2012/03/07

文学考察: 仇討三態・その二ー菊池寛

今回扱った作品は、



コメント中の引用箇所だけでも意味が取れると思うので、人の心情を理解する必要のある仕事をされている方は参考になるかと思います。


◆文学作品◆
菊池寛 仇討三態

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 仇討三態・その二ー菊池寛
越後国蒲原郡新発田(かんばらごおりした)の城主、溝口伯耆守(ほうきのかみ)の家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに仇人を発見することができました。ですが、不運にも彼らが敵を討つ前に、仇人は死んでしまいます。そして彼らはそれ以来、世間の人々の非難の的となってしまいます。
一方、そんな彼らの避難の声もおさまってきた頃、彼らと同じ藩士である、久米幸太郎兄弟が三十余年の時を経て仇討ちに成功し、帰還してきました。そしてその十日後、兄弟の帰還を祝う酒宴が親族縁者によって開かれることとなりました。そして不幸にも、仇討ちに失敗した鈴木兄弟は久米家とは遠い縁者に当たっていました。当然ながら兄弟はその席に行きたくはありませんでしたが、そうなればまた世間の非難の的になると考えた忠次郎は、しぶしぶ参加しました。
その当日、夜が更け客が減りだした頃、幸太郎は忠次郎からも盃を注いで欲しいと申し出てきます。そして、幸太郎は彼からもらった酒を快く飲むと、真摯な同情を含んで、「御無念のほどお察し申す」と述べました。これには忠次郎も思わず無念の涙を流しながら、「なんという御幸運じゃ、それに比ぶれば、拙者兄弟はなんという不運でござろうぞ。敵をおめおめと死なせた上に、あられもない悪評の的になっているのじゃ」と言いました。すると、幸太郎は「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」と言い、やがては互いに目を見合わしたまま涙を流し合いました。
 
この作品では、〈過程を重視した為に相手の気持ちが正しく理解できた、ある討人〉が描かれています。 
まず、この作品での鈴木兄弟の仇討に対する見方は2つに分かれています。一つは仇討に失敗したことを非難する、世間的な見方。もうひとつは彼らに同情をよせている幸太郎の見方。では、この2つの見方には、それぞれどのような違いがあるのでしょうか。
まず兄弟を非難している世間的な見方の方ですが、彼らは「鈴木兄弟が仇討ちに失敗した」という結果だけを見て、あれこれと非難しています。更に彼らはその結果を受けて、「二人は、敵を見出しながら、躊躇して、得討たないでいる間に、敵に死なれた」、「兄弟は、敵討に飽いたのだ。わずか八年ばかりの辛苦で復讐の志を捨ててしまったのだ。」と、その失敗の過程まで想像しています。言わば世間の見方の順序としては事実とは逆の流れで考えられており、結果が先にあり、過程はその後にあります。その結果、彼らは兄弟の気持ちを正しく読み取る事が出来ず、単なる解釈になってしまったのです。(余談ですが、これは現代を生きる私達の日常にもよくある見方ではないでしょうか。例えば、スポーツ等で自分が応援しているチームが試合に負けてしまい、悔しさのあまり大人げなく怒りを露わにする人々がいます。また逆に、次の日に試合に勝つと、「いや、今日の◯◯はよかった。」などと、急に評価を一転するような発言をすることがあります。こうした見方も同じで、やはり結果から見ているからこそ、昨日と今日でものごとの評価が一転してしまっているのです。)
一方、幸太郎の見方はどうだったでしょうか。彼は「御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」という台詞からも理解できるように、過程的なところを中心に見て相手を評価しています。つまり彼らは事実の流れと同じく、過程を先に考えた為、兄弟の気持ちを正しく読み取る事ができたのです。やはり事実を正しく読み取るためには、事実と同じ流れで物事を考える事が重要なのです。


◆わたしのコメント◆

『仇討三態』の2つめの物語は、「鈴木忠次郎」とその弟を主人公として描かれています。
この兄弟は父の仇を8年間追い求めた後、あるところで医師として身を隠している仇を見つけます。ところが折悪く、この時には弟だけでの行動であったため、兄と合流してから討ち果たそうとしたところ、なんとその間に仇は天寿を迎えてしまったのでした。それに対して、同藩出身の「幸太郎」兄弟とその叔父は、同じく父の仇を30年の苦節にもめげずに仇を討ち取ります。
8年かけて仇討ができなかった失敗者と、30年かけて仇討を成し遂げた成功者との扱いは、帰郷してからの衆目に天と地ほどの差を生み出してしまうことになったのです。

◆◆◆

幸太郎の帰参を祝う酒宴が開かれた席に忠次郎たちも呼ばれますが、幸太郎兄弟を褒める引合として貶されている立場にあっては、気が気ではありません。
それでも、後ろ指を指されることだけはなるまいと、必死の覚悟で参じます。

その箇所が、どのような描写になっているかを見てみましょう。
幸太郎は、忠次郎が蒼白(まっさお)な顔をしながらさした杯を快く飲み干しながら、
「御不運のほどは、すでにきき及んだ。御無念のほどお察し申す」
幸太郎の言葉には、真摯な同情が籠っていた。自分でも敵を狙ったものでなければ、持ち得ない同情が含まれた。
忠次郎はそれをきくと、つい愚痴になった。無念の涙がはらはらと落ちた。
「お羨ましい。お羨ましい。なんという御幸運じゃ、それに比ぶれば、拙者兄弟はなんという不運でござろうぞ。敵をおめおめと死なせた上に、あられもない悪評の的になっているのじゃ」
忠次郎は、声こそ出さないが、男泣きに泣いた。
幸太郎は、それを制するようにいった。力強くいった。
「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」
そういったかと思うと、三十年間の櫛風沐雨(しっぷうもくう)で、 銅あかがねのように焼け爛れた幸太郎の双頬を、大粒の涙が、ほろりほろりと流れた。
忠次郎の傷ついた胸が、温かい手でさっと撫でられたように一時に和んでいた。
二人は、目を見合わしたまま、しばらくは涙を流し合った。
◆◆◆

論者は、ここの、幸太郎から忠次郎への同情の念を中心に据えて一般性として引き出し、こう表しています。
〈過程を重視した為に相手の気持ちが正しく理解できた、ある討人〉

論証部を見ると、同郷で忠次郎たちへの悪評を広めたような人間たちとは違って、幸太郎が彼に同情し得たのは、仇討に失敗したという結果ではなく、仇を追って全国を遍歴するという苦難の過程にこそ注目したからである、との意味を込めたようです。

評論を読むふつうの読者の立場になって一般性の表現を見ると、表現が堅すぎるようにも思えますから、もう少し物語を細かく見てゆきましょうか。

忠次郎は、幸太郎の祝いの席に出た時には、失敗者の立場から見た成功者のための席ということもあって、「必死の覚悟でその酒宴に連なった」のでした。
同じことを目標としながら、それを志半ばで叶わなかった自分が、なおのこと成功した者と席を同じくせざるをえないときの感情がいかに惨めなものだろうかと考えてみてください。
それがどれだけ自分の外聞にたいする思い入れが強くない人でも、相当に身に応えるものであるのはわかりますね。
衆目をいかに気にしないようにと努めたとしても、他でもない自らが眼の前の相手と自分の成果を比べてしまうことでしょう。

そのように身構えた状態で列席した忠次郎を待っていたのは、思いもかけず、幸太郎の「真摯な同情が籠っ」たことばなのでした。
数年間の仇討の旅、それが未達に終わり帰郷した際の周囲から浴びせかけられる心無い言葉、そういったものに対処しようとしていつも張り詰めていなければならなかった緊張と、そこに押し殺されていた感情が、幸太郎のひとことで一気に溢れ出した様が描かれていますね。
そこで忠次郎は、自分たちは失敗したが、幸太郎兄弟は成功したことを心底羨ましいものとして、実に率直な己の感情を吐露しています。

◆◆◆

たしかに、「仇討」というからには、仇と見なした相手を討ち取ることこそがその目的なのですから、その目的に照らして言えば、忠次郎の旅は失敗であったという他ありません。
忠次郎自身が深く悔いているのも、そのことを自覚するあまりなのでしたね。

ところがそんな自責の念、後悔の念に囚われて悔やみ続ける忠次郎に送られたことばは、その時の彼にとっては思いもかけないものであったはずです。
 幸太郎は、それを制するようにいった。力強くいった。
「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」
幸太郎は、仇討に発たざるをえないというのはひとつの運命であるけれども、それが幸せであるということがあるだろうか、と言っています。これは、仇討にとって失敗や成功などという結果というものが、仇を探して全国を経巡るという、暗い一念に支えられた一歩一歩の長い長い道程にとって、どれほどの意味があるだろうか、と言っているわけです。

そうであるからには、本懐を遂げるまでに、当時としては人間の定命を使いきってしまった幸太郎自身よりも、志半ばとはいえその旅を終えて故郷に帰ることのできた忠次郎のほうが、いかほどに恵まれていることか、という感想も、至極真っ当なもの、本心からのものと言えるでしょう。

このことばを聞いた忠次郎は、悔しさに囚われていた我が身を、はじめて一歩引いた視点から、客観的に捉えることができたのです。
その視座を持ち得たのは、幸太郎の仇討の旅を、我が身に繰り返すかのように追体験したからなのです。
その追体験は同時に、忠次郎と比べれば幸太郎の仇討の旅が、彼の人生においていかなる大きな割合を占めているのかも知らしめるのですから、幸太郎から自分に向けられた同情が、いかに真摯なものであったかも同時に感ぜられるというわけです。

忠次郎にとって、経験を同じくした幸太郎からの真摯な同情は、彼自身を見つめる、もう一人の自分としての役割を果たしていることに注目してください。
それまでは、彼自身の後悔の念に囚われ続けるしかなかった忠次郎にとって、これがどれほどに彼を救ったかをもう一度見てください。

◆◆◆

次の節まで余談になりますが、
人の生涯や、人の経験を自分の身に起きたことのように捉え返す、つまり追体験するというのは、他者の心情を理解するにあたって欠かすことのできない要素です。

認識論では、自由意志と併置するかたちで他者の経験をもうひとつの観念として持ったうえで、それを「この人はこのような道程を持ったからこその現在のこの人となりであるのだ」と、過程を追って現在のその人を理解してゆく作業を、<観念的な二重化>と言います。

この作品では、幸太郎から忠次郎への観念的二重化、忠次郎から幸太郎の観念的二重化が、折り重なるようにして描かれています。
そのようなことを通して、彼らが互いに互いのことを理解し合ったからこそ、また筆者がそのことを鮮やかに描き出しているからこそ、「二人は、目を見合わしたまま、しばらくは涙を流し合った。」という描写がこれほどまでに説得力を持つことに繋がっているわけですね。

観念的二重化の力は、本当の意味で相手の立場になってものごとを考えて、その人のためになることをしようと心に誓っている人にとっては絶対に欠かせない、認識における技です。
この力は、小説を読むことで培ってゆけますが、細かな過程をしっかりとたどることなくしては、結局のところ、自分の好き勝手に相手の感情を解釈するだけになってしまうでしょう。

ただでさえビジネスの世界に長く身を置いている人たちは、自然に(限られた環境との相互浸透によって)、自らの心情理解がビジネス化・経済原理化・機能主義化されていくことに実に無頓着ですから…。
ビジネスでは有意義な価値観も、一旦外に出れば使えないどころか要らぬ誤解の種に転化するという事実を学べるだけでも、小説を読む価値は十分にあると思います。

また当然ながら、現実の世界では小説とは違って、第三人称による感情描写、「〜は親の死に目にあったように悲しんだ」や、「〜は飛び上がらんばかりに喜ぶ気持ちを抑えるのに必死だった」といった表現上の工夫は出てきません。
心理描写を誘導する表現の助けを借りられない以上、観念的二重化の力を養えているかどうかは、現実では小説の理解よりもさらに大きな差となって現れてくると考えるべきです。

人の感情を描いた小説を丁寧にじっくりと読みこなすことを通して、その力をぜひとも養ってもらいたいと思います。

◆◆◆

論者の評論を見ると、一般性が一般的すぎることに引きずられて、論証部を見ても、作品の登場人物への観念的二重化がまだ多分にその余地を残しているように見えましたので、ここまで触れてきたのでした。
一言で言えば、「表現が堅い」のです。
そうであるからには、「心情理解(認識)もまだ堅い」のだろう、と判断せざるを得ません。

論者の一般性は、このようなものでした。
〈過程を重視した為に相手の気持ちが正しく理解できた、ある討人〉

たしかにこの作品の一般性を引き出すときには、一言でまとめようとすると上で括弧書きしたような認識論用語を持ちださねばなりませんし、かといってそうしても一般読者にうまく伝わらないことになりますから、なかなかに難しいことはわかります。

それでもこの作品を理解するにあたっての要点となっているのは、この物語には、上で述べてきた「追体験」、「観念的二重化」に焦点が当てられていることを、一般性のなかにしっかりと含められているかどうか、というところにあるのです。

忠次郎が、仇討の失敗から周囲に対して心を閉ざしてしまったことが、幸太郎の真摯な同情によって、自らの経験を客観的に受け止めることができるようになった、という過程を示すならば、
<経験を同じくした者の同情によって、仇討によって閉ざされていた心を開くことができた討人の物語>
のような表現がよいのではないでしょうか。

観念的二重化を、よりきめ細やかなものとするべく、他者の心情理解の力を養って欲しいと心から願っています。

◆◆◆

ほかに細かな表現を修正した理由は、主に3つの理由があります。

ひとつに、論者は幸太郎が「過程を重視した」としていますが、これはあらかじめ彼に備わっていた価値観やものごとの見方ではありません。
彼がそのようなことをできたのは、彼の経験が忠次郎のそれと同様のものだったからにほかならないのですから、結果から見て、大雑把に整理したものを幸太郎の価値観だとするのは違和感があります。

次に、過程的な構造を捉えるならば、「心を開いてゆくことのできた」などとしてもよさそうですが、忠次郎と幸太郎の心情理解は、互いが同じ経験を共有していたことに助けられてそれほどの時間は要しませんでしたから、ここでは経時的な心情の変化を強調する必要がないと判断しました。

また論者の指摘している「討人」が幸太郎であるのにたいし、わたしの指摘しているのは忠次郎ですが、一般性に主体を含めるときには、特別な意味がない限り主人公を位置づけるのがふさわしいと考えたためです。


【誤】
・越後国蒲原郡新発田(かんばらごおりした)→かんばらごおりしばた

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