2012/03/01

文学考察: 仇討三態・その一ー菊池寛

寒波が来ていたと思ったのに、


今日はとても暖かい一日でした。

こういう時に人は、毎年毎年、今年の風邪は酷いと思い、今年の雪は多すぎ、雨は少なすぎると思ってしまいます。
数年の間ですらここまでの実感の揺れ動きがあるというのは、自分が生きてきた実感だけでもって地球規模での大異変があるかのように思い込む前に、少し思い出してもよさそうな事柄です。

ところで今日の実感については、実家で飼っている生き物の餌の食いつきからすると、勘違いではないようです。


◆文学作品◆
菊池寛 仇討三態


◆ノブくんの評論◆
文学考察: 仇討三態・その一ー菊池寛
父親を殺され、復讐を誓い長年旅をしてきた討人、惟念は母親が死んだことを知らされて恐ろしい空虚におそわれます。そしてその事をきっかけに、彼は浪華に近い曹洞の末寺に入って僧になりました。
一年後、ある時彼は薪作務(農作業、清掃等の作業のこと)を行なっていると、仇人と同じ紋のはいった羽織を着た老僧を見かけます。更にその老僧には、仇人と同じ箇所に刀傷があり、これらを見た惟念は再び復讐の炎を燃やしはじめます。ですが今の彼は僧の身であり、人を殺すことはできず、仇人が見つかったからといって再び俗世に戻ることにも抵抗を感じている様子。そこで彼は自ら仇人に自分の身の上を打ち明けて、道心の勝利を誓うことにしました。ところが仇人は惟念に対して、しきりにここで復讐することをすすめてきます。ですが、彼はぐっと自分の気持ちを抑えて、その誘惑に打ち勝つことができました。
その晩、惟念はその仇人によって命を狙われてしまいます。ですが、彼は防ごうとも逆にそれを討ち取ろうともいう気にもなれず、ただ自分を信用していない彼を憐れむばかりでした。そしてただ一言、「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」と仇人に告げます。結局、仇人は彼を手にかけず、その翌日に寺から逃げ出しました。
 
この物語では、〈他人に誓いを立ててしまった為に、かえって他人の信用を失ってしまった、ある僧〉が描かれています。 
この物語の面白いところは惟念が自分の身の上を仇人に打ち明けたことにより、二人の心情が大きく揺れ動いていくところにあります。まず惟念の方ですが、彼は自分の復讐の心をなんとか抑えてはいるものの、彼は今後の自分の行動に自信が持てず、いつか仇人を手にかけてしまうのではないかとう不安を感じはじめています。そこで自分を信用出来ない彼は、仇人に仇討ちをしないことを宣言することで、仇人に対して誓いをたてることにしました。こうして自分以外の誰かに自分の行動を見てもらいプレッシャーをかけることで、惟念はその決意を確固たるものにしていったのです。
ですが、一方の仇人の方はどうでしょうか。仇人は惟念の身の上を聞いた後、あたかも彼の心の中を見透かしたように、「我らを許して安居を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢などは思いも及ばぬことじゃ。」と述べています。恐らく、仇人は惟念が何故自分に身の上を明かしたのかを理解していたのでしょう。そして当然ながら、自分の事を信用していない者から自分を信用してくれと言われても、信用出来ないのは無理もない話です。こうして仇人は惟念に対する疑いの心を募らせていき、彼を殺そうという気持ちにまで至ったのです。


◆わたしのコメント◆
この作品は、三つの連作から成っています。
そのすべてが「仇討」を描いているところは同じですが、そのありようは三者三様であるところが相まって、全体としての面白さに繋がっているのです。
そういうわけですから、当然のことながら、それぞれの単作の一般性を引き出す際には、それぞれの仇討の独自のありかたが、作品に照らした特殊性を持ったかたちで引き出されてこなければならないわけです。

整理して言えば、この作品に含まれている三つの単作は総じて、仇討を扱っているという一般性を持ちながらもなお、それぞれの特殊性を備えている、ということです。

読者のみなさんは、「なにもそんなに整理しなくても…かえって難しくなっているではないか。そんなことは当然だろう」と思われるかも知れません。
ところが、眺めているうちには簡単そうに見えることでも、実際にアタマや手を動かして取り組んでみる段になると、それなりの困難な事情が隠されていることに、否応なしに気付かされるものです。

論者はこのところ、菊池寛の作品には「かえって」という<対立物への転化>の構造が多く含まれていることを見出しているようですが、その発見に引きずられて、あらかじめ念頭においた仮説を作品に押し付けて解釈するという踏み外しがないかどうかを、確認してゆかねばなりません。

あくまでもわたしたちの目指すところは、「その作品を正しく理解できているか」であるのですから。
でははじめましょう。

◆◆◆

『仇討三態』の「その一」は、「惟念(ゆいねん)」という僧を主人公とした物語です。
彼は二十二の頃に父親を打たれたことをきっかけにして、親の敵かたきを求めて六十余州を血眼になって尋ね歩きますが、探せど探せどその消息は知れません。そのうち彼が初老を迎える頃、彼の唯一の心の拠り所であった母を亡くした報を聞くに至るのです。千辛万苦のうちに過した十六年の旅がすべて虚しく思えてきた彼がたずねたのは、求(もとめ)の道であった、というわけです。
しかし得度した彼が心の平安を培えるようになったとき、一人の「老僧」と出会ったことが、彼の心を乱します。
その右の顎にある傷が、敵のものであることを認めた惟念は、彼に斬りかかりたい衝動という俗世的な衝動と、得度した身であるという事実の板挟みとなったのです。

◆◆◆

この物語で焦点となるのは、惟念と、その敵である老僧とのやり取りです。

老僧の顎に、敵のものであるしるしの傷を見つけた惟念は、彼に自らの名を名乗り、彼が自分の父の敵であるかどうかを尋ねます。
同じく僧となっているだけあって、老僧の受け答えは実に率直なものです。
そればかりか、惟念が自分を討ちたいという思いは実にもっともなものであるから、得度したかどうかはこの際気にせず、今すぐにでも自らを討ち取って故郷へ帰るように勧めさえするのです。

その求めに心揺さぶられる惟念の姿を見てみましょう。
 老僧の言葉は道理至極だ。惟念は、老僧を討とうという激しい誘惑を刹那に感じたが、それにもようやくにして打ち勝った。
「ははははは、何を申されるのじゃ。この期に及んで武儀の頓着は一切無用じゃ。愚僧は、もはや分別を究め申した。御身を敵と思う妄念は一切断ち申す。もし、貴僧にお志あらば、亡父の後生菩提をお弔い下されい!」
惟念は、すんでのところで一線を越えることを踏みとどまり、さも平静を装ったかのように笑い飛ばします。
まるで、激しい誘惑に打ち克とうとするがために笑っているかのようです。

◆◆◆

論者がこの物語で重視すべきだと言っているのは、ここの箇所ですね。

論者が引き出してきた一般性を見ると、このようになっています。
〈他人に誓いを立ててしまった為に、かえって他人の信用を失ってしまった、ある僧〉
「ある僧」がどちらの登場人物のことかが明記されていないために、一見するとよくわからない表現ですが、論証部を見ると、これはおそらくこういった意味を含んだものとして読み取って欲しかったのでしょう。

「惟念」が得度したからには、本来ならば世俗の恨みを持ち込んではならないという誓いを、自らの心に問いかけるかたちで乗り越えねばならなかったのだが、自分一人ではどうにもならなかった。
そこで「老僧」への告白を通すことで自らの気持ちを落ち着けようとしたのであるが、これは惟念がいまだ邪念を捨て切れていないことを意味している。
惟念が邪念を捨て切れていないという様は、彼自身のそぶりから、老僧へも伝わったのである。
これは老僧からすれば、自らへの恨みを捨てきれない者が同じ所で生活しているというのは心落ち着くはずもないのだから、老僧が惟念の寝込みを襲おうとしたのもやむなきことなのであった。

◆◆◆

なるほどたしかに、惟念が、「得度したからには父の仇への恨みも棄てねばならない」という、僧としてのあり方と、「得度したからといって恨みが簡単に忘れられるかといえばそうではない」という自由意志とのあいだの板挟みになって苦しんでいるのは確かであり、そうであるからには本当の意味で悟道を開いたことにはならないのだ、というのも正当な指摘であると言えましょう。
悟道を開くというからには、自由意志が、ごく自然な形で、恨みや怒りなどといった自分を取り巻くすべての感情の揺れ動きやしがらみから解放されていなければなりませんからね。
当然にこれは、ここでの惟念がしているような、「そういうふりができる」のではいけないのであって、あくまでも本心からのものでなければならないのでした。

しかしこの作品を正しく理解するにあたっての問題は、「物語はここで終わりではない」という一事にあるのです。

惟念が老僧に告白した晩、彼がふと目覚めると、ほの暗い堂内に人影が見えるのでした。
明らかに狼狽した様子から推し量って、彼はその人影が老僧のものであることを認めます。
その箇所を見てみましょう。
 彼は、その狼狽によって、相手が昼間の老僧であることが分かった。それと同時に、その老僧の右の手に、研ぎ澄まされた剃刀(かみそり)がほの白く光っているのを見た。が、彼にはそれを防ごうという気もなかった。向うから害心を挟んできたのを機会に、相手を討ち取ろうという心も、起らなかった。ただ、自分が許し尽しているのに、それを疑って自分を害そうと企てた相手を憫む心だけが動いた。が、それもすぐ消えた。彼には、右半身の痺れだけが感ぜられた。 
「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」 
 彼は、口のうちで呟くようにいいながら、狭い五布(いつの)の蒲団の中で、くるりと向きを変えた。夢とも現(うつつ)ともない瞬間の後に、彼は再び深い眠りに落ちていた。
ここでの惟念が、どのような状態になっているのかわかりますか。
得度して修業を始め、父の仇との邂逅から、その日眠るまでに、彼の精神がどのように変化して、最終的にはどのような質のものになっていったのかがわかるでしょうか。

自分が許すと言っているのに、それでもその言葉が信じられずに、なおのことを自らの命を狙う老人にたいして、「憫む心」が動いた、とありますね。しかし、それも「すぐ消えた」のです。
感情の揺れ動きはここまでの刹那のうちに解消されてしまうことが、身体的な痺れとの対比によって際立っています。
次に面倒くさそうに寝返りがしたいので邪魔をしないで欲しいとつぶやいた後、剃刀を持ち自分に敵意を向ける人間が眼前に迫っているもかかわらず、再び眠りに落ちたというのです。

これは一言で言えば「悟道をひらいた」とでも言うべきことであって、身の回りにどのような危険や誘惑が迫っていようとも、まるで心を乱さぬところまでに精神のあり方が研ぎ澄まされた、ということなのです。

物語がここまで描いているということは、論者の指摘した、「惟念の悟道未だ成らざる」という状態と、それへの老僧の反応についての指摘も、「物語全体の一般性」をとらえたものとは言えないことになります。

◆◆◆

ところで、老僧との邂逅で、惟念が心を乱したから、それに浸透するかたちで老僧も心を乱したのだ、と論者は言っていますが、老僧が心を乱したというのは、なにも惟念のせいだけではありません。

惟念が悟道をひらいた状態が、もし老僧にも訪れていたとしたら、自分が斬った相手の子と対面したからといって、逆恨みして命を狙うほどまでに臆病にならなくてもよかったのですし、翌日に逐電せずともすんだはずではないですか。

もし仮に、老僧も悟道に達していたとするなら、恨みの念の見え隠れする惟念と遭ったときにも、「たしかに、かつてはそういうことがあった」、と事実としては認めた上で、「私を殺すも殺さぬもお前の好きにするがよい」と、あたかも他人事のように言って薪作務に戻ったのではないでしょうか。
むしろ、老僧の心に少なからぬ動揺があったればこそ、世俗の価値観を持ち込んであれほどまでに強く自分を討つべきであると勧めたのだ、とも言えるわけです。

◆◆◆

この物語が描いているような「悟道をひらく」というのは、他にも「解脱する」、「涅槃に至る」、ということばとしても表される精神状態のことですから、実際に体験した者でなければなかなかに実感として読み取りにくいものがあるのです。

しかし、禅宗の僧でもないひとりの作家が、少なくとも外面的にはこのような人間の姿をあたかも眼前に浮かび上がらせるかのように描き出すことができるのは、作家の観念的な二重化の力が、それほどまでに達している、ということなのです。

この力というのは、たとえばファンタジー作家として、あるはずのない世界であっても十分に有り得そうなものとして描き出すための源泉でもありますし、雪山で遭難したり戦地からひとり生きて帰ったり運命の恋をしたりなどといった非日常を、ありありと描き出すためにどうしても必要なものなのです。

そうはいっても、この物語をはじめとして、日常からかけ離れた問題を取り扱った作品の心理描写というものは、なかなかに理解しがたいものがあると思います。
わたしたちがアメリカで生を受けていたら、日本の歴史文学や、そこに描かれている戦に向かう者の心境、それを見送り家を守る妻の姿や、絶対服従の封建制度、死ぬここと覚えたりの死生観などは、とてもとても理解できがたいものであったはずでしょう。

この理解には、基礎的な時代背景の理解が必要なのはもちろんですが、それにもまして登場人物の出生と生い立ちという生涯を、自らのもののように、過程をひとつずつ踏まえて捉え返す、という実力が必要なのです。
人のことを理解するには「謙虚になれ」と言えば済むのなら、これだけの修練というのはまるで要らないことになるのですが、そうでないからには、ひとつひとつの作品を丁寧に理解することをとおして、急がば回れで観念的な二重化の力を養ってゆかねばならないことになりますね。

ひとつの作品の理解を、ああでもない、こうでもない、と議論することも、その力の養成のために十分に生かし切ってほしいところです。

ちなみに、この物語は、惟念の精神の量質転化のあり方が主に描かれています。
このおおつかみな一般性を、この物語に沿うようなかたちで引き出すことができればよいでしょう。


【誤】
・いつか仇人を手にかけてしまうのではないかとう

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