2012/03/09

文学考察: M侯爵と写真師(修正版)

今回はメモのような位置づけですので、


一般の読者の方々は読みとばしていただいて結構です。

その代わりといってはなんですが、この記事を境に、以降の評論へのコメント記事中で、論理性だけでなく細かな表現についても少しずつ指摘してゆくことにしますので、いつも評論を投稿してくれているノブくんの表現力が少しでも向上するように見守ってあげてください。


◆ノブくんの評論◆
文学考察: M侯爵と写真師(修正版)

◆わたしのコメント◆
この作品については、以前に修正をお願いしたもので、言っておいた通りのことはひととおり踏まえたうえで出し直してくれています。

そのため、一般性もその評論全体が指摘していることも正当なのですが、問題は細かな表現のほうにあります。

正確に言えば、以前から指摘しなくてはならなかったのですが、論理性をまずは確かなものにしておきたかったので、あまり強く言ってこなかったのです。

日本語表現において、細かな表現技法というものは、人の手によって書かれたたくさんの文章を読んでいるうちに自然に身につき、自然に上達するものであると、少なくともわたしは思っていました。

そういうわけで、まずは真っ先に論理性を整えることを主眼において修練をお願いしてきた論者にあっても、2日にひとつほどの文学作品に向きあう以上、その量が表現力の質的な向上に寄与するものと考えていたのですが、どうやらその目論見は楽天的すぎたようです。

というのも、論者の書いてくれている文章は、論理性は確保できるようになっていはしても、その表現というのは、一言で言えばあまりうまいものではないということなのです。

◆◆◆

うまくないというのは、いくつかの理由がありますが、ひとつに接続詞の表現が、あまりに乏しい、ということが挙げられます。
上でも述べたとおりわたしの伝えたいことは、とにかくまずは論理性、ということはいつだってぶれない方針ですし、細かな表現はその人のやり方に任せようと思っているのですが、あまりにも、ということなので、今回はそれを指摘しておくことにしましょう。

文章を読み慣れた読者が論者の文章を読む時に、まず引っかかるのは、表現が紋切り型、ワンパターンである、ということです。
論証部に現れている接続詞を見ると、「まず、」からはじまり、「そして、」と「ですが、」がほとんどです。

それが適切に使用されている場合には、ワンパターンであろうが論理性を重視するわたしとしてはまるで文句はないのですが、ふさわしくない場面にも登場するのが問題です。
接続詞がまずいというのは、大まかにはともかく、文章の流れが正確に把握でききれていない、ということですからね。

細かな指摘は以下でリンクを貼った画像(PDFファイルのほうが綺麗に表示できます)のコメントに書いてありますので、今後の評論でどれくらい直すことができるか、またできないかを見守ってゆくことにしましょう。

「人の表現を読むことが、自分の表現力の向上に繋がらないのはなぜか?」という問いは、認識論的に扱わなければならないテーマですが、いまのわたしには答えはわかりません。
このことだけでなく、物心ついたときには「なんとなく特別な苦労なしにできていた」という事柄は、人に教えることができません。
それを把握できるのは、「できない」ところから、ひとつずつ工夫を重ねて一定の「できる」段階まで登ってゆくことができ、さらにその過程をつぶさに観察できている者だけなのです。そしてこれこそが、鈍才の強みです。

さて、この問題について答えとして出そうなのは、論者に読んでもらっているのが文学作品であるのに対して、論者に書いてもらっているのが評論調の文章だから、でしょうか。

わたしの感触では、ここにはそんな簡単な現象論では片付けられない大きな問題があると思いますので、ぜひともに論者にもその実験を手伝ってもらおうというわけです。

この先論者に表現力がつくのであれば、現在の実力と比べることで、どのような努力をしてその実力がついたのかが浮き彫りになりますから、一歩前進したということになるわけです。
ノブくんの評論の不備への指摘
PDFファイルへのリンク)

わたしが接続詞を中心に書きなおしたもの
PDFファイルへのリンク)

0 件のコメント:

コメントを投稿