像できるでしょうか。試してみてください。

◆◆◆

さてこの物語を大きくつかむことにすると、この物語では、M侯爵にとっては当たり前の社交辞令としての遠まわしの「NO」であっても、住む世界の異なる杉浦にとっては、好意としか映らなかったことによって、二人の間に大きな食い違いが起こったことに焦点が当てられています。

これは論理的に整理すれば、「ひとつの表現は、相手が変われば違ったように受け取られる」という、「表現と認識の相対的な独立」を描いていることになりますね。

わたしたちの身の回りに目を向けても、このことによるすれ違いはたくさん見つけることができます。
意中の相手とうまく話せないことは、相手にとっては嫌われたのだと映る場合もあります。
長居しすぎる客にたいして「ぶぶ漬け食べなはれ」と言ったことが、実際にそのままに受け取られることもあるかもしれません。

そのほか、ひろく「皮肉」が持っている構造というのは、この表現と認識が相対的に独立していることを用いた表現技法です。
その表現が一般的に使われる文脈を知っている場合には、実は表現とは異なった意味合いを伝えるためにあえて使われたものであることがわかりますが、文脈を知らない者にとっては、その表現はそのままに受け取られてしまうわけです。

ですから、この物語は、大きく言えば「表現と認識の相対的な独立がもたらした食い違い」を描いているのだ、と言えることになります。
ところが、このままでは人と人とのすれ違いを描いた作品はほとんどがこの構造を持っていることになりますから、ここからさらに、この作品に特殊化するかたちで一般性を引き出してこなければならないことがわかりますね。

今回はヒントが少なすぎて難しいでしょうか。
いまの論者ならば答えにたどり着けるのではないかと期待しているのですが。

あらすじについては要点をうまくとらえて簡潔に書けていると思いますので、「僕」の考えている二人の食い違いの理由探しをしっかりと読んだうえで、作品をより深く理解し、一般性を考えなおしてほしいところです。


【誤】
・M公爵と写真師
・杉浦「僕」は哀れみを感じているのです。

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