2012/03/16

文学考察: 大島が出来る話ー菊池寛 (2)

(1のつづき)


さて、前回の記事では、夫人が亡くなったことによって、あれだけ望んでいた大島を手に入れることになった譲吉の気持ちを考えてみてほしい、と言っておきました。

今回の記事は、その答え合わせです。

では改めて、譲吉の立場に立って、彼がここでどのような感情を抱いているのかを考えてみましょう。それは、こういうものではないでしょうか。

夫人が、自分の考えているよりはるかに、遺物を贈るほどまでに、自分自身のことを考えていてくれたという感謝の念。
自分があれだけ欲しがっていた大島が、大恩のある人物の死によってもたらされることになったという皮肉。
「与えられる」という立場に純粋なまでに徹しようとした、その前提は、夫人が生きていればこそであったということにはじめて気付かされたという動揺。

見方によっては、ここから譲吉のなかに、「与えられる」だけの立場に徹することでなく、他になんらかの恩返しがあり得たのではないだろうか、といったやるせなさを読み取っても、間違いではないでしょう。

これらの感情すべてを受け止めてはじめて、わたしたちは物語を理解したのだという意味を込めて、「譲吉は「複雑な気持ち」を抱いていたのだ」、と表現することができるのです。

この短編から読み取れる範囲は限られているものの、少なくとも考えられるこのような心情理解から、彼の感情が複雑であるということをふまえるならば、この物語は、<大恩を受けた人物の死によって、思いもかけず求めていたものが手に入ることになった皮肉>を描いている、などとするのがよさそうです。

論者の引き出した一般性には、この作品が持っている「皮肉」という構造の指摘が欠けています。
また論証部には、「複雑」と表現した譲吉の内面についての細かな記述が欲しかったところです。

◆◆◆

さて余談ですが、――とわたしが書くときは、以前からの読者の方は「これから難しい話が始まるぞ」と背筋を伸ばすところかもしれませんが――評論の文中に注意が必要な表現があります。

評論のなかに「頂く」という表現が2ヶ所ありますね。

論者の使い方を見ると、これは、物語中の「譲吉」が、「近藤夫人」から恩や遺物(かたみ)をもらった、ということを意味する謙譲語です。ところが謙譲語は、自分がへりくだることで相対的に相手の立場を自分よりも上に置くためのことばですから、基本的には、直接相対している相手にしか使えないと考えるべきです。
評論では、目の前で繰り広げられる情景を、論者が第三者の視点から眺めているという位置づけにありますね。そうすると、論者が物語の当事者ではなく、第三者である以上、謙譲語を使うのはふさわしくない、ということになるのです。

文法的な説明では難しいでしょうか。
それでは、ということで、同じような意味合いを持つ言葉に、「頂戴する」ということばがあることを思い出してください。それを評論中の表現と置き換えてみて、「譲吉は近藤夫人から学資を頂戴していました」としてみてください。
どうですか。違和感があるでしょう。謙譲語をこのように使うのは特殊な場合で、この表現だと「盗人がどこそこの家からものをくすねていた」といったような意味合いを持ってしまうことがわかるのではないでしょうか。

敬語にも、あまりも過度に相手を敬い過ぎてかえって失礼になるという「慇懃無礼」という現象がありますね。(対立物への転化)
謙譲語にも、ふさわしい文脈でないのにへりくだることによって、おかしな言い回し、ふざけた言い回しになってしまうことがあります。

◆◆◆

わたしたちは、ある言語表現を読むときに、それまでに無数の言語表現に触れたという経験を抽象するかたちで、対象化された観念として規範を作り出し、それに照らして新しい言語表現を受け取ります。
規範の確からしさ、像の深さは人によって違いますが、いちおうの日本語話者であれば、たとえば留学生の使う日本語について、やや不自由だなとか、うまく指摘できないけれども違和感があるな、といったふうに受け止めることができます。

あの認識は、一般の人の場合であれば「あれ、ここおかしいな?」、「なんとなく変だな?」という感性的な段階に留まっています。
さらに、専門家であっても、あらゆる文章の細部にわたって理性の光を照らして読むわけではありませんから、誤りに気づくというのは、感性的な認識による場合がほとんどです。
ただ一般の人との違いは、それが感性的であっても、感性のレベルが高まっている、技化されているのだ、というところです。
(ここでの技化は、おおまかに言って、経験主義者ならば感性から感性へのレベルの高まり、理論家ならば感性から理性を媒介としての感性的な高まり、ということになります。)

ですから、こういう場面において、細かな誤りを正してゆけるかどうかを判断する力は、あらゆる文章を浴びるように読む、という経験があるかないかがものを言うことになるわけです。

ところが、ある文章表現の誤りに気づいたり、違和感を覚える表現について、正しい理解をもたらすには、言語がもっている大掴みな原則を把握しておくことも重要です。
三浦つとむが指摘していたように、言語表現を正しく使うためには、また根拠を持って使うためには、認識論の力が必要なのです。

認識論は難しいし習得に時間がかかるので学びたくない!という人は、数えきれないほどの言語表現に触れる中で経験的に言語についての感性的認識(いわゆる言語のセンス、国語力です)を磨くしかありません。
しかし「急がば回れ」(否定の否定)こそ本質的な力をつけることをご存知のみなさんは、巨人の肩に乗る、ということを考えてみてください。

◆◆◆

手引きは、以下のとおりです。

・三浦つとむ『こころとことば』(前にも書きましたが、著作権の関係で挿絵を収録出来なかった新版に比べて、旧版のほうがわかりやすいです。1977年版のほうを、Amazonの中古品や日本の古本屋で求めるとよいでしょう。)

学習が進めば、以下のものに取り組めると思います。難しいかもしれませんが、認識論を学ぶにあたっては避けて通れません。

・三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』
・三浦つとむ『日本語はどういう言語か』


(了)

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