2012/03/13

文学考察: 屋上の狂人ー菊池寛

今回の物語は、


なかなか面白い話ですね。

わたしは笑いながら読みました。
みなさんはどんな風に読むでしょうか。
読み進める姿を傍からみると、当人の理解度が窺い知れる、そんな物語です。
論者はどうだったでしょうか?


◆文学作品◆
菊池寛 屋上の狂人


◆ノブくんの評論◆
文学考察: 屋上の狂人ー菊池寛
狂人であり自身の体に障害を持っている勝島義太郎は、毎日屋根の上に上がって雲を眺めていました。彼曰く、その中で金比羅さんの天狗が天女と踊っており、自分を呼んでいるというのです。こうした彼の様子に、父である義助は日頃から手を焼いていました。彼は息子の体には狐か、或いは猿が取り付いており、それが義太郎を騙しているのだと考えている様子。
そんなある時、彼らの家に近所の藤作が訪ねてきました。彼はよく祈祷が効く巫女さんが昨日から彼らの島に来ているので、一度見てもらってはどうかと義助に提案してきます。そこで彼は早速巫女に祈祷してもらうよう依頼します。そして、彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の体に宿り、木の枝に吊しておいて青松葉で燻べろ、というお告げを義助らに残しました。そこで彼らは気はすすみませんでしたが、神様のお告げならばと、義太郎に松葉につけた火の煙を近づけます。そんな中、義太郎の弟である末次郎がたまたま家に帰って来ました。彼は父から一切を聞くと憤慨し、松葉についた火を踏み消しました。そしてその発端をつくった父に対して、兄は狐の憑依でこうなったのではなく、治らない病によって狂人になっていることを説明し、巫女を帰しました。こうして兄は弟に救われ、再び屋根の上に上がります。そして兄弟は互いをいたわりながら、夕日を眺めるのでした。
 
この作品では、〈長男の病気が治らないという事実を、自分たち為に自分たちの物語を付け加えて捉えなければならなかった父親と、当人の為にありの儘に捉えようとする次男〉が描かれています。 
この作品で起こっている事件というものは、あらすじの通り勝島家の長男である義太郎の狂人的な性質を中心に起こっています。そして、その性質に対する登場人物の考え方というものは大きく分けて2つあり、彼らはこのどちらか一方を採用しています。ひとつは、義助達が主張しているひ非現実的な狐憑依説。もうひとつ、弟の末次郎の主張する現実的な病気説。では、これらの考え方には具体的にどのような違いがあるのでしょうか。
まず義助が採用している狐憑依説ですが、彼らは義太郎の狂人的な性質が治る事を信じたいが為にこの説を採用しています。というのも、義助の「お医者さまでも治らんけんにな。」の台詞から察するに、恐らく彼ら一家は以前に医者から、義太郎の病気は治らないと宣告されたのでしょう。ですが、父である義助をはじめとする家族らは、「阿呆なことをいうない。屋根へばかり上っとる息子を持った親になってみい。およしでも俺でも始終あいつのことを苦にしとんや。」という台詞からも理解できるように、狂人の息子を持ったという事実をどうしても受け止める事ができません。そこで彼らは、自分たちの為に、病気とは別のところに狂人的な性質の原因を求めはじめます。そして次第に、狐、或いは猿が取り憑いているという結論に至り、祈祷にすがるようになっていったのです。
では、一方の末次郎の考えはどうでしょうか。彼は兄の病気を病気として捉え、それと向き合っていこうとしています。そうした姿勢は、(義太郎)「末やあ! 金比羅さんにきいたら、あなな女子知らんいうとったぞ。」、(末次郎)「そうやろう、あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや。」という彼らのやりとりからも理解できます。また、彼は狐憑依説を唱えていた父達を喝破する際、次のように述べています。「それに今兄さんを治してあげて正気の人になったとしたらどんなもんやろ。(中略)なんでも正気にしたらええかと思って、苦し むために正気になるくらいばかなことはありません。」彼は、単純に正気に戻す事を考えるよりも、現在の当人の事を考えた上でも現状が一番ではないかとここでは述べているのです。

◆わたしのコメント◆

あらすじは論者のまとめてくれているとおりです。

毎日屋根の上に登っている「義太郎」は、家族から狂人と見做されています。医者に掛かっても埒があかないというので、彼の父は、隣人が連れてきた「巫女と称する女」の力を借りようとします。彼女のお告げによれば、義太郎は狐憑きであり、吊るして火に燻べて狐を追い出さねばならないということでした。医者でもだめなら神がかりかと、家族がそれを実行しようとするとき、義太郎の弟「末次郎」が帰宅し、それを遮ったのでした。

この物語に登場する主要な登場人物は、「義太郎」、「巫女と称する女(以下、巫女)」、「末次郎」の3人です。
義太郎をめぐって、他の二人がその扱いの是非を問うかたちになって物語は進行します。

義太郎の父や母、隣人は登場するものの、これといった定見をもたないために、巫女の言うがまま、帰宅後は松次郎の言うがままに右往左往するばかりですから、物語の焦点とはならないであろう。論者の見方はこういうところでしょう。

そこまでは間違っていないのですが、義太郎を神がかりで見る「巫女」と、彼をあくまでもありのままに見ようとする「末次郎」との対立を挙げたからといって、物語の核を引き出したことにはなりません。
この対立図式は、この物語の表面上に現れる表向きの表現でしかありませんから、これを一般性だと主張するのは、物語を表面的にしか理解できていない、つまり<現象>的な理解に留まっている、ということになります。

わたしたちがこのように、あるものを揶揄する文脈で<現象>ということばを使うときには、そのものごとの見方が一面的、表面的であり、ものごとの本質的な見方に達していない、ということを指していたのでしたね。
とすると、これに対することばは、<本質>的、ということになります。
作品の一般性が、その本質的な論理構造を引き出したものでなければならない以上、現象的な理解に合格を出すわけにはゆきません。

◆◆◆

ではどうすれば合格となるのか、といえば、おおつかみに言えば、現象的な理解を脱して、本質的な理解に達せねばならない、ということになります。

論者は、この物語の焦点を捕まえ損なっているようですから、少しでも手がかりがないかを考えてみましょう。
新しいジャンルに取り組むときにお手上げしてしまわず、どこかに理解の糸口がないかと探すという向きに気持ちを振り向けることができるのは、自分が持つ「論理」の力に自信が持てていなければなりません。

個別の知識だけをいくらそのまま持っていても、他のジャンルではまるで使えないのですから。

◆◆◆

まずは、というところで、この物語の形式というのは、ト書きの形になっていますから、他の文学作品と違って、登場人物のセリフが主な表現となっています。
括弧書きで情景や心理描写が挟まれてはいるものの、ほとんどセリフだけを手がかりにして各人の思想や心情を、行間を読むようにしてたぐり寄せねばならないことから、いつもとは勝手が違うな、と思ったのではないでしょうか。

しかし、ト書きの形式になっているということは、と、形式の面から予測が立てられることもあるのです。
この作品は、何らかの舞台で披露される劇のような形になっているでしょう。それがひとつの手がかりです。

劇というのは、悲劇や喜劇、といったジャンルがあるように、現実の世界の人間描写よりも、その感情面や役割に脚色をほどこしたものが多いでしょう。
簡単にいえば、現実の人間のあり方よりも、「典型的」で、「大げさである」ということです。

たとえば、一人の勇者がお姫様を助ける物語であれば、必ず悪い魔女や悪魔などといったものが登場しますが、この物語においてその位置にいるのは、ほかならぬ「巫女」です。
彼女が、義太郎にお告げが効かないことを見て狼狽する有様や、末次郎に蹴飛ばされて神降ろしの振りをし損ない取り乱し、果ては捨てぜりふを吐いて逃げるように出て行ってしまうところから見て、彼女は悪役の立場にあることがわかります。
そして、その描かれ方からすると、この物語は喜劇寄りの作風であることがわかります。

現実の世界の似非霊媒師ならおそらくもっとうまくやるところでしょうから、この巫女は、絵に描いたような典型的な像として描かれており、現代風に言えば「デフォルメされた」キャラクターである、と言ってよいでしょう。

◆◆◆

さて、ここまで極端な描かれ方をしている彼女が、「神」を名乗って茶番を繰り広げるわけですが、そんな姿にまんまと騙される他の家族と違って、松次郎は、彼女の胡散臭さを一見して見破ります。
末次郎 あんなかたりの女子に神さんが乗り移るもんですか。無茶な嘘をぬかしやがる。
神を騙っての一儲けを企む巫女を退けようとするからには、末次郎には、彼女の姿を見て、「神というものは(明確にどんなものかわからないにしろ)少なくともこんなものではない」と判断できるくらいの神についての像が認識としてあるわけです。

それでは、末次郎にとって、「神」というものはいったいどういうものなのでしょうか?
巫女にとっての神と比較すれば、自ずと(相互浸透のかたちで)その姿は浮かび上がってくるはずです。
上で述べたように、また論者が現象的には理解していたように、この物語では、その対立軸は現実の世界よりもはるかに明白に単純化されていますから、掴みやすいでしょう。

そして、そのことを理解するための手がかりは、物語の最後に、末次郎のセリフとして明確な表現を持って示されています。

松次郎と巫女、それぞれが持っている「神」の像が明らかになれば、この物語の一般性が見えてきそうです。
今回はヒントだけを書いてきましたが、この作品をしっかりと理解できる実力はぜひとも持っておいてほしいので、じっくりと取り組むことにしましょう。


【誤】
・義助達が主張しているひ非現実的な狐憑依説

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